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第64回 戦時中にツバキを守った政府の高官の話~吉野作造の弟にして政治家、吉野信次

公開日:2020.5.1

『農耕と園芸』1960年4月号

[編集・発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]難

今年、開催が予定されていた東京オリンピックはすでに延期がきまったが、準備された花はどうなったのだろうか。すでに苗を植え付けた切り花用の花は生育途中だろうし、長期間美しく飾ろうと準備されたおもてなしの花壇は見頃を迎えたことだろう。今日は、「農耕と園芸」のバックナンバーを調べているときに、見つけた小さな記事をメモしておきたい。1959(昭和34)年の12月号、「オリンピック・フラワーその後」という記事だ。以前にも書いたが、5年前の当時はまだ10月開催か8月開催か決定していなかった。当時、キクは電照の手法が確立し、周年出荷ができるようになっていた。一方のカノコユリは、戦後の復興期を経て輸出も徐々に増えていたが、開花期は夏であるため10月は難しい。それにしても、「鹿ノ子ユリ系統選抜協議会」という団体が気になる。カシワの木についても話が出ているが、戦前ナチス時代のドイツ大会でメダリストに樫の鉢を渡したことを思わせる。

「オリンピックの花として、キクを指定してもらおうという関東花卉流通協議会と、鹿ノ子ユリを推す全国鹿ノ子ユリ系統選抜協議会の意見が対立しているが、最近、キクには不利な情報が入った。

というのは、イタリアでは、キクの花はお葬式の際に使うので、オリンピックの花としてふさわしくないと、イタリア大使館からの苦情がでているといわれ、せっかく全国に栽培が普及して年間大量に出荷できる体制にあるキクにとって、寝耳に水のニュース。まだ詳細なニュースは入っていないので、確定的ではないようだが、そうなると、鹿ノ子ユリにはかなり有利になる。もっとも鹿ノ子は七、八月開催でなければいけないので、開催期日の決定がどうなるかで、これまた軍配はあげられない。一部には花より樹木という説もあり、カシハを推す向きもある。」

今日の話は、このオリンピック・フラワーの記事が出てから数ヵ月あと、1960年4月号による。

この号には、「日本中を花いっぱいに」という記事があった。当時の岸信介首相が「花いっぱい運動」の立ち上げを応援するために、永田町の首相官邸から草花の種の小袋を付けた風船をたくさん飛ばすイベントを開催した。首相官邸にマスコミを集めたのは、岸首相が当時進めていた「新生活運動」の一環としてのパフォーマンスだろう。

3月5日の10時、写真には日比谷公園の会場に集まる大勢の子どもたちの姿が写っている。松本市の小学校の先生が発案し、戦後まもなく始まった「花いっぱい運動」は全国に広がり、この日は今年の運動のスタートを祝うイベントとして行われた。日比谷公園、都庁(当時は丸の内、有楽町駅近くにあった)、主婦会館(四谷)をはじめ全国各地でうちあげたフウセンは4万個だったという。それぞれには、ヒャクニチソウ、コスモス、フロックスなど17種類の春まき草花の種子の袋がつけられている。当時の会長は鳩山一郎元首相の妻、薫子(または薫)さんだった(鳩山邦夫議員の祖母)。当時、日本花いっぱい協会の事務所は銀座の毎日新聞社分室にあった。

現在の安倍晋三首相からは花や緑の話を全く聞かないが、岸信介首相は弟の佐藤栄作氏と同様、園芸趣味を持っており、特に盆栽を愛好し、日本盆栽協会の会長を務めるほどであった。今回紹介するのは、吉野信次という人物だ。この人は、東大法学部を主席で卒業し、農商務省の官僚として次官まで上り詰めた人物で、愛知県知事や大臣を歴任した。岸信介の直属の上司だったというのも興味深い(図1)。

(図1)吉野信次 戦後は参議院議員、国務大臣、運輸大臣を歴任した。

吉野信次のおいたちとして、このような記述がある。

明治21年9月17日、原籍は宮城県古川市十日町。大正2年、東大法学部独法科を卒業、農商務省に勤務(今の経産省と農水省)。昭和6年商工次官、(第一次近衛内閣時代の)昭和12年6月から13年5月まで商工大臣。13年12月から貴族院議員、18年愛知県知事。戦後は、公職追放となるが、追放解除後の昭和28年4月、参議院議員に当選、30年11月から31年12月まで国務大臣、運輸大臣を歴任。その間、各種会社の重役を兼任する。現在、日本団体生命保険KK取締役重役、武蔵大学学長。当時の住所は、東京都渋谷区原宿2-170。(ネットなどの記事によると、昭和46年5月9日没)

作家・井上ひさしは、吉野信次と兄、吉野作造の二人を主人公に「兄おとうと」という戯曲を書いている。「民本主義」を唱え、大正デモクラシーのリーダーとなった兄、吉野作造。一方、東大を主席で卒業し、キャリア官僚として順調に出世していく弟、信次。時代の変転とともに、信頼しあっていた兄弟の間には次第に溝ができていく。そんな不思議な運命に置かれた兄弟の物語とは別な話だ。1人の園芸人との関わりの物語がここにあるので紹介する。

『実際園芸』主幹、石井勇義との吉野家の人々

誠文堂新光社の『農耕と園芸』およびその前身となった伝説の雑誌『実際園芸』を創刊した石井勇義との関係だ。石井勇義は雑誌を始める前に小田原の辻村園芸で研究生となり、そこから新しくできる「東洋園芸」の農場主任として引き抜かれるのだが、この東洋園芸時代に石井のアメリカ留学の話が出てくる。その際に便宜をはかったのが吉野信次だったのではないか、という話だ(『ツバキ・サザンカ図譜』の津山尚による解説参照)。東洋園芸の設立に関係した大隈重信から吉野へ要請してもらったという説と、石井が直接の知り合いだったもうひとりの吉野家の人物、四男の吉野正平を通じてという説だ。正平は吉野作造がつくった万朶書房を姉と共に営んでいた。図2は、大正期の誠文堂新光社を支えた編集者、執筆者が集まった奇跡の一枚だ。

(図2)大正9年原田三夫(『子供の科学』主幹)が北大講師招聘を目前に開かれた送別会の記念写真。(「商戦三十年」小川菊松1932から)

最前列右のヒゲの人が石井勇義。大正9年ということなので辻村農園から東洋園芸時代、28歳で病気になる前の一番元気だった頃だと思われる。中列右から小川菊松、加藤美侖、原田三夫、稲垣穣、吉野正平、後列右から恩田経介、村山烏径。説明がないが、このなかに百貨店三越園芸部主任の松前徳右衛門も写っているという(津山)。

戦時中、日本古来のツバキを守った園芸家と官僚の話

『農耕と園芸』1960年4月号「会長の横顔」に登場した吉野信次は、「日本ツバキ協会会長」としての横顔を見せている。青年時代、勉強のために読書以外のことに趣味を持つ余裕などなかったが、ツバキだけは青年期から現在まで生涯を通じて不思議な因縁を持っている、と述べた。学生時代には休暇が来ると書物を抱えて伊豆の大島へ行き、そこで夏冬を過ごした。そこでみたツバキの山は印象的で忘れることができない。「みんなみの潮湧きたてり椿山」という俳句の情景そのままであった。(※正しくは南=みんなみの海湧きたてり椿山という俳人・松本たかしの句)

戦争が始まってからしばらくたったころ、石井勇義が訪ねてきた。話を聞いてみると、「食糧増産のために江戸時代から伝承されてきた数百のツバキの園芸品種が絶滅の危機にさらされているが、なんとか助ける道はないものであろうか」という相談であった。当時の情勢では、こんな話は感傷的な個人的感情として受け入れられることではなかったが、日本の文化を防衛するという建て前から、吉野はそれらの品種の保護を引き受け、多摩川畔の所有地に植えることに決めた。

そうして、戦争が終わって、たぶん昭和27年の春であったろうか、再び石井が訪ねてきた。今度は戦争中に海外、とくにアメリカでツバキの栽培が非常に流行し、日本でもこの状況に対処して、国際的なツバキの研究機関をつくりたいのです。すでに容易もできていますから、ぜひ会長になってもらいたい、という要望だった。吉野信次は、これも結局承諾した。こうして1953年(昭和28年)に日本ツバキ協会は創立する。ところが、発起人の石井勇義がこの年の夏、突然、この世を去ってしまうのである。その後の会の運営は混迷を極めたというが、多くの先人の努力で現在も続く立派な組織になっている。石井は生前、牧野富太郎の植物図鑑の作画で知られ、日本一の画工とされる山田壽雄に依頼し「ツバキ・サザンカ図譜」を作っている。戦前の話だ。そこに見られるツバキ・サザンカはすべて埼玉県川口市安行の皆川椿花園で江戸時代から保存されてきた貴重な品種だった。これらは戦時中の困難な中、大切に保存された。図譜は1979年に津山尚によって『石井勇義ツバキ・サザンカ図譜』として誠文堂新光社から出版された。吉野に保護を託されたツバキもおそらく皆川家から避難してきたものだったと想像する。石井は先を見ることができる実に用意周到な人物だったと思う。おそらく吉野以外の人にも分けていたのではないだろうか。

この記事のなかで、吉野はこんなふうに話をしている。

日本ツバキ協会も創立7年を迎え、会として立派な花を咲かせ、国際親善と平和のためにつくしたいものである。余談を申し上げるのは恐縮だが、その後会員になった人たちの中には、新井堯爾氏(自由党、衆議院議員)、長尾欣弥氏(「わかもと」製薬創立者・富豪)、石川清氏(政治家)など多数の旧友がいる。またこの住居と同番地に清野主氏(アメリカ在住歴が長かった著名な園芸家)、永宮清久氏(日本精糖工業会?)など協会の方々がおられるのも奇縁といえば奇縁であろう。郷里の宮城県の仙台に瑞鳳寺という名刹があって、住職の鎌田宗承師がやはり会員の1人で、熱心なツバキの研究家であると聞いて、何か宿命的なものをツバキの花に感じている。こんなふうに、しめくくっている。

2020年は早くからテレビCMなどで「五島のツバキ」が告知されていた。ツバキをテーマにした地域創生のモデルとなるようなプロジェクトで、吉永小百合さんをキャストするなど、大々的なプロモーションが試みられていたが、新型コロナウイルスの問題であらゆるイベントが中止になったのが残念だ。

※五島の椿プロジェクト
https://gotonotsubaki-pj.or.jp/

参考
『石井勇義 ツバキ・サザンカ図譜』石井勇義・山田寿雄、津山尚・編 誠文堂新光社 1979
『商戦三十年』小川菊松 誠文堂 1932
石井勇義氏略歴 名古屋大学農学部所蔵石井文庫目録 1961年
復刻ダイジェスト版「実際園芸」1926-1936 誠文堂新光社 1987年 ※創刊から1936年までの10年間の内容をまとめたもので、雑誌は1941年まで発行された。

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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