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第75回 男性が帽子なしで外を歩けなかったころ~明治日本のパナマ帽子の話

公開日:2020.7.17 更新日: 2021.4.20

『横浜植木株式会社100年史』

[編集・発行]横浜植木株式会社
[発行年月日]1993年4月
[入手の難易度]難

一人前の大人の男性が帽子をかぶらずに外を歩くことがとても恥ずかしいことだった、そういう時代があった。
そう言われても、実感がないのだが、実際、明治・大正から昭和にかけて、およそ戦前までは成人男子の軍人や学生の制服・制帽を含めて、「冠帽率」は9割を超えていたといわれる。洋服に帽子、以外にも和服に帽子姿の人も普通にそのへんを歩いていた。当時の写真や新聞・書籍の挿絵を見ても様子がわかるだろう(図1)。
江戸時代の男性の頭髪が身分や職業を表していたように、明治以降の帽子もまたファッションでありながら同時に、その人の身分や職業を表す印でもあった。

(図1)1920(大正9)年、第1回のメーデーに集まった人々。男性のほぼ全員が帽子をかぶっている。種類はカンカン帽(麦稈帽=むぎわら帽)、ハンチング、中折帽(ソフト帽とも)だという。

断髪令と帽子

明治初期の日本で帽子が必需品となるキッカケは明治4年(1871)に出された「断髪令」だった。

明治政府は、国の独立を守り、不平等条約の改正を図りながら資本主義に基づく「富国強兵」「殖産興業」を進めるために、国民に対して「文明開化」の政策を強く推し進めていった。

散髪、洋装化もそのひとつだ。まず、官庁の公務員や軍隊から一般へと広げる。いわゆる「ちょんまげ」、「ふんどし」に「わらじ履き」で半ば裸、はだしの格好から洋服に靴、頭は散髪し帽子をかぶることが新しい時代の身だしなみに変わっていった。
いわゆる明治4年の「断髪令」は、「散髪脱刀勝手たるべし(散髪し帯刀しなくてもよい」というもので、華族・旧士族階級に対して発せられたように受け取られるが、真意はすべての国民への通達である。
その後の徴兵(国民皆兵制)、「強兵化」にとって必要な施策だった。

当時、都市はともかく、地方に行くほど通達が行き届かないため、いろいろな旧習を禁止する「布達(御触書)」が数多く出されたが、断髪の「道理」は、旧来の頭を剃り髪を結うことは身体の害になるとまでつけ加えられた。
それでも散髪が進まないため明治6年には厳しく取り締まる。
このころは、地方によっては反乱が起きるほどの混乱もみられたが、同年3月に明治天皇が自ら髪を切り洋服を着るようになったことから散髪、洋装化は大きく進展した。

こうして「ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という歌が流行するようになった。散髪が一般に普及するようになったのは明治20年頃だったという。
女性の髪型は「断髪してはいけない」とされ、明治14年の断髪解禁を経て、西洋風の「束髪」へと次第に変化した。女性の結髪は美しいが、洗うのがとてもたいへんだったので、断髪令が出た時にまっさきに髪を切った女性が少なからずいたという。
ところが、女性は女性らしくしておけというのが当時の社会で、すぐに「女性の断髪禁止」となった。

先に、断髪令の「布達」について触れたが、一人前の男子が100%帽子を着用するのは、どうも、この布達に起源があるように思う。大阪府の布達では、こんなことが書かれていた。

「人の精神は頭部にあり、霊液がいっぱい集まっているところだから大切に愛護しなければならない」

ゆえに

「これ(髪を剃った頭部)を猛烈な日光・寒風に触れさせれば種々の病気の原因になるということはいろいろな名医が説くところである」。

だからこそ、頭部には髪をおいて帽子を戴くことに道理があるのである。そもそも髪の毛を自然に伸びるのは頭脳を守るための天賦の要具であり、まつ毛が目を守るために存在するのと同じなのである。……というふうに懇切丁寧に説明している。

「半髪」という言葉があるのだが、「はんこう」と読み、頭部を半分剃って残りを結う、いわゆる「ちょんまげ」のこと。日本に来た外国人が日本人を眺めた時に(外国人の視線)、まだ腰に刀を差した「ちょんまげ」頭の人もいるし、ザンギリの人もいる、といった状況はいかにも後進性を表すもので、それは恥なんだということだ。
政府は明治4年以降、健康のための散髪を「要請」する一方で、武家政権時代の陋習である「半髪」に罰金を科すといった施策を繰り返し打ち出していた。

松本重太郎の帽子買い占めの話

松本重太郎は明治大正期の大阪で名を響かせた大実業家で、鉄道王と呼ばれた人。世間では「東の渋沢、西の松本」とまで称えられ、松本がつくった私鉄沿線には「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化が花開いた。よほどビジネス感覚にするどい人だったようだ。

『園藝探偵』第2号で、小原流(関連:本連載第17回)の「盛花」スタイル誕生の陰に松本重太郎が関係しているという説を紹介した。この説はかなり否定されているが、小原流初代家元、小原雲心が松本家の奥様方に花を教えていたのは間違いないようだ。

石井研堂の『明治事物起源』に次のような話がある。

・明治45年頃、ちょうど京都府知事槙村正直が断髪令を出すというときのことだ。
私(松本)はそのとき神戸にいたが、今度京都で散髪の布告を出すようじゃと聞き込んだから、直ぐにその足で家へも帰らず夜の12時頃そっと宿を抜け出して長崎行きの船に乗り込んだ。船の名はオルゴニヤという外国船だった。

・ところが、朝になってみると驚くことに、私と同じ連中が13人も乗り込んでいることがわかった。連中はみな長崎で帽子首巻きを仕入れて一儲けしようと抜け目なく乗り込んだものたちだった。
これではなんとか工夫をつけなければうまくない、というわけで13人協議の結果、13人を2組に分け、各組一日交代に市中を始め大浦出島まで、残る隈なく品物を買おうじゃないかということになった。

・こうして長崎に到着した翌朝と翌々朝の2日間、同地にある帽子首巻は残らずすっかり買い占めてしまったのである。
さあこれでよしと、荷造りをしているところへ後からの船で京阪から商人が何十人とやってきたが、買い占めの後でどうすることもできず悄然引き返すという有りさまだった。

・さあ、こちらはしめたものだと勇み込んで、自分たち7人の組で買い込んだ品物は私の商標(「丹重」山に十のマーク)で大阪へと出帆し、夜が明けるころ泥池の浜に着いた。十数人の仲仕をたのみ、まだ家人が寝ている店を叩き起こして荷を運び入れようとした。
と、そのとき、前日から待ち構えていたという京都の商人が、もう何十人と一度に押し寄せた。松本重太郎が長崎に帽子の買い占めにいったという情報があっという間に広まっていたのだ。店はもう人の黒山となっている。

・まだ荷を店に並べる前にこの有さまで、さあ、荷を解きにかかるやいなや、その帽子はこっちによこせ、いや襟巻きは私が引き受けるとばかり、値段などは頭から聞かずに品物の奪い合いで喧嘩が始まった。
このときはもう、金儲けよりもむしろその売れ方が愉快で、いかにも面白く感じました。

松本重太郎は丹後(京都)の豪農の次男に生まれ、若い時に大阪へ出る。明治初めの世の中の転換期だった。
ここで洋反物の行商から始めた商売は成功し、「丹重」の屋号で店を構えると急速にのしあがった。西南戦争のときには、軍用の羅紗を買占め、巨利を得たという。

幕末、戊辰戦争の写真や遣欧使節団に参加したサムライの写真等を見ると、多くの人が月代を剃るのをやめて、いわゆる「総髪・惣髪」になっている。かつては医者、学者(儒者)、山伏といった特定の職業を表す髪型だった。
また歌舞伎では「五十日かずら」「百日かつら」といい、浪人・病人・盗賊などの役に用いる髪型として知られる。大盗賊の石川五右衛門のヘアスタイルは「大百日かつら」というそうだ。

参考
東京大学附属図書館のサイト
文久3年の第2回遣欧使節団のメンバー、乙骨亘(上田敏の父だという)や矢野次郎兵衛(一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校等の校長を務めた)の髪型に注目。月代を伸ばしている途中のすこし恥ずかしい感じのヘアスタイルになっている。

政府による断髪令がどの程度の規模と厳しさで実施され、どのようになるか分からないときに、多くの人々は帽子が必要だと考えたわけだが、たしかに、頭の半分を剃った状態で残りの髪を切るとすると、髪が生えてくるまでは、時代劇で見るような「落ち武者」のような姿になってしまう。あるいは、高校野球部に入って初めて坊主頭になった少年のように「恥ずかしい」ことだったのではないだろうか。
髪が生えるまで手ぬぐいで頬かむりするのか。そうもいかないだろう。まずもって帽子は非常に緊急かつ重要なものだったのではないだろうか。
お相撲さんは髷のままでよかった。また徴兵が始まった明治初期から入営した新兵はみな丸坊主にされた。「バリカン」は明治16年頃から普及したといわれる。明治27年の日清戦争で定着。)

横浜植木によるパナマ帽の国産化

松本重太郎が機を見るのに鋭かったという話は、帽子のことひとつとってもよく分かる。
男性のほとんどが帽子をかぶっていた時代、夏用の帽子(正装用としても)は、麦わらでできたカンカン帽とそれより遥かにしなやかな植物繊維でつくられたパナマ帽子があった。
現在でもそうだが、本物のパナマ帽子はたいへんに高価なもので、かぶる人の「人となり」を表すアイテムだといえる。

明治38年(1905)、夏目漱石は「吾輩は猫である」の原稿料15円をそっくり出して本郷の「唐物店」(とうぶつてん/からものや:輸入商)でパナマ帽子を買ったという。とてもうれしかったようだが、しばらくして、友人が中国・南京で購入したというパナマ帽子を見て、そちらのほうが安くて品がよかったことに衝撃を受けている。この頃の小学校教員初任給は10円~13円(明治37、40年)、大卒銀行員が35円(明治39年)だった。

参考
小学館『サライ』のサイトから  夏目漱石とパナマ帽

本連載の第45回でも触れたが、パナマ帽は、南米エクアドル産のパナマソウ(Carludovica palamata パハ・トキーリャ)の葉を原料とする。これを裂いたキメの細かい紐を編んでつくっているため織り方によるが、柔らかいものは簡単に折り畳める。先住民の古い文化を継承した織物が元になっているそうだ。
形状も優美で被り心地もよいため、たいへんな人気商品だった。

エクアドルのマナビ州がその生産地で現地では「ヒビハパ」、「パハ・トキーリャ帽」というのだが、パナマ運河の工事に携わるたくさんの労働者がかぶっていたこと、また、パナマ港から諸外国へ出荷されたため、その名がついたといわれている。

明治時代にこのパナマ帽を国産化した園芸会社が横浜にある。横浜植木株式会社だ。今日は、この話をしようと思ったのだが、ずいぶんかかってしまった。(気を取り直して続けます!)

図2 1909年(明治42)に横浜植木が発行した海外向けカタログ
メイド・イン・ジャパンのパナマ帽子のほか、ソテツの葉、ススキの穂、ヘチマ(乾燥)、ミズゴケなども載っている。

百合根の輸出や西洋草花の輸入を中心に植物を扱う専門商社だった横浜植木では、明治の後半から大正時代にかけてに、「パナマ帽子」の製造・卸・販売を行っている(図2)。

横浜植木は前身の横浜植木商会を設立する明治23年(1890)に米国オークランドにサンフランシスコ支店を出し、横浜植木株式会社創設(1893)後の明治31年(1898)にはニューヨーク事務所を開設した。ブロードウェイ11番地というものすごい意志を感じる場所だ。ここを足場にして国産花きの輸出を日本人の手によって成し遂げようとしていたのだ。

横浜植木では貿易で稼いだ外貨の一部をニューヨーク事務所にキープして商売をすることを重視し、ニューヨークで仕入れた商品を横浜へ運んでいた。
その商品の1つがパナマ帽子だったという。先に見たように、人気の商品だったのだ。こうした経緯を経て、ついに国内での自社製造を企画する。

明治30年代の半ばころの百合根貿易は、沖永良部島のテッポウユリが入荷する6、7月頃と関東産の柳葉テッポウユリが入荷する9月中旬まで1か月ほどの閑散期ができてしまう。この閑散期にできる仕事として国産パナマ帽の製造に着手した。
今で言えば雇用の継続策ということなのだが、この帽子製造は遊び半分の取り組みではなかった。パナマ帽子が高価だったということもあるが、その価格に見合うような商品を作ろうとしたのだ。

当初は台湾のタイワンタコノキ、またの名をリントウという木の葉からとれる革質の繊維を輸入して素材に使ったが、漂白しても枯れ草のような色がどうしても消えなかったため、本場の中南米産のパナマハットソウを使うようになった。会社の敷地の一画に漂白槽を並べ、編み上げる設備も研究改良を繰り返し、最終的には輸入パナマ帽に勝るとも劣らない立派なものができるようになった。
製造場には大勢の女子工員が詰め、一心にパナマ帽を編む姿は植木会社にとって、いままでにない新しい光景だったという。

こうして作られた製品の販売が始まったのは日露戦争のさなか、明治37年(1904)のことだ。当初は自社販売ではなく国内の帽子店に卸し、好評を博したという。
大正2、3年頃には横浜市中区真砂町に売店を設けて自社で販売も手掛けるようになった。関東大震災の直後、横浜の市街地は罹災した人であふれ、その騒動の際、帽子がいくつも入った箱も持っていかれたという話がある。

今日の話はここまでなのだが、そういえば、明治38年だったか、漱石が手にした例のパナマ帽の販売店(唐物店)は、いったいどこから仕入れたものだったのだろうか。
そんなことを想像してしまうのである。

参考

参考

  • 論文「文明開化の散髪と断髪」
    森杉夫 大阪府立大学 社会科学論集1979
  • 論文「散髪令考」
    三澤純 熊本大学 文学部論叢74 2002
  • 『明治事物起源』7
    石井研堂 筑摩書房 1997
  • 『気張る男』
    城山三郎 文藝春秋 2003
  • 『エクアドル―ガラパゴス・ノグチ・パナマ帽の国―』
    寿里順平 東洋書店 2005
  • 『値段史年表 明治・大正・昭和』
    朝日新聞社 1988
  • 『明治・大正・昭和・平成 物価の文化史事典』
    森永卓郎・監修 展望社 2008

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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