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第83回 凶作の翌年に人が死ぬ~飢饉と疫病『飢えと食の日本史』

公開日:2020.9.11 更新日: 2021.4.21

『飢えと食の日本史』

[著者]菊池勇夫
[発行]吉川弘文館
[発行年月日]2019年4月30日
[入手の難易度]易

自然災害、あるいは戦争による飢えや疫病、怪我は、近世以前の本草学(食用・薬用その他、人間にとって有用な天然資源を研究する学問)や農耕と園芸の技術が発達する原動力になった、というのは容易に推察できる。

今日は、『飢えと食の日本史』という本を紹介する。そもそも、僕らのほとんどは飢えを知らない。へたするとしばらく「お腹すいたなあ」という感覚すら覚えたことがないかもしれない。飢えの現実については、本連載第40回(「花のエネルギー」)で紹介した「風をつかまえた少年」カムクワンバの話で少し書いたが、その苦しみと不安はとても長期間でしかも先が見えない、誰にもわからない、という恐ろしさがある。

村が飢饉に襲われたとき、飢えに黙って耐え、ひっそりと亡くなる人もいれば、何かのきっかけに暴動を起こす人たちもいる。
カムクワンバの暮らすマラウィの街は古いまじないを信じるような魔術的な慣習とイスラム教が共存する土地柄で、政治不信もある。そのため、いったん飢饉となると、イスラム特有の地域共同体の助け合いでなんとか生き延びようと力を合わせていた。

政治不信が常態のアフリカ諸国では、政府に頼るというより、共同体やそれぞれの家ごとにインフラ不足を補おうとする傾向が強いという。
今回のコロナ禍でも、エボラ出血熱の経験を活かし、各自が対応しているそうだ。

今日は、日本史のなかの飢餓の話になる。繰り返される自然災害やコロナ禍を経験して、現代に生きる私たちにとっても食糧難は食べ物の供給がグローバルになっている以上、どこかで問題が起きるとすぐに影響が出る、という事態は避けられなくなっている。
コロナ禍でわかったのは、グローバル経済の基盤は、いざとなると非常に弱いものであったということ。国と国の関係やコスト重視に傾きすぎた結果、基盤が危うくなっていた。もう、元のようには戻れないのは明らかで、対応が急務になっている。

歴史上たびたび飢饉が起こり凄惨な経験をしてきた日本人は、江戸時代を通じて飢饉や災害、疫病の蔓延は人間の奢(おご)りが招いた「天の戒め」「天罰」であるとする捉え方をし、社会通念としてきた。貨幣経済や商品経済の進展によって衣食住の生活が向上し、暮らしぶりが贅沢になり、あるいは政府や為政者が道を踏み外し庶民の苦しみに気づかないような治世を続けていれば、いつかは天罰が下る、そういう考えが広く行き渡っていた。

それゆえに、時の為政者は自身を戒め、凶作や飢饉への備えをおろそかにしないようにしくみを改め、仁政をほどこさなければならないということが当然だと思われていた。実際は、幕府や地方大名による政治がどうあれ、江戸時代の気候変動は農作物の生産に大きな影響を与えており、ある地域では豊作をもたらし、ある地域では凶作になった。

このようにして被害には地域差ができ、それぞれの地域の社会システムに直接的な影響を与えていた。主食・経済商品であるコメひとつ取ってみても、温暖期に適した品種や栽培方法が、寒冷化するときに飢饉の主因になってしまう。

こうしたことから筆者は、環境変化への対応を短いスパンだけで見てはいけないと指摘している。
また変動期には多様な災害が起こりやすい。寒冷期だから冷害にだけ注意すればいいのではなく、同時期に、日照りによる干ばつや洪水などの風水害も増えるといった歴史から学ぶことは多いのだという。
今まさに、気候変動がニュースになり、寒暖の振れ幅が大きくなっていると感じている人も少なくないだろう。それぞれの地域の災害史から学ぶことはまだまだありそうだ。
その際、現代の経済区分で分けられた地域ではなく、江戸時代の地域の地理・地形に則した集落・村、あるいは同じ川の流域といった単位で人々の暮らしの記憶を見ることが重要だという。

稲作と都市による農村収奪の構造

ブリタニカ百科事典や国語辞典によると、次のように整理されている。

【飢饉】

飢饉とは、農作物の凶作などから食物が極端に不足し、人々が飢え苦しむ状態。その直接的な誘因として6つ挙げている。
①長期的な干ばつ、
②気温の異常低下による冷害、
③長雨やその後の洪水、
④ハリケーン、台風などの暴風雨、
⑤火山の噴火に伴う火山灰堆積、
⑥イナゴなどによる虫害。
このようにさまざまな誘因から起きる農作物の収穫の極端な不足、食糧の欠乏が飢饉で、「凶作」「凶荒」と同意だが、農作物のできの悪さは「不作」「凶作」「凶荒」の順に程度が激しくなり、その結果の窮乏、飢えなどを飢饉という言葉で表した。

(図1)領主が「施行小屋」で領民に対し、炊き出しをしているところ
『救荒孫の杖』 神竜他 天保7年序、同8年刊  国立国会図書館デジタルコレクションから
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536643 コマ19

飢饉とはどのような情況だったのか。歴史的に見ると、都市よりも農村において激しく現象化してきたという側面があるという。それは飢饉が政治の力、経済の力という都市の論理が働いて悲惨な情況が生まれるということなのだ(藤田弘夫『都市の論理』)。
言い換えると、自然災害に誘因があるとしても、人災と言ってもいい側面がある。これは、過去の話ではなく、政治や経済がグローバル化した現代であっても同じで、世界最低レベルの食料自給率でも飢えない国がある一方で、世界のどこかが常に飢えていることを見れば分かるだろう。

縄文時代、日本列島に暮らす人々はさまざまなものを食べていた。飢えないためにドングリやクリを貯蔵し、サケやマスを乾燥や燻製にして保存し越冬の食料としたと考えられている。
狩猟採集生活では、自然の食料資源量が人口数の制約に関わっていたため、飢饉状態は少なかったのではないかという。木の実や雑穀食は貧しさの象徴ではなく、救荒戦略から見ると、適応性・融通性があり、持続可能性を持った生きる知恵の表れだった。

むしろ農耕文化に移り、米という労働生産性の高い農作物を主食にするようになってから飢饉が起きるようになった。米作によって人口を養える以上の生産量ができるようになったことで社会や国家ができるのだが、そこには支配と被支配の構造もできあがり、都市と農村の対称的な関係もつくられた。
明治以前まで米を中心とした税の体系が続いたが、明治になって金納になっても、国家財政の多くを農村に依存するしくみは変わらなかった。
こうして20世紀の半ばまで農民は厳しく搾取される時代が続くことになり、たびたび起きる飢饉で大きな被害が出るのはほとんどが農村という構造ができあがっていた。

飢饉の苦しみは1年間続く

洪水や地震、津波のように直撃的に人命が奪われるのと違い、飢饉はじわりじわりと人々を死に追い詰めていくことに特徴があるのだという。
飢饉の始まりは、凶作の予兆、すなわち冷害・日照りなどの天候不順であり、洪水であり、イナゴなど害虫の大量発生である。このために米などの農作物が収穫できなくなり、飢える。終息はいつかというと、翌年の農作物の収穫時期までかかるわけだから、年をまたいで、ほぼ1年の長きにわたって人々は苦しみの中に置かれるのだ。
先に挙げたマラウィのカムクワンバの家も干ばつで作物が枯れるのを見ながら何もできずに飢饉を迎えた。
家の中の食料のストックがみるみる減っていく、食べるものを極限まで減らして空腹の中で勉強し働かなければならない。これがもっとも厳しいのは、年を越して翌年の作物の植付けの時期だ。厳しい労働に耐えなければ食べ物は得られないのだ。

このアフリカの飢饉の有りさまと全く同じことが日本でも起きていた。飢饉で一番きつい、「端境期」に食糧のストックがなくなってしまった家族は、食べ物を得ようとしても得られなかった。
通常でも端境期には米の価格が上がるのだが、凶作の年は、さらに値上がりする。需要以上に「買い占め」が起きるのだ。買い占めと横流しには商人だけでなく、藩自体が関わることも少なくなかった。地域によって米の収穫量はばらつきがあるため、そこから買い占め、売り惜しみをし、価格を釣り上げたため飢饉はよけいにひどい様相になっていく、そういう仕組みになっていた。
これが飢饉は人災ということなのだ。

凶作の翌年に人が死ぬ

餓死者が多く発生するのはまず、厳冬期である。この時点で体力の尽きた者から、寒さに耐えかねて死んでいく。冬をなんとか持ちこたえて、山菜や木の芽など食べられる春の山野草が生えてくる頃になると、希望が持てるようになる。

しかし、著者は「飢饉の断末魔は春から夏にかけてが実はピークだった」と指摘する。山野草で少し体力を取り戻しても、梅雨の時期、栄養失調によって体力が弱ったところに疫病が襲う。疫病はたちまち蔓延しおびただしい死者を出した。「飢疫」と呼ばれるように、飢えで死ぬより多くの人が疫病で命を落としていった。
この時期は農繁期とも重なっており、藩は夫食米(ふじきまい)や塩を配給して耕作しない田畑が出ないように支援をすることもあったが、残念ながら労働力が足りなくなり、大凶作の次の年にも再び不作になってしまうことが多かったという。種籾(たねもみ)自体も不足し、稗(ヒエ)を田に植えることもあった。

飢饉は凶作年の夏から翌夏までの1年間におよぶ。その恐怖の一年に、人身売買や胎児の間引きが密かに行われ、農作物の盗難や強盗に襲われることもあった。人々は凶作にならないよう祈る他なかった。
そのため、地域によって、雨乞いや虫追い・虫送り(図2)など、様々な祈願祈祷の行事が行われた(本連載第33回「園芸読みでタケノコ栽培や雨乞いを知る」を参照)。また飢饉や疫病で亡くなった人々を供養する石塔(飢饉供養塔)も数多く作られた。
著者は、虫追いや虫送りが文字とおりの害虫を追い払うというよりも、飢饉で倒れた無数の人たちの霊が虫になって害をもたらすという思想が農民に広まっており、その霊を鎮めるための供養なのだと述べている。

(図)2 虫追いの図 『除蝗録』大蔵永常 文政9 (1826) 国立国会図書館デジタルコレクションから
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536205  コマ16

「半夏生」にごちそうを食べる意味

ここまで書いてきて、今日、やっと気づいたのが「半夏生」あるいは「七夕」という農家にとっての大切な節目の日のことだ。これまでの話を振り返ると、この時期は農家にとって、もっとも食べるものが少なく、しかも体を酷使する時期ではないか。飢饉の時にもっとも死人が多く出やすい時期だったのではないか。

半夏生という日は「二十四節気七十二候」という季節の節目のうち七十二候の1つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていた。およそ毎年7月2日頃にあたる(現在の計算方法は、より精密になっている)。
「ハンゲ」と呼ぶ地域は全国に分布し、その他「ハンデ」「ハゲ」「ハゲッショウ」「ハゲン」などの呼称があるという(倉石2001)。

いろいろ調べると、どの記事にも【農家にとっては大事な節目の日】と書いてある。この日までに「田植えを終える(「サナブリ祭り」等)」「畑仕事を終える(「野上がり祭り」等)」、目安となっており、この日から5日間は休みとする地方があるとか、この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、ネギ畑に入ってはいけない(長野と群馬両県に多い)とか、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたり、というようなことが列記される。

群馬県の嬬恋村につたわる「ハゲンサン」の伝承は、半夏生にネギ畑へ入ることを禁忌とする。
昔々、ハゲンサンという働き者がいて、本来雨降りの日は休むことになっていたにもかかわらず、蓑と笠をかぶって雨の日も休まずに仕事をした。そのために天の神さまはおこっていつでも雨を降らせるようにしてしまった。それでもハゲンサンはネギ畑で仕事を続けた。
やがて日が暮れようとするとき、どうしても仕事を終わらせようとして、お天道さまにもう少しいてほしいと頼んだ。するとお天道さまは引き返してきて、そんなに働いて、日が暮れるのにまだ仕事をするとは働きすぎであると怒り、ハゲンサンをネギ畑で焼き殺してしまった。
それから7月2日の半夏の日にはネギ畑に入ってはいけないということになった。

このように半夏の時期に働くのを休んでごちそうを食べるという習慣が各地にあるという。
畑に妖怪が出るとか人が畑で焼き殺されるというような話にまつわる畑仕事の禁忌と、田植え仕事の禁忌は由来を異にしているようで、水田稲作を中心とした社会とは別な、畑作あるいは焼き畑を中心とした社会に伝承された行事であるようだ(倉石2001)。

半夏生よりやや遅れる「七夕」は旧暦のシステムで、旧暦の7月7日の節日(せつにち・せつじつ)にあたるのだが、ここも畑への立入禁止や農作業を休むとする伝承が多くの地域に伝わっているという。
七夕の立入禁止の畑はネギではなく、豆畑(ササゲ・メズラ=三尺ササゲ?)やキュウリの畑が多いそうだ。

なにごともなくても、一年で一番食糧のストックがなくなる時期に、田植えや畑作の厳しい労働が待っている。「半夏生」や「七夕」の行事は、過労死を防ぐための知恵だったのだと思う。ましてや、飢饉のときにはなおさらだ。飢餓と栄養失調、そこに疫病がやってくる。働き手の中心となる男たちが犠牲になることもあっただろう。

とにかく、体力が消耗する時期にみんなで休むことを義務付けてあることは生きるための大事なルールだったはずだ。コムギを混ぜた餅をついて食べる、うどんを食べる(原料はムギだ)、イモ汁を食べる、栄養のあるタコを食べる、福井の大野藩藩主のように農民に焼きサバを振る舞う藩もあった。(越前若狭や熊野灘のサバは「鯖街道」(若狭→京都、熊野灘→吉野)、「柿の葉寿司」の話とも関連がある。(本連載第42回「甘柿の奇跡」参照)

参考

凶作と飢饉への対策

各地で凶作の兆しが見られると、コメの買い占め、売り惜しみが起きると書いた。藩は農民に猶予を与えるどころか、むしろ取り立てを厳しくするところが多かった。領主のいる都市を維持し崩壊させないために都市に米を集め、都市住民に払米や救米や寺院や町人による施行が手厚く行われる仕組みになっていた。
このため、農村では我慢に限界が来ると騒動や打ちこわし、一揆、逃散が起きる。そうなって初めて救済策が取られるというように、基本的には農民にしわ寄せがいくような仕組みになっていた。

江戸時代も半ばを過ぎると(18世紀、吉宗の時代あたりから)貨幣経済が発達して、米価が高いほうが支配層には都合がよかったので、よけいに飢饉時の米価の高騰は都市生活者にはある面で好ましい事態でもあったようだ(コメ=お金だから米価が上がれば財政は潤う)。
江戸の三大改革は常に飢饉の後になされ、人々の救済と財政の緊縮策を中心にさまざまな施策がなされる。

ところが、新田開発等でコメの生産量が増えれば米価は下がるというジレンマになっていた。低調な米価が続く中にあって、たびたび飢饉が起きて米価の上昇で潤う者もいた、ということだ。
災害や飢饉などの非常時に備えて米を備蓄しておくことを囲米 (かこいまい) といい、これを保管する倉を「社倉」と呼ぶ。寛政の改革期に、松平定信が全国に広めたのが有名だ。定信は「七分積金」の制度も導入している。これも社倉のひとつで、地主や家主から支出させた七分積金で金や米を備蓄し凶作に備えた。

農村、生産現場ではどうだったろうか。
まず、稲作での飢饉対策は、冷害や旱害に強いコメの品種を植えることが一番なのだが、簡単にはいかなかった。実際のコメ作りでは、現在でも単位面積あたりの収量が多いことや、食味がよく高く売れることが望まれる。江戸時代でもコメは最大の商品作物だったため、凶冷対策を優先させるか、それとも市場を優先させるかの綱引きのなかで生産されていた。
気候が穏やかですめばそれで何の問題もないが、実際はそうはいかない。そんなことはわかりきったことだが、農民は多収で食味のいい品種を植えたがった。それらは晩生種が多く、いったん気候の変化があると収穫までたどりつけないものもあったという。

コメの価値は大きいが、コメの裏作としての麦や、凶作になった時の稗やソバなどの雑穀は非常に重要で、短期間である程度の収穫が見込め、人々の命をつなぐ大事な役割を持っていた。
田んぼだけではなく畑の役割も大きい。現在、地域の伝統野菜と呼ばれるものの多くは、その土地にあった作物として人々を助けてきたものであった。

日本の各地には、土地に適した稲作りをよく心得て、村人を指導する立場の達人がいて、それぞれの村で知恵を授けていた。気候、品種、土性、用水、肥料のことなど、農事全般に経験的な知識を持ったこのような人たちを「篤農(とくのう)」とか「老農(ろうのう)」と呼ぶ。篤農や老農の知識をまとめたものが「百姓の農書」「農民の農書」と呼ばれるテキストで、中国の農書を儒学者が翻訳したような「学者の農書」とは区別して用いられた。
出版文化が盛んになった江戸時代、17世紀末ごろから幕末まで、全国各地で数多くの農書が作られた。著者は、現代に生きるわれわれが伝統に学ぼうというのであれば、
「農業に注がれてきた叡知を農書からさまざまに読み取り、自然との共生など現代が抱える農と食の問題に生かしていくこと」が重要だと述べている。

農書が作られる動機が飢饉や救荒対策にあったように、地域の物産・特産物を調べたり、「本草書」が作られたりするようになるのも、もともとは飢饉や救荒対策として始められたものが少なくない。凶作になった時に何が食用になり、何が毒なのか、病のとき、体が弱ったときに何を摂れば癒せるのか…。
過去に多くの人たちが命がけで集めた知恵と経験のつまったものが日本の農書であり、本草書なのだ。園芸はこのような厳しい歴史のなかに培われた命がけの技術体系であった。

参考

  • 「天下大変」 資料に見る江戸時代の災害
    国立公文書館のHPから
    http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/index.html
  • 『銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎』
    ジャレド・ダイアモンド 草思社 2000
  • 『風をつかまえた少年』
    ウィリアム・カムクワンバ 文藝春秋 2010

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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