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第81回 床下で火薬を育てる~世界遺産「白川郷」と謎の焔硝生産

公開日:2020.8.28

『知られざる白川郷 床下の焔硝が村をつくった』

[編著者]馬路𣳾藏
[発行]風媒社
[発行年月日]2009年1月15日
[入手の難易度]易

今日の話は、現在、世界遺産となった白川郷で密かに焔硝(えんしょう)が作られていた、しかも長い年月に渡って密かに行われていた、という謎についての物語だ。焔硝(硝石とも)というのは鉄砲に用いられる火薬の原料である。

この物語は、2002年、著者らが白川村教育委員会から「合掌家屋の床下の土」を化学分析するように依頼されたことに始まる。その土を分析した結果、驚くべきことがいろいろわかってきた。調査で明らかになったのは、江戸時代に火薬の原料である焔硝(硝石)を人尿、蚕糞、野草などを材料とし、土壌微生物のはたらきを利用してつくっていたという驚くべき事実だった。さらに、この調査をもとに白川村に残る文献や古文書、高齢者へのインタビューなどを行い、実際にどのような材料を使ってどのように手を入れていたのかを調べ上げ、『床下からみた白川郷―焔硝生産と食文化から』(馬路泰藏、馬路明子 風媒社2007)を上梓した。『知られざる白川郷』はその中から焔硝生産に関わる部分をわかりやすく解説した小冊子として新たにつくった本だという。

忍者の火薬はヨモギから

植物を原材料にして火薬をつくったという話は、稲垣栄洋の『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか―家康のあっぱれな植物知識』(東洋経済新報社2015)にも出てくる。日本に火薬が伝えられたのは、種子島に鉄砲が伝えられた1543年とされている。火薬(黒色火薬)の原料は硝石、硫黄、炭粉だが、このうち主原料である硝石(※焔硝、塩硝、煙硝とも)は日本では産出しないため輸入にたよることになる。硝石は水に溶けやすいため、雨の多い日本では天然資源としては産出しないのだという。それで戦国時代の武将たちは中国からの輸入品を使っていた。それゆえ火薬は希少・高価で、有力な戦国大名や領主しか得られない特別な軍事物資だったわけだ。

ところが、忍者はそれ以前から火薬の調合を行っていたと伝えられている。忍者は「焙烙玉」と呼ばれている火薬を仕込んだ手りゅう弾を、武器として用いていたという。興味深いことに、忍者の火薬は植物の「ヨモギ」を用いたというのである。硝石は「硝酸カリウム」の結晶から得られる。稲垣は「忍者はヨモギに尿をかけて土中に伏せこんだ。こうして微生物発酵させて、尿の中のアンモニアとヨモギに多く含まれるカリウムを反応させて硝酸カリウムを作ったのである」と述べている。「忍者がどこからこの製法にたどりついたのかはまったくの謎である。忍者は偉大な植物学者であると同時に、偉大な化学者でもあったのである」。園芸は、軍需物資を製造する技術でもあったのだ。

参照 本連載第51回(https://karuchibe.jp/read/8462/

山中に隠された軍事機密の集落

白川郷は、江戸時代には庄川上流の地域を広く指す言葉だったというが、その中心は岐阜県大野郡白川村。庄川の両側には山が迫り平地の少ない典型的な山里。このあたり山地は日本海側と太平洋側の分水嶺となっている。富山県(越中)の五箇山や石川県との境界の村で、越中五箇山から見ると庄川上流にあたる。五箇山は加賀藩の流刑地だったというが、そこからさらに山の中という場所だ。この山村の風景でもっとも有名なのが合掌造りの家屋だ。合掌家屋はこの地域の産業であった養蚕を家屋の2階以上の場所で行うための空間を持っており、また豪雪に耐えられるように急勾配の屋根になっているという。積雪期の白川村は外部との交通が途絶するため、冬季は保存した食べ物や燃料だけで生活する必要があった。雪と寒さのために生活はたいへんだが、食糧の保存に寒気は役に立ったし、積雪があることによって山の上から木材や薪など重く大きな物を滑らせて移動運搬させることができた。養蚕で蚕の餌となる桑の木も雪があるため枝を整枝しなくても低く横に広がるため小さなまま維持できたという。

山峡の集落ゆえに水田を十分に確保できなかった人々は、山の斜面を利用した焼き畑(ナギ畑)を維持し、桑の葉だけでなく穀物、豆、野菜を育てていた。先述したように村の産業は林業と養蚕が主なもので、養蚕に関連して焔硝生産があった。近隣の村から遠く隔絶された集落であったことは、火薬原料の生産という「軍事機密」を守るのに絶好の条件を備えていたのである。

焔硝を「培養する」園芸的な知恵

日本は発酵技術が高度に発展した世界的にも珍しい地域だと言われる。環境対応と発酵技術は日本のお家芸であると言ってもいい。僕は、園芸の中にもこうした微生物利用の技術があちこちに見られることに感心する。落ち葉を積んで微生物発酵させる堆肥づくりなど普通に行われていることだけれど、ある意味、培養であり育成している、と考えることもできそうだ。さまざまな資材を用いて微生物が活動しやすい環境を作り、「エサ」を与えているのだ。火薬に使う焔硝もまた自然から得た材料と微生物による発酵現象を組み合わせ、しかも雨に当たらない家屋の床下でつくるなどという途方もないアイデアはまさに「天才」というほかない。16世紀半ば、鉄砲や火薬の技術や知識が輸入された一方で、日本国内でも忍者のような技術者が実践した製法が全国各地で密かに伝えられていたのだ。特に幕末期になって、各藩で火薬の需要を満たそうと硝石製造が盛んになるが、これから述べるような事例がいくつも記録されている。

着目したのは「床下」だった。雨の影響の少ない床下には、硝酸イオンを多く含む土があることに誰かが気づいたのだ。そこで床下から掘り出した土から硝酸イオンを取り出し、焔硝をつくった。床下の土の硝酸イオンは小枝、床下に潜り込んだ小動物の排泄物、毛・死骸、住む人の垢、毛などが長い間に変化してできたものらしい。自然任せであるから、こうした床下の土を取り出すと次に貯まるまで数十年もかかってしまうからどうしようもない。そこで、継続的に焔硝が生産できるようにするにはどうすればいいのか、考えた。越中五箇山や白川郷では、例の合掌造りの家屋の床下で積極的に硝酸イオンを蓄積させた土、「硝酸土」を調整するようになった。古文書には、五箇山の焔硝が1570~80年に起こった石山合戦の際に大坂石山本願寺に残らず納められたこと、また北陸一向一揆でも五箇山の焔硝が使われたことが記録されているという。また、年貢のコメの代りとして1605年から毎年、加賀藩に焔硝を納めている。これらの記録から、16世紀後半には五箇山で焔硝が生産されており、遅くとも17世紀初めには焔硝土と用いて焔硝を生産していたとかんがえられる。加賀藩に納められた焔硝の量は初めの30年間は毎年約1500kg(200斤)で、その後はさらに多くを納めていた。著者は、白川郷での焔硝生産は五箇山より少し遅れて始まったのではないかと推測している。

参考
幕末、桑名藩の硝石製造に関する記事 郷土史家 西羽晃氏による
http://www.mie-kita.gr.jp/kuwana_han/16.html

「幕末になり、各地で戦乱が起きて火薬の需要が高まります。文久(1861-64)ころから桑名藩では硝石の製造を始めます。その製造は雨が当たらない古い家屋の床下の土を水に溶かして、これに灰汁を加えて、その上澄み液を煮詰めて作ります。(中略)桑名藩では文久2(1862)年9月には硝石製造用の土を探すように各村を調べました。翌年には硝石方に3人を命じています。木灰を確保するために、木灰の領外持ち出しを禁止し、領内の木灰を藩が買い上げています。」

『十志士の面影:久留米藩文化事業史』 浅野陽吉 筑後郷土研究会 1937 国立国会図書館デジタルコレクション コマ11
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207087

「(幕末期)有馬頼咸侯治世の時久留米硝石製造所が置かれた。(中略)人家の床下から原料を取ったのは、苧汲川町(今は本町)西福寺及び寺町正覚寺の床下等であったと思う」

焔硝土はどのように育てられたか

本書では『五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳』をもとに、その作り方の詳細を解説している。概要をメモしてみよう。

①焔硝土の原料は、蚕糞、ヒエの葉・茎など栽培する作物の不要な部分、山草、良質の畑土、そして、「人の尿」である。

②合掌家屋のイロリ近くの床下に3.6m(2間)四方、深さ1.8~2.1m(6、7尺)のすり鉢状の大きな穴(焔硝穴)を掘って6月、蚕の飼育が始まる頃に行う。

③焔硝床はすり鉢状につくられる。まず3尺を掘って、あとの3、4尺をすり鉢状に掘っていく。

④焔硝穴を掘ったら、底にヒエの茎・葉を敷く。その上に畑土と蚕糞を混ぜて30cmの厚さに入れ、その上にヒエ・ソバの茎・葉、タバコの茎、麻の葉など栽培植物の不要部分と山草を15~18cmに切ってのせる。

⑤「畑土×蚕糞」の層と「栽培植物×山草」の層を交互に積み重ねる。

⑥以後、積み重ねを繰り返して、床板の下15~18cmの高さになるまで積み重ねる。横から見ると穴から床板に向かって盛り上がった形になる。これを「焔硝床」と呼ぶ。

⑦焔硝床には「人の尿を散布」する。

⑧ここまでの作業は蚕を飼育する6月に行い、夏、8月には切り返しを行って上に挙げた材料を重ねていく。

⑨年を越して翌年からは春、夏、秋の3回、焔硝床を切り返して原料を追加していく。

⑩こうして4~5年、同じ作業を繰り返すことにより、硝酸イオンを豊富に含んだ焔硝土ができあがる。

焔硝土の原料に用いる「山草」というのは、『五ヶ山焔硝出来…』によれば、ヨモギ、シシウドが挙げられているが、白川村ではクロバナヒキオコシとアカソも用いたと伝えられているという。身近にあることと、稲垣が言うようにカリウムを多く含む植物であることが経験的にわかっていたのかもしれない。

どうして植物から硝石ができるのか

焔硝土の原料には、蚕糞のなかの尿酸、ヒエの茎・葉や山草のタンパク質など窒素を含む化合物が含まれている。同様に「人の尿」、おしっこにも同じように窒素を含む化合物が含まれているという。土の中で硝酸イオンをつくる細菌(硝化菌)は空気中に大量に存在する窒素ガスを利用できないため、植物体や動物の排泄物に含まれるタンパク質、尿素、尿酸などを原料にして硝酸イオンをつくっている。蚕糞や山草には多くの窒素が含まれている。また、人間のおしっこもまた窒素の供給源として価値がある材料だった。人尿を使うか使わないかで大きな差になった。

①窒素を含む化合物は土の中で微生物の働きを受ける。

②まずアンモニアが生ずる。アンモニアは亜硝酸イオンに、亜硝酸イオンは硝酸イオンに変えられる。

③土の中のこのような化学的変化を土壌微生物による「硝化」と呼ぶ。

④自然界では、「硝化」によってできた硝酸イオンは植物に吸収されタンパク質につくりかえられる。植物は動物に食べられ、動物の排泄物や死体にある窒素化合物は、枯れた植物体や落ち葉の窒素化合物とともに、再び土のなかで硝酸イオンになる。

⑤このような窒素化合物の変化は地球上の物質循環としてモデル化できる。生き物が物質になり、また生き物になる窒素循環の途中で硝酸イオンを取り出して硝石にする、そういう活動を日本人は雪に閉ざされる山峡の村で営々と行ってきたのだ。

焔硝土を使った硝石生産は、「見えない土壌微生物の働きを利用した江戸時代のバイオテクノロジーだった」と著者は結論する。硝石生産は軍事機密だったため生産が盛んだったにも関わらず、記録が残っていない場合も少なくないという。徳島(阿波)の硝石もかなりの生産量があったそうだが、記録がない。著者は阿波では特産の藍で使われる蓼藍(タデアイ)の葉を発酵させたもの(※スクモという。スクモを丸く固めたものが藍玉)に注目する。焔硝は、タデアイの葉を発酵させる寝床の土間や腰板に白い結晶となって析出したと伝えられているのだそうだ。こうしたものを、先人たちは見逃さなかったのである。

先によい硝酸土を育てるためには硝化菌が重要で窒素が重要な役割をしていると述べたが、このほかに硝酸菌が硝酸イオンを作り出すためにはアルカリ性であること、そしてカルシウムも重要なのだという(硝酸製造の他の方法では、石灰や牡蠣殻を加えることもあるという)。地域に身近な山草の中から選ばれた種類はどれもカルシウムを豊富に含んでいる。またカリウムやナトリウムも効いている。さらに人間のおしっこは、与える窒素の3分の1を占めていたこともわかった。人間の関わりが非常に重要だったのだ。しかも、白川郷で暮らしていた人々が主食としていたヒエであるとか、地域で採れる野菜が、人々の排泄物の内容にも反映していた。

先人たちがやっていた硝石生産を想像すると、それは確かに微生物を主人公としたミクロの世界の営みなのだが、人間がそこに関わることで実に複雑で巧妙で、アーティステックな営みに転じている。巨大で迂遠な世界との接続部を思わず覗いてしまったような不思議な気持ちになってくる。

参考
『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか―家康のあっぱれな植物知識』 稲垣栄洋 東洋経済新報社 2015
『草山の語る近世』 水本邦彦 山川出版社 2003

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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