農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

園藝探偵の本棚

第65回 災害の後は花がよく売れる~植木のまち・安行の「花屋」吉田権之丞(前編)

公開日:2020.5.8

『新 風土記2』

[編集・発行]朝日新聞社
[入手の難易度]易

「金剛寺」という曹洞宗の寺は、埼玉県南東部に位置する川口市安行にある(住所は川口市大字安行吉岡)。室町時代の中頃、この地方を支配していた豪族中田安斎入道安行(なかたあんざいにゅうどうやすゆき)により創建されたという。よって、この地域はこの人物の名を取って「あんぎょう」という地名になったと伝えられている。この「金剛寺」が所有する墓地には「安行植木・苗木開発の祖」吉田権之丞の墓(生年不明~1703)があって埼玉県指定史跡となっている。安行という地名の由来とともに、全国にその名を知られる「植木のまち」の原点がこの金剛寺にあるというわけだ。本連載の第3回(https://karuchibe.jp/read/2612/)で植木の産地について書いたが、今回はまず、この吉田権之丞について書かれたものを見ていくことにする。

「花屋」と呼ばれた男 吉田権之丞

「新風土記」は、紀行文の形式を取り、地域を歩いて集めた話が載っている。出版されたのが昭和49年ということなので、今とは比べものにならないだろうが、「安行を走る県道に、信号機のある大きな四つ角が2つ、歩道橋が1つだけある」と書いている。そのうちの一つの信号がある場所は花山下といい、戦前までツツジのきれいな小高い丘があった。戦争中、ツツジは引き抜かれ食糧増産のために畑になった。戦後は秋元つつじ園として復活する。この四つ角を挟んだ向かいに吉田進さんと鈴木亀之助さんの家がある。吉田家と鈴木家は、江戸時代の昔から代々「花屋」といえば吉田家、「植木屋」といえば「鈴木家」をさしたという。そのような古い家である。

「安行植木・苗木開発の祖」吉田権之丞について、古老の言い伝えとして、次のような話が採られている。

吉田権之承は、若い頃から草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めては栽培していた。明暦の大火(1657年3月2日 ~4日)のあと、安行の植木や草花等を江戸に出したところ人々に喜ばれた。明暦の大火は振袖火事とも呼ばれ、江戸の町は丸二日間燃え続け、その火の手は当時江戸城周辺に集まっていた大名や旗本の屋敷のほとんどを飲み込み、江戸城の天守閣も焼け落ちた。この大火災は、江戸の町を大きく変化させるきっかけとなる(本連載第30回参照https://karuchibe.jp/read/6087/)。この災害からの復興、再建に際して、急増する植木の需要に対して応えたのが権之丞たち安行の人々だったのだ。

さらに、吉田権之丞には、花もの、葉もの、盆栽などの観賞植物という好みのものがあり、これらを増やしていた。ときは元禄時代を迎え江戸の経済は活気を呈していた。町人の間には風流を楽しむ人々が現れ、観賞用の植物は需要が増える一方で、権之丞はますますその道に励んだという。それを近隣のものも真似をした。こうして吉田権之承は、世間から「花屋」と尊称されるようになり、今でも子孫の吉田家は、「花屋」の屋号を代々受け継いでいるという。60歳の吉田進氏は、子どものころ(大正末から昭和の初めころ)、家でお屋敷などが書き込まれた江戸の古い地図を見たおぼえがある、と語っている。吉田家は代々「仁助」を襲名する習慣があったという。興味深いのは、明治時代にこの吉田さんと同じ名前の吉田進という人物がいる。この人物は、明治22(1889)年に設立された日本園芸会(会報『日本園芸会雑誌』)の立上げから維持の中心を担った。日本園芸界最大の功労者の1人である吉田進は、埼玉県川口市安行における植木業の開祖、吉田権之丞の子孫なのではないかという説がある(『明治の園芸と緑化』2017)。吉田進は明治日本の日本人による植物の輸出入を手掛けた横浜植木の株主にもなった。横浜や染井・駒込の植木屋とともに、安行の「花屋」に由来する人物が近代日本の園芸をしっかりと支えていたのだ。

一方、「植木屋」の鈴木家は、「花屋」の吉田家から少し遅れて登場したらしい。代々、植木類のほか、カキ、ナシ、ウメなどの果樹苗木を育てて売買してきたという。当時70歳の鈴木亀之助氏は、「うちの先祖は、花や枝を切って出すのはかわいそうだから、根をつけたまま出した、と聞かされています。だから、植木屋と呼ばれたんでしょう」と語る。鈴木家には、かつて、植木行商の鑑札があったそうだ。

昭和39年の文化の日に川口市の社会教育課が「古老に植木をきく会」を開いた(※要調査!)。その速記録によると、出席者たちはおもに明治以降の話をしたという。

①養蚕振興のため群馬に桑の苗木を送った。

②鉄道、郵便の発達により取引が全国に広がった。

③北海道開拓の政策にしたがってリンゴの苗木をつくった。

④日本の大陸進出(※日清・日露戦争)にともなって、旧満州、朝鮮に大量の果樹苗木を送り出した。

⑤国内でも苗木を担いで、遠く伊豆にまで売り歩いた。

安行は吉田権之丞以来の「植木のまち」というだけあって、植木屋というのは全体の呼称であって、それぞれの家は、「苗木屋」「造園屋」「貸鉢屋」「縁日屋」などと言われ、さらに「ツバキ屋」「モミジ屋」「ツツジ屋」などの専門店があるという。(次回に続く)

参考

川口市の文化財のサイト
http://www.kawaguchi-bunkazai.jp/center/bunkazai/CulturalProps/bunkazai_014.html

『緑化樹木の生産と流通』松田藤四郎 明文書房 1974年第4版(初版1971)

『絵図と写真でたどる 明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017

検索キーワード

#吉田進#日本園芸会#植木#苗木#縁日#果樹#花屋##行商#明暦の大火#火除地#大名屋敷#庭園

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア