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第84回 明治の投機的植物ブームの仕掛け人、「人気師」とは何者なのか

公開日:2020.9.18

『明治さぼてんカタログ』

[著者]奥一(おく・はじめ)
[発行]家蔵版、限定250部、非売品
[発行年月日]1956年9月30日
[入手の難易度]難

『多肉植物サボテン語辞典』

[監修]Shabomaniac! (しゃぼまにあっく:園芸家・ブロガー)
[編集・発行]主婦の友社
[発行年月日]2020年7月31日
[入手の難易度]易

今年は、コロナ禍のためにいろいろなことがすっかりと変ってしまった。いろいろ困ることがあったけれど、僕がいちばん参ったのは、図書館が閉鎖されたことだった。6月あたりから、少しずつ開放されるようになったが、制限付きでとても不自由だ。そもそも移動するのにも気を遣うし、まだしばらくは今の状態が続くのだろうと覚悟している。

そんななかでも、あらためて驚いたのが某県立図書館の施設の老朽化だ。これが、県立なのかと驚くほど古く手が入れられていない。それに比べれば市立図書館は建設時期が県立より遅いのもあって明るく快適な施設になっている。複写の申し込みも施設によって違うのだが、県立のコピー機の古さにも驚かされた。行政にはお金がないのかもしれないけれど、いろいろ思うところがあります。

さて、今日は図書館で複写した文献資料と、最新の書籍の2冊を読んでみることにする。

複写したのは、『明治さぼてんカタログ』で、国立国会図書館から地方図書館に送信されるデジタル資料を求めた。最初から私家版、非売品としてつくられたもので、古いカタログの写真資料も含まれているが、全体が「ガリ版刷り」のテイストの味わい深い本。著者、奥一はサボテンに関する著作を数多く出しており、伊藤芳夫とともにサボテン史をたどる際に必ず参照する作者である。

もう一冊は、今年の7月に発売されたばかりの著作、『多肉植物サボテン語辞典』。多肉植物・サボテンの園芸用語や業界コトバのほか、「SNS用語」など1200語を解説したユニークな辞典だ。監修者のShabomaniac! (しゃぼまにあっく)さんは、砂漠植物を中心に世界中のおもしろい植物を栽培する専門家で栽培歴はすでに35年のキャリアがある有名なブロガーだという。

『多肉植物サボテン語辞典』には、多数の写真・イラストが収められていて、植物の種類や組織の説明のほか、栽培に関する言葉、流通、SNS用語(見出し語には「#」という印がつけられている)など、著者の経験と個性が随所に出てきて読んでいて飽きない面白さや発見がある。僕は花市場のなかで仕事をしてきたけれど、サボテンの本格的な流通は専門家、趣味家にしかわからないルートがあり世界があり、そういう世界が少しでものぞき見できるだけでも興味深いと思う。エケベリア好きな女子「#エケ女」とか写真撮影の際の「#A面B面」とか水やりを控えて締まった姿に育てる「#辛め」の栽培とか、まだまだいっぱい載っている。なかでも、興味深かったのは、「葬儀屋」という用語だ。サボテン・多肉の世界も栽培家の高齢化が問題になっているのはどこも同じだ。そろそろ自分のコレクションも整理し、あるいは、「庭じまい」「温室じまい」を考える人も増えている。そんなとき栽培家のコレクションを大小残らずそっくり引き受ける業者を「葬儀屋」と呼ぶんだそう。量が多くなるとたいへんで、仕事としての割り切りも必要な仕事であり、また愛培家の悲哀をも感じられる含蓄のある用語である。

園芸植物バブルの仕掛け人、「人気師」とは何か

サボテン史に関してさまざまな文献に「人気師」という用語が出てくる。サボテンや多肉植物の希少な種類を組織的に買い占めをし、高値をつけて流通させる仕事をした人たちである、ということは文面から読み取れるのだが、この「人気師」について詳しく書かれたものが見つからない。ほとんど唯一の資料が、奥一の『明治さぼてんカタログ』に出てくる記述だ(この後に抄録)。目利きであるだけでなく、広範囲の情報ネットワークがあり、関東とか関西、といったある程度の広さの流通経路を持っていなければならない。植物が驚くほど高値になるというのは、高値で買い入れても元が取れるという自信があるからだが、それは手に入れた植物を殖やす「増殖親」にできるということなのだと思う(昭和30年代の観葉植物でも高額で手に入れた植物を親にして挿し木等で増殖していった)。

興味深いのは、「人気師」の間で伝統的に越後(新潟)の生産者とも連携があった様子が見て取れることだ。花木の生産が盛んで明治29年頃には植物バブル騒動(紫金牛=ヤブコウジの投機ブーム)で知られている。この記事の最後に掲載した新潟県の参考資料によると、明治30年代の園芸植物への投機熱は、地方における養蚕、生糸ビジネスの不調や度重なる自然災害が背景にあるようだ。また詳しく調べてみたい。下記1~6は『明治さぼてんカタログ』に出てくる人気師に関する記事のまとめ。

①明治15年(1882)頃、オモト(万年青)のブームから「人気師」が始まった

②サボテンに火がついたのは明治38年から40年頃(1905~07)、関東、関西、新潟に名だたる人気師がいた

③明治から大正時代にかけて人気師が関わった植物は、オモトのほかランや斑入りゼラニウム、サボテンがある

④人気師は、大金を使って希少な植物を全部買い占めて相場を何倍にも吊り上げる投機性の高い仕事だった

⑤輸入植物の場合、後から大量に入荷し値崩れする危険があることが人気師の間では認識されていた

⑥主に文字だけで書かれた園芸植物の番付、カタログである「銘鑑」づくりにも人気師が深く関わっていた

以下、『明治さぼてんカタログ』から人気師について書かれた部分を全文抄録し今日の記事を終わりにします。※原文の旧仮名遣いを一部読みやすく改めています。

人気師罷り通る

独占慾というものは恐ろしいもので、この品は俺だけしか持っていないんだ、という趣味家の独占慾の弱点につけ込んだのが所謂(いわゆる)人気師で、珍しい斑物などを大いにあおり驚くべき高値で売り込んだ畸形的な商売が横行した時代があった。

人気師という職業が初めて現れたのが明治十五、六年のおもと人気であった。後には萬年青銘鑑、蘭銘鑑、葵銘鑑、仙人掌銘鑑が出てそれぞれ人気の対象になった。

サボテンが人気師の手であおられたのは明治三十八年から四十年頃であるが、その前に蓮華(※多肉植物?)が人気を呼んだのが三十二、三年であった。最初に出たのが中オサエと称する黄ヘリ、富士と称する白ヘリ斑入の二種で大変な人気を呼び、三十銭位のものが人気師の手を転々としている間に八十円、百円という馬鹿値を呼んだ。

当時活躍した人気師に関東で遠藤才次郎、高橋弥三郎、野田厳二郎、関西で水野淳次郎、越後の長尾治太郎らがあった。

遠藤氏は昭和十一年七十四才で亡くなったが、みつ未亡人は現在七十五才で至極健在、当時を回想して次のように語った。

人気が出ると大変だった。一週間位は誰も寝られません。

墨獅子が大人気だったのが明治三十八年から四十年頃で、黄獅子と共に一寸が百円位でした。

鹿の角の黄斑の春日など越後から十鉢位持って来るのを途中でつかまえて一鉢五両につけて買占める。それを次に待ち受けているのが十両につける。次のが二十両、五十両という具合にせり上げて買い占めてしまう。

それが会に出て見ると他にも持っているのが居てとたんに半値に下った、なんて悲喜劇があったりして、全く命がけの売り買いでした。人気屋というものは政治家と同じで忙しいばかりで金が残らん商売です。毎日何百両という金を動かしていながら、いつもピイピイでした。

人気が初まると五十両百両を身内の人に預けておいて買いあおってもらい、差額は私の方から補助してやりました。

人気は一度やったらやめられません。これはサボテンではないが、常夏のチャボが最初一円五十銭のものが後に三百円まで行ったことがあります。

当時は外国から入るものは後からいくらでも入り値段がくずれる危険があるので、あまりやらず、内地で殖やしたもの、主として斑物が対象になりました。金剛丸斑の王冠、紅キリン斑の麒麟錦、鹿の角斑の春日、竜王斑の竜巻、千本剣斑の朝日などが人気がありました。

※貨幣制度は明治4年に改定されたが、その後も両という言葉を使う人がいた。1両=1円。ちなみに、白米10kgの価格 明治40年、1円56銭(『値段史年表』朝日新聞、1988)現代の価格を10kg3,500円とすると、およそ2200倍の感覚、当時の50円は現在の11万円、100円は22万円ということになる。

(写真1) 高橋さぼてん 『草木奇品家雅見』 第2巻 国立国会図書館デジタルコレクションから(コマ番号19) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2556511

大体日本人は斑物が好きな国民のようである。文政七年(一八二四)に出た植木屋金太著の「草木奇品家雅見」の高橋さぼてん(※写真1)は初日の出らしいオプンチアの斑入りだし、斑入石花角、白斑枝変り麒麟かくが出ている。岩崎常正(※灌園)の天保時代の植物名にも斑入りが非常に多い。

青物で人気が出たのは明治も四十年代に入ってからである。

猩々丸の人気は前記 脇金太郎(※本連載第62回参照)の項を見てもらえば分るが、宝草の名称の由来と人気を書いて見よう。これは最近松沢進之助翁が私に語った実話である。

明治三十八年、銀座丸八の二男坊である若い松沢進之助は、サンフランシスコの万国博覧会が見たくてたまらず、旅券を手にするとすぐ上陸用見せ金の五十ドルと若干の小遣いとを持って六十三円の三等船客として二十三日間の航海を楽しんだ。英語はいささか自信のある気楽な一人旅である。

万国博を見てから期待していたカクタス・ガーデンを訪ねたが、名ばかりであまりサボテンはなかった。ロサンゼルスへ出てブロードウェイのジャーマン・シールズで八重牡丹を一鉢買った。

それが帰宅した時腐っていたが、小さい子供が一つ残った。それを向島の植木屋岩船三右ヱ門が預って帰って冬はコタツの中へ抱いて寝て大事に育てた甲斐あって二年ほどのうちに二三の子をもったので松沢氏に返したが、その子の一つを人気師の泉某が百円で買った。それを見ていた岩船は早速宝草と命名し子供を一つ買取って一生懸命子供をふやして儲けた。

その頃松沢氏は渡米中の甥に百円送って探させたが、学名も英語名も分からんためいくら文章に書いて説明しても無駄であったが、後にアメリカの雑誌に写真の出ているのを見て送金して十本送らせた。それがいつの間にか「松沢が宝草を船二三ばい取ったそうだ」という噂が立ち一夜にして十円に下った。一生懸命百円を夢見て子をふかせていた植木屋連はガッカリして貧乏草と改名しようと語り合ったそうである。

全く人気とはこんなものである。

写真(※仙人掌銘鑑)は私の持っている銘鑑のうち最も古いものであるが、第二号だからこの前年にも出ている筈である。これは殆んど斑物ばかりであるが、第五号は猩々丸や宝草が大いに巾をきかせている頃である。当時の人気の変遷が知られるであろう。

銘鑑の見方は太字は値段の高低に拘らず最も一般的に人気のあるもの、正面最上段の鳳凰のついた全盛が最高で、次が鳳凰のある全盛貴品或いは別格最高貴品等と称するもの、次が右肩の全盛貴品或いは群望で左肩がやや落ちる。同じ貴品でも右から左に行くほど安くなる。

さてこの銘鑑の作成は数人の人気師が相談しながら作るのであるが、なかなかうるさいもので、右肩におくか左肩におくかで大喧嘩をおっ初め、その場の人達だけではなだめ切れずに大親分に御出馬願って仲裁してもらい、料亭を買切って手打ち式をやったこともある。というから全く馬鹿気たものであった。

参考
新潟で起きた紫金牛(ヤブコウジ)の投機ブームとバブル崩壊 明治29年頃
園芸植物への投機熱は、養蚕、生糸ビジネスの不調や度重なる自然災害が背景にある。新潟県のサイトから
https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=895

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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