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第74回 塀の中に楽園をつくる~刑務所の花いっぱい運動

公開日:2020.7.10

『農耕と園藝』1960年2月号

[発行]誠文堂新光社
[入手の難易度]難

2020年4月にコロナウィルス感染拡大防止のために「緊急事態宣言」が出され、多くの人が「ステイホーム」となり、経験したことのない緩やかな「軟禁状態」に置かれることとなった。身体拘束されているわけではないけれど、安倍首相に倣えば、そういうなかにおいてですね、やはりこれは不自由であるという、いわば「不自由というものは、不自由なものだ」というような、どこか落ち着かない毎日を過ごす。こんなときに、流行っているのがペットだというし、音楽や映画であり、読書だという。これらは誰もが楽しめる身近な文化であって、いままであまり意識することもなく、当り前のように生活の中に溶け込んでいたのだと気づく。花や緑に触れることもまたあらためてその価値に気づいた人も少なくないはずだ。だいたい、もともと「園」という漢字の起源であるとか、古い「庭園」のモデルというのは、「塀によって囲われた場所」というのがお決まりだったわけで、そういう意味では、原点回帰ということになるのかもしれない。

イスラム庭園と楽園のモデル

古い庭園の記憶は、現代までずっとつながっている。スペインの世界遺産、アルハンブラ宮殿や、同じく世界遺産インドのタージ・マハルのようなイスラム庭園の起源は 古い時代の中東、特にペルシアにさかのぼる。乾燥した砂漠地帯にあって酷暑や炎天、熱風、あるいは砂嵐といった厳しい自然から身を守り、また快適な環境を得るためには、外界の自然から隔離された避難所(サンクチュアリ)を作らねばならなかった。こうして塀や建物で囲まれ、涼しい木陰と水とを配した庭園が作られた。人々はこれを「パイリダエーザ」(塀で囲われた土地)と呼んだという。

パイリダエーザの特徴は、大きく5つあげられる。①塀に囲まれていること、②漢字の田の字のように東西南北に通路(水路)を取った4分割の区割りになっていること(「チャハルバーグ」=四分庭園)、③中央に泉があり、ここから東西南北に水路が設置されていること、④オレンジなど果実が成る樹木がたくさん植えられる、⑤イトスギのように尖塔に似た姿をした樹木による並木がある。あるいはこのような庭園の形式は、イスラム教が生まれる7世紀以前からの伝統で、「パイリダエーザ」=「天上の楽園」=英語「パラダイス」の語源となった。軍事力以外に、高度な科学技術や文化の力で領土を広げたイスラムの支配者たちは壮麗な宮殿を築き、美しい植物で満たされた庭園を誇った。(図1)は、オスマン帝国の支配者、スルタン。武器ではなく、とてもかわいらしいバラを手にした居住まいがいい。(図2)は、四分庭園の形式を表す典型的なイスラムの庭園。

参考 イスラムの庭園 神谷武夫氏のサイトから
https://www.ne.jp/asahi/arc/ind/1_primer/gardenislam/garden.htm

(図1)15世紀、メフメト2世、オスマン帝国第7代スルタン(皇帝)
(図2) 塀、4分割、泉、果樹、並木が揃った小さな見本庭園のような表現。
バーブル・ナーマ(バーブルの回想録)16世紀の写本から

塀の中の「花いっぱい運動」

本連載第64回(https://karuchibe.jp/read/10064/)で紹介したように、1960年(昭和35)は「花いっぱい運動」が活発に進められていて、『農耕と園藝』誌でもたびたび話題にのぼっている。当時の岸信介首相が進める「生活改善運動」と合わせてアピール効果の高いニュースだったと思われる。きょう、そうしたニュースのなかでもユニークな話題を取り上げたい。1960年2月号の「みどりの広場」(投書欄)にあった「塀の中でも“花いっぱい運動”を」という記事だ。こんなことが書いてある(※送り仮名等を読みやすく変更)。

塀の中――それは社会から隔絶された刑務所という名の施設のことである。

私達の施設では、現在千数百人の受刑者達が服役しているが、彼らの一日一日の生活は全く贖罪のあけくれであり、それが故に現実の生活は、極めて正しく行われているものの、一般社会とは異なり、とかく明るさに欠けている。

私たち職員は、この暗い塀の中を少しでも明るくしたいと思い、昨年の10月頃から、「社会を明るくする運動」の行事の1つとして、“花いっぱい運動”を起こしてみたところ、受刑者達も非常に喜んで協力してくれた。人を愛することを忘れ、愛する者さえも失った彼らであるが、小鳥や花を愛することにかけては、予想外に根強いものがあり、単なる趣味とか実益とかいった程度のものではなく、その奥底には、なにか美しいものを愛したいという真実性が存在する。

この投書を送ったのは、京都市東山区山科東野井上町 京都刑務所教育部 大田文雄という人物。「花いっぱい運動」に取り組むことになった目的は、受刑者の良心をゆり動かし明るい社会人として一日も早く社会へ復帰させることにある。ゆえに、この運動をブームで終わらせるのではなく、社会から隔絶され誰からも遠く忘れられた塀の中でも、人知れず「花いっぱい運動」が展開されていることをぜひ知ってもらいたい、と訴えている。乏しい国の予算では思うような運動や行事はできないが、力のおよぶ限り塀の中を明るくしてやりたいと思う。矯正施設を少しでも明るくしたいという私たちのせつない望みに対して心から協力してくださるよう願うと記している。

具体的にどのような活動だったのかは不明だが、オリンピックの誘致も決まり、世の中全体がポジティブな方向へ向かう機運が盛り上がっていた様子がうかがえる。

参考 「社会を明るくする運動」
昭和24年(1949)、法務省によって始められた「社会を明るくする運動」は、すべての国民が犯罪や非行の防止、また罪を犯した人たちの改善更生について理解を深め、犯罪や非行のない地域社会を築こうとする全国的な運動として展開。

以下、「社会を明るくする運動のはじまり」 法務省のサイトから
http://www.moj.go.jp/hogo1/kouseihogoshinkou/hogo03_00089.html

色のない世界に彩りを 吉田教子さんの活動

フラワーデザイナーの吉田教子さん(フローラルスタジオ Blanche主宰)は、2009年からボランティアで栃木県の刑務所に通い、フラワーアレンジメントを教えている。2011年には、「社会を明るくする運動」への貢献を評価され法務省から表彰された。当時、農水省の花き産業振興室長 佐分利応貴氏に教えていただいたメールには、次のようなことが書かれていた。

吉田さんが活動する栃木刑務所(栃木市総社町にある、収容人員女性800名)でのフラワーデザイン教室は、法務省矯正局の担当者および現場の栃木刑務所の看守長さんとの話し合いのもと、平成21年(2009)6月から行ってきた。施設では、情操教育の一貫として、美容・生け花・エステなど様々な職業訓練が実施され、社会復帰にむけたプログラムが組まれている。しかし、吉田さん以前にはフラワ―デサインを使ったプログラムは存在していなかった。そこで、フラワーデザインの技術を習得してもらい社会復帰をする時の選択肢の一つにしていくこと、また生花に接することでの癒しなどを主な目的と考えて始めたという。始めた当初は、釈放前研修(3ヵ月前)の教育の一貫として、月2回のペースでフラワーデザイン教室を行っていたが、受講した方々からの評判がたいへんに良いとのことで、更に翌22年度から刑期の長い方々への教室も実施している。モノトーンの「塀の中」での花育。最初は硬い表情で手を動かしていた受刑者の方々が最後には自然に笑顔になるという。

吉田さんは、今までカルチャーサロンなどでの講習がほとんどで、実際に刑務所での教室を始めた当初は驚かされることも少なくなかったそうだが、受講している方々が心から喜んでいる様子でおっしゃる「楽しい」「癒される」という声に大きなやりがいを感じるようになったという。

参考
2012年には、誠文堂新光社の月刊「フローリスト」5月号の「花と人」のページで取り上げられている。
http://www.blanche-nfd.com/profile/18.html

2010年バンクーバー冬季オリンピックの花

こちらは、2010年、カナダ、バンクーバーの冬季オリンピック・パラリンピックにおける授賞式の花の話題だ。開催期間は2010年(平成22)2月12日~28日がオリンピック、3月12日~21日がパラリンピックというおよそ2か月間で、会期中に必要とされる授賞式の花束は約1,800個だった。これを制作したのは、麻薬中毒や売春等で服役中の女性受刑者たちだった。彼女たちの自立を助ける人々のチームが中心となり、この重要な仕事を請け負った。当時のニュースでは、おおむね次のように報道されている。

バンクーバーオリンピックでメダリストたちに与えられる名誉のブーケは、二人の女性フローリストに託された。そのフローリストとは、それぞれ生花店を営むジュン・ストランドバーグ June Strandbergさんと、マルギッタ・シュルツ Margitta Schulzさんだ。2人は会期中に1,800個のブーケを用意しなければならない。二人はオリンピック委員会に23のデザイン提案を行い、最終的にグリーンが印象的だったあのブーケに決まった。会期中に確実に手に入る花材でシンプルなものとなった。ブーケの手元は再生紙のラッピングで包まれ、ロイヤルブルーのリボンが結ばれた。

このブーケを制作するのは社会的にはじき出された女性たちだ。たとえば、ドラック中毒、売春から抜けだそうとしている人、服役し刑期を終えて出所しようとしている人や家庭内暴力などの犠牲者ら。こうした女性22名がNPOの支援で訓練を受け花屋として自立して行こうとしている。オリンピックのブーケ作りは彼女たちにとって大きな支えになるだろう。

ブーケの内容は、緑色のマム「シャムロック」3本を同色のヒベリカムを合わせて束ね、ミスカンサス、レザーファン、ハランで包む。シンプルでスタイリッシュな花束だった。寒冷地のカナダでは花の生産がほとんど行われていないため、開催国でつくるというオリンピックの規定によりマムだけは計画的に栽培された。それ以外はエクアドルなどから輸入された花材を用いた。オリンピックの規定は使用花材やサイズ、花束の形状など細かい規定がある。しっかりと束ねられ晴れの舞台で使われたことで関わった人々は名誉を感じるとともに大きな自信になっただろう。花束に結ばれた青いリボンは緑の花束とマッチして印象的な花束だった。

参考 バンクーバー経済新聞
https://vancouver.keizai.biz/headline/818/

その他(画像あり、英文)
https://www.flowershopnetwork.com/blog/2010-olympic-flower-bouquets/

https://www.reuters.com/article/businesspropicks-us-olympics-flowers-idUSTRE61E4TN20100215

https://www.theglobeandmail.com/news/national/olympic-flower-power-helps-troubled-women-bloom/article1320311/

参考
『楽園のデザイン―イスラムの庭園文化』ジョン・ブルックス(神谷武夫・訳)鹿島出版会 1989

 

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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