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第69回 「オルチキュルチュール」とはなんだろう~吉田進翁が考えたこと(前編)

公開日:2020.6.5 更新日: 2020.6.30

『実際園芸』第16巻5号 昭和9年(1934)

[編集・発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1934年8月号
[入手の難易度]難

吉田進翁が亡くなったのは、昭和9年(1934)4月22日、72歳だったという。吉田進翁の出自は、ほどんど明らかになっていないが、この記事によると1862年(文久2年)頃に生まれたことになる。僕は1962年に生まれたので、100年前が文久2年だと覚えている。日本に初めてパンジーが入ってきた記録がある年だ。この年に生まれた人には牧野富太郎や新渡戸稲造、三好学、森鴎外らがいる。(※本文中に出てくる田代安定は1857年生まれだから5歳年上の先輩だった)

吉田翁はまだ明治の早い時期に日本で最初の本格的な園芸雑誌である『日本園芸会雑誌』(のち「日本園芸雑誌」)を創刊し、その後も取材や編集にあたった。この当時の国内外の園芸に関する最新情報を満載した非常に質の高い雑誌で、日本園芸会のメンバーからしても、日本の園芸界の主要な人々が購読していたようだ。現在でも資料価値が非常に高い雑誌として評価されている。自らも欧米で発行される雑誌を購読し、「日本園芸会雑誌」を交換に送っていた。

「日本園藝発達史」(有明書房、1975)では「吉田進氏は日本赤十字社に奉職し、主として翻訳方面を担任せらて(ママ)居って数カ国語に精通されて」とあり、とりわけフランス語には堪能だった。

『実際園芸』では吉田翁を囲んで明治の園芸界の状況について話を聞く座談会を開いてそれを記事にしている。注目したいのは、吉田翁が雑誌を創るに至った理由について語っている部分だ。

今日は最後にその全文を採録するが、この記事の中で、園芸とは無縁だった吉田翁が外国人との交流やフランス語を学ぶ中で、どうもヨーロッパには「オルチキュルチュール(園芸)」という学問があるようだ。それは植物知識と栽培や収穫技術、利用法などが集積された学問のジャンルなのだと気づいていく。当時を振り返って、「そうすると、なんだか日本の植木屋と百姓を一所にしたような学問だか、技術だかが欧州にあるように思われました」と述べている。日本で育った青年、吉田には、「百姓」や「植木屋」の仕事というのはわかるが、それがどう学問になるのか。なにかそれは日本にはない概念のものだが、いったいなんなんだ?という好奇心が高まって、ついには自分の目で見てやろうと勇躍フランスに出かけていく、こういう話だ。青年は旅をしながら園芸学に関する単語のひとつひとつを実体験として理解していく。まさに「園芸学事始め」の世界であった。

この青年、吉田進が外国の文化をキャッチしていく感性に満ちた言葉は、園芸を学ぼうとする者たちにとって、とても大事なことに触れていると思う。園芸家や園芸学、あるいは農学が近代以降の世界に果した貢献というのは、たいへんな価値があるはずだ。それなのに、ノーベル賞を始め人類に貢献した人々を表彰するニュースの大半が物理学や化学や文学といったジャンルで、どうも園芸の評価が低いままではないか。アメリカの三大発明王の1人に育種家のバーバンクがいるけれど、多くの人がその功績を知らない。

吉田青年が感じ取った価値というのは、確かなものだった。吉田はこんなことを話している。「パリへついた後、毎日毎日いろいろと研究したり、見聞を広めてまいりますと、なるほどどうもこれは、リンゴでも、モモでも、日本で考えているようなものでない、これでは日本人の頭の働きというものが足りないということを言われても仕方がないと、深く感じました。」

このとき吉田は、日本ではまだ多くの人が気づいていないが、園芸には大きな可能性がある、と感じ取り、深く理解したのだ。そして、それを早く知らせなければならないと思った。そのため、大量の専門「書物」を購入し持ち帰り研究に没頭する(「読む園芸」です)。そうやって、吉田青年は次のように園芸の範囲を理解した。

「園芸は花卉の栽培、それから果樹の栽培、それから蔬菜の栽培、それからさらに粧飾植物すなわち観賞植物、日本でいう庭木です。それの栽培とかいうふうに分かれているということがすっかり分かりました」。

吉田は欧州に自ら出かけたことによって、少しずついろいろな物事の必要を解していくのだが、「分かってきました」「分かってきました」と繰り返される文章から研究の様子がよくわかる。現代の私たちの園芸知識とその学びについても、吉田青年のようなステップを踏むことで理解が深められるような気がするし、また、そうあるべきだと思う。

僕が、今日話したかったのはここまで。以下に資料として記事を採録する。記事がとても長いので、今回を前編とし、次回後編として紹介したいと思う。(つづく)

(図1)中央が吉田翁『実際園芸』昭和7年8月号(第12巻第3号)から  一番左のヒゲの人が石井勇義。順に、山岡健太郎、岡見義男、平沼大二郎岡本勘次郎、福羽発三、池田成功、後藤兼吉、松崎直枝、五島八左衛門。みな伝説の園芸家たち。

 

日本園芸雑誌の創刊者 吉田進翁 逝く

(『実際園芸』昭和9年8月号から読みやすく直して再録)

日本園芸雑誌の発刊者たる吉田進氏は、4月22日、72歳の高齢をもって逝去さる。謹しみてここに哀悼の意を表す。

現在日本園芸会より発刊されている日本園芸雑誌は、我国における園芸雑誌として最も古い歴史を持っており、日本園芸会は、今日まで日本園芸の発達のためにいかに大きな貢献をされたかは、ここに述べるまでもないが、その日本園芸会の創立者であり、日本園芸雑誌の創刊者である吉田進氏を知る人は稀ではないかと考えている。しかも、吉田老は最初から園芸を専攻された方とか、言わばその方の畑の方というのではなかったが、ふとした事が動機になり、単身、日本園芸会を起こされ、続いてその宣伝機関として、独力をもって日本園芸雑誌を刊行されたことは、自らの栄達のみを考える人々にはとうていできないことで、自身の栄達を犠牲にして日本園芸界のために、今日の園芸の発達の基礎を作られた功績は著しく、日本の園芸史上忘るべからざることである。

筆者(※石井勇義)は辻村農園主より吉田さんの話は大正の初期より折々承っていたのであったが、昭和7年1月11日に、園芸研究会の名目で吉田翁から日本園芸雑誌を発刊された動機、当時の日本園芸界の状況等をお伺いする会合を麻布の池田邸(※池田成功氏か)に開き、その時の速記録を吉田氏の加筆訂正を願って本誌の第12巻第3号(269-273頁)に掲載した次第である(※図1)。この会合がなかったならば、おそらく正確なる日本園芸雑誌発刊のいきさつは解らずに終わったかと思うのである。葬儀当日、園芸研究会より花環を贈り、在京者(福羽、岡見、松崎、池田、石井)は焼香された(※福羽発三、岡見義男、松崎直枝、池田成功、石井勇義)。

次に吉田氏のお話の速記の一部を再録として参考としたい。なお、私は日本園芸雑誌中吉田氏が編集刊行されていた時代の分は、極めて所持者が少なく、しかも参考資料となるところが極めて多いので創刊号からの抄録を実際園芸に発表させていただきたいとお願いしたところ、私のやっていた頃の分ならどうぞご自由に利用するようにとのことであったが、未だ実行に至らなかったのにこのこと(※翁の逝去)を見たのは遺憾である。

 

日本園芸雑誌発刊の動機

(※ここからは『実際園芸』第12巻第3号に掲載された原典を採録する)

私が日本園芸雑誌を始めた動機でありますが、なにぶん43、4年前のことで、書いた書類もたくさんございましたが、震災ですっかり焼けてしまったし、ただ自分の古い記憶をたどってお話申し上げるわけで、その点あらかじめご了承願っておきたいと思います。(日本園芸会雑誌は明治22年/1889年3月に創刊)

そこで元来、どうして私が園芸ということにたずさわったかと言うと、自分でもわかりませんけれども、大要、こういう動機だったろうということは、ほぼ想像ができるのであります。

それは外務省にサラゼンというフランス人がおりましたが、明治12年から17年までの間、私がその人について仏語を教わっておった。ところが、その人がどうも日本の果物はしようがないということを言い、その言葉の中にフランスではリンゴとか、桃とか、桜桃(※サクランボ)とかいうものは結構なものだということが、始終、なにかの機会に出てくるのでありました。それで、その頃は、そのように、彼方の果物はよいものかと考えておりました。

そのうちある日、食事に饗(よ)ばれました際に、その当時の日本の刑法や、治罪法(今の刑事訴訟法)などの編成されました当時の、フランス人の法律顧問でボアソナードという人がありまして知り合いになりました。この人にも始終食事に饗(よ)ばれました。

ある時のこと、明治18年か19年でございましたろう、田代安定という名声のあった方でございますが、その方にちょうどそこでお目にかかって、ボアソナード氏が紹介してくれました。この田代さんという方はその前にロシアで園芸博覧会というものが開催されまして、その際に日本の委員として参会せられた方でありましたが、お目にかかってそこで仏語の「オルチキュルチュール」(※horticulture)すなわち園芸ということが頭に入ってきたようなものの、なかなか理解がつきませんでした。書物で調べようと思っても、フランスの書物というものが元来日本に乏しいところへもってきて、園芸の書物はなおさらありません。それで園芸の専門の本ではなかったが、とにかく似寄ったような書物を見ますと、同じフランス語でも今まで見たことのないグレツフ(接ぎ木greffe)だとかブーチュール(挿し木boutures)だとか、そういう事柄が出てきますと、また果樹でも野育ちでなくエスパリエespalierといって墻壁(しょうへき)につくったようなことが書いてあります。また他方では、野菜のようなものが出てきます。そうするとなんだか、日本の植木屋と百姓を一所にしたような学問だか、技術だかが欧州にあるように思われました。

そこで明治17年に園芸でない他の用で、欧州に派遣されることになりまして、フランスに参りました。そして馬耳塞(マルセイユ)から巴里(パリ)へ行く途中の汽車で、初めて果物を栽培している畑を見ますと、枝を矯(た)めて壁に匐(はわ)して、きれいに枝を剪ってあります。そこで「エスパリエ」だなとわかりました。

それからパリへついた後、毎日毎日いろいろと研究したり、見聞を広めてまいりますと、なるほどどうもこれは、リンゴでも、モモでも、日本で考えているようなものでない、これでは日本人の頭の働きというものが足りないということを言われても仕方がないと、深く感じました。また市中の花屋に「オドントグロサム」とか「シプリベヂュム」とかいう立派なランがぶら下がっておりました。これまた大に驚きました。しかしただ今申し上げましたように園芸外の用でもあったのですから、深い研究もできませんでした。それで帰りに「リブレーリー・アグリコール・ド・ラ・メーゾン・リュスチック(Librairie agricole de la Maison rustique)」という農業専門の本屋がございますが、そこで園芸専門の書物をだいぶ買い集めました。またそこで発行している園芸雑誌も予約しまして、日本へは明治21年に帰ってまいったわけでございます。

さて、帰って参りましてから、買ってきた書物で一生懸命に研究しました。今度は実地もいくらか見ており、書物でも専門ですから前に言ったような分からなかったことが、だんだん分かるようになりまして、園芸は花卉の栽培、それから果樹の栽培、それから蔬菜の栽培、それからさらに粧飾植物すなわち観賞植物、日本でいう庭木です。それの栽培とかいうふうに分かれているということがすっかり分かりました。

さて、これらの取り扱う植物の材料となると、フランスでも欧州の他の国でも、自国のものばかりでなく、広くこれを外国に求めて、たとえばカラヂウムのごときも、もとはブラジルから欧州に伝わったもので、ヨーロッパの園芸というものは世界中のよい物を集めて選択し、培養しているものであるということも分かってきました。

こういうふうに外国品がだんだん輸入されるから、温室というものが必要だということが分かってきた。温室でなければ栽培ができないものはもちろんのこと、温室の方が都合のよいものも温室へ入れるようになって、温室園芸の大衆性というものができて、温室栽培をする者が大分に増えていてヨーロッパの園芸では温室というものが重大の地位を占めているもので、なるほど園芸というものは一種の専門であるということが分かってきました。

それから今度ひるがえって日本の園芸はどうかということを考えてみると、ただ今申し上げたように、日本の方は技術上から言うと誠に幼稚で、接ぎ木といったところが、一般の者はこのことを考えておりません、知りませんし広く行われておりません。とうてい欧州の比でないということが分かってきました。しかし、他方において日本で扱うところの材料というものになると、野菜のようなものは日本にも種々あってよいものもある。こんど、果物はどうかというと、これは柿のほかに食べられるものはない。それに反して花とか装飾植物というものになると、なかなかヨーロッパにも負けないようなものがある。たとえばユリとかツバキとか菊とかいうようなものが挙げられます。それで技術の点はなかなか一朝一夕でよくはならない。それで取りあえずなるたけ日本の植物を外国へ輸出するようにするほうがよいことだと思いました。

(以下、次回につづく)

 

参考
フランソワー・サラゼン(『横浜植木株式会社百年史』P15に日本園芸会設立賛成者のなかにボアソナードらとともに名前がある。)
http://honmokujack.blog.jp/archives/cat_351672.html

青山霊園S2-i4/19-20(3706) サラゼン フランソワ・サラゼン 裏面に山本栄蔵とあるという。

P.M.J.F. Sarazin P・M・J・F・サラザン Consul de France Honoraire ( 1838 – 1906 ) フランス 外務省勤務。東宮御所フランス語教師を歴任。のちにフランス名誉総領事を務めた。

『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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