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第67回 盲目の園芸家~島原にこの人ありと言われた「宮崎康平」の話

公開日:2020.5.22

『農耕と園芸』1960年5月号

[編集・発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]難

4月に緊急事態宣言が出されてからずっと自宅にいる。朝は日本農業新聞をチェックしてNHKの連続テレビドラマ「エール!」を見るのがすっかり習慣になってしまった。とくに主人公の小山くんが銀行に勤めだしてから、とてもおもしろくなってきた。このドラマは作曲家、古関裕而とその妻がモデルだという。今日は、その古関と関連する人の話をする。

僕の子どものころの話だ。田舎の親戚に目の不自由なおばあさんがいて訪ねると、いつもその大きな屋敷の暗い奥座敷から顔を出して話をしてくれた。昔は白内障でも簡単に手術するという時代ではないので、目の不自由な老人があちこちにいたような気がする。おばあさんとどんな話をしたのからは覚えていないが、何を話していいのか、怖いような気がした。いつもおやつなど勧められて大人の会話するそばで時間を持て余していた。自分もこのごろはだいぶ目が悪くなってきているので、いろいろ思い出すことがある。

また、目の不自由な人が歩いていると必ず見てしまう。目が見えないというのは、どういう感覚なのだろうと。盲目で植物を育て、あるいは花屋の仕事がやれるのか、自分には想像もできないが、いろいろな資料を読んでいると、ときどき目が見えないのに仕事をしていた園芸家の話に出会う。たとえば、東京都内下北沢に本店を構える「ユー花園」という有名な花店がある。ショップのほかに葬儀やホテルの仕事を大規模に行っており、年商は50億円を超えるという。この会社を経営する山田祐也氏の「花屋一代」にも目の見えない花屋が出てくる。山田氏が郷里の和歌山から上京し、最初に勤めた東京都品川区の「花常商店」の主人だ。たいへんに厳しい修行時代だったが、独立したのちに心から感謝し、自分が出会ったなかで最高の人物だと敬意を表している。花常の社長は若い山田の花の扱いや生活態度に至るまで厳しい指導をした。スパルタそのものだったという。ところが、山田が修業を終えた頃から急速に目が見えなくなり、数年後に完全に視力を失った。経営は娘が引き継いだが、花の仕入れには社長が大森園芸市場まで一緒に出かけていたという。当時は機械ゼリではない。参加者がセリ人と掛け合いながら競り落としていく。そこに参加して仕事がやれていたのだから驚かされる。娘さんがいない時は店番をするのだが、声を聞いただけですべてのお客さんがわかったという。手探りで相手の注文に応じて花を選び、切って渡していた。弱音など全く吐くことなくやる。それを山田は「執念」と書いている。

園芸界の塙保己一 宮崎一章氏

1960年(昭和35)の『農耕と園芸』5月号のシリーズ「お庭拝見」のページに盲目の園芸家が取り上げられている(図1、2)。以下、そこに書かれた記事を抄録する。写真と文は植村猶行とある。植村は千葉大園芸学部卒の園芸家であり、かつ誠文堂新光社の編集者だ。のちに『ガーデンライフ』編集長などを歴任した。

「失明した私は意志の伝達を声によるしかない。それでいきおい、よくしゃべる。人間を相手にしゃべっていると、時々アキアキしてくる。植物は物を言わないから好きだ。声も出さなければ泣きもしない。だが、私の心を知っている。心と心がつながれば、それで人生はいいのではないか。植物は物を言わないけれど、話しかけることもできれば、答えてもくれる……」氏の随筆の一節である。植物を愛する氏の心情であろう。

「斑入り植物がきれいだと言っても、分からないのでネ……。洋ラン類は香りがいいし、触って分るんです。バナナ、ゴム、アナナス等の豊かな感触は夢を呼んでくれますよ……その点バラやシャボテンはニガ手だなあ……」と。宮崎さんは暇があると、自営の有料植物園「島原ガーデン」に現われて、一つ一つ手で触ってみて、水が足りない、肥料をやれなどと、細かく栽培や管理の注意を与える。

植物関係の本や雑誌もテープに吹きこんで、これを覚え、「アナナスのあれ……瀬川さんの本のあの辺だったなあ・・・、そう、右側の上から六つ目のテープをとって……」と言った案配。全く、その博覧強記ぶりは、昭和の塙保己一とも言ってよいだろう(※雑誌も新聞も人に読んでもらうか、テープに吹き込んだものを聞いて頭に入れた)。

また「島原半島には無霜地帯も多いし、ビニール利用の園芸と酪農をとり入れれば、反収五〇万円も夢ではない条件にあるし、島鉄沿線住民の七〇%が農民なんです。その農民が豊かにならないで私の会社のバスや汽車が発展するわけがない。私は島原半島を日本一の農民の天国にしたい……」とも語る氏は、郷土の農園芸を近代化していくリーダーとしても重要な役割を果している。

(図1)島原ガーデン温室内のようす カシワバゴムノキ、パパイヤ、アナナスなどを販売

(図2)植物に触れながら指示をする宮崎氏。自宅にも温室がある。

島原の顔であり、歌手・さだまさしの恩人

植村猶行さんが取材して書いたこの記事は、これだけの内容だが、これだけではもの足りない。小さな文字でプロフィールも書いてあるので読んでみよう。

みやざき・かずあき

大正6年(1917)5月、長崎県島原市宮町792の現在地に生まれ、島原中学卒から早稲田大学文学部昭和15年卒業。東宝映画入社、シナリオ執筆に従事、戦後、島原鉄道の常務取締役となり、その復興に努力、25年(1950)過労のため失明する。詩作、ラジオドラマ執筆のかたわら、植物の栽培と酪農運動に没頭、31年(1956)、再び同鉄道常務に復帰し、観光事業に専念するかたわら郷土農業の指導に当たっている。現在、長崎県酪農協連顧問、九州文学編集委員、34年(1959)島原ガーデン社長となりバナナ、パパイヤ等栽培、長崎県盲人協会長。詩人、森繁(※森繁久彌)の歌う「落城の賦」や「島原の子守歌」は氏の代表作で、詩集もある。ペンネームは宮崎耿平(※こうへい:後に康平に改める)。

以上が「宮崎一章」氏のプロフィールだが、インターネットのGoogleやYahoo!で「宮崎康平」「島原の子守唄」を検索してみると、大量の情報があることがわかるだろう。なかでも、一番興味深かったのは、シンガーソングライターのさだまさしが語る「島原と宮崎康平」の話だ。さだまさしの父親と宮崎は友人で、まさしのことを幼い頃から知る親しい間柄だった。「島原に宮崎康平あり」と言われた大人物であったことがよくわかる。戦後の復興期に昭和天皇が全国を行幸して回られた時代があった。このときに、島原鉄道の軌道の幅が国鉄と異なっていたため、立ち寄りが見送られるという話があり、重役の1人だった宮崎がなんとしても島原にお立ち寄りいただこうと軌道を変える工事に尽力した。このときの無理がたたって失明してしまったという。さだまさしが歌手としてデビューしたころにもたいへんに応援してくれて長崎での初公演は大成功だったそうだ。

※Youtube動画 「さだまさし おもしろトーク」島原に宮崎康平あり
https://youtu.be/iINw6Kux3KY

高校サッカーの名門校の校歌や『まぼろしの邪馬台国』

宮崎康平の経歴は実に多彩で、地元島原で失明してからも多様な事業にその叡智が生かされた。島原の「塙保己一」と呼ばれたのも大げさではない。「島原の子守唄」という歌は昭和に育った世代の人間は誰でも一度は聞いたことがある有名な歌であるし(※YouTubeなどで検索するといろいろな歌手が歌っている動画が見られる)、島原に邪馬台国があったという説でマスコミをにぎわした『まぼろしの邪馬台国』の仕掛け人でもあった。

面白いのは、島原や長崎県内の小学校や高校の校歌を数多く作詞していることだろう。NHKの朝ドラ『エール!』のモデルとなった昭和を代表する作曲家・古関裕而の作曲でできた校歌は長崎県立国見高等学校や県立島原工業高等学校、県立小浜高等学校がある。また、長崎県立島原商業高等学校も森脇憲三の作曲で書いている。国見や島原商業は全国高校サッカーで有名な強豪校だ。ちなみに、現在映画やドラマで活躍中の女優、宮崎香蓮は宮崎康平のお孫さんだという。

参考
塙保己一(はなわほきいち) 塙保己一史料館のサイトから
http://www.onkogakkai.com/hanawa_life.htm

『花屋一代 年商50億円リヤカー1台から駆け上がった根性の経営者』山田祐也 講談社 2017
『まぼろしの邪馬台国』 宮崎康平 講談社 1967(講談社文庫版 1982)
『盲人重役』 城山三郎 東都書房 1967(角川文庫版 1980)

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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