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第80回 ある農政学者の哀しい肖像~田代安定とキナノキの話

公開日:2020.8.21

『田代安定  南島植物学、民俗学の泰斗』

[著者]名越護
[発行]南方新社
[発行年月日]2017年3月10日
[入手の難易度]易

国内でのキナノキ栽培の歴史

人類最大の感染症と呼ばれるマラリアの特効薬になるとして17世紀、南米でアカネ科の高木、キナノキ(キナ、Cinchona)が発見された。星薬科大学名誉教授の南雲清二はキナがどのように日本に導入されたのかを詳細な研究によって解き明かしている。南雲(2011)によると、およそ3回にわたって栽培の試みがあったという。日本人はどのようにキナノキにアプローチしてきたのか、南雲論文では次のようにまとめている。

①明治7年(1874)榎本武揚による明治政府へのキナ導入の建議
②明治9年(1876)ジャワからキナ苗が導入される
③明治15年(1882)田代安定による国内初の栽培の試み ※栽培1
④明治40年頃(1907頃)台湾恒春熱帯植物殖育場での栽培の試み ※栽培2
⑤大正初期(1915頃)台湾各地で帝国大学演習林などが栽培を試みる
⑥大正11年(1922)星製薬による台湾高雄州ライ社(村)での栽培 ※3
⑦昭和9年(1934)星製薬が初の国産キナ樹を収穫 星製薬が純国産キニーネ製造に成功

栽培に関しては、以下の3回のチャレンジがあった。

栽培1 明治15年(1882): 沖縄・鹿児島での国内初の栽培の試み
栽培2 明治40年頃(1907): 台湾恒春熱帯植物殖育場での栽培の試み
栽培3 大正11年(1922): 星製薬が台湾高雄州ライ社で国内初の栽培に成功

以上からわかるように、日本におけるキナノキの栽培は、60年の歳月を経てようやく成功を見た。星製薬は、よく知られているようにSF作家、星新一の父親、星一(はじめ)が創設した薬品会社。星薬科大学の創立者でもある。星薬科大学は東京都品川区、長いアーケードで有名な武蔵小山商店街から歩いてすぐのところにある。この大学には、星製薬が台湾で栽培したと思われるキナの原木が標本として残されているという。

さて、今日の話はこの3回の試みにすべて関わった人物、田代安定(たしろ・やすさだ、あんてい)とその人生についてだ。田代安定は、安政3年(1856)に生まれ昭和3年(1928)に72歳で亡くなった。主に熱帯有用植物を研究した植物学者、民俗学、人類学に貢献した。本人は農政の道に進みたかったというが、沖縄の八重山諸島および台湾での植物研究に一生のほとんどを費やした。

田代の肖像写真(図1)は、さまざまな資料で使われている有名なものだ。晩年の頃の写真なのか、短く整えられた頭髪とヒゲ、大きな鼻と耳。光沢のある上質な生地のネクタイに背広の前は大きなボタンで留められている。開かれた眼はレンズを見るでもなく、どこを見据えているのか、表情にはなんとも言えない哀しみが感じられる。田代安定が晩年に自分でまとめたという「履歴書」には、この写真のほかに28歳の頃の肖像も残されているが、このときは髪を七三に分け、いかにも真面目で聡明な学士然とした風貌ながら、ゆで卵のようにつるんとした顔をしている。この青年が後年には哀愁に満ちた厳しい顔の老人になっていた。

(図1)田代安定「履歴書」から

偉人たちの背を見て育った秀才

田代は植物学に進むというより、農政の実務に関心があったようだが、それは直接にはかなえられなかった。田代は、幕末の薩摩藩(現在の鹿児島市鍛冶屋町)に生まれている。市内を流れる甲突川の河畔にあるこの狭い地区は、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛などを輩出した特別な土地柄だ。農業関連ではカリフォルニアでワイン王となった長沢鼎がおり、こうした偉人(加治木町の16傑)の1人として田代安定もその名を残している。若い頃から優秀で、鹿児島では柴田圭三からフランス語と応用博物学を学び、長じた後は博物学の田中芳男に薫陶を受けた。本来ならば士官学校へ進むコースなのだが、田代は身長が低く入学の条件を満たさなかったという。田代が後年、植物学だけでなく人類学や民俗学へも貢献する膨大な調査、研究報告を遺したのも、柴田や田中という当時、最高権威とされた2人の師に出会ったことが大きく影響した。

明治17年(1884)には田中芳男の命を受けて、ロシアの万国園芸博覧会へ派遣される。のちに横浜植木に入る徳田佐一郎と2人で旅をした。博覧会後は、日本の植物研究の第一人者だったマキシモヴィッチ博士のもとで邸に借り住まいしながら半年ほど研究生活を送り、当時の最先端の植物学を学んだ。ここで飯沼慾斎の『草木図説』をフランス語で解説した功績などによりロシア皇帝から神聖スタニスラス3等勲章を授けられている。

このロシア留学の帰りのことだ。フランス、マルセイユ港で見た新聞に、フランス軍が先島諸島(八重山・宮古島など)占領し、海軍病院を設立すべきだという論説が載っていることに驚き、帰国後ただちに「海防着手急務建議書」を国に提出する。当時はベトナムを巡って清仏戦争が始まっており、日本の近海でも何が起きてもおかしくなかったわけで、田代の危機を知らせる建議は重要な報告だった。

当時、先島諸島を含む南西諸島や八重山諸島は清国との領有権があいまいなままだったため、田代は早急に国防に着手し日本人による開発を急ぐべきだと訴えた。意見書を各大臣に面会し1通ずつ提出したという。政府はちょうどこの時期、国境海域の諸島について調査を始めるところだった。

ところが、洋行から帰ったばかりの伊藤博文や慎重派の井上馨は清国を刺激しかねないとして消極的な姿勢を決め込んだ。これで田代29歳にして一世一代の建議、政府への運動は打ち止めとなり、二度と農政家としてのキャリアを歩むことはなかった。しかし、一連の運動と建議は、農商務大臣の榎本武揚からは高く評価され、その後の田代への援助が長く続けられることにつながった。

中央政府への運動から退いた田代は、その後沖縄や台湾を中心に、そこで栽培できる有用植物の研究に一生を費やし、多くの成果を残した。国家にとって有用か、現地に暮らす人々にとって有用か、常にこうした2つの視点を忘れなかった。田代が台湾恒春で発見し、その名に因んで命名されたものにタシロイモがある。この仲間の園芸品種では「ブラックキャット」で流通するタッカ・シャントリエリ(クロバナタシロイモ)の不思議な黒い花を見たら、この偉人を思い出してほしい。田代が創設から関わった台湾最南端にある恒春熱帯植物園は戦後も維持され、リゾート観光地域の中核施設となっているという。

田代安定とキナノキ

田代がキナノキの栽培に挑戦した期間は非常に長く、最初は明治15年にさかのぼる(先述の栽培1)。

上京した田代は博物学や殖産学で知られる田中芳男のもとで薫陶を受けていたのだが、この頃は故郷に戻り、鹿児島県庁の職員として奉職していた。26歳、ロシア留学より前の話だ。田中芳男は、このとき農商務省の農務局長に就任しており、キナノキの栽培適地を探すために試験栽培を始めようとしていた。田中は田代を鹿児島県職員在籍のまま、兼任で農商務省農務局員に抜擢し、キナの栽培を命じた。それほど信任が厚かったのだ。このとき田代は自分でもその後一生をキナノキに関わって過ごすとは想像もしていなかったのではなかったか。

(図2)「文久年間和蘭留学生一行の写真」 国立国会図書館デジタルコレクションから
1865年オランダで撮影された写真。後列左から3人目が榎本武揚、前列右から2人目が西周。

田代による最初のキナ栽培の試みは、明治7年(1874)榎本武揚のキナ導入の建議、明治9年(1876)キナ苗の導入、明治15年(1882)田代安定による国内初の栽培の試み※栽培1という流れで進められた。栽培試験に用いられるキナノキの苗木の準備には次のような歴史的経過があった(以下、1874年の榎本の建議書による)。

①1855年、オランダのHasskarlハスカル(※J.C.ハスカールとも)が政府の命を受け商人となってペルーに赴き、策を講じて苗を集め、ジャワ島、チボタスに移植。1867年にはその樹皮が自国内外で利用できるまでになった(※本連載、前回の資料には記載なし)。当時、バタビアから南に64キロ離れたボイテンゾルグ(ボゴール)に植物園があり、そこがジャワ島におけるキナ栽培の中核になっていた。文久2年(1862)榎本武揚(当時はまだ釜次郎)ら幕府のオランダ留学生たちは往路でここに立ち寄っており、キナノキが非常に重要な薬用植物であることを目の当たりにした可能性が高いという(図2)。

②フランスでは1860年代なかばにナポレオン3世がオランダに苗の導入を依頼し、アルジェリアに移植した。

③英国は1861年、南米で得た苗をインドとセイロンに移植した(※本連載、前回の資料にあるレージャーのものか)。

④榎本建議書には、このような栽培史が概説され、いずれの国も栽培に成功し、南米からの輸入に頼る必要がなくなったとし、わが国もそれを目指すべきで、実現すれば利益は大きいと訴えた。

⑤榎本建議書により、キナノキの国内栽培実験がスタートする。導入1:明治9年4月ジャワ島から苗木、導入2:明治11年4月インド・ダージリン植物園から種子、導入3:明治16年インドから種子導入。

⑥導入1 明治9年にオランダ公使に頼んで、ジャワ島からキナとコーヒーの苗木各500本ずつ譲ってもらうことにした。これに応じて4月にキナノキの苗が送付され(日本初導入)、翌年、横浜から小笠原に転送された。この導入株は明治11年に小笠原で栽培化が試みられる前にすべて枯死した。小笠原は明治9年に日本領土が確定したばかりだった。

⑦内務省勧農局小笠原出張所長の武田正次は小笠原での有用植物栽培のためにジャワ、インド、セイロン島を5か月かけて訪問し、ダージリン植物園でキナ種子を購入する契約を結ぶ。(導入2)届いた種子は明治12年に東京の西ヶ原試験場で播種され温室内で育苗された。この苗150本を用いて明治15年に鹿児島(種子島・奄美大島)と沖縄(本島北部)で栽培される(栽培1)。植えつけまでに40株が枯死、田代安定は、生存株を鹿児島に60、沖縄に50株植えつけた。

⑧8ヶ所のうち沖縄の2箇所で生育良好なため追加の種子を依頼(導入3)するが、到着した種子は全く発芽しなかった。その後、鹿児島・沖縄両県での栽培の観察記録は長期に渡ったが、少しずつ枯死し、17年を最後についには記録がなくなった(失敗した)。

次に田代が試したのは、日本統治下の台湾での栽培実験だ〈栽培2〉。八重山諸島の防衛と開発を政府に実現させようとしていた田代は明治18年および政府の計画中止が決まったあとの20年代にも八重山諸島の調査に意欲的に取り組んでいた。22年には南洋諸島の調査も行っている。単に有用な植物を調べるだけでなく、人類学的、民俗学的な資料の収集と記録を詳細かつ精力的に行った。国の方針がどうあれ、殖産興業は島に住む人々の暮らしを向上させるために必要なことだったからだ。西表島の石炭採掘や島でのサトウキビの栽培などを考えていた。特に、明治18年の調査では自分自身がマラリアに罹ってしまい、生死の境をさまよう経験をした。同行の職員もこの熱病で命を落としている。キナノキの国産化はどうしても達成されるべきことだったのだ。余談だが、明治20年に田代安定が宮古島で採捕し標本にした「ミヤコショウビン」というカワセミの仲間は、世界でこの1羽しか見つかっておらず「幻の鳥」と呼ばれている。田代は植物や園芸の方面から見ると世界に通用するプラントハンターの1人だが、同時にそれだけの枠に収まらない博物学の巨人だった。

明治27年(1894)、日清戦争が勃発すると、田代は自ら台湾への従軍を志願する。実家から日本刀を取寄せ、背負って歩いたという。ここは家名を挙げる時だと自叙伝に残しており、薩摩の武士の家に生まれた血が騒いだのかもしれない。「東京地学協会地理探検」という名目で軍属として陸軍部隊に従軍し集落の地理、植物を探求、偵察を行い調査報告にまとめた。講和後は、総督府の技師(殖産部員)となり、その後30年におよぶ台湾生活が始まった。田代は39歳になっていた。

ここでも田代は精力的に歩いている。まず、明治28年(1895)9月には50日をかけて台北から最南端の恒春半島までを縦断し、日本人として初めて台湾の少数民族に関する人類学調査を行っている。その後、台湾人類学会を結成し、本国の人類学雑誌に報告を書くなど幅広い活動を行った。その後も現地調査のため約 5 年間にわたって島内各地を回った。のちに日露戦争で決定的な活躍を見せる児玉源太郎総督、また児玉に招聘された後藤新平民生長官の時代だ。こうした名だたる統治者のもとで田代は台湾という熱帯の地を活かした殖産事業を行うべきと総督府に提案した。製糖業、樟脳生産のほか、少数民族の集落に産業を興すため苧麻の栽培を推薦し、米や茶とともに台湾の5大産物に育てる基礎をつくった。また有用植物の研究のための拠点として殖育場を提案した。これにより総督府は明治 34 年(1901)に「恒春熱帯植物殖育場(のちの熱帯植物園)」の設立を決定し、田代安定にその建設と運営を任せる。以後、足かけ10年にわたり、田代は恒春の山野を開拓し殖育場建設と運営に邁進した。

殖育場で栽培試験に供された多くの有用植物の中にはキナノキがあった。恒春での栽培は田代にとって生涯 2 度目のキナ栽培への挑戦(栽培 2)になった。担当した樋口素雄は献身的に栽培に尽力し、明治39年(1906)には樹高約3メートルに生長し開花まで至った。大きな希望の花だった。ところが、これも明治43年(1910)には3本にまで減り、やがて枯死してしまった。樋口も退職し、結果として第2の栽培も失敗に終わったのである。無念だったが、田代は在職中に有用植物の栽培に関する膨大な記録を残し、また台湾の「行道樹(街路樹)」について総督府に意見を提出するなど幅広い業績を残した。こうして大正8年(1919)、四半世紀におよぶ台湾総督府林業嘱託の職を解かれた。

日本におけるキナ栽培は大正時代、台湾を舞台に演習林などの諸機関で検討されたがいずれも大きな進展を見ることはなかった。そうしたなか、大正 10年(1921)、田代は星一に招聘され星薬品の嘱託となる。今度は台湾高雄州ライ社(村)に栽培場所を変え、新たに500ha(5km2)にもなる大規模栽培に挑戦したのである(栽培3)。ジャワ島まで出張し高品質の種苗を導入し、翌11年から栽培開始、今までの失敗から学んだ経験のすべてを注ぎ込んだ。その結果、田代はこの地で長年の夢であったキナノキの栽培をついに成功させるのである。わが国初の大規模栽培の成功だった。

晩年は台北の児玉町に植物の研究をしながら過ごしたという。こうして長年の夢を実現した田代安定は、昭和 3 年(1928)、父母の法要で帰省した鹿児島で心臓麻痺のため死去。享年72歳だった。田代の死から6年後の昭和 9 年(1934)、星薬品は、これらの純国産のキナノキの樹皮からキニーネの製造に成功する。これに先駆けて大正6年、星製薬はコカインの国内自給生産に成功しており、アルカロイド系製薬のトップ企業として(「アヘン事件」により)一時期倒産寸前まで低迷した会社の業績をV字回復させていった。その後、ジャワ島はキナの種苗輸出を禁止する。星製薬は現地の住民に仕事をつくるため、除虫菊とキナノキの栽培の複合経営を進めた。また他の製薬会社も栽培と薬品生産に乗り出すが、供給体制が整わないまま第二次大戦に突入した。田代のキナ園は敗戦とともに消滅した。

太平洋戦争で日本の指導部は、初期に長期戦になるための対策を怠り、いたずらに戦局を拡大し、戦力の逐次投入中に終止した。戦争末期、南洋に出征した兵士の多くは敵の砲弾や銃弾に倒れたのではなく、艦船・輸送船の海没、マラリアを始めとする病気、そして物資欠乏による栄養失調、餓死だった(吉田裕2017)。日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数約230万人のうち、栄養失調からマラリアなどに感染して病死した兵士を含む広義の餓死者は(全体の6割にあたる)140万人にも及んだという。米軍のマラリア対策はDDTの大量使用による蚊の駆除で予防を達成していた。田代が生きていたら、何を思っただろうか。

参考
論文「キナの国内栽培に関する史的研究」南雲清二 薬学雑誌131巻11号 2011
https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/131/11/131_11_1527/_article/-char/ja/

『田代安定 履歴書』田代安定 沖縄県立図書館
https://www.library.pref.okinawa.jp/item/index-1104052775_1002234027.html

『駐台30年自叙史』田代安定
https://www.library.pref.okinawa.jp/item/index-1104052961_1002239018.html

「文久年間和蘭留学生一行の写真」 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3851065

『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』 吉田裕 中央公論新社 2017

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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