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第73回 空きスペースで野菜をつくる~戦時の家庭菜園入門書

公開日:2020.7.3 更新日: 2020.7.10

 

[著者]石井勇義
[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]難

『農耕と園藝』の前身である『実際園藝』誌は、大正15年(1926)に始まり、昭和16年(1941)の年末をもって休刊となった。主幹、石井勇義は「吾子をいたむ」という「追悼文」を自らの雑誌に捧げて断腸の思いを表した。日本はいよいよ戦時ということで、あらゆる物が統制の対象となっており、出版物、とくに印刷用の紙の割当が各出版会社になされていた。そのため、『実際園藝』の休刊に見られるように、それぞれの出版社で何を残し、何を休刊とするかが検討された結果であった。食糧増産に関係する「農業」雑誌は継続されたのに対し、「園芸」誌は平和産業であり、戦争の役に立たない雑誌ということであった。花や観賞植物、果実などの生産は大幅に減らされたが、実際には、終戦まで人々は花を求めていたし花店も数は少なくともギリギリまで営業を続けていた。花は「不要不急」、緊急時には「自粛すべき贅沢品」などといったイメージはこのころに刷り込まれた誤った価値観だが、時が経つと過去にあったことが忘れられ、刷り込まれたイメージが繰り返し世の中に出回るようになるものだ。そのたびに、園芸人はそれぞれが試されてきたのである。奇跡的に戦災を免れた誠文堂新光社と石井勇義は、戦後すぐに園芸誌を再開するのだが、このとき『農耕と園芸』と誌名を変更し、農業に関するテーマを取り上げるようにした。これは、石井が再び世の中が戦時体制になっても雑誌が生き延びられるように工夫した命名だと言われている。

石井が初めて書いた「家庭菜園」の入門書

石井勇義の『空地利用・野菜の作り方』は、『実際園芸』の末期、昭和16年に出されている。この本の序文は、次のような書き出しで始まっている。昭和12年(1937)に日中戦争が始まってすでに4年が経過、太平洋戦争へと突入する数ヶ月前、石井は48、9歳の頃である。(※漢字や送り仮名などを読みやすく書き換えてあります。)

大正14年このかた、私は幾多の園芸の書物を書いてきたが、それは主に花に関するものであった。このたび初めて野菜栽培の手引書を執筆するにあたり、今までに感じたことのない真摯な気持ちで、微力ながらペンの戦士として刻下の食糧増産のために、協力するという熱意をもって稿を起こし、夜を徹して執筆したことも一再ではなかった。

以下、こんなことを述べている。いま、この食糧不足の状況にあって空地を利用しての野菜づくりが盛んになっている。しかし、「隣組」などの野菜栽培の実際を指導すべき農会や空地利用の指導者は「非常なる手不足」であり、せっかく播かれた種子も十分に収穫を得られないと聞いた。そこで、これまでの経験を基礎にして一般向けに平易に書いたのがこの本である。このように不慣れな分野ではあるが、大正3年(1914)から園芸の実務に関わり、また雑誌づくりにより多くの知己を得、専門家からアドバイスを得ることができる。また27年の経験と「実際園芸」を始めてから新たに居を構えた東京郊外、杉並の自宅での「家庭園芸者」としての経験をこの本に十分に生かした。また、本書執筆には井川菊雄君に世話になり、一部は同君の筆になった、とある。※井川菊雄について詳細は不明。編集方針は以下の通り。

・まず栽培の基礎知識を詳しく解説し、取り上げる野菜は一般的なものに絞り込み、また西洋野菜はごく普通のものだけにし、あとは省略した。

・従来の専門書ではすべて「一反歩(300坪、10アール)」を標準にしているが、本書では30坪単位にし、施肥量などは従来の肥料を参考にした。

・少し立ち入って研究しようという場合に参考になるよう、それぞれの項目の終わりに資料を付記した。温度は摂氏で表記。

こうしてみると、この本は石井勇義が書いた初めての本格的な「家庭菜園」入門書ということが言えるだろうし、園芸上級者が多い『実際園芸』の読者層とは異なる一般向けに書き下ろしたものだったわけだ。(図1)は、後ろ扉に置かれたグラビアだ。短めの髪をきちんと整えて、シャツにベスト、スカートを履いた若い女性がクワを手に植え付けたばかりのネギに土寄せをしている。向こうに見えるのはお母さんだろうか。トビラ(表紙)も同様で、シャツにセーター、きちんと整髪しメガネをかけたお父さんがクワを握る。向こうには割烹着のお母さん、おばあちゃんがいて、赤いスカートのまだ小さな女の子も一緒だ。遠くに見える作物は麦だろうか。石井勇義のつくる本や雑誌は常に明快な編集方針に沿ったビジュアルでわかりやすい表現が特長だが、この2枚のグラビアによって、農家ではなく一般の方々が誰でも野菜をつくれるようになることを示している。

ちなみに、この本は古本屋から購入したものだが、もともと簡易装丁で出されたものを厚紙で装丁し直したもののようだ。価格は○に新という記号の後に「¥1.60」となっている。この時代はすでに昭和13年(1938)以来の「物品販売価格取締規則」による統制価格になっていて、いわゆる「マル公」の公定価格がつけられている。なかでも新製品や新刊書籍には「マル新」価格があてられていた。

(図1)奥付の後ろ、最後のページに置かれた写真。スカート姿の若い女性が印象的。

空地は20世紀の「火除地」

(図2)は、その表紙グラビアの拡大図だ。畑に立てられた木製の看板に「空地利用耕作地」「第七組第十一班」と墨書されている。ここは畑になる前、いったい何に使われていたかは分からないが、看板に書かれているように「空地」であったにちがいない。当時はこうした空地が増えていた。「空地地区制度」というらしい。第一次大戦以後の戦争では、航空機による空爆が想定されるようになったため、軍事体制下では早い時期から「防空」が都市計画の目的の1つに掲げられるようになった。

(図2)表紙の一部拡大。「空地利用耕作地」とある。

こうして1937年(昭和12)「防空法」ができ、住宅地の環境保全と防空を目的とした空地を指定することが可能になった。この「空地地区制度」をもとに軍事目的に沿うように用途が決められる。また、爆撃等による火災から延焼を押さえるために各地に防火帯をつくったわけだが、これは江戸時代の「火除地」と同じ発想だ。つまり、20世紀になって再び新しい「火除地」が出現したのだった。本連載第30回(https://karuchibe.jp/read/6087/)の火除地の話も参照のこと。鉄道の駅周辺や軍事的に重要な場所の周辺では建物が強制的に排除され空地がつくられていく。悪名高い「建物疎開」だ。やがて太平洋戦争が激化するにつれ土地利用はまったくの放任状態となっていった。こうした空地は戦後すぐから「闇市」になっていく、そういうスペースが空襲で焼け野原になる以前から用意されていたのだ。戦後すぐに復興がはじまるが、戦前の空地地区制度の要旨は建築基準法の「容積率」に継続され、また都市計画法の緑地地域へと引き継がれた。(『園藝探偵』2、3号参照。この緑地計画は戦後の混乱により縮小を余儀なくされ、その後廃止となる。)。

石井の序文にもあるように、食糧事情が悪くなってくると、空いている土地を利用させてほしいという声がだんだんと強くなっていく。そこで「隣組」を単位に、自給のための畑として開放するということがあちこちの都市で始まったようだ。ところが、大阪のある事例では工場の跡地に畑を作るためにがんばった「40過ぎの男」(※戦争で若い人がいないということを示す)が死亡する事件があった(小林1941)。ガラが敷き詰められた地面に埋まっていた大きな石を取り除くときに足をケガしたというのだが、大丈夫、大丈夫と言って放置した結果、一週間ほどして発熱と痙攣の症状で入院、治療の甲斐もなく死亡した。破傷風だった。経験のないことゆえ、このような事故がないように気をつけることはもちろんだが、男性が命を落とした場所は作物を育てるには向かない土地で結局、放棄されたという。まず、その休閑地は耕作可能かどうか、専門家に見てもらう必要がある。次に、作物をきちんと育てるための正しい知識を得るための努力をすべきである。当時、このような指摘がなされていた。

参考
・論文「休閑地利用と破傷風」小林登『家事と衛生』第17巻10号 1941
https://doi.org/10.11468/seikatsueisei1925.17.10_24

【隣組】(ブリタニカ百科事典等から)

1940年(昭和15年)の内務省訓令「部落会町内会等整備要領(内務省訓令第17号)」(隣組強化法)に基づいて「町内会」「部落会」などの下に設けられた最末端の地域組織。江戸時代の「五人組」を原型とする。日中戦争以後、政府は「国民精神総動員運動」を開始したが、これに伴い地域的日常活動の必要性が認識され、五人組などの旧慣を活かす形で10世帯内外の小規模で小回りのきく隣組が組織されることになった。39年(昭和14年)以降、木炭、マッチ、米穀などの生活必需物資が配給制となったが、これらの配給業務や互助(軍人遺家族援護等)、自警(防空、消火の訓練)などの相互扶助的な日常活動が町内会、隣組などを通じて行われるようになると、これらの機構は内務官僚の指導のもとにきわめて強固な国民支配組織として機能するようになった。42年(昭和17年)8月には大政翼賛会の下部組織として位置づけられた。隣組は相互扶助の役割がある一方で、物資の供出や奉仕活動への動員の際の取りまとめ、また思想統制や住民同士の相互監視の役目も担った。戦後の47年(昭和22年)マッカーサー指令に基づいて廃止。しかし、その後も町内会等は現在まで残っており、回覧板や祭礼の会費徴収などが行われている。

参考
論文「新体制と隣組」丸井英次郎『家事と衛生』第17巻1号 1941
https://doi.org/10.11468/seikatsueisei1925.17.41

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#休閑地#空地#火除地#家庭菜園#石井勇義#マル公#物品販売価格取締規則

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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