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第118回 フラワーデザインは「残酷」か~1967年の状況、その「光と影」

公開日:2021.5.21 更新日: 2021.6.11

『あした泣こう』

[著者]マミ川崎
[発行]婦人画報社
[発行年月日]1992年6月20日

『サンデー毎日』昭和42年4月23日号(第2520号)

[発行]毎日新聞社 定価60円
[発行年月日]1967年4月23日
[入手の難易度]難

雑誌に記事が出て大騒ぎになる

1962年初夏のある日、マミフラワーデザインスクールの創設者、マミ川崎は雑誌に初めて自分が紹介された記事を見て驚いた。
その記事の最後に「習いたい方は左記までご連絡ください」とあり、ご丁寧にも住所までしっかりと書かれていたからである(図A)

この雑誌、『女性自身』1962(昭和37)年5月1日号は、和製英語である「フラワーデザイナー」という用語が使われた最初の事例だといわれ、日本フラワーデザイン界にとって記念碑的雑誌号となっている。

A 「フラワーデザイン」という言葉が広まるきっかけとなった記念碑的な記事 (『女性自身』1962年5月1日号)(クリックして拡大)

川崎真美子は当時、記者として働いていた産経新聞社を退社し、フラワーデザイン技術習得のために渡米、帰国してから花の仕事を始めていたが、この記事に「フラワーデザイナー、マミ川崎」として紹介された翌日から、いきなりたいへんなことになった。マミ川崎の自伝『あした泣こう』1992には当時の様子を次のように記している。夫にもまだ何も話をしていなかった。

それからの毎日というのは、夫に対して申し訳ないと思ってばかり。
だって、「わたしも習いたい」「ぜひ助手にして」という手紙が何千通も!毎日郵便配達の方が両手で抱えてきて、玄関にドサッと運び込むほどの騒ぎです。
「メンセツコウ(面接乞う)」といった電報もひっきりなし。しかも、朝から晩まで訪問客が絶えない。
菓子折を手にわざわざおいでいただいた方にむげにお帰りいただくわけにもいかず、ひとしきりお話しをしては次の方に入っていただくことになり、公団アパートの庭には順番待ちの長い列ができるありさまでした。
中には「今日から内弟子としてご自宅に置いてください」などと居座る方もいて、説得するのが大変でした。

(中略)

これほどの反響は想像もしていなかったために戸惑いが隠せない反面で、従来の生け花には満足できないものを感じ始めている人がこんなにたくさんいるのかとびっくりしたのも事実。
これだけの需要があれば仕事としても何とか成り立つかもしれない、という淡い希望を抱いたのでした。しかし、連日訪ねていらっしゃる方々に私は「お教えする意思はないのよ」と申し上げるしかありませんでした。
内職程度に楽しみながらできれば、と思っていた私は教室を開くなどというつもりはまったくなく、どういう順序でどういう方法で教えればいいのかなんてさっぱりわからない。第一、私が(アメリカから)自分用に持ち帰ったわずかばかりの特殊な針金やテープの他に、肝心の教材が何もありません。

このようなちょっとした事件から始まった戦後の「フラワーデザイン」だった。

マミ川崎は教えることを拒んでいたものの、どうしても、という弟子入り希望者が跡を絶たず、のちに「居座り三人組」と名付けられた50歳前後の奥様たち3人が支援者となって教室を始めざるを得なくなっていった。
知人の紹介でやってきた住み込みの助手もでき、この年(1962年)の9月2日にマミフラワーデザインスタジオをスタートさせることとなった。31歳だった。

しかし、教え始めてから1年、自分の力不足を実感する。
そこで、昭和38(1963)年に再度渡米、バディ・ベンツ氏のもとでもう一度基礎から本格的に勉強し直した。さらにビル・ケスラー氏にも学んだ後、ヨーロッパ各国を回って帰国している。

欧米で学んだことは自身のレッスンに生かされ、一年コースまで用意できるようになった。マミ川崎が世界を巡った昭和38年は東京オリンピックを目前にようやく海外旅行が自由化される頃だった。
マミ川崎は昭和25年、戦後二人目の女子留学生(犬養道子の次)としてアメリカのミズーリバレー大学に留学し「教育学」を学んで卒業しており、欧米を一人で回ることに恐れを感じることはなかった。

この昭和38年には最初の著作『花をデザインする』を出版、翌年には次男を出産し、2児の母として、また働く女性として超多忙な日々を過ごしていた。

1967年、初めての個展開催

1967(昭和42)年、マミ川崎35歳。自らが生み出したマミフラワーの新しい作品を多くの人に見てもらうために、毎日新聞社のあるビル(竹橋の東京パレスサイドビル)内の200坪ほどのスペースを借りて初めての個展「マミ川崎第一回個展『花の微笑』」を開催した。

『あした泣こう』には次のような記述がある(現在のコロナ禍でおなじみの「アクリル」素材はこの頃にようやく知られるようになってきた新素材だったようだ)。

そこでは、直径2メートルほどのアクリルの球体にドライフラワーを埋め込んだ作品が大きな話題を呼びました。当時の日本ではまだ珍しい鮮やかなドライフラワー(メキシコ産のスターフラワーでした)を、わざわざアメリカから大量に取り寄せたのです。
アクリルも当時はデビューほやほやの新素材で、しかも電気仕掛けで地球の自転のように回転させたのでした。

この個展は『日本初のフラワーデザイン展』と『毎日グラフ』でも大きく取り上げられたばかりでなく、他の雑誌などでも記事にされ、十日間の会期中は押すな押すなの大盛況でした。
結果的にはこの個展によって、フラワーデザインというものが国内の人々に少しはわかってもらえるようになったのです。

1962年の『女性自身』から5年、最初の個展を開くまで、どれほどエネルギッシュで多忙な日々を送っていたことだろうか。海外留学や出産・子育てを含め、日々のレッスンや創作、本の執筆、機関誌の創刊など成し遂げたことの量と内容に驚かされる。

この間、数多くの生徒がマミフラワーで学び卒業している。まさにマミ川崎とともに日本のフラワーデザインが成長していった。

その一方で、この新しい洋風いけばなへの批判もなみなみならぬものがあったようだ。『あした泣こう』には、「生け花があるのにいまさら……」「どうせお嬢さん芸や奥さん芸にすぎないよ」といった嫌がらせや陰口を耳にすることもあったと書かれている。
そのたびに、心のなかにむらむらと闘志が湧いた。生来の負けず嫌いが頭をもたげたという。そしてこんなふうに考えてスクールを育てていった。

技術も大切だけど、人が花と係わるときは楽しくなくては意味がない。楽しいレッスンのあり方を生み出さなくては。

素材の選び方も、植物がすでに持ち備えた自然の美しい線は大切だけど、色はもっと大切。植物の色を通してそれぞれの色の感性を培わなくては。選ぶことが自分でできる人を育てなくては。
花器も自作のものが使えるような学校にしよう。
素材を見つめて、不要な枝、葉、花、蕾などを取り除く作業が確かな自分の目でできるようにしよう。

しかし、取り除いたものはゴミにするのでなく、それらも生かすことを指導しよう。作品を楽しんだあとの植物はすぐに捨てず、何か他の作品に使えるものはないだろうか、発根しているものはないだろうか。押し花にできるものはないだろうか。などと最後まで大切にすることも指導しよう。
感動の心を育てよう。

そして、今までどこにも存在しなかった「いのちを扱うことの大切さ」を見せながら、美しいものを創造する喜びをともに学ぶ学校を作り上げよう。

この当時、フラワーデザインは一種のブームになっている。全国にフラワーデザインスクールが雨後の筍のように生まれていた。
誠文堂新光社で編集・制作した『フラワーデザインのすべて』(1968年)にも毎月生徒が倍に増えて、教室を拡張するのがたいへん、といった記事が見られる。
マミフラワーでも先日まで教わっていた人がもう自分の看板を出している、信頼していたアシスタントが黙ってこなくなり自分のスクールを立ち上げる、といったこともあったそうだ。
この頃は、生花だけでなく、リボンの花、パンの花、フェザーフラワーなどが次々と登場して生徒が集まらなくなったこともあった。

何よりも、ブーケやコサージュに見られるように花を花首でカットして組み立てる様子が生き物を弄んでいる、残酷だ、といった批判が絶えなかった。先にあげたマミ川崎によるスクールの理念はこうした批判への答えであったと思われ、また、ドライフラワーを多用しているのも命を生かす実践としての「デザイン」なのだと理解できる。

1967年のフラワーデザインを取り巻く状況

ここで、実際に当時の状況がどのようなものであったか、マミ川崎が人生最初の個展を開催した1967年の雑誌記事を見てみることにしたい。

図1 表紙モデルは生田悦子。背景の作品はマミ川崎「第一回個展」に出品されていた花の絵画。「パレスサイド・ビルで開かれたマミ・川崎フラワー・デザイン個展 美しい色彩と花のかおりが人をひきつけた」
図2 目次のページ。京都国際ホテルの火災(ビル火災の危険)、かんの最新治療などが話題に。(クリックして拡大)
図3 4ページの記事のトップ(見開き右)。マミ川崎「第一回個展」のようすが写真つきで紹介されている。(クリックして拡大)
図4 特集ページトップ(見開き左)。ワイヤーをかけている女性の写真。(クリックして拡大)

『サンデー毎日』昭和42年4月23日号の「フラワー・デザイン・ブーム」に関する「カバーストーリー」は4ページの特集である。

「カバーストーリー」の名のように、表紙写真と関連した内容になっている。表紙カバーの撮影は納冨通、モデルは生田悦子。映画やテレビで活躍した女優、生田悦子といえば、バラエティ番組「欽ドン!」の「良い子悪い子普通の子」などに出演していたのを思い出す人も多いだろう。残念ながら2018年に亡くなっている。
この表紙では、マミ川崎「第一回個展『花の微笑』」に出品された貝や鮮やかな色に染められたドライフラワー(スターフラワー)を用いた花のレリーフが背景となっている。

記事本文でも詳しく紹介されているように、若い女性の間で沸騰するフラワー・デザイン・ブームの要因を探るというテーマを掲げ、一部にはこの現象を冷ややかに見るような描写を織り交ぜてはいるものの、全体としては、マミ川崎という自立した女性アーティストの登場と新しい文化としてのフラワー・デザインを好意的に紹介する内容になっている。

これは、マミ川崎が個展の会場に竹橋にある毎日新聞本社が入っているビルを選んで開催していること、実際に毎日新聞系のグラフ誌等ですでに紹介済みであることなど、毎日新聞社との関係性や効果的な宣伝効果があった様子がうかがわれる。それを週刊誌でも後押しするような記事なのである。

これが日本のフラワーデザインの「1967年春の状況」だったと見て良く、この時点での一つの頂点を示す展覧会だったのではないだろうか。
この当時皇太子妃であった美智子妃殿下(現上皇后)も来場し作品を購入された、と記されている。皇居に近い竹橋という位置も皇室との近さを連想させられる。

マミ・川崎の個展には、ブーケ・コサージュの他に、かなり大胆なフラワー・インテリア(室内装飾)も取り入れられていた。
輸入品の乾燥花を、色彩豊かに染めてカンバスいっぱいに貼りつけたがいわゆる“花の絵画”は、この人が初めての試みだったそうだ。乾燥花だから長持ちする。絵画としての条件は十分に備えている。
会場にあったいくつかの“花の絵画”のうち、スターフラワーという乾燥花をあかね色に染め、夕暮れを描いた(?)ものは、美智子さまがお買い上げになったそうだ。

【見出しとリード文】
「フラワー・デザイン “残酷”がウケた?」
「BG、主婦に静かなブームを呼ぶ近代造形」

欧米生まれのフラワー・デザインが大へんなブームだそうだ。

あちらで生け花、こちらでフラワー・デザイン――花の芸術をめぐるブームは主客転倒だが、いったいこの“舶来・花の芸術”の人気のひみつは、どこにあるのだろう?

BGとは、「女子事務員」のこと。和製英語 business girl の略。現在のOLの古い言い方)

上のような見出しやリード文に続いて、フラワー・デザイン・ブームの人気の要因や、周辺の花関係者がどうのようにそのブームを見ているか、これからどうなっていくのか、といった話題が取り上げられている。

現在のフラワーデザインは、切り花を用いた「アレンジメント」「花束(ブーケ)」「コサージュ」「髪飾り」「リース」「スワッグ」、根付きの植物を用いた「プランツ・アレンジメント(寄せ植え、寄せ鉢)」といった商品以外に、冠婚葬祭に関連する装飾、テーブルデコレーション、ショーウインドウ、インドアガーデン装飾などなどさまざまな項目が含まれる多様な世界が思い浮かぶ(そもそも、現代では「フラワーデザイン」と「いけばな」を事さらに区別することにあまり意味がないのかもしれない)。

これに対して、1950年代から60年代の「フラワー・デザイン」は花材を短くカットしてワイヤリングして構成するブーケやコサージュが大きく取り上げられ、そうした作品が「フラワー・デザイン」のイメージを代表していた。
フラワーデザイナーのコンテストなどでも「コサージュ・コンテスト」の比重は今とは比べ物にならないほど大きなものだった。
これは、花材が質・量ともに、現在とは異なるためで、例えばカーネーションなども茎がやわらかく、短く使うほうが合理的でもあった。

一方、テーブル装飾や冠婚葬祭の会場装飾は、戦前からの技術が戦後でも立派に通用していた。
スミザーズオアシス社の開発した吸水性スポンジは価格や流通の問題からいまだ普及しておらず、水盤と剣山を利用してアレンジされていた。
さらに補足すると、吸水性スポンジを取り付けた「ブーケホルダー」が普及する90年代以降は、作業性や花持ちから、花をワイヤリングして組み上げるブーケは段々と下火になっていった。

以下、記事に沿ってかいつまんでまとめてみよう。

 いけばなとの違いは?

「フラワー・デザイン」といけばなとの違いはどのように説明されているだろうか。

フラワー・デザイン――読んで字のごとく、花のデザイン。
欧米生まれ、といっても外国産の“生け花”ではない。花飾り〈コサージ〉、花束〈ブーケ〉といったほうがわかりがいい。
女子大の卒業式で紺のスーツのエリに、約束したようにつけている花飾り。ハネムーンに旅立つ花嫁が、きまったようにかかえて列車にのりこむ花束。
これがフラワー・デザインなのである。

先述のように、フラワー・デザインとは「コサージ」「ブーケ」だと説明している。この説明の後、当時、「最も歴史が古い」(といってもまだ開校5年めの)東京・大森のマミフラワーのレッスンの様子が次のように紹介されている。

夜九時というのに、数十人が花をいじくりまわしていた。
キンセンカは首からみごとに切りとられ、茎や葉はクズ箱へ。サクラ草は赤くぬったマニキュアの指のなかで、半ばしおれかかっている。一つ千円はするランの花は、首ものに細い針金をギリギリ巻きつけられていた。
キンセンカはブーケに、サクラ草とランはコサージに、デザインされるのだという。

サクラ草の茎に針金をさし込んでいたA子さん(21)は、お勤め帰りのおけいこだ。

「楽しいわ。もう一年やってるけど、生け花みたいに、あれはダメ、これはダメってことないんだもの。
それにこうすると(針金を新しくサクラ草につき刺して)、青くさいにおいがプンと鼻にはいるでしょ。これなんともいえない感じ。花は生きてるって感じね」

ランの花をひねりまわしていたB子さん(22)は、生け花、お茶もやり終わったので、新たにはじめたという。

「そうね、少し残酷ムードね。一度殺して、再び生きかえらせるというとこかしら。それが魅力でもあるわ。新しく生きかえったものは、自分の好みにぴったりですもの」

夜9時をまわろうという時間に、仕事終わりの若い女性が、スタジオに通ってレッスンを受けている。花だけをカットして使い、茎や葉は思い切って捨てられている。
しかし、色鮮やかで高価な花にたくさん触れて、その香りを全身に浴びる、また自分の感性のままに花をカットして、それらを美しく再構成し、「生きかえらせる」ことに大きな喜びを感じている。短い描写だが、花に触れている女性の高揚感がよく表われている。

ここで、いけばな界を代表して、草月流家元・勅使河原蒼風のコメントが入る。
蒼風は「フラワー・デザインとは、欧米の贈答用の花のスタイルである」と決めつけた。

これに対してフラワーデザイナーの一人、渡辺みさほ(渡辺姓は本名、「いとうみさほ」名で花を指導、著作あり)は、「いけばなも古い歴史があるけれど、フラワー・デザインもルネサンス時代にはすでに立派な芸術として確立していた」と主張する。時代を経るにつれ、胸の飾りにとどまらず、室内の装飾、祭礼の重要な形式の一部になっていった。そして人間の一生のなかで、欠くべからざるものになったのだという。
さらに学問的な研究もすすめられ「花卉園芸学のなかで“花卉の利用”という分野に入れられています」と、フラワー・デザインの学問性を強調する。

記者はこの両者の意見をすり合わせて、フラワーデザインは贈り物としての利用が多いが、そこには現代の女性を魅了する「新しい造形」の楽しみがあるのだとまとめた。

歴史的、学問的にいろいろいってみるが“利用度”からいうと、結局、贈りものとしての花ということになりそうだ。
ただしその名のように、デザインしなければならない。したがって花の首を無残にもちょん切ったり、茎に針金を通して、好みに応じて曲線をつくったり、花びらを一枚一枚バラバラにして、リボン・テープに貼り付けたり、いけばなではタブーの花と花の組み合わせをやったりして、造形を楽しみ、一つのフラワーのデザインを完成する。
安定したものは、需要があれば売ることもできる。

花の自然を失わないように、花器の上に線を生け上げ、床の間に飾るという“いけばな”とは、大変な違いである。

 外国では専門的な職業である

次に登場するのは、いけばな花材の供給者であり、かつまた新しいフラワーデザインにも期待する花店の店主、三田の「花茂」店主、川原常太郎である。
川原がこの当時のフラワー・デザイン・ブームで不可解なところを鋭く指摘している。(三田「花茂」の初代川原常太郎については本連載第97回参照

フラワーデザイナーというのはプロフェッショナル、職業を表す言葉であって、欧米の花屋には、必ずフラワーデザイナーがいる。ブーケやコサージ、婚礼用、葬式用などのフラワーデザインを専門にやり、「花とデザイン料を含めた値段」で売っている。
したがって、それらは、婦人が自分で花を買ってきて作るものではなく、「コサージをほしいと思えば、花屋にドレスの色や、形を説明して作らせるし、恋人に贈りものをしたいときには、彼女の好みや、花ことばを考えてブーケをデザイン」している。
そのため、フラワー・デザイナーがそうそうどこにでもいるというわけではないのだ。

本家の欧米で、フラワー・デザインが一般の婦人の“たしなみ”にされているかというと、まったくそうではない。
花の研究で、幾度か海外旅行をした花屋の主人、川原常太郎氏の説明では、フラワー・デザインは一つの職業であって、やたら一般の人たちが、趣味で手をつけるものではないのだそうだ。

(中略)

ところが日本では、普通の娘さんや奥さんが、おけいこごととしてやりはじめ、それが生け花に迫るブームになってきているというのである。

川原が指摘するように、花の装飾はプロフェッショナルな職人がやる、ある意味汚れ仕事、縁の下の力持ち的な仕事なのである。

ところが、戦後の日本では、この二、三年、あれよあれよという間に、若い女性の新しい「おけいこごと」のなかに加えられるくらいに知れわたった。
記事では「ブームはかなり急であり、ポツポツ現われたフラワー・デザイン・スタジオは、満員の盛況になるし、デザイナーと称する先生は、東京だけで百人を下らないといわれる」と記している。

戦後生まれの世代が成長し、自分でお金を使えるようになってきたこの当時、教室を広げてもすぐに満席になり拡張を繰り返すスクールも珍しくなかった。

 マミ川崎はこのブームをどうとらえていたか?

こうした「ブーム」について、先導役を果たしていたマミ川崎は、どのように受けとめていたのだろうか。

「手っとり早くいえば、生活の洋風化ですわね。そうでしょ?団地には床の間はございませんし、ドレスは洋服が常識だし、そのうえ時間的、経済的余裕が、人の心を花のほうへ向けさせましたでしょう。
そんな生活のなかで、約束やタブーの多い生け花より、フラワー・デザインのほうがよりマッチするのはあたりまえですわね。
それに、贈りものにしたって、花束をという方が、愛情がこもっているとお思いになりません?子供と母親、恋人同士、夫と妻……。人間の心をいちばんすなおに表現するのは、花ですわ。愛情をもって、生活のなかに花をとり入れるゆとりができたんですのね。
だから花屋さんに全部任しとけませんわよ。これだけ洋風化し、時代が進歩すれば、フラワー・デザインをなさりたいとお思いになりますわ」

マミ・川崎さんはさらにいう(“花の色”や“花言葉”の魅力)。

花の色。これもフラワー・デザインに人をひきつける要素ですわ。花の色は生きています。この美しさを、自由奔放に、最高に発揮するようにデザインするんですもの、人の心を捕らえますわ。
もう一つは花ことば、これは生け花にはございませんわね。その日、その時の思いを花にたくして相手に語りかける花ことばなんて、真の愛情あってのものですわ」

 花屋がブームをあおる

以上のようにマミ川崎は、制約の多いいけばなへの違和感とは無縁で、生活の洋風化、色づかい、花言葉などが若い女性を引きつけていると語っているが、いけばな側からの反論はどうなのだろうか。
再び勅使河原蒼風と伝統ある池坊から石山文恵のコメントが挿入される。

蒼風は、「このブームは花屋の成長のせいだ」、もうけた花屋がもっともうけたくてブームを後押ししているんだ、と花屋の引っ張り出してきた。
さらに多少の負け惜しみにみ聞こえるが、蒼風も石山も「いけばなの方が奥が深い、質が高い」「フラワーデザイナーは(芸術家ではなく)商売人にすぎない」と反論している。

「生け花のブームのおかげで、花屋がもうかったんですね。もうかった花屋は、ビルは建てるし、セガレは洋行する。外国の花屋でいちおう勉強すると、必ずフラワー・デザインに手をつけることになる。向こうの花屋では、花を売ることと同じくらいに、フラワー・デザインが必要なんですから。
これを持って帰って来ると、花屋に出入りするお客が飛びつく。日本人、特に女性は好奇心が強いから。日本の花屋といえば、生け花によっかかってたんだけど、これとは別のフラワー・デザインまで含めれば、販売の拡張にもなりますからね。したがって普及に力を入れる。
ブームの根っこは、こんなとこかもわかりませんよ」

若い女性のおけいこごとのうち、70%は生け花といわれるが、これほどフラワー・デザインがブームになれば、生け花人口が多少くわれるのではないだろうか―。

「そんなことなど、考えられません」というのは、池坊お茶の水学院長、石山文恵さんである。

「長い長い歴史の生け花とは、おのずから質が異なりますから、生け花をやる人が減るなんてことはございませんわ。生け花は生け花でやっていて、フラワー・デザインもたしなむという程度でね。
第一あれは本質的には商売であって、生け花のような芸術ではありませんもの。ニューヨークでは、生け花の師匠はティーチャー(先生)ですけど、フラワー・デザイナーはマーチャント(商人)ですのよ」

勅使河原蒼風氏も、質の違いを説く。

「生け花は人の心理や、感覚を追究して表現するものですから奥は深い。
しかしあれは技術さえ得れば、それでおしまいですからね。奥はございませんや。実用いってんばりですから」

 フラワーデザイナーの全国組織ができる

最後に、双方に関係し、「このブームでしっかり儲けようとしている」と言われた花屋の主人はどうみるか。

東京・三田・花茂の主人(川原常太郎)はフラワー・デザインの近代性、自由さによって、「へたすれば、生け花に食い込むかも‥‥‥」という。
さらに、本家の家元制度にならって、フラワー・デザイン・スクールの免許、資格制度を視野においた全国的なフラワーデザイナーの組織化の動きについても触れている。
たしかに、現在、公益社団法人となった「日本フラワーデザイナー協会」(略称NFD)1967年に設立された。1967年というのは、記念すべき年なのだとわかってきた。

「生け花で思いが達せられなかった部分が、フラワー・デザインですからね。禁花だの、陰だの、陽だの制限があって、構成が近代的でなかった。
そこへフラワー・デザインが、何をどこに飾ろうがいいじゃないかという近代性をもってきたんだから、強いですよ。生け花人口は多少減るんじゃないですか?生け花から転業した先生もいるほどですから。
それに百人近くいるデザインの先生が団結しようという気配もあります」

この4ページの記事を書いた本誌記者、山崎れいみは、レッスンを受ける若い女性に直接取材し、またマミ川崎、いとうみさほ、勅使河原蒼風、石山文恵といったフラワー・デザインといけばなの代表者にコメントを求めている。

フラワーデザインといけばなの違いについても考えさせられた。
また両者の間に立って自らも積極的にかかわっていこうとする生花店も含めて幅広い視点から「フラワー・デザイン・ブーム」という現象を分析した。今読んでも、当時の様子がよくわかる。

山崎は記事のしめくくりとして、このブームはけっして一時的なものではない、とまとめた。

「美しく咲いた花を、バラバラに料理する残酷さと、ロマンチックな花ことばで、ハートをつかんだフラワー・デザインは、当分は女性のお気に召すことだろう。」

参考

 

検索ワード

#マミ川崎#いとうみさほ#勅使河原蒼風#石山文恵#花茂#NFD

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