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第90回 シリーズ★古老の話「横浜の花の歴史を語る」1973年 を読む…その4

公開日:2020.10.30

『横浜の花の歴史を語る』

[制作・発行]横浜市緑政局
[発行年月日]1973年3月
[入手の難易度]超難(図書館のみ)

古老が集まった「歴史的座談会」

横浜の花の歴史と先駆者の努力を後世に伝え残したいという目的で昭和48年に制作された『横浜の花の歴史を語る』を読む企画の最終回。この座談会は昭和48年3月、古老、ベテラン8名を集めて行われた。みな明治、大正、戦前の昭和について、横浜の花について知る人たちばかりで、もう二度と聞けないエピソードが記されている。今回は最終回、要点を示してまとめてみたい。

出席者について

1、脇 治三郎 83才 磯子区広地 生産、小売り(海外で学び、大正の初めに帰国し草花の生産を始めた。本連載62回、84回で登場の脇金太郎の子息。脇金太郎は腕の立つ造園家でありながら、外国船員相手に草花を売り込み人気を得ると明治12年には8坪ほどの小温室を建てて栽培を始めた。メキシコに出かけて大量にサボテンを入れたことでも知られる。)

2、加藤太市郎 82才 金沢区富岡町 生産

3、小島亀吉 75才 緑区北八朔町 生産

4、鈴木吉五郎 74才 金沢区富岡町 園芸家(山野草) 著書多数

5、岡本宇吉 73才 中区麦田町「大和生花店」神奈川県生花商組合連合会会長

6、中村隆吉 67才 港北区新羽町 生産

7、横山清治 67才 中区曙町 生花店「花松(相松)」

8、稲波泰吉 59才 南区唐沢 横浜植木株式会社取締役

司会 横浜市緑化センター所長 徳植末樹

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①明治初年の花の小売商は、いまだ自然採取を中心に農家の庭先の花木や草花を集めて売る、「山切り」をしていた。需要が拡大してくるにつれて、農家への栽培委託や、自ら生産に入るもの、人を使って集めて小売商に売る仲買人が出てきた。また、その仲買人、問屋から仕入れて販売に専念する花商が増えていった。

②こうした経緯のため、花の小売商は、枝物や花の商品の見極めができるだけでなく、花木の仕立てや荷造り、輸送に関するエキスパートでもあった。新規に生産を始める農家は、こうした花商から仕事の仕方を教わっている。

③東京では隅田川の河口に近い場所に花問屋が集まり、堀切や西新井付近の農家が花を持ち込んでいたというが、西では、蒲田周辺、川崎周辺に花木や草花の産地が形成されていた。こうした生産者、花商が幕末の新興都市、横浜に進出し、山手の植木屋集団とともに外国人相手の商売を始め、やがて周辺地域が産地化し、流通量も増えていった。

④種苗、および園芸用品の輸入については、横浜植木の働きが大きかった。明治30年代の終りから40年代にかけて、ランやチューリップなどの球根類、観葉植物をメキシコやイギリスを始めとするヨーロッパ、またジャワから大量、多品種を導入し、この時代には世界の園芸植物をひととおり導入し終わったと言われている。こうした種苗が日本で切花や鉢物として流通し始めるのは大正の半ば以降、農薬(殺虫殺菌剤、除草剤など)や噴霧器、農機具、剪定バサミなども横浜植木が同じ頃にたくさん入れている。

⑤当時の横浜植木のカタログには「試作してその実を知られんことを」とある意味突き放した表現で、あずは、今まで見たこともないような西洋種の種苗を直輸入するから試してみてほしいと訴えていた。失敗することもあったが、成功すると得られた利益は大きかったという。明治40年代までに入ってきた種苗は、現在の目から見ても、もうこの頃入っていたのかと驚くようなものもあるが、栽培環境が現在と異なるため、多くは取捨選択の後に消えていったものもあったようだ。

⑥花の消費状況について、注目したいのは、「世の中は不景気でも、花はちっとも支障がなかったんです」という言葉だ。日露戦争後、大正はじめの米騒動のころや関東大震災、昭和恐慌といった不景気に幾度も直面しているにも関わらず、「花はぜいたく物」で中産階級以上、富裕層の間での需要は減ることがなかったというのだ。昔のほうが花の使い方は派手だったのではないかと語っている。横浜では貿易商社の「挿花(受付の花やオフィスを飾る花か)」はたくさんあったという。

⑦冠婚葬祭の花の利用は大きいものがあった。葬儀の筒花など大きなものが多く、必ず一対で飾られた。終戦直後の外国人の花の利用は同じ花を1ダースで買うことが多く、売上もよかった。そのうちに外国人もいけばなを習いだして、いろいろな花を少しずつ買うようになってしまった。

⑧戦時中、花の作付けが禁止になったとき、市の農政課に軽部という人が係長をやっていた。軽部さんは少しずつ花の作付けを復活するように動いてくれた。小島亀吉さんは花卉生産者の種苗保存のためという名目で組合員1人あたり5坪の計算で全体では1反5畝の花の作付けが認められた。県内でも小島さん1人だけだったという。実際は山間部の畑を使って3反ほどに拡げて栽培を続けた。

⑨戦時中の花づくりは、品種保存としてわずかな面積で栽培するか、薬草ということで作った。アマドコロ(ナルコユリ)、シャクヤク、ボタンなどを薬用として栽培した。市ノ坪のカキツバタのように、この時期に全滅したものも多くあった。陰でつくればわからないはずだが、誰かに告げ口されるのが怖くてできなかったという。

⑩昔の花屋は、生産者への支払いが悪い者が多かった。3割ほどを支払って残りはツケにして、売れたら払うというのが習慣になっていた。昭和に入ってから、生産者、小売商、卸売市場がそれぞれ組合をつくり、互いに問題点を話し合って解決策を決めるというようになっていった。

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■鵠沼あたりで松を採取して怖い目にあった話

【横山清治】昔は、鵠沼あたりに松を切りに行きましたよ。それでこう言っちゃなんですけど、上条さんなんかあそこへ松切りに行って殺されたんですよね。だから、あの事件があってからは、私なんか一人では行かせてもらえなかったんですよ。森さんとか安田さんなんかと一緒でなきゃ行かせてもらえなかったんです。

で、あの時分は鹿島に行くこともあるにはありましたけど、主に三州松を切りに行きましたね。でも、うちのおやじが言ってましたよ。昔流で言うと『五里、十里ぐらい松林ばかりで何にもないから、あんな所へは一人じゃやれない』なんてね。行くときはみんな金を持っていましたしね。

それと、うちのおやじが一番こわかったのは、松林の中に鉄砲を持っているやつがいたっていうんですね。それで一人じゃいかせてもらえなかったんです。

【小島亀吉】で、鹿島はずっと後ですよね。

【横山】ええ、ずっと後ですよ。三州がだんだん少なくなって、売ってはもらえなくなってしまったものですから鹿島の方へ移ったわけです。

【所長】鵠沼は根引き松なんですか。

【岡本宇吉】そうですね。だいたい根引きですよ。

【小島】そう、根引きが多かったですね。

(中略)

【横山】その時分、鹿島で松林がついて売買価格が一坪5銭なんです。新聞で見ますと、それを10銭で売り出していたんですよ。つまり5銭の幅を儲ける奴がいたんですよ。その男がその土地を管理していたんです。その頃、横浜千代田生命なんてのはうんと持ってましたよ。でもその土地に家を建てても水がないでしょう。砂地ばかりでね。それで崩れたままになっている家がありましたがね。それですから、管理人が、どれを切ってもいいってんでかまわず一俵いくらで自分の管理してる松を切らせたもんなんです。そうやってその時分で1万円位もうけたという話を聞きましたね。そういう人がいたんです。

それからあと、荒神松がそうでしたね。鹿島荒神松組合ってのがありましてね。そこでも同じようなことをやっていたんですよ。他人の地所の松を1銭か5厘かで買って、それを倍ぐらいの値段で東京の方へ出してたんですからね、けっこう儲かったんじゃないですか。

それからね、戦後のことですが、海軍が開拓団に払い下げた地所があってそりゃとてもいい松があったんですよ。それで開拓団の人に聞いたら、『それが私達の収入になるんですから、どうぞ切ってください』っていうんですね。(※ところが)だから開拓団長の所に行って『こういうわけだから松を切らせていただけないか』といくら交渉しても首を縦に振らないんですね。というのは、その前の年に松を黙って盗み切りした奴が見つかって、リヤカーに積んだままのを放り出して逃げてしまったそうなんですよ。それは川崎の花屋だと聞きましたがね。そんなわけで、私達がそこで1日ねばってみたんですが、とうとう切らせてはもらえなかったんです。だから1人でもそういうことをやるとみんなが迷惑するんですよ。

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■この資料の巻末にリストアップされた7件の資料
(いずれも基本資料として価値があるものばかり)

1、横浜市に於ける花卉生産並販売状況 横浜市勧業課 昭和8年

2、横浜市の農業 横浜市勧業課 昭和10年

3、横浜市農会創立10周年記念誌 横浜市農会 昭和12年

4、神奈川県農業発達史 富樫常治 昭和18年

5、横浜植木株式会社70年史年表 横浜植木株式会社 昭和36年

6、神奈川県の花 神奈川県園芸協会 昭和37年

7、神奈川県花き業界沿革史 神奈川県生花商組合連合会 昭和42年

参考
『原色趣味の草花園芸』松崎直枝 三省堂1937(※本日の写真に開いて見せてある本)

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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