農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第78回 「倶会一処」多摩全生園の農園 ~園芸技師、広畑隣助について

公開日:2020.8.7

『倶会一処(くえいっしょ)患者が綴る全生園の七十年』

[編集]多磨全生園患者自治会 代表 松本馨
[発行]一光社
[発行年月日]1979年8月31日
[入手の難易度]難

『国立ハンセン病史料館 2019年度秋季企画展『望郷の丘』盲人会が残した多磨全生園の歴史』

[編集・発行]国立ハンセン病史料館
[発行年月日]2019年11月27日
[入手の難易度]易

今日は、国立ハンセン病療養所、多磨全生園(たまぜんしょうえん)における園芸活動についての話をしたい。

ここに取り上げた本のタイトル、『倶会一処(くえいっしょ)』とは仏教の言葉で「浄土で共に会う」という意味だという。病により苦難に満ちた人生を送った人たちがひとつところにいた、その地を浄土に変えようとそれぞれが努力をしていた、そんな人々の記憶を留めるために書かれた本にふさわしい言葉だと思う。翻って、外出や行動の自由を制限されて、なお人は自由であろうとする。そこに園芸や農耕がどのように関わるのか。

(本連載第8回 https://karuchibe.jp/read/3061/ で病と園芸について書きました。そちらも参照ください)。

多磨全生園は1909年に開設された第1区府県立の「全生病院」(ぜんせいびょういん)に始まる隔離と療養の施設だった。1931年には「らい予防法」の改定があり国立療養所となる。戦前の『実際園藝』にあったひとつの記事をきっかけに、社会と隔絶された不自由な環境で自治と自立を余儀なくされた人々が農耕と園芸に力づけられていた事実を知った。そこには1人の園芸技師がいたということを知ってほしくて『園芸探偵』第2号で「全生園の宮川量の仕事」という記事を書いたのだが、あれからまた調べを進めるうちに、全生病院時代の記事と宮川が移った長島愛生園(岡山県瀬戸内市)での園芸成果に関する『実際園藝』の記事をそれぞれひとつずつ見つけた。昭和5年、7年、9年と2年に一度、ハンセン病療養所に関する記事をあげているのだが、編集主幹、石井勇義は園芸家でありクリスチャンであったこと、石井の周辺にはキリスト教を信仰する園芸家が多かったことを考えると、宮川とのつながりがあったからだと想像できる。今日、取り上げたのは『実際園藝』(第12巻第2号)、昭和7年(1932)2月号の「全生病院の園芸展覧会」という記事だ。巻頭のグラビア写真のページに見開きで次のような説明と写真(図1~5)が掲載されている。

全生病院の園芸展覧会

これは同病院の年中行事の一つとして知られている園芸展覧会の情況で実に6,000点の出品があり、東京府農事試験場の技術員によって審査される。出品は当病院の外に近隣の農村からの出品が多いので東村山村における年中行事の一つとされている。同病院の園芸の詳細については次の機会に詳しく紹介するつもりである(※その後の記事は見つからない)。

(図1)ハクサイとダイコン。品評会なので出品者の札がついている。
(図2)建物を囲むように置かれている。量がすごい。
(図3)出品物を見るために地域の人たちが多く来場する。楽しみなイベント。
(図4)大量出品により、品質の差は歴然となり入賞者の栄誉は高まる。
(図5)白衣の人は農試の技術員だろうか。審査の様子と思われる。

大風子油から「プロミン」へ

宮川量という園芸家をきっかけにハンセン病の歴史について勉強している。ハンセン病は長い間、伝染性が強く、不治の病とされていたが、1943年に治療薬「プロミン」が開発されて以降、治癒できる病気になった(1980年代以降は、多剤併用療法=いくつかの抗生物質を服用し治療するという)。宮崎駿監督の代表作「もののけ姫」のなかでもハンセン病患者をモデルとした人々が描写されている。「一遍上人聖絵」(または「一遍上人絵伝」とも)に描かれた病者の姿に心を動かされたのがきっかけとなり、「業病(ごうびょう)」と呼ばれる病を患いながら、それでもちゃんと生きようとした人々のことを描かなければならないと思ったという。

(図6)鎌倉時代、一遍上人は「非人」として忌避され虐げられた病者や乞食を信仰で救おうとした。

『一遍聖絵(いっぺんしょうにんひじりえ)』7巻 13コマ 国立国会図書館デジタルコレクション
13世紀 聖戒編・円伊筆 「一遍上人絵伝」とも
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579

宮崎駿が語る「もののけ姫」とハンセン病のこと
https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/miyazaki-hansen

スタジオジブリの美術監督、吉田昇氏が、宮崎監督とともに構想を練った「プロミンの光」という絵がある。何百年と続いた病苦がこの薬の開発によって終わろうとしている。プロミン(スルフォン剤)が使われるようになる1940年代初頭までは、「大風子油(だいふうしゆ)」を筋肉注射するという治療法が広く使われていた。馬に打つような大きな針を使う。注射する時に激痛があり、効果が少なく、また不確かであるという問題があったが、これしか頼るものがなかった。患者は苦痛に耐えながら利用し続けていた。

大風子油の原料は、かつてミャンマーの奥地、高原地帯にある「カーロー」と呼ばれる木(Hydnocarpus wightianus)の種子から搾り取られたものだといわれていたが実際はよくわかっていなかった。本物の木が植物学上同定されたのは1890年である。それでもその木が実際に生えているところを見た人はおらず、もっぱら森林の奥地でくらす原住民族に頼るほかなかった。しかも種子は数年に一度しか実らないような具合だったという。これを打開したのはウィーン出身のアメリカ人言語学者、植物学者、プラントハンターのジョセフ・F・C・ロックという人物だ。1920年ころ、シンガポールからタイのバンコクを経由する厳しい旅を経てミャンマーの奥地を旅し、トラやゾウに襲われながら、ようやくの思いで良質の種子を得ることに成功した。大風子油の利用は東南アジアやインドの民間療法として古くから行われていた治療法で、中国を経由して1578年、本草綱目にハンセン病の治療薬として記載があるという。ハンセン病の療養所には大風子油を熱で溶かすための大きな釜があり日常的に稼働していた。こうした薬品の準備や包帯の洗浄などすべて患者自身が中心となって作業を行っていた。東京郊外に設置され外から隔絶された療養所ではあらゆることを自分たちでやる必要があり、そこから自治、独立の文化が醸成されていった。

療養所の緑地と畑、果樹園

明治政府はハンセン病を含む伝染病を国家運営の基本的な問題として対策を講じていった。1907年(明治40)に法律「らい予防に関する件」により全国5か所に道府県立のハンセン病患者を収容する療養所が設置されることになった。東京では当初、現在の目黒区、林試の森公園や旧競馬場のあたりにつくられる話が立ち上がったが、その後、住民の反対運動などにより計画は変更され、1909年(明治42)、東京府北多摩郡東村山村(現東村山市)に「全生病院」として開院する。ここは当時、地域の「柴山」(入会地)で雑木林が広がる場所だったという(「柴山」については本連載第35回の草地の話や、第72回の刈敷の話などを参照のこと)。開院当初から医長として従事していた光田健輔はクリスチャンだった。若い頃からハンセン病に関心を持ち、研究を続けてきた専門の医師として、1914年(大正3)に園長に就任した。これを機に園内環境の改良と園外との関係改善に取り組んだ。この光田という人はのちの昭和5年(1930)、岡山に長島愛生園をつくる際にも中心となる人物だが、療養所の運営に関しては国と患者との間にあって、療養と隔離の両面で賛否の分かれる施策、態度を持っていた。患者の立場からすると許せないことも数多くあったにしても、この光田という院長が進めた環境改善の方策は非常によい結果を数多く生み出したことは紛れもない事実だと思う。無医村だったこの地域の住民に対して無料診断を行ったし、施設で使う食料品や雑貨を地域から調達した。こうしたことは地元の人々から喜ばれ感謝されることになった。自給のために雑木林を開墾し畑を整備し、牛や豚、鶏を飼った。余分にできた農作物は外に売り、わずかでも収入として施設の運営に役立てることができた。ブドウやクリなどの果樹やタケノコが取れるモウソウチクや茶を植えて外から得られない楽しみを自分たちで生み出せるようにしたのも光田のリーダーシップによるものだ。開所当時は茶が自由に飲めず、お湯を飲むばかりだった。茶の苗木を植える患者のなかには「これを茶にして飲めるようになるのは十年も先のことで、どうせその頃には俺らはこの世にいないから、飲めやせん」という人もいた。このようなつらい時代を経て、その後、本当にお茶は自家採種できるようになった。静岡出身の患者が中心になって、製茶まで手掛けるようになったという。

地元民と結ぶ「農産物品評会」

入院者には症状の軽重があるが、軽度の人は畑仕事でもなんでもできるので、畑の開墾を進めるために、開墾した畑を1人30坪まで3年間、貸与しようということになった。このインセンティブによって畑は拡大し、農村出身者も多かったことから、やがて良質の野菜が多く生産できるようになった。まず、大正15年に入院者だけの農産物品評会を開催、昭和2年には近村からの出品も募り、大々的な会へと発展する。これには後述する園芸技手、広畑隣助の働きが大きかったという。品評会の会場は礼拝堂の周囲を広く使い、会の約10日前、11月に入るとすぐに棚作りをしなければ間に合わないほどだった。展示以外にも、大量の出品札の製作、配布といった準備作業がいろいろとあった。

近隣から持ち込まれる農作物は、サツマイモ、ダイコン、ハクサイ、カボチャなどいろいろで、『実際園藝』の記事にもあるように6,000点もあるので、受付と陳列は2日がかりだった。入院者たちもこの会に合わせて生産に励み、最良のものを会場に運んだ。また準備から会の当日まで盗難されないように職員は泊りがけで見張りをしたそうだ。審査は、東京府立農事試験場長が立川から毎年来てくれた。入り口には「緑門」が設置され(※緑門については『園藝探偵』1号参照)、花火とともに始まる。会場のまわりには入院者が丹精した菊や松沢病院の患者の作品も並べられ、来場者は菊の並んだ垣に沿って目を楽しませながら歩いた。来場者は朝から殺到し、たいへんな盛況ぶりだったという。出品された大量の農産物は、品評会が終わった翌日から保存加工される。約1,000キロのダイコンは漬物部に、穀類は精米部に渡され、その他は宿舎単位で配給された。サツマイモはお茶請けになるので歓迎されるが、白菜やダイコンは毎日いやというほど出されるので処置に困るようだったという。

園芸技師、歌人、広畑隣助

記録には、広畑隣助 1926年(大正15)から1928年(昭和3)まで全生病院園芸技手。とある。わずか3年の奉職だったようだが、この人が残した遺産は大きなものがあった。『園芸探偵』2で紹介した宮川はこの広畑の後任として働いたのだ。宮川は広畑が準備した園芸分野をより大きく充実させていったということがわかってきた。

広畑隣助は農芸指導員を求める光田院長の要望により1926年2月の末に招かれた。静岡県興津市にあった農林省園芸試験場学校卒業という経歴をもつ31歳の園芸技師だった。「長身ではあるがそれほど屈強という感じではなく、顔のやや青い、寡黙な、やさしい男だった」そうだ(『倶会一処』)。彼もまたクリスチャンだ。その信仰があったから光田院長の求めに応じて難病者の隔離施設に来たのかもしれない。

広畑を待っていた仕事はほんとうに多かった。まず、院内の農事改良のため園の北部を拠点に農会試作部を組織し、農作業を個人から団体でやるように変えた。それまでは、「慰安畑」「慰安耕作」と呼ばれたように療養者が気晴らしにやっていた作業にわずかな報酬を与えるというようなことから始まった農作業だった。それが徐々に院内の自立のための活動へと変わった。荒れ地を拓いて果樹を植えた。空地があれば草花を植え、咲き出た鉢植えは重病室に飾られた。盲人や不自由者(病気が進行して視力や手足を失う人が多かった)のためには、宿舎の近くに香りのよい草花、花木を植えた。広畑はこうした植物を栽培し増殖するための温室も設計した(後述するように、完成したのは彼の死後であった)。さらには養豚や養牛の指導まで行った。外部との軋轢を和らげるために近隣の村落と連絡を取り、例の「農産物品評会」を始めたのも1927年で、広畑がいたからこそ実現できた(多摩全生園で開拓された農地やグランドを潰してつくった即席の畑は太平洋戦争が始まると唯一の食糧供給源となり、入所者の命を支えた)。広畑はその後、光田院長が進めていた長島愛生園の建設工事にも手伝いに行き、長島へ出張して果樹やその他の樹木の苗木を植えたりもしていた。まさに宮川へバトンタッチするための用意は整えられていたのだ。

広畑の才能は、農耕と園芸の分野だけではなかった。院内の学園では理科を教えていたという。また青年の同好者たちに短歌の手ほどきをし、自身も「渓鶯」の名で歌作した。園内の機関誌『山桜』に短歌の欄をつくらせたのも彼だった。選歌も請け負っていた。作品が活字になって雑誌に載るという経験は同好者の励みになったのは間違いない。広畑についてほかにもこんな証言がある。

「広畑先生の星のお話というのはね。あのころでも職員はすべて消毒衣(白衣)を着てくるんですが、広畑先生はそれを着ないでくるんです。おいみんな築山(望郷台)へ登らんかとさそって、みんなで登って夜おそくまで星の話をするんですね。こっちに見えるのはなんの星だ、右の方は、正面のは…、などといろいろ教えてくれるんですよ。だから当時としてはとても楽しかったですね。」(『望郷の丘』)

広畑は全生病院在職中に結婚し一児の父親になった。昭和3年(1928)12月20日、父が危篤という電報を受取った広畑は急遽ひとりで和歌山の実家へ向かった。元日には帰院するという言葉を残して出かけたという。ところが、同30日、大阪湾を航行中の船上から海に身を投げて逝ってしまったのである。死の理由はわからない。

参考
『世界を変えた植物―それはエデンの園から始まった―』 B.S.ドッジ(白幡節子・訳)八坂書房 1988

論文「国立療養所多磨全生園における緑地の意義と変遷」山道あい、境野健太郎、古谷勝則 ランドスケープ研究2017

論文「〈全生園の森〉の文献(4) 著書篇 B 随想・記録・論文」柴田隆行編
http://www11.plala.or.jp/tamast/zens.html

『園藝探偵』2 誠文堂新光社 2017 「全生園の宮川量の仕事」

『実際園藝』(第9巻第7号)昭和5年(1930)12月号(宮川、全生病院)

『実際園藝』(第12巻第2号)昭和7年(1932)2月号(本記事、全生病院)

『実際園藝』(第16巻第4号)昭和9年(1934)3月号(長島愛生園)

検索キーワード

#多摩全生園#長島愛生園#ハンセン病#宮川量#プラントハンター#品評会

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア