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第79回 プラントハンターはつらいよ~マラリアとの戦いと領土の拡大

公開日:2020.8.14

『世界を変えた植物―それはエデンの園から始まった―』

[著者]B.S.ドッジ(白幡節子・訳)
[発行]八坂書房
[発行年月日]1988年12月5日初版(1992年4月25日第4刷)
[入手の難易度]易

プラントハンターとは

白幡洋三郎によると「プラントハンター」とは、未知の地の植物を生きたまま、種子で採集したり、細密な絵を書いたり、標本で記録したりする探検的要素を持つプロフェッショナルである。どんな連中なのか? 研究室で机の前から離れずじっと標本を調べ、文献を読む研究者でもなく、金になる植物だけを相手に採集し、あるいは栽培して儲けるだけのブローカーでもない。映画「インディ・ジョーンズ」の主人公インディアナ・ジョーンズや「ダ・ヴィンチ・コード」のロバート・ラングドン教授のようなイメージが僕にはある。白幡が指摘するプラントハンターの特徴は以下のようになる。

・その多くは園芸家、庭師、農家の息子などであり、
・出自や学歴は決して上流ではなく、中流から下
・しかし、植物への情熱が人一倍強く、フィールドを好む野外の観察者、採集者である
・職人的な気質、科学的な観察眼、識別能力を備え、どんな植物に商品価値があるかを熟知している。
・植物を良い状態で輸送するために船員や税関、検疫役人、現地の園芸家との交渉、買い付け、一次的に植物を植えておく庭園の確保など実務処理にも長けている。

このように、植物を探すだけでなく、旅に伴うさまざまな雑事や危険などすべて自分で対応できる人たちだった。彼らは野生植物だけでなく、栽培・改良された園芸品種でも優良なものを見つけて本国に届けた。16、17世紀にかけて欧州帝国の拡大期には食用、薬用の植物、繊維や嗜好品などの有用な植物資源(経済植物)が次々と見つかり、植民地での大規模な栽培が産業になる。綿花のようにイギリスの繁栄の基礎をなす産業革命につながった重要な植物もあった。

キナノキ(Cinchona)の発見と移植、栽培の歴史にもプラントハンターが深く関わっている。このアカネ科の熱帯高木の樹皮に含まれる成分からマラリアの特効薬キニーネが得られることがわかるまでに多くの時間がかかったし、苗木や種子を得るためにはさらに多くの時間と多額のお金が費やされた。大航海時代以降、北半球の人々がアフリカ南部や新大陸またアジアの赤道周辺へと進出した。そこにはさまざまな新発見の植物があったが、特に熱帯地方には有用植物が数多く発見されている。プラントハンターの多くが、こうした熱帯へと出かけて有用かどうでないかを自分の目で見分け、本国に報告し、現物を持ち帰った。

参考
キナノキの栽培環境や樹皮の収穫についてよくわかる動画
「キナノキ 暮らしに役立つ熱帯植物2-2」NPO科学映像館による配信映画
http://www.kagakueizo.org/create/japan-shinesel/265/

人類にとってキニーネという薬品が重要になったのは、熱帯へ進出した人々の多くがマラリアに感染し命を落としていったからだ。マラリアは、4000年以上前から記録に残されている病気で。現在でも世界で数十億人に感染リスクがあるとされている。複数種のマラリア原虫を病原体とし、ハマダラカに媒介されて感染することが分かっている。蚊を完全にシャットアウトできない限り感染の可能性はあるため、発生地域ではマラリアに「まだかかっていない人」、「かかっても症状が軽く回復できた人」、弱って「死ぬ人」の3種類の人しかいないと言われていたくらいだ。発症すると高熱と寒気が続きそれが繰り返し人を衰弱させていく。不思議なことに原虫の種類によって三日熱マラリアと四日熱マラリアがあり、それぞれ3日ごと、4日ごとに熱がぶり返す。「毎日熱」というのは三日熱と四日熱が合わさったもので毎日発作がくる。寒気を感じているときは全身が大きく震えるためスープを飲もうとしてもこぼしてしまう程だという。治ってもまたかかる可能性はなくならない。

マラリアはどんな人もかかるため、これまでも歴史が変わるような政治や経済に大きな影響を与えてきた。紀元前701年のアッシリア軍はイスラエルに遠征し占領しながら18万の軍勢が病気となり撤退を余儀なくされた。紀元前4世紀の征服者、アレキサンダー大王もインドでマラリアにかかって亡くなっている。王であろうが最前線の兵士であろうが同じように苦しんで死ぬほかない。19世紀のはじめ、イギリスから北米に数多くの人が移住を試みたが、南部ルイジアナのミシシッピー川の周辺では湿地が多くこの熱病で多くの人が亡くなった。せっかく土地を切り開いても最後には土地を捨てなければならない場所もあったという。アジア方面に向かった人々もマラリアの洗礼を受けずにはすまなかった。インドや東南アジアに進出した人たちのなかでも多くがこの病気で生命を落としていった。このような苦渋に満ちた経験があったため、マラリアを治す薬の開発は人類にとっての大きな課題になっていった。しかし、この課題は20世紀になるまでなかなか解決できなかったのだ。

未開の○○○の薬など使えない

マラリアの特効薬についての情報はないわけではなかった。中南米の各地で何世紀も暮らしてきた先住民には伝統的に用いられる薬があった。しかし、それは、未開の人々が使うものであるがゆえに文明の先進地ヨーロッパから来た人たちはそれを用いることはなかった。考えてみると、世界中のどこであっても、医術は呪術と結びついた怪しげなものであったわけで、それを信じるか信じないかは理屈を超えた問題だったに違いない。免疫や生理的な問題もあっただろう。現代なら、テレビの番組でお笑いタレントが罰ゲームのように与えられる現地の食べ物や薬を見ることがあるが、現実に目の前に出された時にその「得体のしれないもの」を口にすることができるだろうか。

さらに、ヨーロッパの人たちには宗教の問題があった。「異教徒」の信じる得体のしれない神がかったなにかを信じることはなかった。さらに中南米を早くから支配していたスペインやポルトガルなどカトリック教徒がなにを教えようとしても、新教徒であるイギリス人やオランダ人はただちに信じることはしなかっただろう。勇敢にも新大陸の奥地へ布教を行っていたジェスイット派が持ち帰った植物の樹皮は「ジェスイットの樹皮」と名付けられインチキ扱いされていた。

こうして、マラリアに効くという薬の原料を探し出すのは果てしない時間かかけられることになった。冒頭に書いたように、プラントハンターは現代日本のお笑いタレントよりはるかに有能で、現地の人たちと親しくなり、健康に留意しながらも、現地人が食べるあらゆる食材に精通する必要があっただろう。そのような才能のある人だけが、今日までもその名を残すプラントハンターとしての資格があったのだ。

野生のキナノキがある地域は密林の奥地にあり、こうした場所でのヨソモノによる植物採種をインディオたちは非常に嫌っていた。スペイン人の進出から時間もたち、貨幣経済が奥地まで行き渡っていたが、たとえばボリビアの高地のインディオはその地で採れる最上のキナノキを自分たちの遺産であり、また神聖なものとして考えていたので、ヨーロッパ人にたのまれても違う種類や質の悪いものを寄こしたり、種子などは一度、熱湯で煮てから引き渡したりといった、ある種の防衛策を取っていた。彼らはキナノキの価値も十分にわかっていて、出荷を絞れば絞るほど価格が上がることも理解していたという。いざとなると、大切な木を伐採して隠してしまうこともあった。

採集のために案内のインディオと旅をするとちょっとした備品がちょくちょく消え失せることも日常茶飯事だった。こうした困難な情況のなかでプラントハンターたちは粘り強く活動していたのである。奥地に採集に行く場合樹皮や種子を運ぶのにロバを連れて行く必要があった。小さな村で苦労して集めたロバが、周辺でおきたいざこざのために村人に連れて行かれてしまうといったこともあった。植物の取扱いもひどいため、苗の根本にはしっかりとミズゴケを巻く必要があったし、運搬用の箱は頑丈につくっておかなければならなかった。こうした努力と工夫で貴重な植物が少しずつ本国へと送り届けられていった。

以下は、キナノキ(図1)がどのように人々のもとへ届けられるようになったのかを示す物語だ。時系列で羅列しておくので、時間があったら読んでみてほしい。

(図1)Cinchona condaminea Medical Botany (1836) by John Stephenson and James Morss Churchill.から

①17世紀後半、英国人医師 ロバート・タルボー いんちき医者と呼ばれたがイギリスのチャールズ2世を含む欧州の支配者階級に入り込み、効果的な投薬と治療をしていた。1682年に死去。生前に秘密の治療法を友人に話していた。それは、樹皮に治療効果があるということ。自分の死去したあとは公開していいという遺言だった。

②フランス人、ジョセフ・ジュソーは子午線の長さを測定するという探検隊(※日本の伊能忠敬みたいだ)のメンバーに加わって南アメリカに渡航、キナノキを徹底的に調べるために現地に深く入り込み、さまざまな資料を集めていたが、帰国間際にすべて盗まれ(箱に鍵をかけて大事にしていたから)、失意のまま狂人となって帰国。1771年、出航から36年経っていた。

③1761年、スペインからコロンビアに渡ったホセ・セレスティーノ・ムティスは医学を勉強しながら新天地で植物を採集し植物学者として大成することをめざしていた。この当時キナノキからとれるキニーネがマラリアに効果があると知られて始めていた。サンタフェ・デ・ボゴタの総督付きの医者として生活し、ボゴタ近郊を探すも見つからない。ついには身分を捨てて研究生活になる。50歳を超えた頃にあらたに創設されたニューグラナダ植物学院でキナノキの研究ができるようになった。その後目を悪くして病気になり1808年死去。

④フランシスコ・ホセ・デ・カルダスは、ムティスの仕事を引き継いたが、内戦で捕らえられ処刑された。ムティスの集めた資料や論文は本国へ送られたが誰の目にも触れずにほこりをかぶることになった。

⑤1820年、フランス人の化学者、カヴェンツーとペルティエがシンコナの樹皮から2つの強力なアルカロイドを分離し、「キニーネ」と「シンコニン」という名前をつけた。それでもなおこの薬品は容易に利用されなかった。

⑥アメリカ、ミズリーに住むジョン・サッピントン博士はキナノキの成分を結晶化し丸薬として投与し効果に満足した。サッピントン博士は「マラリアの理論と処方」を書いた。

⑦1849年、フランス人植物学者、ウェッデルが組織的な研究を完成させた。これまで知られたさまざまなデータをとりまとめ、南米のジャングルで集めた種子をイギリスやフランスの温室に植えて両国の人々にキナノキの価値を教えた。

⑧キナノキの価値は医学者の間で評価を得始め、栽培し増やしていくところまであと少しというところまできていた。患者に対してキナノキの樹皮から得た薬剤を投与することも始まっていたが、野生のキナノキの樹皮についての供給は非常に不安定であることが問題になっていた。しかも値段は非常に高かった。

⑨ではどこがキナノキを供給するのか。覇権を誇ったスペインの力は衰え、アメリカは国内問題で手一杯だった。このようなバランスのもとで、イギリス人は国を挙げて植物資源の探索を積極的に行っていた。キナノキへの関心は強かった。インド当地で必要なのは現地のマラリア禍を抑えることだったからだ。オランダ人は東南アジア進出のためにキナノキのアジアでの生産を目指していた。

⑩1854年、オランダ人のヘンリケスは現地の案内人から相当量の種子や苗を手に入れてジャワ島に植えつけたが、そうして初めてだまされたことがわかった。

⑪イギリス人の科学者にしてプラントハンターのリチャード・スプルースはアマゾンに向かった。当時は植物標本がよい値段で売れた時代で、一通りの量をまとめれば食べていけると考えていた。結局スプルースは15年を南米アマゾン川流域で過ごすことになった。健康を害して母国に帰ったときには無一文だったという。

⑫スプルースは時をかけて現地のインディオと仲良くなり、調査をした結果、良質のキナノキを求めてエクアドルの高地で採集することに決めた。彼には二人のイギリス人がサポートについていた。1人はキュー植物園から派遣された庭師クロス博士で、もうひとりはエクアドルに在住の人物だった。

⑬スプルースの一行は大金を支払って首尾よく最上品質のアカキナノキの苗木と種子を手に入れ、大切に街まで持ち帰った。途中、幾頭ものロバの背に荷物を乗せて密林を歩き、いかだ舟に乗せて川を下ってようやくのことで港から貨物船に載せて本国へ送り出した。船にはキューから派遣されたクロス博士が一緒に乗って世話をした。

⑭こうして、1860年までにはシンコナ(キナノキ)のプランテーションがインドやセイロン島で始められ、若苗をオランダ政府に送ったことでジャワ島でも栽培が始まっていた。スプルースの功績は大きなものだった。

⑮次の問題は、シンコナそれぞれの種類によって、どれがいちばんキニーネを含有しているのか、という品質の問題になってきた。この問題をクリアしたのは植物学者ではなく貿易商人のチャールズ・レージャーという人物だった。

⑯チャールズ・レージャーは1836年に一儲けしようと南アメリカに渡った。そこで手に入れた商品のなかにシンコナの樹皮もあったという。レージャーは現地人と仲良くなるすべを知っていて欲しい物を手に入れられるようになっていった。彼はチチカカ湖のペルー側にあるプーノという街に居を構え、この地で得たシンコナ・レドゲリアーナはキニーネの含有量が13%(普通は3~5%しかない)という優れた品種の種子を本国に送った。レージャーの兄弟たちはこれをイギリス人栽培家に売り、一部はオランダ人の手に渡った。これらの人たちはプランテーションで栽培し莫大な利益を得たという。

参考
『プラントハンター』白幡洋三郎 講談社 2005
『図説 世界史を変えた50の植物』ビル・ローズ 原書房 2012
『南方有用物資の研究』吉阪貿易株式会社 編 吉阪貿易研究部 1942
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065783  コマ76~78

検索ワード

#マラリア#キニーネ#プラントハンター#植民地#プランテーション#ジャワ#インド#キュー植物園

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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