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第86回 明治・園芸植物生産の現場~辻村農園、ある「見習生」の記録

公開日:2020.10.2 更新日: 2021.4.12

『新花卉』第14号「園芸生活四十五年の回顧(一)」

[著者]吉津良恭(よしづ・よしやす 1896‐?)
[編集]日本花卉園芸協会
[発行]タキイ種苗出版部
[発行年月日]1957(昭和32)年5月号
[入手の難易度]難
※第15以降の巻を含め一部は国会図書館に所蔵がない。

吉津良恭(1896-?)は、園芸家として京都府立植物園、大阪市などで技師として活躍し、数多くの記事、著作がある。
『実際園藝』に掲載された「(昭和天皇)御大典の花」に関する記事は、本連載第57回でも取り上げている。

今回の記事は、吉津が61才、自身の45年の園芸人生をふり返る回顧録だ。ここには大正の初めころ、農学校を出たばかりの吉津が勤めた小田原の辻村農園の様子が詳しく記されており、とても貴重な記録となっている。
当時の辻村農園には、われらが『実際園藝』主幹・石井勇義や大場守一(大場蘭園)、小笠原で活躍した麻生末吉など後に日本園芸界を担った逸材が現場で働き(第110回参照)、また仕事が終わった後、貴重な洋書を読むなど修業・研鑽の日々を送っていた。

吉津の出た大阪府立農学校園芸科は、大正13年(1924)、単独の大阪府立園芸学校(池田市に移転)となった。卒業生には、いけばな小原流の三世家元、小原豊雲がいる。

辻村農園は明治34年(1901)頃、辻村家6代目当主、辻村常助(つねすけ・1881‐1959)が開設した大規模農園。現在の小田原駅の場所にあった(大正6年駅建設のため移設)。

後にスイスへの山旅から戻った弟・伊助も経営に参画、西洋花卉を中心とする観賞植物、果樹などを生産、加工する当時最先端の農園だった。
伊助は日本の登山家の先駆けとして知られ、『スイス日記』などの著書があるが、関東大震災(大正十二年)の山崩れによって、家族とともに亡くなった。

以下、吉津の記事を抄録する。
明治後期の園芸教育が英語で書かれた原著から学ぶことを重視していた様子や、その当時の種苗カタログの価値、あるいは貧弱な道具や設備しかない時代に、現場の若者たちがいかに苦労してそれぞれの責任を果たしていたのか。
凍えるような冬の農場の夜や貨車に花を満載して、夜通し東京へ馬車を走らせる風景を想像しながら味わって読みたい。

左から、石井勇義、小川泰吉、吉津良恭 石井は大正7年に東洋園芸に移っているので、大正5、6年頃ではないかと思われる。そうすると、25才前後。みな貫禄があることに驚く。

まえがき

過般本誌小西主幹から、比較的永い数奇に富む私の園芸生活に就て随筆の執筆方依頼を受けたので、これが思い出とその折々の感慨を綴って見ることにした。文中或は自画自賛の誹を被る箇所も現れるかも判らないが、これも年寄りの冷水としてお聞き流して頂きたいのである。

生来私は、本職の園芸の他に只読書以外、何一つ趣味の持ち合せのない不幸な者である。然しこれがため、低い俸給者としては園芸に関する限り或程度の蔵書を有し、又その事を微かに誇りとし、又自らを慰めていた。

ところが彼の昭和十九年六月十四日の第二次大阪市爆撃の際、自家諸共石油箱三個の園芸資料や写真原版とともに全く烏有に帰したことは、花卉園芸も漸く往時に還り隆盛を目の辺りに眺める現在、実に惜しい気がして自分の迂闊を今更の如く嘆かわしく思っている。

従って、この稿を執筆するに当っても遺憾なきを期すことが出来ず、読者に対して果して竜頭蛇尾に終るのではないかと懸念している。この資料不足の点に就ては、偏にご寛恕を願いたい。

おいたち

明治二十九年広島県深安郡吉津村に生れ、間もなく父を失い、母は子女九人を育てなければならない境涯におかれた。この苦悩を只信仰以外に頼る道なしとした母は、当時イギリスの婦人宣教師により信者となり、以来二十年間全くの筍生活の末、漸く長兄を医師とし、弟妹は兄の細腕によってどうにか就学を続けることができたような家庭の実感であった。

亡父の一周忌を済し、直ちに和船で大阪堺市に移住、後日兄は大阪で開業、宿望の本拠を構え、私は明治四十三年大阪府立農学校予科に入学して、茲に園芸生活の第一歩を踏み出したのである。

大阪府立農学校園芸科

当時は尋常小学校は四年、高等小学校四年、中等学校五年、専門学校又は高等学校三年、及び大学が三年の課程制度であったが、この時代には単に義務教育四年で概ね退学、直ちに実務に就くのが常道であった。
筆者の学んだ高等小学校は大阪市内でも当時既に洋服を(他は全部和服に袴又は着流し)制服として着用していたので、割合良家の子女が多かったにも拘わらず、進学した者は全学で三人、後日他の二人は所謂東京帝国大学に学び、現在は前線からは退陣しているが、有力な医薬業界と百貨店の相談役として今日尚健在である。(閑話休題)

大阪府立農学校は関東の駒沢園芸学校=現在東京都立園芸高等学校=と只東西に二校あるのみの実業学校であった結果か、さて入学して見れば関西地方を中心に遠く鹿児島、四国、中国からの新入生も多数居り、剰え(あまつさえ)年令の如き、筆者は十五歳なるに三十三才の元小学校の教師もおるのには肝を抜かれた。

在学生は地方人が多く、市内から通学する者は極めて僅少で、殆んどが寄宿舎生活であった。
午前中は学習、午後は実習であるが、筆者の如く米のなる木も知らず、鍬の扱い方も弁えない者は皆無なので、人一倍難渋を痛感したものであった。

農家の子弟の然も長男が過半数を占めていたため、米麦、及び特用作物の種類と栽培については驚く計りの知識と技術をもち、各種実習も堂に入った者揃いでその熱心さと勤勉振りは、到底今日の学徒の比ではなかったと考える。

当時、園芸科担任は恩師山本正英教諭(後に当時東京府立園芸学校長に転勤)で、英語も担当せられていた。
園芸科は他の農科及び畜産科に比べ、この英語に重点がおかれ、三年ともなれば原書グッド・ガーデンが教科書で、これには実に命を縮める思いで全員熱中したもので、園芸科で英語の成績不良者は進級を阻まれた程の脅威であった。

筆者は園芸科開設第三回の出身で、第一、二回生は農科から転学した者で、実質上、丸三年の課程をどうにか修めたものは大正三年春の卒業者を以て嚆矢としたものである。

当時、温湯式鞍形温室は三〇坪余あり育成中の植物は総て目を瞠る種類として「係員の案内無くして入室を厳禁す」等と厳しい制札が掲げてあった事実を見ても、その大切さ加減が用意に窺知できようと言うものである。

さて此の頃露地物での人気の焦点は、なんと言ってもダーリアであったが、開花中の株の球根が何者かのために一夜のうちにスッカリ掘り取られたことがあった。今日にして見れば実に噴飯ものであるが、当時としては入手困難で垂涎おく能わずとして、態々(わざわざ)相当の参観者もあった程である。

しかし、盗難の後一向に同一品種の栽培者が発見出来なかったことは、単に芋の如き根だけを盗み出し、サツマイモ、馬鈴薯並に植えたからであろう。学校当局としても案外冷静であった様子を見ても、如何に当時花卉の種類が僅少であったかという事と、知識の貧困さが想像できて、却って感慨深いものがある。

植物温室は何分一室にラン類、ヤシ、その他各種の観葉植物という風に季節に陳列するので、例えば、冬はシネラリア、西洋桜草、ポインセチア、夏は夏咲ペラルゴニューム、フクシア、グロキシニアという工合で、特に秋のベゴニア・グロアード・ローレイン、アカリファ・サンデリアーナ等は華麗で、業者間にもワンサと分与希望者が現われ、相当増殖を行った程で、時折販売実習と称し他の野菜類と一緒に荷車に載せて、自慢らしくこれ等高級花卉の鉢植の払下げを行ったものである。
然し乍ら、戦前は別として、今日に於てもなお前記のアカリファは全然絶種となり、冬咲ベゴニアも十二分に繁殖するまでは門外不出と計りに、現在内々栽培している向ありと聴く事情を知っては、昔は今日程功利的でなく、純情型であって懐かしい気がする。惜しむらくは、筆者の知れる範囲でその頃の園芸科出身者にして、今日花卉栽培の業務に従事している人士を不幸にして聞かない。

これを要するに、この花卉園芸を営利的に行わんとするには、実際に就て一日も永く修業経験することによってのみ可能性があり、趣味、又は官公吏、大会社の厚生事業としての道に進まれる人は、専門の学校で勉強、研究することで、昔も今も学問と営利とは別物であることがしみじみ感ぜられる。

筆者とその同輩連には、この頃、少しは漸く語学の読み書きの用も足せる興味も手伝って、内国はもちろん諸外国からの種苗案内書の入手が流行し、競って通信したもので、英国のサットン、カーター、ヤング、バー、ケルウエー、オランダのシー・カー、コロレージ、バンザンテン。
米国ではヘンダーソンを筆頭にバービー、ジョージ・スミス、ウィリアム・トリッカー、アメリカン・ナーセリース。
フランスのビルモラン、オーグストノニュウ、バービル。
独逸のオットウ・ヘイメル・ミッティー。
ベルジューム国(ベルギー)のルイス・ボン・ホッテバルクがその主なるものであった。

何処とも何れ劣らない豪華本である計りでなく、よい教材として役立ったことは申すまでもない。
また此の時代、丁度横浜市中村町の横浜植木会社では、前記サットン商会のカタログだけは金一円也で普く希望者に取次販売していたことを思えば、ご時世とは申せ、吾々研究者にとっては実に有難い時代であったと泌々(しみじみ)痛感する。
内地の園芸業者も、普通種ならば相当ストック品を持ち合わせていた関係もあってか、良心的な良苗を正確に送ってきたもので、あの時代が何時も懐しくてならない。
東京渋谷の日本農園、東京品川の妙華園、札幌寿仙園、埼玉県安行植物場等々は今日なお記憶に残る業者である。

本邦唯一の辻村農園本部に入園

大正三年三月予科一年、本科三年の課程を終えたものの、此の時代には花卉とか園芸という文字さえ知る人は稀で、園芸科などと他人に話せば、演芸家と早合点し、俳優学校かなどと全く笑止千万な語り草もある程で、就職などは思いもよらない望みであった。

然し、徒食する訳にも参らず、八方心当りを照会した結果、漸く当時本邦一の称ある神奈川県足柄下郡小田原町に在る辻村農園本部(園主辻村常助氏は今尚八十五才にしてご健在)に見習生として入園許可の報に接し、即日該地に赴き、地下足袋に作業服の身を堅め、就業一年有半、精魂を打ち込んで温室及び露地の鉢花栽培に従事した。
この頃既に園芸大辞典の編者、故石井勇義、或は後日小笠原島に於ける花卉栽培の先駆者故麻生末吉の両君も熱心に技術の練磨に励んでいたものである。(辻村農園は現在の小田原駅の場所にあった。現在、辻村家の所有地であった梅園は辻村植物公園となってその名前を残している。)

この辻村農園の全貌は、温室面積九棟約五〇〇坪、フレーム数はレンガ製ピットを合わせて一〇〇有余、他に露地栽培場一万坪余を擁する聞きしに優る広大なる内容であった。
営業案内書も、球根カタログ、樹木種子カタログ、ゼラニューム目録等数冊に分かれ、同園で使用する鉢の如きは、大小変形を問わず、全部専門の技術者によって周年製作が行われ、製作場に行けば即座に何個でも自由に運搬使用する組織となっている事実に見ても、如何に大規模な農園であったかが想像されよう。

従業員中農学校出身者は僅々数名、他の十数名は総て地元、又は地方の農家の子弟で、年令は何れも三十才以上であった。
斯る大家族主義の結果、数里を離れた伊張山(丘陵地帯)で、毎年食用に供される米(陸米)及び味噌材料の大豆、漬物は全部従業員の手によって栽培し、自給自足していたものである。これは園主の自論を実行していたに過ぎないにしても、実に園芸業は集約的に行わない限り、経営が至難であることを此の頃既に察知した次第である。

当園に近接して小田原御用邸が在ったので、陽春の候ともなれば決ったようにご用掛りに付添われた学習院初等科の制服姿の皇太子殿下とご同伴で、秩父、高松両宮様お揃いで自転車に乗られ、予告もなく極めてお身軽に再三農園に見学のためご来園になり、ご活発にご行動になられたお姿をよく拝したものである。

この農園で栽培していた主なる種類は春はチュウリップ、特に早咲の一重と八重咲種に限られ、シクラーメン、クロウカス、喇叭水仙、鈴らん、けまんそう、バイオレット、八重アネモネ等、比較的花期の永い種類で、而も当時としては高級品で、
パンジー、デイジー、金盞花などは作らず、
二年草としてはバージンストック、ウオールフラワー、ストック等、
夏はペラルゴニューム、フクシア、カラデューム、
葉物のネフィロレピスの他に盆栽仕立の外国種樹木苗、鉛筆ビャクシン、香ヒバ、
秋にはオキザリス各種、カンナ、ききょう、斑入ぎぼうしゅ、小浜蘭の他スイス直輸入の高山植物がその主要なものであった。

これ等は総て苗から鉢作りを行い、四~五寸鉢から八~九寸鉢に養成、花蕾を見たものから月二回程度有蓋三屯貨車と同大の二頭立馬車に丁寧に荷造りして、徹宵して従業員二名によって延々二十里以上もある東京の神楽坂、日本橋、巣鴨の三直営売店に輸送されるのであった。

いざ明日発送とも決れば、文字通り忙殺そのもので、今考えるだに、協力一致してよくも斯る手数を遂げたもので、栽培種の選択、優秀な栽培技術の会得、輸送、更に販売頭、一切を実践しなければならない労苦は、蓋し思い半ばに過ぎるものがあった。

当園は、環境地勢から見て温暖に恵まれてはいるとは言え、十二月ともなれば前記九棟五〇〇坪の温室の両端に小型亜鉛釜一基宛を配し、これを二吋の同じく亜鉛板パイプ二本を廻し、コークスで加温する幼稚な設備であった結果、夜勤が十日に一回の割で担当するのであるが十八個の小型ボイラーは容赦なく次から次へと燃え失せ、午後七時から翌朝六時まで丸十一時間全然寸暇なく、燃料の補給及び給水に大車輪の勤務である。

殊に営利温室であるため、総てが低設式となり、その通路が全部水槽で、その上に木板が横に全面渡されている簡易大温室だけに、コークスを携えて終夜行動する辛苦は、今日の園芸人の恐らく誰一人として想像できる向は無かろう。

後年、京都府植物園の蒸気式六セクションボイラー温室を管理した時には、仮令夜勤とは云え極楽の思いで、実に素晴らしい夜勤で、寧ろ、極寒の最中でも寒さ知らずの天国で温室の美しい花とともに日常が過ごせることを、どんなに感謝したことであったか。

夜勤が終われば、遠く街の銭湯に行かねば、決してそのまま就眠することが出来ない程の汚れ方である。
現在では労働基準法が制定されたので、他人には斯る重作業を課することは許されないにしても、少なくとも修業中は進んでこれに当る意気がなければ、園芸の経営は素より至難の業であると、常に切実に感じている者である。

所で、当時珍品として洋風庭園用に将来あるを期して輸入したコルディリネ・インディビサ(千年木)の実生二年苗一〇〇本の分譲を受けて、母校である大阪府立農学校(当時は生野区勝山通)に寄贈、山本先生は殊の他喜ばれ、五年後三尺程度に育成したものを正門入口の両側に並木として栽植され、現在、堺市大仙町に転ずる折にも、同様に移植され、偉観であったが、先年一部を堺市立水族館に移植した由、残念に思っている。

最後に特記したいことは、当園主の令弟であられた北海道大学出身の辻村伊作(正しくは伊助)農学士は、自ら高山植物、特にアルプス産のものの研究に専念せられ、栽培と管理を自ら担当されていた。
当時は可なり流行を見、東京三越その他に於ける高山植物展には同氏の珍物作品の多数が出陳され、趣味家間ではその技術と蒐集区域の多岐を称賛したものであった。

同氏は武田久吉理学博士と共に、吾国高山植物界の双璧と謳われ、斯界に重きをなされていたので、園員一同も未知の高山植物についての知識涵養に大層裨益するところ大きく、研究には非常に至便を得た欣びを今なお感謝している。

ところが、大正八年だったか、当時箱根湯本に独特の高山植物園を設営されていた折、地辷りのため夫人、令息とともに一瞬にして家屋諸共その下埋となられ、未だに遺体すら発掘を見ない一事はなんと言う不幸であろうか(実際は大正十二年の関東大震災による罹災)。
伊助氏の夫人は同氏がアルプス登山の砌(さい、みぎり)、墜落で負傷入院の際、親身も及ばない行届いた看護をされた優しく美しいスイス婦人で、私もよくお邸を訪ねる度毎に親しい雰囲気のうちに外国風のご歓待を蒙ったことを併せて、無念やる方なき思いにはやるのである。

 

参考

  • 『小田原が生んだ辻村伊助と辻村農園』
    松浦正郎 箱根博物会 1994
  • 『アルプスに跳んだ小田原の登山家 辻村伊助』
    小田原市立図書館 2013

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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