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第82回 図鑑を読む~石井勇義の『園芸植物図譜』と『園藝大辞典』

公開日:2020.9.4 更新日: 2020.9.8

『園藝大辞典』

[編集]石井勇義
[監修]牧野富太郎・菊池秋雄・浅見与七・並河功
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1949年~1956年
[入手の難易度]難

石井勇義・著『原色園芸植物図譜』の「学生版」全1巻がネットオークションに出ていた。どんなものかと思ってセリに参加して運よく落とせたので、さっそくページを開いてみた。表紙の裏(裏見返し)にかつての持ち主だろうか、K・マツバラという人名、その下にはヒラノ・ニシノチョウという地名が万年筆で丁寧に記されている。またその上部には、ドイツ語で「Ernst ist das Leben, heiter ist die Kunst」という言葉が記されていた。地名はどうも大阪の平野西之町という場所のようだ(現在の大阪市東住吉区西平野か?)。言葉の方は、これもまた検索してみるとシラー(Friedrich Schiller)のようだ。どんな内容なのか、いろいろな日本語訳をまとめてみると「人生は暗く重苦しいものだが、芸術は明るく晴れ晴れとしているぞ」ということだろうか。

(図1)石井勇義『原色園芸植物図譜』学生版の外箱と本体

この学生版『原色園芸植物図譜』は昭和11年(1936)に発行されている。元になった『原色園芸植物図譜』は全6巻もので昭和5年(1930)から9年(1934)に刊行された。図譜、学生版、どちらも函付き、四六判(127mm×188mm)、厚さ3cmほどで手のひらサイズのコンパクトな加減がいい。図譜6巻の構成は、<1巻>春から夏の西洋草花、<2巻>温室植物と夏から秋の花壇向き草花、<3巻>秋から冬にかけての花、<4巻>日本花卉の代表的なもの、<5巻>サボテンと多肉植物、<6巻>バラ、日本花卉など他の巻で漏れたものおよび総索引。これらはまた後で見てみよう。

(図2)『園芸植物大事典』全6巻 塚本洋太郎・総監修 1988

(図2)は、30年ほど前、僕が花屋に勤め出してすぐに買った園芸植物図鑑。現在に至るまで日本の園芸植物図鑑の最高峰の一つに挙げられる。古書だったが、とにかく高かった。神保町の悠久堂書店の棚にあるのを3ヵ月ほど眺めて買うかどうするか考えて、ようやく手に入れた。この10年ほど、本の山で下敷きになっていたが、最近必要になって「発掘」した。1988年の発行になっている。先程の図譜とは違って、こちらはA4版の大きなサイズで重量もかなりある。80年代の終わりから90年代にかけて花市場にはさまざまな植物が入ってきており、当時は一生懸命写真を見ながら植物の「素性を知る」ように頑張っていたと思う。それをお客さんに伝える。「知れば欲しくなる」ものだと思う。

(図3)石井勇義の畢生の大作『園藝大辞典』。右は『原色園芸植物図譜』戦前の噴霧機と一緒に撮影した。

(図3)は、これもまた石井勇義の『園藝大辞典』。『原色園藝植物図譜』より少し大きいA5サイズ。カラー印刷ではないが、図や写真を数多く取り入れ、花や観葉植物だけでなく野菜や果樹、園芸用語も含めて幅広く解説している。昭和16年の年末に月刊『実際園藝』が休刊になって以降、戦後にかけて「畢生の大作」として取り組んだ石井最後の仕事、遺作になる。石井は昭和28年(1953)の夏に突然亡くなった。昭和27年の1月に発行された第3巻では、すでに発行が遅れており、編者が長期の病気のためだったと謝罪している。第4巻は28年5月、第5巻は30年1月発行ということで、石井は5巻、6巻の完成を見ることができなかったことがわかる。誠文堂新光社の編集部や短大の教え子たちが石井の遺志を引き継いで大辞典は完成された。

石井が園芸の世界に身を投じた大正2年(1913)、日本にはまだ本格的な園芸植物の図鑑はなかった。石井が研修生として勤めた小田原の「辻村農園」(いまの小田原駅の場所にあった大農園)には当時、たいへんに貴重な洋書がたくさんあった。園主の辻村常助(つねすけ)は、若い石井らに自由に書籍を見ることを許した。研修生たちは、仕事が終わったあと夜遅くまで競うように洋書を読み勉強していたという。石井はやがて園芸家から園芸書の執筆者となり、雑誌の主幹としてその名を残す編集者、ジャーナリストになった。その後も園芸関連のあらゆる団体に関係し、精力的に全国を回り、現場を取材して人と人とをつないだ。雑誌の休刊後は、日本の園芸に関する大辞典の編纂に取りかかった。30年におよぶ地道な活動で培った優れた園芸人との縁を生かして、生涯の集大成としての仕事を完成させようとしていたのだった。親とも慕い、最大の支援者である牧野富太郎を筆頭に数多くの友人が手伝った。単に植物の解説にとどまらず、品種の特徴、栽培の要点、また来歴などが記され、今日でも貴重な資料になっている。珍しい洋花や温室植物のほか日本の伝統園芸植物についての解説も詳しいのが特長だ。

(図4~6)は石井勇義の『原色花卉類図譜』で昭和10年(1935)発行なので、時系列で言うと、『原色園芸植物図譜』と『園藝大辞典』の間に入る。この本は、『実際園藝』のグラビアページで掲載されたものをまとめたもので、本のサイズもB5版で大きめの図が楽しい。

(図4)大輪、八重のペチュニア。和名は「やへつくばねあさがほ」で
説明には、5種それぞれの花に品種名が記されている。田中文一栽培品。
(図5)カトレアを中心としたランづくしの盛花。グリーンはアジアンタムのみ。(新宿御苑の岡見義男の制作ではないか?)
(図6)花環 「高級園芸市場」の制作の葬儀用花環とのこと。

明治初期の学問と方法

本連載第70回(「園芸という概念を知らしめる」)で、吉田進の「日本園芸会雑誌」を創刊した時代(1889年頃)が世界の園芸史と連動し、学問としての体系的な園芸学、造園学の始まりと雑誌が歩を同じくしていたことに触れた。吉田がフランス語を学び、師とした外国人のなかに外務省お雇いのサラゼンというフランス人があり、また同じくフランス人の法律顧問、ボアソナードとも親しくなった。ボアソナードは明治日本の刑法、治罪法、民法 (旧民法)を起草した人物で、法学の教育にも功績があった。彼が関わった法政大学にはボアソナードの名の付いた建物がある。(吉田はボアソナードに紹介されて田代安定と出会っている。※本連載、第69回79回参照)。現在の日本フローラルマーケティング協会(JFMA)会長、小川孔輔先生が法政大学の教授をされていた関係で、この建物でしばしば会合が開かれ、花関係者には馴染み深い名前だ。サラゼンもボアソナードも日本園芸会創立時の賛同者に名を連ねている。

吉田がフランス語を学んだ最初の目的は園芸のためというよりもっと広い勉強のための基礎づくりだったと思われる。吉田は法律や外交の道に進みたかったのかもしれない。ロシアの博覧会に派遣された田代安定も徳田佐一郎も、新宿御苑の福羽逸人もみなフランス語を自由に使えた。フランス語は当時の欧州を中心とした世界の共通語になっていた。ロシアの貴族はフランス語で会話をし、フランス料理を食べていた時代だ。日本政府の中枢にフランス語ができる人材が数多くいただろう。北海道については本連載の第61回(日本の大学教育は「耕作学校から始まった」)でも書いたように、アメリカの影響が強かった。アメリカは南北戦争後、欧州各国とは独自の道を歩んでいたから札幌農学校ではことさらにフランス語で授業をすることもなかったと思う。しかし、明治の日本人はヨーロッパからであれ、アメリカからであれ、いずれにしても現在の「一般教養課程」を重視し、幅広く、よく学んだのだ。こうした教育の中から吉田進や福羽逸人が出、新渡戸稲造や宮部金吾ら農学や植物学、園芸学を発展させる人々が出てくる。

以前にも触れたが、日本では明治10年代(1877年~)にさまざまな分野で科学に基づく体系的な学問・学科が確立していく。たとえば、「東洋学」という分野もそうだ。客観的また科学的で世界にも通用するような東洋に関する知識を新たに構築する動きが始まったのは1880年代(明治13~)だった(斯波義信2015)。当時は西洋史、東洋史という分野もなく世界史は「歴史地理」という名で教えられていた。そのような時代に、日本古来の漢学、儒学、国学、蘭学などバラバラに集積されていた知識をあらたに体系化しようという運動だった。こうした動きを指導したのは、1885年にできたばかりの東京大学史学科お雇い外国人、ルートヴィッヒ・リースというドイツ人教授である。リースは次のような「3点セット」を提案した。

①教育・研究の教科として国史学科をつくること

②会員制の学会(史学会)をつくり機関誌(史学雑誌)を発行すること

③近代的な史学のための史料館(史料編纂所)を設けること

こうして提案された「3点セット」は早くも4年後の1889年(明治22年)には実現した。リースが教えた歴史の方法論および史料学は西欧ではすでに確立され、やがて世界中で共有される基礎的なものだった。学説、解釈や批判というのは時流によって揺れ動くというが、史実、エビデンス(証拠)に基づいて論考し、議論する方法や史料の収集と取扱いの方法は根源的で、世界の共通語というべきものになっていた。明治の日本人は、このことに早く気づいて行動し始めていた。この時期に学生として学んだ人々が各学問の第1世代のリーダーになっていくのである。

体系的な学問としての園芸と「図鑑」

先に吉田進が何を考え行動したのかについて考えたが、東洋学でリースの「3点セット」がつくられるように、他の学問でも同様の動きがあったに違いない。実際、吉田も同じように運動している。まず、フランス留学によって自分のめざす学問の領域を調べ、フィールドを定めた。自分の目で確かめたのだ。また「日本園芸会」を立ち上げ、日本園芸会雑誌を創刊した。材料の収集と研究は小石川植物園や農事試験場、新宿御苑が担当したであろうし、貴族・富裕層や企業家の温室、また横浜植木株式会社のような民間の施設も連動していたと考えられる。教育機関としては各地に作られた大学、農学校、園芸専門学校がその役割を担うようになっただろう。いつも思うのだが、この当時の人たちは、民間でも公的機関でもお金持ちでも職人でもさほど関係なく親しく交わっているように見えることだ。『実際園藝』誌の時代でも、華族、財閥の関係者と植物趣味のさまざまな職業の人々が一緒に写真に収まっている。こうした環境があれば、いろいろな情報や種苗の交換が活発に行われていただろうことは容易に想像される。吉田も石井もそのようなつながりの結び目の役割を担っていたのである。

「世代」、という視点で見るなら、第1世代は明治から昭和初期に活躍した吉田進や田代安定、福羽逸人、新渡戸稲造、牧野富太郎などがいて、第2世代は、これらの巨人から教えを受けた人たち、戦後へとつないだ人々がそこにいる。第3世代は終戦の前後に生まれ、高度成長期から現在まで活躍する人々ということになるだろうか。園芸雑誌に関しては、石井勇義が創刊した誠文堂新光社『実際園芸』は、吉田進から石井勇義へとバトンタッチされた一つの形だと言える。欧州では、豪華で高価な石版多色刷りの図譜から情報中心の週刊誌となり、やがて「グラビア誌」の時代(白黒写真、および3色分解による原色版印刷等利用のビジュアルな編集)に転換してきたが、遅れてやってきた日本では、その紙面づくりと最新印刷技術に学んでいった。また、大正から昭和にかけておきた園芸の大衆化の時代に合わせて誰にもわかりやすい内容と表現を常に工夫していたことが読者の絶大な支持を得た理由だと思う。誠文堂新光社の創設者で当時の社主、小川菊松は機を見るに敏な人物として知られるが、早くから「アート紙」を積極的に使用し、雑誌の品質を飛躍的に向上させている。当時の雑誌を手に取ってみてもその質の良さがよくわかる(戦前より終戦直後の数年間に出された『農耕と園藝』は当時の印刷紙の不足で紙質がすごく悪く、触れるのに最新の注意が要る)。

日本では、明治40年(1907)ころに多くの植物図鑑が出版されたという(俵1993)。日本の植物学の父、牧野富太郎の植物図鑑の代名詞『日本植物図鑑』は大正14年(1925)9月に出版されていてだいぶ後になっているが、この図鑑のもとになった村越三千男が制作し牧野が校訂した『植物図鑑』は、明治41年(1908)に出されたものだった。この当時に出された図鑑の多くは、植物の図に対して解説がつくレイアウト形式を取っている。今では普通に見慣れたものだが、世界的に見ても珍しい手法だという。牧野の植物図鑑の発明のように言われることもあるが、実際は牧野図鑑以外でも同様な形式が見られ、このころ始まったレイアウトだそうだ。しかし、誰が読んでもわかりやすい編集は、たちまちその後の図鑑に使われる標準になった(図7)。

(図7)数種類を一枚に収めた図版と解説が対応し、読者が参照しやすいように工夫されたレイアウト 『原色園芸植物図譜』から

明治40年代(1907~)に植物図鑑が数多く出現した理由について俵は2つの理由を挙げている。まず、小学校では理科の教科書だけ作られなかったことがあげられる。そもそも国定教科書というのは義務教育が始まったときには用意がなかった。しばらくしてから使われるようになった。それでもなお「理科」については動物や植物、鉱物および自然現象について実際に観察し触れることが大事、身近な自然観察こそ理科教育の原点とされ「教科書の使用禁止」ということまで定められていたのだ(ドイツの教育理論の影響がその根底にあるという)。こうしたことから、植物を観察する時に先生や児童が参考にする植物図鑑の需要が高まっていた、ということらしい。実際に図鑑はすごくよく売れた。まず指導に関する不安を持つ先生方に求められた。明治44年頃(1911頃)には、国家統制を強める意味もあって理科にも国定教科書が作られたが、自然観察を基本とする授業の方法は大きく変更されることはなかった。

2つ目はこの頃、園芸趣味や高山植物ブームがあったことだという。公園には流行の西洋草花を用いた花壇がつくられ、誰もが見られるようになった。先程の理科教育に関連するが、このころ学校に花や野菜を植え育てる「学校園」を整備するところも増えた。ある種ブームのような状況になっていたようだ。また高山植物を鉢植えで育てる人が増え、関連の園芸書も数多く出版された。図鑑を求めたのもこうした園芸趣味を持つ人たちが多く含まれていたようだ。

図鑑の編集方法は、目的によって異なり、春夏秋冬といった花が見られる季節で並べるもの(季節編集)や、植物の種類を科・属に分けて体系的に並べるものがあったり(植物分類学的編集)、観察向きに生育地で分けたり、食用、有毒、薬用、観賞用、挿花用、牧草用など利用目的別に並べるものがあったりといろいろだった。

図鑑を読んでみよう

昭和戦前にカラー印刷をするのは原色版印刷という方法で、カメラに3色のフィルターをつけて撮影された白黒フィルムから黄,紅,藍,墨の4版の原色版をつくり、網版凸版印刷でカラーを再現する。カラーフィルムから印刷する方法がまだ一般的ではなかった戦前には多く用いられた印刷方法だった。撮影に際しては、フィルターを交換する時間が必要なので、風に揺れる花などを撮ることはできず、背景紙の上に植物を並べて撮ったり、スタジオで鉢植えを並べたりして撮影していたようだ。図鑑や雑誌はこうした手間のかかる方法で作られていた。

参考
原色版印刷の世界  動画あり 半七写真印刷工業のサイトから
http://www.hanshichi.co.jp/gensyokuban.php

何年前だか、上野の国立科学博物館で南方熊楠展があって、そこで熊楠が書き写したという古い写本が展示されてあった。非常に細かい筆で紙面にびっしりと文字や図が書かれていた。『和漢三才図会』105巻、『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』などを写しただけでなく、それを繰り返しやったり、自分で自分のための教科書に編集し製本したりしていた。熊楠が今なら小学生高学年から中学生くらいの年齢だ。そうやって「博識無限」「歩く百科事典」と呼ばれるようになる。僕らは熊楠のようにできるはずもないが、図鑑を端から読む、というのは他の本では得られない経験だと思う。

(図8)とるこぎきゃう 『園藝大辞典』から
(図9)どくぜり 写真は「曙水仙」の販売風景 『園芸大辞典』から

21世紀、日本で育種されたさまざまなトルコギキョウは、我が国を代表する花として世界へ発信されている。(図8)『園藝大辞典』によると、北米ネブラスカ、テキサス州の原産で1835年に欧州へ入った。日本への渡来は昭和10年(1935)坂田商会(現・サカタのタネ)で輸入、和名もその頃の命名、と書かれている。たしかに昭和10年以前に作られた『原色園芸植物図譜』などにはトルコギキョウの記載がない。『花の品種改良の日本史』(2016)で福田直子は、北米原生地のうち、テキサスやオクラホマ州などの自生地南限に近い地域における紫色の野生種が1930年代に導入され、玉川温室村で栽培されていた記録があると述べている。

(図9)はドグゼリについての項だが、そこに【街頭で販売する「どくぜり」】の写真が載っている。牧野博士が撮影して持っていた写真のようだ。命に関わるような猛毒を含み、また食用にするセリと似ていて間違えられやすいため、よく知られた植物だと思われるのだが、不思議なことに日本人はこの奇妙な形をした猛毒の根茎を盆栽にして飾った。こんなふうに書いてある。

〈早春にはしばしば緑色の筍状根茎を「曙水仙、朝鮮曙水仙、錦水仙、水竹蘭、水竹牡丹、鳳凰角、万年竹、花わさび、延命竹、蘭天竹」等と称していずれも美花を開くとて販売することがある〉

何かの縁起物なのかわからない。いったいどういう謂れがあるのだろう。

参考
『牧野植物図鑑の謎』俵浩三(たわら・ひろみ)平凡社 1999
『花の品種改良の日本史』柴田道夫・編 悠書館 2016
『絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化』近藤三雄、平野正裕 2017
論文「近代日本における植物図鑑の発達とその背景」俵浩三 造園雑誌第57巻第1号 1993
https://doi.org/10.5632/jila1934.57.1

論文「ガーデニング雑誌という世界」新妻昭夫 恵泉女学園大学園芸文化研究所報告 園芸文化第4号 2007
http://id.nii.ac.jp/1294/00000821/

論文「東洋学のおこりと東洋文庫」 斯波義信 学習院大学国際研究教育機構研究年報第1号 2015
http://hdl.handle.net/10959/3629

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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