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第88回 シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その2

公開日:2020.10.16

『横浜の花の歴史を語る』

[制作・発行]横浜市緑政局
[発行年月日]1973年3月
[入手の難易度]超難(図書館のみ)

誠文堂新光社「子供の科学」を創刊した原田三夫と「民衆花壇」

横浜の古老による座談会記録を読む企画の第2回め、……なのだが、この記事を書くために、読んでいた別の資料、『世田谷の園芸を築き上げた人々』(城南園芸柏研究会 湯尾敬治1970)のなかに、大正8年頃、「民衆花壇」という花店が芝にでき、温室を鶴見に置いて生産と直売を行う事業を始めた、そこに、現在の大場蘭園の創始者である大場守一(しゅいち)が主任として勤めだした、という記事を発見して驚いた。「民衆花壇」…どこかで聞いたことがある、あ!それは、誠文堂新光社の看板雑誌である「子供の科学」(大正13年創刊)の創刊に関わり、初代の編集長を務めた原田三夫の自叙伝『思い出の七十年』(誠文堂新光社1966)に出てきていた。164ページから169ページにかけてその記述がある。この店は大金持ちの青年、西条軍之助という人物が民衆の心を慰め美しくするための花屋で「民衆花壇」と名付けられた。この事業の手伝いを原田がやったという。生産は鶴見の農場でやるのだが、明治期にアメリカに留学して園芸と装飾を学んだ恩地剛(※弟は有名な版画家、恩地孝四郎)が引受け、その伝手で小田原の辻村農園にいた大場守一を引っ張ったということのようだ。原田三夫は店に立ったという。開店の時は北海道大学時代の恩師、有島武郎から花環が贈られた。店は西条の邸宅があった芝佐久間町(現在の新橋駅と虎ノ門の間くらい)の近くだったという。原田が同じく辻村農園にいた石井勇義を恩地から紹介されて出会うのはそのしばらく後のことである。大場守一は、鶴見の農園で働くが、のちに独立し同じ鶴見で生産を開始しており(同じ場所で開業、とあるので民衆花壇の後を引き継いだのかもしれない)、この出会いはたいへんに興味深いことだと言えそうだ。

話がだいぶそれた。それでは、昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画のその2を始めたい。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回の企画は、何週かに分けて連続して可能な限り全体を通しで読んでみようというものである。

 

出席者について

1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 造園、生産、小売り(本連載62回、84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。)

2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産

3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産

4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家(山野草) 著書多数

5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長

6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産

7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松)」

8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役

司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹

■花き生産の発展

【所長】小島さんの花作りは、いつ頃から始まって、どういうふうにされたかということをお聞かせ願いたいんですが。

【小島亀吉】明治40年頃でしたかね。その当時私どもが主としてやりましたのは、エゾ菊、それからシオンだったですね。そういうような物を作りまして、そして、横浜へはおそらく一手販売といってもいいような状態でしたよ。中津田の方で5反も6反も作ってもらいましてね、そして売ったんです。それに山のオミナエシは沢山ありましたしね。それを採ってもらって売ったんです。オミナエシとエゾ菊とシオンで、結構お彼岸の売り物はできたんですよ。しれが主体でしたが、多少、蒲田の方から他のものがきましたよ。大体そんなことで商売になったんです。

【所長】小島さんが覚えてらして、その頃、横浜市内の他の場所で、何かを作っている人があったというような記憶はございませんか。下川井の方も大部分古いと聞いていますが。

【小島】その頃は大体において何かをまとめて作って小売屋さんに売るという時代じゃなかったんです。小売屋さんが近在をまわりまして、農家の庭先、畑、山などにある天然のものを持ち主から置いとって(ママ)切り出す、いわゆる山切りということが盛んだったんですよ (※前回も「置いとる」という言葉が使われている…買い取る、の間違いなのか、それとも特別な用語なのか不明) 。

小売屋さんが大体お昼前に買い出しに行き、花の好きな人の庭に植わっているものを、これを売ってはくれないかと交渉して買いとって切るといったわけです。出発は生産ではなくして切出しだったんですよ。それからだんだんと需要が増して来て、今でいう大型化して来たんですね。そして、山切りをしてそれを小売商に売る山切り専門の人がでてきたわけですね。

下川井には飛田常吉と平吉さんという兄弟がいましてね、私の父がやっている時分には他に、4・5人の切出し専門の人がいましてね。それで作っている方というのは植木屋さんが主でして、いろいろなものを3反も4反も作っていたんですからね。そういう所へ切出し人は、買いに行って、小売商へ売るというようなことをやっていたんです。

作るということについては今日ご出席していられる中村さんあたりは非常に古いんですよ。古いんですけれども花の方の商売、つまり切出し人とか花の販売ってことになると、まあそのずっと後の段階になるんです。

中村さんは植木じゃなかなかどうして沢山やられましてね、広い植木圃場も持っておられましたしね、植木会社(※横浜植木株式会社)にも関係を持っておられて、色々その当時貢献された方なんですよ。

【所長】今のお話ですと最初、小売商の方が山切りに行って買い集めていた。そして、そのうちに産地の方で切出しを専門にやる人が出てきて、切り出したものを小売商の所へ売りに行った。その後切り出し人に売ること目的に作る人も出てきて、さらにその後で今度は、生産者が直接自分で売りに行くというふうに、色々な段階を踏んで今みたいな形になって来た。また中には、小売商の人に頼まれて生産する人もいた。こう考えてよろしいですか。

【小島】そうですね。そして、山切りをしていた人も今度は生産者に転換いたしましてね、山切りをしていても取引がだんだん大型になってきますと仕事にならず、ひき合いませんからね。ですから自分で生産するようになり、また小売商で山切りもやっていた人は山切りをやめて小売専業になってきたというふうにだんだん変わってきたんですね。そういうふうに進歩してきたんですよ。

【所長】都岡あるいは都田がいつごろ産地として確立されたかというようなことははっきりしないわけですね。

【小島】そうですね。先程申し上げましたが、やはり川井の方でいいますと、常さんとか平さんとかいう人は、初めは山切りでやってたんですが、飛田嘉十さんなんかはその当時から色々なものを集めましてね、ユリ、スイセンなどを作っておりましたし、ボタンなんかも紫や白ではなく新しい品種を導入して作ったり、フジの接木などもしていましたよ。ボタンなどは新潟の方まで手づるをつけましてね、新しいものを持ってきたようです。そして新しいボタンを作って、それを切花で売っていたんです。ボタンを切るには、それに古い幹をつけないでね。新芽だけを摘んで横浜の屋敷や花屋さんなんかにスイセンと一緒に持って行ったもんです。ボタンは摘まみ(※花の部分だけ短く切る)にしますと水揚げがいいんですよ。古い幹をつけますと焼いたり煮たりしないとだめなんですがね。シャクヤクもあの人は摘まみで出しておりましたね。そして他の人がそれを真似してね、だんだん出てきたんです。

【所長】今、枝物などを主体にした生産の状況について小島さんにお伺いしたいんですけど、金沢の富岡の方はどちらかというと、カーネーションとかスイートピーとか洋物が主体だったようですね。そこで加藤さんに富岡がどういうような経過を辿ってきたかお伺いしたいのですが。

【加藤太市郎】そうですね。私の方は草物を中心にやっていたんですよ。草物専門にやっていて、だいたい明治40年頃からスタートしたんですね。最初に夏菊をやり、それから色々なものに手をつけたんです。

あの頃、植木会社の方でシャクヤクを2反ぐらいいっぺんに植えちゃったんです。そのうちに植木会社からスイートピーがきて盛んに作るようになったんですね。

私、よく覚えているんですが、第一次欧州大戦(※1914~1918)の時に欧州から種がこなくなったんですよ。それで非常に困っちゃったんです。向こうの種ですとよくできるけど、自家採種でやると、花の光沢が落ちる。それに香りがない。それで二年目には会社から取り寄せてもらってね。その頃に、初めて、フレームや、小さい温室を建てたんです。それを今度は大崩へ持って行ったんです。スイートピーを作りにね。あそこへ行くと、春2月頃にはさかんに切れるんですよ。

【所長】大崩というのはどこですか。

【加藤】葉山の先の三浦の大崩ですね。最近は随分変わってしまったけど、その時分は坂がすごくってね、とても自転車じゃ登れなかったんですよ。

新倉さんって言ったね確か。それから細谷さんね。こういった人達に頼んで作ってもらってね。みんなで共同して切りに行ったんです。そうしているうちに、色々なことをやり始めたものだから、忙しくなって、大崩の方へは行けなくなってしまったんです。

その時分、カーネーションは目黒の合田という人や、その他、方々から種をもらい教えてもらって、50坪ほどの温室でやったわけです。

また、チューリップは会社(※横浜植木株式会社)から輸出してもらい、アイリスは輸入してもらって、さかんにやっていたんです。それをやっているうちに地震にあっちゃって(※1923年の関東大震災)みんなガタガタになってしまったんですね。

その前にね、今の越後のチューリップは、その頃、横浜から小さい球根を持っていったんです。それが越後の地質に合い、あんなにも盛大になったんですよ。(※大正7年に小田喜平太らによって試験栽培が始まった新潟のチューリップは、千葉高等園芸学校の林脩已とその教え子、小山重が深く関わっている→本連載第第34回参照。林脩已は福羽逸人の弟子で大隈重信や岩崎久弥の庭園で園芸主任として働いており、理事を務めた日本園芸会から横浜植木とはつながりがあった。)

それからバラですが、柳下さん(※柳下三項園)が専門にやっておられて随分大きかったですね。そうですね、300坪ぐらいはあったんでしょうね。

それから、他に我々はダリアや、露天のバラを作りましてね、あのピンクのね、ラジアンスというのがあったんですよ。それを専門にやっていたんです。あれは切っても、切っても木が痛まないもんだから、夏でも切って一生懸命出していましたよ。まあ、こんな状態だったんですよ。

【所長】カーネーションの技術はどういうふうにして入れられたんですか。

【加藤】それは今言ったとおり温室村へ通ったんです。自分でやっていてわからないこと、困ったことを教わりに行ったわけです。まあそういうことからひとつひとつね。

最初、カーネーションを始めた時は実生から始めたんです。合田さん(合田弘一氏か?温室村に近い下野毛六郷川用水のほとりにあった)やみなさんから教わって種をもらってきてその中のいいものをとってやったんですよ。その時分は大変だったんですよ、種代が。全部発芽すればいいけどね。

【岡本宇吉】霜の降る時分にもこもかけしたりしてね。あんたんとこの兄さんなんか随分やったんですよ。

【所長】今、温室村へ通ったとおっしゃったんですけど、温室村というのは東京の。

【加藤】ええ、東京の多摩川の温室村とかね。

【所長】先程のお話で富岡の方が先じゃないかというお話があったんですけど、多摩川の方が先だったんですか。

【加藤】多摩川のほうが先です。

【小島】多摩川の方が一軒か、二軒、富岡より先にやっていたんです。でも温室村というまとまったものができたのは富岡の方が早いんですよ。(※玉川温室村の最初は大正13年の荒木石次郎、14年の犬塚卓一を先駆者とし30数名の園芸家が次々と大温室を建て戦前の日本花卉園芸のメッカとなった)。

【所長】それから加藤さん、今も多少残りはありますが、栗木、それから日野ですか、あの辺が産地になったのも、富岡とはほぼ同時だったと考えてよろしいんですか。

【小島】いや、その後ですよ。富岡のほうがずっと早いんです。日野はね、二色春吉さんなんかやり始めた時分からですよ。

【横山清治】日野へ行ったのは岡村がなくなってしまってからですよ。

【所長】そうすると、中原、杉田あたりと富岡が同時期に。

【小島】富岡が一番早くてね、それから杉田の方へ行ったんですよね。日野の方へ行ったのはそのずっと後ですよ。日野は富岡ほど発展いたしませんでしたね。

【横山】それは、地震の時に岡村の方がほとんど駄目になりましてね。それに住宅地になっちゃったし。花も大部分少なくなっちゃったんです。そのために結局、日野の方へだんだん移って行ったわけですよ。横浜付近の花屋は全部岡村へ行きましたからね。

【岡本】岡村の方がなくなって、草花はだんだんと富岡の方へ移っているんですね。しかし、洋花の高級品を作ったのは富岡が一番早かったですよ。そのかわり、菊とか百日草とか千日草、そういうものを作るにはね、今の屏風ヶ浦から中里方面でしたね。それから秋菊の栽培では氷取沢、中里方面が中心でしたね。

【日山(ママ)】富岡は、富岡でしかできない菊、独特な菊がありましてね。これは霜の時期になると普通はだめになるのに、富岡には霜が降っても平気な菊があったんです。やっぱり暖かいためですね。ツル(品種?)なんてのはね、これはどこへ持って行ってもできないんです。富岡でなけりやできない品種なんですね。葉が落ちてもちゃんと持つんで、これがないと花屋は商売できなかったんですよ。

こういう特殊な菊は富岡では随分古くからやられていたと思いますね。うちなんかでも切りに行った記憶がありますけどね。それから三浦寒菊とかいうようなものも、ああいうような暖かい所で作りましたね。

【加藤】富岡の自分の家で生産していた菊なんか、蒲田まで持っていったこともありましたよ。蒲田に仲買いがありましたからね。

(※「園藝探偵の本棚」第88回、本日は、ここまで)

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■まとめ

①明治末、秋彼岸の花は野生のオミナエシと栽培者のエゾ菊、シオンなどで組んで、成り立っていた。

②明治40年代には、問屋が確立していなかった。花屋は山切り、切出しをして荷を集めた。

③花の流通の最初は、需要が先にあって、小売が荷集めに動いた。その後に生産が始まるという流れ。

④需要が増えるにつれて、山切り専門の業者や生産を請け負う植木屋が出てきた。

⑤やがて生産者が直接自分で売りに行く、また頼まれたものを生産する、というふうに発展していった。

⑥山切りして売っていた人が生産の方に進む人もいた。これも、需要から生産への流れのひとつ。

⑦色々な種類をあつめるため、新潟などへ集荷の手を広げる山切り系生産・小売商もいた。

⑧横浜の近郊で最も早く温室で草花を栽培し始めた富岡では、横浜植木からさまざまな種苗を入れて出荷した。玉川温室村の園芸家にカーネーションの栽培を教わることもあった。

⑨富岡は花卉の栽培に適しており、ここでしかできない有利な品種を持っていた。

⑩花卉栽培の先進地、蒲田には、花の仲買(問屋)があり、そこまで持ち込むこともあった。

参考

『世田谷の園芸を築き上げた人々』城南園芸柏研究会 湯尾敬治1970
『神奈川県花き業界沿革史』神奈川県生花商組合連合会1967

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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