農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第89回 シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その3

公開日:2020.10.23

『横浜の花の歴史を語る』

[制作・発行]横浜市緑政局
[発行年月日]1973年3月
[入手の難易度]超難(図書館のみ)

古老が集まった「歴史的座談会」

横浜の花の歴史は、日本の近代園芸史の第1ページ目を飾る重要な項目である。横浜の花の歴史と先駆者の努力を後世に伝え残したいという目的で昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画のその3。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回の企画は、何週かに分けて連続して可能な限り全体を通しで読んでみようというものである。引用部分の量が多いので、次回は要点だけを示しこの企画を終えることにする。

出席者について

1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 生産、小売り(海外で花づくりを学び、大正の初めに帰国し草花の生産を始めた。本連載62回、84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。)

2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産

3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産

4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家(山野草) 著書多数

5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長

6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産

7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松)」

8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役

司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹

■花き生産の発展 その2

【稲波泰吉】脇さん、ハナショウブの生産は、あれは明治30年に。

【脇治三郎】花ショウブ(三英、六英)の起こりはね、仲見世ですよ、磯子の。あれは横浜植木が指導して栽培させたんですよ。あれがショウブの輸出の初めです。

【稲波】そのショウブ園は36年に蒲田へ移っているんですね(※現在の蒲田小学校、たいへん有名な菖蒲園で、最寄りの場所に後から駅ができたと言われている)。だから、今のお話のように蒲田という所が(※切花栽培が)非常に盛んな所だったし、みなさん慣れているというんで、今度は屏風ヶ浦から蒲田へ移したわけですね。

【脇】植木会社の社長の弟であった鈴木平蔵があそこの場長だったんですよ。

【小島亀吉】あそこは輸出を目的にこしらえたんですよね。

【脇】あの頃は、みんなショウブを今の芝を切るように四角に切ってね。それに土をつけて送ったものですよ。

(※日本から欧米へたくさんのハナショウブが輸出されたが、明治40年代にアメリカでハナショウブの根株からマメコガネの幼虫が見つかり輸出禁止となった。マメコガネはアメリカで繁殖し、ダイズやとうもろこしに大きな被害を与え、「ジャップ」と呼ばれるようになる。日本からの大量移民が問題化していた時代と重なり、日本人差別を象徴する害虫となった。)

【所長】ショウブのお話が出たついでにちょっとお伺いしたいんですけど市外になりますが、川崎の市ノ坪もショウブの生産を早くからやっていたと聞いているんですが。

【横山】何年になりますかね。私が覚えている頃にはもう作っておりましたね。掘抜井戸の水を利用しましてね。伊豆のショウブが出るまでは盛んにやっていましたよ。いくら温かい水が出ても温泉にはかなわないんで、だんだん商品価値がなくなりましてね。でも市ノ坪の横山庄蔵のショウブってのは有名でしたね。東京の市場へ出しても、これは上によしずを掛けて作ったものですよ。だからよそよりも割と売れたんじゃないですかね。品種がよかったし、それともうひとつは時期が一ヵ月ほど早かったしね。これは、かきつばたも同じだったんですよ。

【小島】かきつばたの方が早かったんじゃなかったんですか。

【横山】そうそう。最初はかきつばたが作られたんです。

【小島】川向ではかきつばたを清水でやったんですね。山田の方にも随分ありましたしね。掘抜きはその後の段階ですよ。清水の湧く所で作っても量が少なかったりするので、東京でも市ノ坪のをあてにしていましてね。

【横山】堀切のショウブ園ってのはむかしからあったんですね。あれは今も有名ですがね。

【所長】今度はまた花木に移りたいと思います。

今、カーネーションの栽培技術は東京都下の多摩川の方に技術を持った人がいたから、そういう所から導入したというお話しでしたが、花木の場合ですね、それは小売商の方が先に技術を持っておられて、その技術が生産者のほうへ伝わっていったというふうに考えてよろしいんでしょうか。

【岡本宇吉】そういうこともありますね。というのは、ただ作るというだけでは駄目で、それを切って使い物になるように造る必要があるわけです。だから枝がボサでは駄目だから、こういうふうな作りをするようにと教えることは、まあ、小島さんなんかは別ですけど、岡村なんかの場合にはありましたね。ですから花木の場合でも、桃やなんかは、今年は花が着かないが、それをそのまま放っておくと駄目になるからって全部切ってしまうことはありましたよ。

【加藤】だからそういうふうに日本物を作る場合にはやっぱり花の心得がなけりゃいけないからね。その当時の人はみんな活け花を習ってそれから入ってますよ。

【所長】それから桃などを室(※ムロ)で咲かせるのは、横山さんたちのような小売商の方は、いつごろからお始めになられたんですか。

【横山】そうですね、明治の終り頃か大正の初め、いやもっと前だな。大隈さんが横浜に演説にこられた当時の花の会に、すでに桃なんか活けてあったような記憶がありましたがね。だからもっと前でしょう。明治の末期頃だったと思いますがね。

【中村隆吉】私も兵隊前からやっていましたからね。

【所長】室で麦糖を使って温度をとるというあの方法は、どこから入ったものですかね。

【稲波】あれは、室でふかすという何かあったんでしょうね。農家の方に聞いてみなけりゃわかりませんけど。

【中村】私はね、こういうふうに聞いていますよ。昔ね、池上に徳川の御用室(土室)があったそうですね。それで池上が一番古いんだというふうに聞いていますがね。

その時分、私が見習いに行ったところの主人が永久保さんという人でね、その人の話ですと、室ってのは徳川の御用室が最初だったらしいですね。そこで行われていた方法ってのはね、横穴のおくに麦糖と米糖、それに大根の乾燥葉を混ぜて水で練ったものを置いて発酵させ、熱を出させるって方法だったらしいんですね。

【横山】あれは花屋専門でなしに、何か他からああいう技術を得たものでしょうかね。あの室で花を咲かせるっていうよなことは。

【小島】一番最初は馬糞かな。馬糞は牛糞を入れると非常に高温を出すってんでね。それから始まったらしいんです。それであれじゃ臭くてしようがないんでね、麦糖を使うようになったらしいんです。それで最初は米糖を使ったらしいんですがね。米糖では一度に熱が出てしまっていけないってんで麦糖になったらしんですよ。でも誰が始めたかは、私は知りませんがね。

【所長】小島さんはどこから。

【小島】私は父がやったものですからね、どこからかわからないですよ。でも、横浜では私の所なんか土室を始めたのは古い方でしょうね。

【所長】小島さんが土室で咲かせるってことをお始めになったころには川崎の馬絹の方ではどうだったんですかね。

【小島】馬絹では、やってましたね。馬絹もぼつぼつ同じ頃に始めたんですよ、都倉さんがね。おそらく都倉さんと私の家は同じ時代で、どっちが早いんだかわかりませんけどね。

【所長】小島さんがテッポウ百合を冷蔵処理して温室で咲かせるようになったのはいつ頃からですか。

【小島】そうですね、今から42、43年前ですね。まあ、あの当時は、横浜でテッポウ百合を作っていたのは脇さんぐらいのものでしたからね。

テッポウ百合の促成は山手冷蔵なんかに持っていって冷蔵を始めたんです。それから土室の中で冷蔵できるってのを私が考えたんです。

【所長】横穴でですね。

【小島】ええ、横穴で芽出しができるってことはね。沖縄や永良部島では常夏ですから、4月頃花が咲くんですね。だから普通の所でも少し冷やせば咲くだろうっていうことで試しにやったところ、それがあたりましてね。それから私は土室で促成をしたんです。それに2番穂で切り始めたのも私なんです。早い促成の球は2番穂が使えるって、2番を切り始めたのは、私が一番早かったと思うんですがね。

【所長】促成で切ってしまった後の球を、外へ出して置いたところ芽が出てきたので、それを見て、これは使えるぞってことで試されたんですか。

【小島】そうなんですよ。それから初めてやったんですがね。まあ、早いのはいいんですが、遅いのは凍りましてね、うまくいかないんですよ。房州のような暖かい所なら2番が全部切れますがね。ところが一度温室の中に入れますと、12月以後のは急に暖かい所から寒い所へ出しますからね、凍ってしまうんです。ですからうまくいかないんです。ところが、それ以前に寒さが徐々にあたっていたのなら大丈夫なんです。2番花は何しろ2本咲きますからね。

【鈴木吉五郎】2番を切り出したのは何年ぐらい前ですか。

【小島】2番を切り出したのはね、今から20何年か前になりますね。

【横山】うちなんかで随分使わせてもらったね、持ってきてくれたからほんとうによかったですよ。

【小島】まあ、いろいろと変遷がありまして、カーネーションが富岡で盛んな時には日本でも有名でしたね。今のところじゃ横浜としますと、鉢物でしょうね。鉢物では神奈川県下じゃトップですよ。種類も中村さんたちがいろいろ骨を折って導入して下さいますんで、新しいのがかなり入っております。

***********************

■まとめ

①ハナショウブの生産が盛んになるのは、明治30年頃、横浜植木が指導して栽培させた磯子の菖蒲園からで、その後、蒲田へ移転した。大量のショウブが輸出されていた。

②東京西部の草花、花木の産地は蒲田のほかに、神奈川県の川崎市(市ノ坪、馬絹)が有名だった。市ノ坪では掘り抜き井戸の水が豊富でかきつばた、ハナショウブが盛んに栽培されていた。

③花木の生産については、まず、小売商の方が先に技術を持っていて、その技術が生産者のほうへ伝わっていったというふうに考えられる。

④花がどのように使われるか知らなければ生産もできない。生産者はみな、いけばなを習っていた。

⑤促成栽培、開花促進のためにムロが利用された。ムロの利用は幕府の御用室があった東京の池上が早かった。

⑥ムロの加温は、麦糖や馬糞などの発酵熱が利用されていた。【小島】馬絹では、やってましたね。馬絹もぼつぼつ同じ頃に始めたんですよ、都倉さんがね。おそらく都倉さんと私の家は同じ時代で、どっちが早いんだかわかりませんけどね。

⑦大正時代に入ると、テッポウユリの促成栽培も始まった。初期には横浜にある山手冷蔵の野菜の冷蔵倉庫が利用されていた。

**********************

○小島亀吉さんによるテッポウユリの促成法(『神奈川の花』1962から)

古老の座談会に参加している生産者の小島さんは、明治40年ころから横浜の外国人向けの花の栽培を始め、主に花木の促成を土室で行っていたという。間もなく温室を建てたのも花木を促成するためだったという。テッポウユリの栽培は、大正5年、外国で栽培技術を学んで帰国したばかりの脇治三郎さんに師事して始めたそうである。スタートは10坪ほどの温室を練炭ストーブで加温する方法で始めたが、練炭では適正な温度まで上げられず、成績はよくなかった。

球根の冷蔵処理を始めたのは大正7年からで、当時、横浜の山手冷蔵の蔬菜の貯蔵庫へ入れてもらった。暮れと春の年2回の需要期の出荷をねらい、冷蔵の温度や期間をいろいろと試したが、失敗も多く苦心したという。

『神奈川の花』には、昭和37年頃の冷蔵処理の様子が詳述されている。下図は小島さんが用いた土室の図。まず、土室で予備冷蔵を行い、その後、横浜市場冷蔵庫の球根温度処理場で管理してもらう。

予備冷蔵は球根を14℃に保つ。斜面に奥行き7メートルの横穴を掘り、箱に詰めた球根を収めてムシロをかける。入口は扉を閉めて外気を遮断し温度変化を防ぐ。小島さんの横穴は北斜面の竹林につくられていた。横穴に入れた球根は、1週間から10日くらいで取り出し、横浜市場の球根処理場で7~8℃に保ち、25~30日貯蔵した。処理が終わったものは、順次取り出して定植した。この当時の栽培で興味深いのは、鉢に植えて栽培していることである。土は清潔なものを利用し、一度利用した土は二度と使用しないようにしていた。順調に栽培が進めば80日から100日で出荷となる。2番花を利用するには、12月以前に収穫し終わった鉢を植えたままで外においておき、春になってもう一度温室に搬入するというふうにやっていたようだ。座談会でも語られているように、12月以降に収穫したものからは2番花は得られなかった。

小島氏が温度処理をした土室(横穴式)  『神奈川の花』から採録

(「園藝探偵の本棚」第89回、本日はここまで)

参考
『神奈川の花』神奈川県園芸協会・編 第11回日本花き園芸大会1962
『世田谷の園芸を築き上げた人々』城南園芸柏研究会 湯尾敬治1970
『原色趣味の草花園芸』松崎直枝 三省堂1937(※本日の写真に開いて見せてある本)

検索キーワード

#横浜#ハナショウブ#蒲田菖蒲園#横浜植木#室#池上#川崎#市ノ坪#馬絹#テッポウユリ#山手冷蔵

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア