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園藝探偵の本棚

第87回 シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その1

公開日:2020.10.9 更新日: 2021.5.25

『横浜の花の歴史を語る』

[制作・発行]横浜市緑政局
[発行年月日]1973年3月
[入手の難易度]超難(図書館のみ)

古老が集まった「歴史的座談会」

いつも思うことだが、こんなに貴重な資料が地方図書館でしか見ることができない。そこまで行かなければ、読むことができない。
見方を変えると、よく所蔵してくれていると感謝すべきなのかもしれないが、今回紹介する『横浜の花の歴史を語る』という資料も花の歴史を調べるとき、さまざまな文献の中に基本資料として幾度となく登場するものだ。

この資料は、昭和47年に第2回フラワーショーかながわ横浜大会開催を記念して、花の歴史と先駆者の努力を後世に伝え残したいという目的で制作されたものだという。神奈川県と横浜市立中央の両図書館に所蔵されているもの自体がすでにコピーを綴じたもので、本文22ページに年表がついている。

座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。明
治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかり、59才が1名、60代が2名、70代が3名、80代が2名参加され、もう二度と聞くことのできないエピソードが記されている。

今回の企画は、何週かに分けて連続して可能な限り全体を通しで読んでみようというものである。
目次には「花づくりの先がけ」「小売商の発生」「花き生産の発展」「種苗園芸用品の輸出入」「花の消費状況」「共進会」「横浜の園芸と種苗会社」「生産者の組合活動」「余話」といった見出しが並んでいる。
人の語り言葉なので難しくないし、なにより、古老たちが語るエピソードには驚かされる。

横浜の花の歴史は、日本の近代園芸史の第1ページ目を飾る重要な項目である。
明治以前、1859年の開港から約8年間の、いわば「前史」があり、この時代に数多くの世界的「プラントハンター」が訪れており、外国商館による植物の輸出入の玄関口でもあったため、どこよりも早く花の取引が始まっている。

古老の話にはその時代の知られざるエピソードがたびたび出てくる。その話のなかには、すでに間違いが明らかになっていることや、思い違いも含まれている。
また今となっては根拠となる資料もなく、確かめるすべもない部分も多くあるが、見落としのないように注意しながら言葉の端々に注目することによって、いろいろなことが読み取れ、新たな問いが生まれるに違いない。

まずは、ページをめくっていこう。(文中に現在では使用が不適切と思われる言葉も出てくるが、その時代の使用のまま記載する。)

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出席者について

1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 造園、生産、小売り
(本連載62回84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると、明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。)

2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産

3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産

4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家 著書多数

5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長

6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産

7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松」

8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役

司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹

緑政局農政部長 前田洪範

同 園芸係長 渡 幹夫

同 緑化センター農業技術部長 瀬戸新一郎

同 緑化センター園芸技術部長 堀 保男

神奈川県内の古老の座談会をまとめている資料としては、『神奈川県花き業界沿革史』神奈川県生花商組合連合会1967がある。これも非常に面白い。

■花づくりのさきがけ

【脇治三郎】 温室は日本中方々調べてみましたが、横浜が最も古い歴史を持っているようですね。最初は明治17年に山手の28番館(ボーマー商会、地蔵坂から桜道方面に下った日当たりのよい南向きの傾斜地)にできたんです。
その頃は温室などとは言わずに、ギャマン室といい、外人はこれをグリーンハウスと呼んでいたんですね。

明治20年頃になって、山手の118番館へ米国人の貿易商でジェームスさんという人が50坪の温室を建てたんです。50坪というと、大変大きなものであると当時の人は思ったらしいんですね。そしてボイラーだとか機材はみんな本国から持ってきて、そこで洋蘭を主として作り、内外人に鑑賞させたんです。
そこに園丁として雇われたのが秋山鹿蔵という方だったんです。また、下働きに柴田善吉という人が雇われたんですね。

ジェームスさんは明治40年頃に、これを全部フレーザーさんに譲って大震災の時に帰国してしまったのです。
その時に、時の外務大臣であった大隈さんがこれを聞いて早稲田の本宅に20坪ぐらいの温室をこしらえたわけです(大隈重信は大正11年に逝去しているので、「その時」とはジェームスが温室を建てたときだろうか。大隈は確かに明治20年、早稲田の自邸に温室を建て、3年後には10坪増築している。明治30年にはチーク材を利用した70坪のコンサバトリー=装飾温室を建設して内外の客を招いてもてなした。設計は林脩已)。

明治30年頃にジャメン商会が花不足のためにオランダからヒヤシンスとかチューリップ(黒色の原種)、水仙とか、いろいろな球根を盛んに輸入し、園丁に藤沢惣吉(のち中区、藤沢花園店主)という人を雇って栽培を始めた訳です。
このジャメンさんは外人墓地の管理人であったんですね(幕末の1864年来日、クラマー商会に勤務し植物貿易の事業を継承。駐在領事団の推薦を受け横浜外国人墓地の管理者。温厚で人徳があり慕われた。ササユリを輸出する際にクラマーを記念してKramer Lilyと名付け学名の元になった)。

これより先に山手の136番館に英国人でデンスデールという人がいたんですけどね、この人は洋蘭の栽培を園丁に教えていたんです。
栽培を教わった園丁は池谷辰蔵という人だったんです。

それから、山手の53番館にリコットという人がいたんですが、この人はネペンサスとか洋蘭を栽培したり、また、日本の恵蘭なども研究されたりしたんです。この人はアマチュアだったんですけどもね。

それから、また、山手の2番館にカナダ太平洋汽船会社の支店長(山手1番、貨物係主任のちに90番に移転)のマンレイ夫人という人がいたんですが、この人が、後に戸越農園の園丁になった秋田金太郎という人を指導して冠婚葬祭等に使われる花篭、花束、そういうものを作らせたんです。
そういうものは日本人が作りたくても作り方を知らなかったんです。(戸越農園は明治31年、戸越にあった三井家別邸付属の農事試験場として創設、現在の第一園芸株式会社)

外国の園芸業者は明治17年に山手の28番館にボーマン商会(ボヘメル、ボェーマ、ボーマー、ベーマー、などの表記がある)というのをこしらえたんですね。
このボーマンが植物の輸出入を日本で最初に始めたんです(ボーマーは北米輸出のパイオニアではあったが、植物輸出には他の人々による幕末以来の前史がある)。
その後、日本人の園丁を沢山雇ったんですけど、そのうちで主としてやっていたのが地蔵坂の植木屋で岩槻小三郎という人だったんです。これが横浜で一番早く外人に取り入った売込み人なんですよ(外国商館が海外との貿易業務を牛耳っていた時代、日本人はこれらの商館に売込み、また買い入れており、それぞれ売込人、買込人または引取人などと呼ばれた)。

その次が鈴木卯兵衛、植木会社(現・横浜植木株式会社)の初代社長です。
この人が安行(埼玉県川口市安行、江戸時代から知られる日本有数の植木の産地)からいろいろなものを取り寄せて、ボーマン氏に売ったんですね。

明治37~38年にボーマン氏は病気で帰国したんですが、その後をウォーガ氏(アルフレッド・ウンガー)が引き受けて続けたんです。この人はドイツ人でありましたから、あまり我々達にとっては良くなかったのかも知れませんが、中国の青島へ早く大きくなる木を送ったのです。
それはプラタナスですとか、アカシア、ポプラ、イチョウ等で、そういうものを、今の根岸桜道下(根岸のどのあたりでしょう?)へ2反歩ばかり作って、それを輸出したんです。そこは今、道路になっていますがね。
それらはみんな青島に送られて、青島にあったドイツ軍の要塞のカモフラージュに使われたらしいんです(脇治三郎さんは『神奈川県花き業界沿革史』でも同じ話をされている。ウンガー自身が書いた回想にも出てくる。園芸植物の軍事利用は第二次世界大戦でも同様だった)。

その後、(ボーマー商会は)ロバート・フルトンが受継ぎ、そしてまたあとをジェムス・ジーマン社(継承したのはデンマーク人、クリスチャン・ジーマン)に渡って山下町の113番館へ移転して帰国したんですが、それはなぜ帰国したかというと、日本人の業者が盛んになってきたから、もう外人のものなんか内地の人があまり振りむかなくなってしまったんで、ここで手を引いてしまったんです。(正しくは山下町273番で、最後の外国人植物貿易商館だった。昭和4年に閉店しジーマンは帰国した。)

その頃、山下の110番地にサミール商会(コッキングは山下町55番。サミュエル・サミュエル商会か)というのがあったんですが、この商会の主人の方は、サミール・コッキングといって江ノ島の植物園を作った人なんです。
その当時、この下で働いたのが、ご存知の方もあるかと思いますが、杉田の伊沢規次郎という人なのです。

■小売商の発生

【所長】 昭和8年に市の勧業課が調査して書き残したもの(横浜市勧業課「横浜に於ける花卉の生産並びに販売状況」昭和8年3月)を見ますと、明治6年頃には市内の植木屋さんが庭園、花壇作りのために、いろいろな草花を栽培して、そして、それを庭作りに使うと同時に売り出した。そして花店を経営したというふうに書いてあるんですが、脇さんの先代の方もやはり売店を経営されたのではないですか。

【脇】 ええ、やりました。でも、横浜で最初に外人に売り込んだのは岩槻小三郎だね。

【小島亀吉】 明治10年頃かなあ、元町1丁目にね、丹沢政吉という人がいたんです。あの人は古いですよ。5丁目の宮代さんの親方なんですがね。

【所長】 売店の場合、切花ではなくて、鉢物か、根付きのものですか。

【脇】 その頃、横浜でとにかく草花なんかを売ったのは蒲田の人なんですよ。誰が何と言っても横浜近在の人はやらなかったんです。
蒲田の高梨徳さんという人がよく牡丹なんか作っていたんですがね、小向あたりからも来たんですよ。

【横山清治】 横浜の古い花屋さんは蒲田から出た人が多いんですよ。

【脇】 蒲田はね、鉢物なんかあまりやってなかったんです。花作りですよ。

【所長】 切花ですか。

【脇】 ええ、とにかく仏様の花でも何でも、蒲田から出た人がみんな始めたんですよ。

【小島】 蒲田には私どもの小さい時分から職人がいましたからね。

【所長】 明治10年頃に生花商として店を出した人が10人ばかりいたという記録があるんですね。
その当時は横浜という特殊性からみて外人目当ての洋花専門の花屋と、日本花専門の花屋の二通りあったんではないかって気がするんですが、その点はいかがでしょう。

【脇】 やっぱり日本花(現在は「和花」という言葉をよく使う)ですよ。

【小島】 洋花になりましたのはその後ですよ。
蒲田のような所で段菊だとか日々草とかケイトウだのを作りましてね。それから始まってだんだんと洋花が入って来たんです。
それより前に、一番初めは枝物ですね。チンチョウゲ(沈丁花)とか天然の物、木立ちの物を取りましてね。だんだん日本産の切花から、その次の段階に洋花になって、そして、富岡の方でだんだん発展してきたんですね。

【脇】 花七というのも古いんですよ。(鶴見区鶴見町、大本山総持寺御用達)

【小島】 この人は蒲田から出て来たんですよね。

【横山】 私達の小さい時分には、お寺の近くの、いわゆる門前花屋というのが多かったんですね。今のように店先を飾るというようなことが非常に少なかったものですからね。結局、お寺さんがあるとその付近に相当の花屋さんがありましたね。今の中野の近所にも、3、4軒ありましたし、神奈川に非常に多かったんです。うちの父も神奈川で21年間もやっていましたしね。
それがだんだん、仏様の花だの、お寺の花ばかり扱っていたのでは商売も駄目になるんで関内に移りましてね。その後、今の相生町に移ったわけなんです。

【小島】 大体、昔の日本花ばかり売っていた時分には横浜で全部仕入れたなんて人はいないんですよ。
みんな午前中は近在へ置い出し(ママ/自生植物の採取、負い出し?切り出し?)に行きましてね、そして午後売りに行ったんです。一人も仕入れて売っているという人はいなかったんですよ。
ですからね、多くは天然のものを売っていたんです。そんなことから始まって、しばらくたってから洋花もだんだんと日本屋敷に取り入れるようになり、日本花を売る傍らに、洋花をだんだんと売ってきたわけです。洋花専門の花屋さんというのは初めはなかったんです。洋花を売り始めたのは脇さんなんか店舗をお持ちになってからですね、確か。

この頃はまだ、植木とか、日本花が中心だったんですね。外人にも暮には、ナンテンとかそういうものを売っていたんですからね。それも天然のものをですよ。
おそらく、最初の頃は、栽培したものというのはなかったんでしょうね。

【所長】 横山さんのお宅は神奈川で古くからおやりになっていたということですが、横浜の生花の小売りというものは、当初、蒲田の方から入り込んで売っていた人たちのやり方を見習って土地の人がやり始めたということなんでしょうか。

【横山】 小島さんなんか、よく私の家族を知っておられて、もう随分古い付き合いなんですよ。品物を卸しによく家に見えていらっしゃいましたからね。それと、品物は蒲田の方からも随分入ってきましたね。
あとはね、材料は全部自分で作らせたんですよ。桃でも、菊でも、桜でも、農家に頼んで全部作ってもらいました。枝物では駒岡や師岡あたりが主でしたね。それから花物はほとんど岡村で作ってもらいましたよ。

【所長】 そういった時代からお作りになったんじゃ、小島さんなんか一番最初といってもいいですね。

【横山】 生花材料なんかだったら、一番早かったですよ。

(※「園藝探偵の本棚」第87回、本日は、ここまで)

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年表によると、

明治初年、居留外国人は本国から種苗を取り寄せ、自邸内で草花を栽培し楽しんでいた。

中区中村町方面の植木業者が草花栽培を始める。
これらの草花は根付きのまま外国人に売られた。

切花については、東京の蒲田、神奈川県の川崎市市ノ坪から花の小売をする人たちが入り込んでいた。

やがて、港南区あたりでも副業で露地の草花栽培が増え、農家の引き売りが始まる。

明治10年頃、生花商(和花専門の生産者)5戸が出現する。

この生花商に対して、山切りを頼み、花を買い集めて小売りするものが出始めた。

同じ頃、植木業者が植物園や売店を設けるようになった。

その後、売店は数を増やし地蔵坂上から相沢にかけて10数件が軒を並べ、植木屋街の観を呈した。

明治15年頃、外国人による植物輸出入事業が本格化。
洋花を扱う日本人生花商も現れ始めた。

■まとめ

  1. 開港地横浜の居留外国人に雇われた園丁によって洋花の種苗や栽培、装飾に関する知識が広まった。
  2. 幕末から明治の初め、山手の植木屋や蒲田、川崎から来た花の小売商が外国人相手に花を売った。
  3. 蒲田は花の生産地であり、そこから花が旧宿場町の神奈川や新興の都市、横浜に持ち込まれた。
  4. 最初は、枝物や和花ばかりだったが、徐々に洋花も増え、日本の屋敷でも飾るようになっていった。
  5. 栽培した花を売る、という以前に、野山にある枝物や花木、自生する季節の草花を採取していた。
  6. 卸売業が未分化なので、花店では、自分たちが売るものを農家に栽培してもらうようになっていった。

参考
『プラントハンター: ヨーロッパの植物熱と日本』白幡洋三郎 講談社 1994
『日本ユリ根貿易の歴史』鈴木一郎 1971
『神奈川県花き業界沿革史』神奈川県生花商組合連合会1967
『横浜に於ける花卉の生産並びに販売状況』横浜市勧業課 1933

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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