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第66回 2兆円産業を支えた伝統産地の底力~植木のまち・安行の人々(後編)

公開日:2020.5.15

『新 風土記2』

[編集・発行]朝日新聞社

『緑化樹木の生産と流通』

[著者]松田藤四郎
[発行]明文書房

大物師のはなし

『新 風土記2』は、朝日新聞の連載がもとになっているそうだが、小さな分量の記事に、面白いエピソードが数多く取り上げられていて、埼玉県の部「植木」(川口市安行)を歩いた筆者、酒井寛の意図が伝わってくる。寺井力三郎という人の点描による挿画もいい。

「大物師」という項がある。文字通り大きな樹木を専門に移植する職人のことだ(大きな樹木の移植工法については第55回で「機械移植」について書いたのでそちらもご参照くださいhttps://karuchibe.jp/read/8633/)。筆者の酒井は、現地を訪ねて中山幸蔵という「名物男」がいると聞いた。連絡を取ると、石を買いに台湾に行っている(大小1万t!)ということだったので、その2週間後にあらためて本人から話を聞いたという。中山幸蔵は、このとき68歳。力のこもった独特の口調としゃがれ声で、こんな話をした。

「わたくしは若いときから、とにかく大きなものが好きで、木でも、十トン、十五トンというやつを、電信柱みたいな丸太を三本組んで、ウインチでつり上げて移動させる。そういうのが好きなんですな。いまは(※1974年)レッカー車や大きな機械がいろいろありますから造作ないことですが、場所によっては、いまも機械が使えません。たとえば、建物のヘイと電線の間は三メートルか四メートル、高くても六メートルしかあいていませんから、そういうときは段取りをかえまして、ヘイと電線の間を、木を横にして、つり上げたまま、人力で通すわけですな。」

大物師、中山幸蔵が動かした一番のものは、はち(掘り起こしてワラで巻いた根)の直径が約5m、重量で30tもある学校の校庭のシイノキだった。これを20mほど動かしたという。「立て引きという方法で、下に角材のゲタをはかせ、コロをかい、道板を敷いた上を、木の上下二ヵ所にワイヤーを巻きつけて、木を起こしたまま引っ張った。このとき二十五人の職人がとりかかって、一日に二メートルしか動かなかった」という。当時は、1間(約1.8m)動かしていくら、という請負いの仕方が普通だったため、交通の妨げにならないように深夜から明け方にかけてノンストップで作業が行われていたという。若い職人は体が持たないから1日5食をたいらげた。深夜や早朝は食堂も開いていないので、ご飯を大きなおひつに入れて、おかずと一緒に車に積んでいった。汁物は現場で豚汁などを煮て食べたそうだ。酒の好きな職人には朝から自由に飲ませた。「少し酒が入るとまめに体が動く方がいますからな」と中山幸蔵は親方としての立場を語っている。このほかにつぎのような仕事をしたと語ったそうだ。

・大久保彦左衛門が植えたという黒松の老木を50m移動
・樹齢250年のラカンマキを鳩ヶ谷から東京・代々木まで運んだ
・埼玉県庁のヒマラヤ杉
・川口市花木植物園の大ケヤキ(現・グリーンセンター)
・田中首相邸の石と樹木を手掛ける

「わたくしのばかばかしい根性で、他人にできないことをやってみたいんですな。そして、一寸からそこらの余裕で、ヘイと建物の間を大きなものが、ツー、ツーと段取り通りに動いてくる姿を見ることが、何よりもいい気持ちなんですな。わたくしはいろいろ道楽もやりましたが、そういうおもしろさとは比べものになりませんな。おおきなものを扱っていますと、やはりお客がちがいますから、えらい方ともお世辞ぬきでお話ができました。」

大物師、中山幸蔵に託される大木は、百年、二百年という樹齢がある。だから、これを動かして、枯らすわけにはいかない。枯らしたら中山幸蔵の顔にかかわる、そんなことを語っていたという。地域の若者は、農業・造園系の学校に進み「下請けの植木屋」から造園業へと転換し自ら公園や工場緑化などの大きな仕事も手掛けるようになっていく。

「植木」需要が爆発していた時代があった

「花屋」の吉田権之丞から始まった安行の植木業の歴史的な特徴は、「苗木生産」にある。安行の地理は東京から荒川をひとつ隔てた川口市にあるということだが、この大都市からの絶妙な位置関係が、苗木生産に力を入れる要因になった。江戸時代には、市街地の外郭に巣鴨・駒込、大久保といった植木屋が集まった地域があった。大名庭園に植えられる成木は輸送に便利な近場がいい。安行は遠すぎた。そのため、後背地にあって広い土地を使いながら苗木生産に特化するようになった。気候もよく地質も米作りより樹木の生産に向いていたため、あらゆる種類の樹木を生産するようになったという。「新 風土記」の書かれた昭和49年頃の苗木生産の話によると、大きな温室のなかで、自動潅水を行いながら「挿し木をして60日」「月に10万本ずつ出荷」「一つの温室で年間、百万本の苗」ができる、というような例をあげている。大手の農園は、自社で生産する以外に、周辺の農家60~70軒に委託して大量の苗木を作っていた。当時の様子は、次のように説明されている。

「1960年代に入って、工場団地の建設、都市開発が進み、港湾、空港、高速道路、住宅団地、駅前広場、公園、競技場などが各地につくられ、たくさんの植木が必要とされてきた。個人の庭に植えられる鑑賞樹と区別して、それらを総称して環境緑化木とか公共用樹と人びとは呼んでいる。」「団地の場合、住宅公団の話によると、四十六年度(※1971年)から緑の予算が増額されて、一戸当たり、二メートル以上の高木三本、低木十本を標準に」しており、例えば、戸数2千戸で6千本の高木が植えられている。さらに、これらの緑の量の1割は6メートル、8メートル、10メートル以上の大きな木で確保することになっていたのである。当時、これらの高木が足りなくて困っていた。戦後の開発によって、それぞれの地域で近くの山林から樹木を得ることが難しくなっていたのだ。もちろん需要は住宅団地だけではない。「道路公団の数字によると、東名・名神両高速道路に使われた植木は、合わせて百三万七千本。インターチェンジ、サービスエリア、パーキングエリア、中央分離帯などに植えられた大小の樹木の合計が、この数だった。ほかに、公園、学校、工場などが国や自治体の方針に従って進める緑化があり、一説によれば昭和六十年までに、全国で十六億本の樹木が必要とされているという数字まであった。植木は一兆円産業といわれ、最近では二兆円産業に値上がりしたと安行で聞いた。」

こうした巨大な需要から新興産地が各地に拡がり、全国に200ヵ所にものぼるという話だった。こうした振興産地が手掛けたのは、先に触れた「環境緑化木」「公共用樹」であり、①手がかからない、②早く大きくなる、③虫がつかず病気になりにくい、④空気汚染などの公害に強い、⑤量がまとまっていること、といった経済面に有利な樹種が選ばれた。たとえばウバメガシ、キョウチクトウ、カイズカイブキ、ネズミモチ、サンゴジュ、マテバシイ、クスノキなどだ。現在もまさにこうした樹種が街にあふれている。筆者によると、当時「千葉県内でマテバシイの種を一千石まいたそうだ、といううわさが安行で語られていた。それだけで5千万本のマテバシイができる、というのだった」とある。ほんとうに、ものすごい時代だったんだろう。(この当時、誠文堂新光社の『ガーデンライフ』が『農耕と園芸』の別冊として創刊されるのが1962年。当時は春夏秋冬の季刊雑誌としてのスタートだった。)

「植木」はだだの「木」とはちがう

この頃、安行でも「環境緑化樹」を作るようになったし、時代の要求する小型の植木や、鉢植えにも力を入れていくのだが、急速に都市化が進む地域でもあり面積的な拡大は望めないうえ、もともとは個人の庭に植えられる鑑賞樹を中心に、さまざまな種類を作るのが得意な産地である。その伝統の精神、技術は忘れていない。睦植木組合長の杉崎正夫氏はこんなことを言っている。「植木と木は違いますよ。字を見れば、植木は木を直すとちゃんと書いてある。」「十年以上守(も)りしなくちゃあ、いい木といわれるまでにはなりませんよ」と古い人ほどそういう。「木を守る」「木に着物をきせてやる」といった言葉はこの地域のあちこちで聞かれた。「木というのは二本と同じようにはつくれない」という人もいた(ここで紹介する余裕がないが、「荒木づくり」という苗木の手入れの仕方が書かれている)。オランダを始めヨーロッパの樹木は自然樹形を大事にしてそれが美しくなるような品種を育成してきたそうだ。葉の色も重視していた。日本の伝統的な植木の仕立てとは違う。

世界的に有名なツバキのコレクションがある椿花園の皆川治助氏(※写真1中央)は戦時中、食糧難にあってなお県に粘り強く掛け合い、多くの貴重な品種を守ることができた(このとき、『実際園芸』の主幹、石井勇義が行政との根回しに努めていたことが伝わっている)。ただ、残せなかった樹種はすべて涙ながらに引き抜き、イモ畑に変えられたという。この地域の生産者ではどこも同じようなことが起きており、当時ひっくり返して捨てた盆栽の鉢が山のように積み上がっていたそうだ。倒した木は薪になった。それでイモをふかして命をつないだのだが、薪を全て使い切るのに何年もかかったという。

(写真1)園芸研究会の視察、昭和7年4月3日。 安行、皆川治助氏のつばきを見学中の記念写真。右から、松崎直枝、奥田繁次郎、福羽発三、平沼大三郎、皆川治助、岡本勘治郎、並河功博士、池田成功(木の陰)、森川肇、石井勇義。(『実際園藝』第12巻第5号(1932)から

椿花園の皆川家はもともとカサ屋だったそうだ。明治のころの話だが、幼い頃の治助氏は父親の伊左衛門に連れられて東京にカサを売りに出ることがあった。今日は学校を休めと言われ、握り飯を小さな背中にしょって歩いて東京へ出た。伊左衛門はカサを売り歩きながら珍しいツバキを見ると、一枝ゆずってほしいと頼み、いくらかのお礼を渡して安行に持ち帰った。門前払いにもめげずに何度も頭を下げて分けてもらうこともよくあったという。そうやって得たツバキの枝を挿し木して自分の山に植えた。後に東京・染井の伊藤という人が保存していた江戸時代のツバキも譲り受けている。面白いのは、これだけたくさん集めたツバキだが、当の伊左衛門はツバキで商売をすることはなかったという。終生をカサ売りとして生きた。ツバキを商うのは治助の代になってからで、戦後は孫の利雄氏が跡を継いだ。「こうした人の植物を観察する目は天才的だ、と人は言った」と筆者は安行での聞き取りを記録する。「ツバキの皆川さんは一枚の葉で二百五十ものツバキの種類を見分け、小林槭樹(モミジ)園の小林治郎さんは自宅にあるモミジ全種百八十を見分ける」。花が咲いていなくても見分ける必要があるから、葉で見分けがつかなければ商売にならないから当り前だというのだ。その見分け方のコツについて尋ねると、皆川氏は笑いながら、こんなふうに答えている。「こればっかりは教えようがない」のだと。

安行が植木の産地になった理由

戦時中の食糧難により「不要不急の」植木を抜いて、畑にしなければならなかったことは先にも述べたが、いざ、やってみると、麦などろくにできなかったという。もともと赤土が主体の土地で稲や麦などできなかったために、植木に活路を見出していた地域だった。一度も作ったことのない農作物の栽培がうまくいかなかったのも仕方がない。統制の時代ゆえ各地区に供出の割当が決められていたが、それをクリアできずにずいぶんお咎めをうけたという。その一方で、植木の栽培には非常に適した土地だったという。そんなに簡単に挿し木や接ぎ木ができるものなのかと驚くが、安行というのはそういうところなのだという。地元の人が「逆さにしても根がはえる」と自慢するほど植物の神様に選ばれた土地である。

「この一帯は大宮台地のはずれで、土地は起伏に富み、低地では三十センチぐらいで水がわく。用水が発達して排水もよく、低地ではつねに地下水が流動して、さし木に最適の条件をつくっている。この低地で出来た苗を、台地に移して育てる。土は赤土で肥料分にとぼしく、他の作物を育てるには適さないが、空気の流通と排水がいいので、植木はよく育つ。また、土地が起伏しているため、乾燥地を好む植物、湿地性の植物、日当たりの好きなもの、日陰の好きなものなどを適地に植えることができる。気候も比較的温和で、シャクナゲ、シラカバなどの寒地の植物から、かんきつ類、ソテツのような暖地のものまで栽培できる。」安行にある埼玉県の植物見本園(現在は「埼玉県花と緑の振興センター」)ではこのように説明している。当時、見本園では、さまざまな機会で得られた樹木を少しずつ挿し木して増やしていたという。園芸の展示会などの会期が終わったときに処分される展示品を分けてもらうなどしてそれを挿し木する、このような素材をちゃんと育てることができる技術があったのだ。

植木生産圏と産地の立地配置

『緑化樹木の生産と流通』のなかで、著者である東京農業大学助教授(当時。農業経済学専攻し、後に国際食料情報学部教授を経て学長になった)は、安行が江戸時代からの伝統ある一大産地となった要因を次の5つに分析している。産地化の要因は、産地自身の内因と周辺の都市との関係という外因の両方を見る必要があるのだ。①江戸の植木需要に対応したこと、②交通地位が良好だったこと、③自然的条件が植木に適していたこと、④生産技術があったこと、⑤植木に代わる商品作物がなかったこと。

①は、前回すでに書いた。③、④、⑤については今回いろいろなエピソード交えてお話をしたところだ。ここでは、②の交通地位に恵まれていたという点について話をしていこう。まず(図1)を見てほしい。この図では、同心円の中心に消費地=都市があり、そこから外へ向かって距離別に異なる性質を持つ産地が立地配置されていることを示している。

(図1) 植木生産圏の立地配置(概念図) (松田藤四郎1971を参考に松山作図)

「最終消費形態としての植木」(養成植木、完成植木)の市場は都市が中心となる。大火後の江戸や終戦後の東京の例でわかるように、まず都市の質的変化と膨張があって、その変化が植木の需要を大きくし、需要の構造も変化させる。需要も変化し、もとめられる植木の姿形も変わるということだ。完成植木は重量があってカサも大きいので、産地の成立は、その運搬に規制される。商品としての植木の形態は完成植木→養成植木→苗木の順に、サイズも大→中→小の関係にある。自然、運びにくいもの、大きなものほど市場=都市に近い場所に置かれるようになる(農業経済学では「強く市場に吸引される」という表現をしている)。こうした大きな、完成素材を専ら利用する造園業もまた都市に集中して立地することになる。江戸時代、重量物を持ち上げる機械もない、輸送手段も乏しい時代ならなおさらだ。本連載の第30回で見たように(https://karuchibe.jp/read/6087/)、幾度も大火に見舞われた江戸市中には、あちこちに火除地(空き地)がつくられ、見世物小屋などの仮説店舗が立ち並ぶ繁華街を形成したほか、薬草園や「植木溜め」としても利用された。松田は完成植木というのは、日本庭園で利用される素材であり、もともと造園業の「植木溜め」で仕立てられていた。ゆえに伝統的な植木生産は「農業技術というより造園技術に属するものである」と指摘している。素材と技術が密接で非常に特殊な作物だということなのだろう。これは、明治以降に輸入された鑑賞園芸植物にも当てはまるかもしれない。洋らんや熱帯植物などの温室植物は、栽培と販売が未分化の状態からスタートし、やがて分業化していった。

話を植木に戻すと、植木の生産が分業化されていくのは、植木溜めの狭さの問題と、植木溜めを持たない造園業の増加によって、仕立て技術を持った農民が完成植木供給の中心的存在になっていったからだ。それでも素材の流通の出口は造園業が押さえているので、完成植木は造園業の立地と同一圏内に留まることになった。

完成植木の産地の外郭に発展した養成植木の産地はどうだろうか。明治の後半から大正期にかけて、植木需要の大衆化と造園様式の洋風化、また公共的需要の増大によって、いかにも日本庭園にあるような完成植木ではなく、短期養成で複雑な造形技術の不要な養成植木の需要が増大した。養成植木は、苗木期間を終えた後、早い樹種で丸1~2年、普通3~5年の養成期間で商品化される。名称は「養成」だが、この時代はすでに最終商品として需要された(完成植木というのは、本来、この養成品からさらに何年も育成し造形を加えていく)。養成植木の価格は完成植木より安い。また輸送についても容易なため、消費地から離れた土地代の低い(完成植木生産圏の)外側に産地が形成されるという立地配置モデルが成立する。東京でいうと、養成植木中心の産地は埼玉県深谷市など北部植木産地、千葉の東金市、八日市場市であり、名古屋圏では、祖父江町、平和町など尾張地方の産地、大阪圏では兵庫県の丹波、但馬地方の諸産地が例に挙がっている。

最後に苗木産地だが、これは養成植木の素材となるものであるため、植木の最終市場と直結する必要がない。苗木産地は、単価が低くなるため量を生産する必要があり、栽培面積が広くなければならない。そのため、消費地(都市)に近ければ近いほどやっていけないため、必然的に外側に展開されることになる(これを農業経済では「都市圧に弱い」という)。都市が小さいうちは周辺に完成植木も養成植木も苗木の産地も混在することができただろうが、郊外に向かって都市化が進むにつれて、まず、真っ先に苗木の生産が不可能になり、「都市圧」に押されて外側へ外側へと移動する。同時に苗木生産が抜けた地域では苗木の需要が増大することになる。苗木は植木の中でもっとも輸送性が高く、消費地から遠くてもよいわけで、理念的には養成植木の産地の外側に位置する。結果、都市から郊外へとロールケーキのように分業化した構造になっていくというわけだ。苗木生産で有名な産地は三重県鈴鹿市、広島県安佐町、九州の各産地(久留米、田主丸)などがある。いずれも現在に置いてもなお園芸の生産がさかんな地域であることに注目したい。

こうした植木産地の立地モデルから安行を見てみると、東京都北区赤羽まで10km、日本橋まで24kmという場所にありながら、東北の綾瀬川や荒川から隅田川(大川)へ出る河川を利用した水上輸送に大変便利な地位を占めていたことが有利にはたらいた。その一方で、巣鴨・駒込といった消費地により近い産地の供給力とは勝負にならないのも事実で、産地立地モデルの養成植木を生産する位置に落ち着くことになった。吉田権之丞が「花屋」と呼ばれたように、早い時期から「花木」を中心とした生産体制を取っていたのもこうした理由があったことが推察される。また、最終消費者(大名や有力な町人)に対して生産物の販売を江戸の庭師(造園業者・庭師であると同時に植木生産者でもあった)に依存せざるを得なかったのも立地に起因しており、彼らと強い関係を築いていく必要があったのだ。

最後に、安行の植木・苗木の高い生産技術を物語るのが「赤山物(あかやまもの)」と呼ばれた現在でも有名な「枝物切花」である。あの「花屋」吉田権之丞に始まった「赤山物」は、承応年間(1653~5年)からその名が通っていたという。当時の枝物切花はサカキ、ソナレ、イブキ、朝鮮マキ、ヤナギ、キャラ、アララギなどであった。こうした枝物切花の(苗木)養成、出荷の技術をもとに様々な植木を育て巣鴨・駒込の植木屋に販売し、またそこから新しい生産技術や導入すべき品目・品種の母樹を得ていた。このようにして多様な商品と生産技術を兼ね備えた強力な植木産地がつくられていくのである。

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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