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第70回 「園芸」という学問の概念を知らしめる~吉田進翁が考えたこと(後編)

公開日:2020.6.12 更新日: 2020.6.15

『実際園芸』第16巻5号 昭和9年(1934)

[編集・発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1934年8月号
[入手の難易度]難

「自然科学」が「物理」「理学」と呼ばれていた時代

僕らの子どもの頃、うちにあった花の鉢植えにはどれにも卵の殻がもれなく載せられていた。祖母が料理のときに出たやつを鉢にやっていたのだ。お米の研ぎ汁もいいらしいと、よくやっていた。TVアニメでは「ドラえもん」や「サザエさん」に代表されるように、「盆栽いじり」をしているのは、髪の毛の少なめなおじいさんで、家ではたいてい和服を着ている。「園芸」とは、そういう世界なのだと小さい頃から僕らは刷り込まれていた。ところが、前回紹介した明治初期の青年、吉田進の時代には、未だ全貌が見えないけれど、知的で大きな学問を背景にした産業として見えていたことがわかる。「花道楽」や「植木いじり」などと呼ばれる趣味の世界とは大きく異なっていた。その水脈から水を汲み出すには、フランス語や英語を自在に使えるほどの知識と実地に技術を身につける行動力、留学や、外国の書籍や機械を手に入れる資金力も必要だった。青年吉田はそのことに気づいた。そして1人でもまず行動しようと動き出したのだった。仲間を集め、雑誌を創った。海外の最新の情報をもたらし、後に続く人たちに未来を託そうと意を決して行動したのである。

自然科学は「理学」「「物理学」と呼ばれていた

明治初期の文明開化がもたらした大量の知識、学問は、すべて英語やフランス語、ドイツ語といった外国語で学ぶ必要があり、同時に日本語への翻訳が必要とされた。そうすると、すぐにバラバラに訳された専門用語の統一が必要になる。これが明治16年(1883)から20年代にかけてあらゆる部門で行われた。たとえば「物理学」の「物理」が今のような学問を指すようになったのもそのころだった。物理ということばは、もともと儒学で使われていた用語で、意味を変えて適用したのであったし、「理学」はNatural Philosophy(自然科学)という言葉にあてられた。その後、西欧諸国でも19世紀に入って自然科学をScience、近代物理学の概念にPhysicsという言葉が用いられるようになり、日本では「科学(分科の学問)、「物理学」とそれぞれを呼ぶようになっていった(中村邦光2006)。

青年、吉田進はそのような時代に「オルチキュルチュール(園芸)」に出会い、一生の大仕事と見極める器があった。吉田がやったことは、まず、園芸という学問の概念を実像として日本人にわかりやすく示すことだったのだ。本連載の第61回(https://karuchibe.jp/read/9122/)で札幌農学校が総合大学だったことを紹介したが、吉田の話を注意深く聞いていると、明治初年にケプロンやアンチセルが「大学という教育施設」を使って、総合的で科学的な知の体系を日本人に示し、幅広く展開させようという意図があったのではないかと思えてくる。吉田は、それを園芸でやらなければならないと考えた。ヨーロッパで見てきたように、展示会も開くべきだし、農事試験場も必要だろう、園芸の専門学校もつくられるべきだ、というように日本の未来を見通しながら、自分でできることはなにかを考え、まず、仲間を集め、園芸雑誌の創刊を果したのだ。

(図1)日本園芸会雑誌の創刊号表紙。明治22年(1889)。
『実際園芸』第12巻第3号から

「園芸雑誌」の読者がつくる園芸界

吉田進が「日本園芸会雑誌」を創刊した時代(1889年頃)というのは、世界の園芸史から見るとどのような時代だったのか。恵泉女学園大学の新妻昭夫の論文によると、カーティス・ボタニカル・マガジン(1787~)を代表とする手彩色版による豪華な雑誌が消滅し、情報中心の週刊園芸雑誌(!)が主流となった時代(19世紀半ば~第一次大戦まで)に位置づけられる。

(図1)は日本園芸会雑誌の表紙だが、日本語のほかに英語とフランス語とドイツ語で「何者であるか」を示している。図版はあるもののモノクロ印刷で文字情報が中心となっており、当時の園芸雑誌のスタンダードな型(雑誌と言っても限りなく新聞に近い形態)を踏襲している。新妻は、このジャーナル時代のあとに来たのが現代まで続く「グラビア誌」の時代だとまとめている。日本では大正時代から昭和にかけてということになるが、石井勇義が創刊した誠文堂新光社「実際園芸」の時代だと言える。吉田進から石井勇義にみごとにバトンタッチしたのである。それは、園芸雑誌が研究者や種苗業者が中心となって編集する時代から園芸ジャーナリストという職業が生まれていく時代への転換でもあった。

19世紀の英国における園芸雑誌の変遷……2つの「大量絶滅」とその原因 新妻昭夫(2007)から

0、前史「ウォード氏の箱」の発明と実用化(1830年代末)…大量の外国産植物の導入、温室の需要増

1、「彩色図版雑誌」の時代(手彩色豪華図版が中心、解説のみ)…1830年代に最盛期…世紀半ばには廃刊相次ぐ「大量絶滅」

2、「週刊園芸雑誌」の時代(情報中心、週刊)…世紀半ばから第一次大戦前…プロ向けは縮小、「絶滅」。アマチュアである郊外ガーデナー向けの雑誌が生き残る。

3、「グラビア誌」の時代(カラー写真等を中心としたビジュアルな編集)…1897年に創刊のCountry Lifeを先行例として現代に至る。

※1の「彩色図版誌」の中心には植物学者、専門の画家、種苗業者がいた。その絶滅は、手間と費用の問題と温室を持つ一部の富裕層しか興味を持てなかったため。2のプロ向け週刊雑誌の絶滅は、彼らの主要雇用主であった「カントリー・ハウス」が第一次大戦前から加速度的に法人所有(病院や学校)となったためだという。

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(※以下前回に続いての後編です。『実際園芸』第12巻第3号の記事から採録しました。戦前の日本という今とは違う社会状況のもとに語られた内容で現代では問題になるような表現もありますが、そのまま掲載します。)

(前回のあらすじ)
ヨーロッパで行われている園芸の実際を見たあとで、それでは、わが日本の園芸はどうかということを考えてみると、技術は幼稚で、野菜や果実などの品種改良などの面では、とうてい欧州の比でないということが分かってきた。しかし、花とか装飾植物というものになると、ユリや菊、ツバキなど、なかなかヨーロッパにも負けないようなものがある。それで技術の点は一朝一夕でよくはならないから、まずは日本の植物を外国へ輸出するようにするほうがよいことだと考えるようになった。→※このような状況から、明治23年、日本人による日本産植物の輸出を目的とした横浜植木商会が設立される。

そうこうしている間にフランスの園芸会の会長、レオン・セー、この人は1870年普仏戦争後にフランスからドイツに支払う戦争賠償金のことに従事したフランスの大蔵長官をした有名なフランスの財政家で、その当時には上院議員をしておりましたが、その演説の中に日本から菊が今わずかに入って来ているが、立派なものを作り出してここよりも日本へ出すようにしなければいけないというようなことがありました。この演説は少なからぬ感動を私に与えました。しかし、日本で騒いだところでも仕方がない。日本の園芸もどうかしなければならないと思いました。しかしとうていこれは独力でできるものじゃない、とにかく団体を設けてやるよりほかにはない。そうすればその中には、偉い人も出てくるだろう。それまでの間、どうかしようということになりました。それで自分独りでもって、園芸会と称しまして日本園芸会というものが現れました。

それで会の事業として品評会を催すこともありましょうし、試験場を設くることもありましょうし、学校を建てることもありましょう。しかし差し当たり園芸ということを宣伝するにしくはない。雑誌なり、刊行物なりを出すことが一番だと考えまして、そこで第一号が出ました。これは明治22年の4月です。その中に盛んに日本植物の輸出ということが書いてあります。何しろ日本の植物を輸出するということが先ですから、それからにしようというように考えたのです。話の順序が違うかもしれませんが、園芸会と称する前に田代君のことを思い出しまして、同君に意見を聞いて見て、その上にしようと言うので駒込千駄木林町へたずねていきましてどうしたものだろうと言うと、それはやりたまえ、やるならば早くやりたまえ、是非やりたまえ、と言うので、それから田代君の紹介によって、牧野富太郎というお方にも紹介してもらいました。私は何も知らないものですからこれでいよいよ力を得ました。

その頃平野師応という方が蚕業の雑誌を出しておりましたが、私の雑誌を見て気の利いたものができたと言って喜んでくれました。それから以来一方ならず骨を折ってくれまして感謝にたえませんでした。

それから、他方では今は亡くなられましたが、枢密顧問官であった平山男爵(威信)に紹介をしていただいて、当時の元老院議官や後に貴族院議員になられました田中芳男さんにもご厄介をかけることになりました。それから田代君が園芸博覧会で露国に出張した時分に、その時の日本公使は花房子爵によろしく願うといったようなわけで、同子爵の養成を得、これも一方ならぬご厄介をかけ……それから会員も多少入ってきた。それから会の規則などができたというようなわけでございます。花房子爵に会長になっていただき、田中芳男先生に副会長になっていただきまして、私どもは幹事になりました。それで目鼻がつきましたわけです。それから文部大臣になられました榎本子爵にもお目にかかりましたところ、それは非常に結構だと言われまして、集会のときに来ていただいて一場の演説をせられました。

話が横道にそれるようですが、このたびは金銭の問題になりますが、なにしろ自然に突発してきたようなものですから、会費というものも、なるたけ安く1ヶ月10銭としました。それでは幾らなんでも追いつかないということは自分でもほぼ知っておりました。が、しかし、自分が翻訳すればそのくらいの金は入ってくる。訳もない容易なことである。なるほど翻訳したらはいりましたが、翻訳は始終ありません。それで出る方はどんどん出てしまうのでにっちもさっちもゆかなくなりました。(笑声起きる) そこでいろいろな方から助力を仰ぎました次第でございます。前に述べました花房会長、田中副会長はむろんのこと、平山男爵とか榎本子爵とか、また平野氏とかまた御料局長をしておられた岩村氏などであります。また当時の農商務次官前田正名と申す方にもお目にかかり、同君もご賛成くださいまして、農商務省より一時若干の金員を賜るよう、お取り計らいくださいました。

福羽 岩村さんもですか。

吉田 ええそうです。それからそうこうしているうちに、ちょうど大隈伯遭難後間もないことでしたが、どっからかしら聞いたのですが、同邸に盆栽のいいのをもっておられるというので、ぜひ拝見を願いたいと思いまして、拝見を願い出たところが、見に来いと申されました。そこで花房会長はじめ一同でうかがいました。すると段々と面白いお話がありました。それから後になりますと庭も広いことであるから、会合のときには貸してやるということでした。そこでときどき催することになりました。

大隈伯はいつも会場へ出席せられまして演説もしてくださいました。

これより以前に福羽子爵(逸人)がフランスから帰朝せられました。それで副会長になっていただいたり、園芸の講演をしていただいたりなどしました。これまたお世話くださいました。温室も同子爵の尽力で大隈伯の庭内にたいそう立派なものができまして、それからというものは先刻申し上げましたとおり、欧州で非常に重大な地位を占めている温室も随所に建造せられ、日本の園芸も面目を一新し、また園芸試験場ができたり、園芸専門の学校ができて、ますます盛んとなり、花屋の店等というものもだんだんとできて参るようになりました。圧条、接ぎ木というようなこともだんだんと進んできまして、昔のようなリンゴ、モモというものはなくなって参りますし、ビワのごときものは、だんだん改良されて参るようになりました。そうこうしているうちに、ちょうど前に申し上げた通り雑誌もとかく花卉などの一方に偏しやすくして蔬菜や果実のことが少ないということが一部の人の間に唱えられまして、これはもっとものことですが、それで別に園芸会を起こそうという議が起りました。そこでそのくらいなら現にある日本園芸会をそのまま引き受けてもらうことになりました。日本園芸会も面目を一新いたしました。それで私は明治39年に退きました。

もう一つお笑い草に申し上げると、こういうことがある。自分で一切なにもかもしている時分に、また自分でするよりほかに仕方がないのですが、なにぶん、その時分には電車はありませんし、自動車の便もありません。そこで一つ花が咲いたと一つ実がなったというと東西南北に奔走して暇がありません。その上に資金を得るために自分が翻訳をしてそれで埋めていかなければならぬ。非常に忙しい、尾籠な話をするようですが、小便をする暇がないくらいでした(笑声起きる)。

以上で一通り日本園芸雑誌を発行した動機ならびに感想については終わりましたが、なお当時の園芸界の事情などについていろいろ話していただきたいと思います(石井)。

松崎  フランスに行かれたのは語学がお達者であったからでしょうか。

吉田  そうです。大蔵省から派遣される人に随行して行ったのです。それでフランスには明治19年から21年までおりました。当時たいていの人は自分と同じように園芸に興味を持っていた人もおりましたが、なにしろ43年もまえのことでたいていの方は亡くなりました。最初から関係した人に田代安定君という人がありました。露国の園芸博覧会に派遣されたくらいの人で当時の園芸や植物のことに関しては始終ご援助を願っておりました。雑誌の創刊号には「ナゴラン」のことを書いてくれました。その時に、横浜植木会社に徳田佐一郎という植物のことをよく解る人がいた。その人は田中芳男先生のお弟子です。しかし、田代さんの方は田中さんの弟子ではなかったようです。

岡本  先生は当時花とか野菜をお自分でも栽培されましたか。それから、当時の雑誌の発行部数などはどんな模様でしたか。

吉田  私は別に作ってはおりませんでした。かなり用事が多かったので、とてもそれまでの時間はなかったので、ずいぶん外国の諸方から種子などを送ってきましたが、それはたいてい、福羽逸人先生に差し上げました。また最初の発行部数はハッキリわかりませんが、だいたい500部くらいと思います。とにかく夢中で終わったようなものです。22年に始まって39年に駒場の方に移ったのですが、その間において割合に讃者は増えてはおらなかったようです。移すときには会長の大隈伯と副会長は居座りということでした。

松崎  雑誌をお始めになった頃に温室という字はありましたか。

吉田  温室というとだいたい分かってました。その時分には在来のものは、唐室(トウムロ)と言っておりました。(温室についての話も出たが省略し、次回温室を主題とせし時に併せて発表する 石井)

松崎  百合にリリウム・ヨシダイ(Lilium yoshidai)というのがありますが、あれは高砂百合のことではないでしょうか。今日はお見えになりませんが、広瀬巨海さんもそう申しておられたそうです。

吉田  そうです。高砂百合のことです。それは戦争で潰れてしまったが、元の墺洪(オーストリア・ハンガリー帝国)国、園芸界の通信会員(英語ではコレスポンヂング・メンバウ)に選挙せられまして、それで何か送ってやろうと思いまして、イセナデシコの種子を送ってやりました。それが同園芸会の庭園に咲いたそうです。それをドイツのバーデンのレイヒトリンという人が見て私にも送ってくれともうしてきたので送ってやりました。その時に高砂百合の種子も送ってやったのです。――高砂百合の種子をどうして手に入れたか忘れましたが、先方に行ってよく開花したというので私宛に写真を送ってくれ、その裏面へリリウム・ヨシダイという名を記入して送ってくれました。そのレイヒトリンという人は、非常に植物の好きな人であったから、いろいろの日本の植物を送ってやりました。

石井  フランスのヴィルモラン(Vilmorin & Cieフランスの有名な種苗会社)の主人が日本に来こられた当時のことをご存知ですか。

吉田  それは私が関係しました。明治26年のことで、福羽逸人先生から、「吉田くん、困ったことができた。ヴィルモランが日本にやって来ると言ってきたが、君の厄介にならなければならぬが、とにかく見せる物が何もない。」という話でした。そのうちに夫婦連れでいよいよやって来られ、帝国ホテルにおられたが、訪ねると妻が昨夜子供を生んだというので、産婦人科のお医者をお世話しようと申し上したが、その方はもうすんだから園芸の方を案内をしてくれということでした。それで温室などは見せるものはないから何か日本特有の物がよかろうというので、下谷根岸の「さかなや」という有名な万年青屋(オモトヤ)がある。そこへ案内をして、1株500円とか800円というのを見せました。その時に松葉蘭(マツバラン)を買ってゆきました。小石川の後楽園の庭も見せたり、安行にも行きました。日本には2ヶ月位滞在しておりましたので、夫人には日本の生花を見せたりなどしました。

それから英国のヴィチ氏(Veitch)が日本に来た時も私が小石川植物園に連れてゆき松村任三博士に紹介しましたが、ヴィチ氏はインド洋からやってきて、内地では出羽の鳥海山に行こうと言われるので、それは面白いだろうといったら、鳥海山に登って高山植物の種子を採集したり、日光にもゆきました。そして高山植物の種子をたくさんに手に入れたいから世話をしてくれとしきりに言っておりました。

このほか、米国のアーノルド・アーボレタムのサージェント博士(Charles Sprague Sargent ,1841-1927)も来られました。私もマサチューセッツの同植物園に行ったときには広いところを引き回されて閉口したことがありました。サージェント博士はその頃、ガーデン・エンド・フォルスト(Garden and Forest)という雑誌を交換で送ってきておりました。

海外の雑誌ではこのほかに、ロンドンのガードナアース・クロニクル誌(Gardeners’ Chronicle)を、それをやっておられたドクトル・マスタース(Dr. Maxwell T. Masters 1833–1907)という人から送ってきておりましたが、もうその人は亡くなられたことと思います。フランスのモラトール・ドルチキュルチュール(d’horticulture)やルジャルダン誌(Le Jardin)も来ておりましたが、そのルジャルダンという雑誌の所有者の子息がまた日独戦争のときに行方不明になったというので悼状をやったところ、たいへん有難いといって返事をくれたこともありました。

またロンドンのナショナル・クリサンチマム・ソサイティ(菊の会)の外国部幹事のハルマニベーン(※C. Harman Payne)

という人が私と知っていたので久しく雑誌を交換しておられました。

岡本  フランスから帰られた当時のことから、街路樹などのことをうかがいましょうか。

吉田  当時、日本へ帰ってきてみると、並木をどうかしなくちゃいかんというので、並木の樹はなんという樹がよかろうということを考えてみたら、まず梧桐(※ここではアオギリではなくマロニエ=セイヨウトチノキだと思われる。因みに中国語でプラタナスは法国悟桐)、あれがよかろうという考えになってきたのですね。パリの「マロニエ」すなわちこっちのトチノキです。並木というものは高さも幅も丈もちゃんと決まっておりまして誠に見事なものです。

大塚  その頃はお濠の柳はあったのですか。

吉田  あれはありました。

五島  新宿御苑のプラタナスはその頃ですか。あるいはよほど後ですか。

福羽  あれはだいたい明治39年でしたから、戦争記念(日露戦争の戦勝記念)で、凱旋の時にそれをこしらえて、もうできていたのです。

五島  並木というものは揃っていないと形がよく見られませんな。外国の並木は頭が揃っていて高さも横もなにも同じですね。たいてい、マロニエみたいになっておりますが誠にきれいですね。

吉田  その点でいうとパリのは、感心のほかございません。

福羽  それは貴方のおいでになった時にできておったのですか。

吉田  並木はパリの街の美観、話題の一です。マルセーユからパリに行く途中です。一緒に船に乗っていたフランス人と知り合いになりまして、「俺はパリに行くから一緒に伴って行ってやる」と言われまして、それに非常に有難いと言いまして一緒につれていってもらいました。

フランスの職工でありました。これは余談ですが汽車の中で・・・何をやっているのか遠くてよくわからないが・・・しばらくして1人がやってきて「私たちは賭けをしているのだが、君は支那人か日本人か」と聞いたので、日本人と答えると、支那人とどう違うのかと言うので、――その当時、支那人はたいがい辮髪をやっておったから見分けはつくわけだと言うと「それなら、おいらの方が勝った。」というようなわけで、……(笑声)……非常に面白いこともございました。

松崎  並木は田代さんも非常にピンと来たらしいですね。

吉田  それは私にも非常にピンと来ました。パリの花卉店のランを見て、びっくりした。花じゃなく、ロウかなにかでこしらえたものだと思いました。何にしろ今までスルガランくらいほかに見たことがなかったものだったから無理はなかったのです。(※スルガランはシュンランの仲間、東洋蘭)

記者曰く 以上で大要の話は終わりましたが、なお記入漏れのものもありますが、これは次の機会に発表することとする。(おわり)

 

参考
「日本における「物理」という術語の形成過程」中村邦光 学術の動向 第11巻12号 2006
https://doi.org/10.5363/tits.11.12_90

「ガーデニング雑誌という世界」新妻昭夫 恵泉女学園大学園芸文化研究所報告 : 園芸文化,4,1-13 (2007)
http://id.nii.ac.jp/1294/00000821/

『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄・平野正裕 誠文堂新光社 2017

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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