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第92回 日本の「ドワーフ・ツリー」は「縮小する庭」

公開日:2020.11.13

『英国ガーデン物語 庭園のエコロジー』

[原著者]赤川裕(あかがわ・ゆたか)
[発行]研究社出版
[発行年月日]1997年7月1日
[入手の難易度]易

今回の問題は、英語「ミニチュア・ガーデン(miniature garden)」という言葉で表されるものをどういうふうにとらえるか、ということから始めたい。明治期に日本の園芸界は、海外の国際博覧会にかなり積極的に出展している。展示物には各種の植木であるとか、「盆栽」のほか、大きな日本庭園をつくることもあった。庭園がつくれない場合などは「miniature garden」を出品している。このミニチュア・ガーデンをどのようなものととらえ、どう訳すか。数多く出てくるのは、「箱庭」とする事例である。また、「庭園模型」とする場合もある。1910年(明治43)にイギリスで開催された日英博覧会での「箱庭」の展示では、7ft(2.1m)、幅12ft(3.6m)」のものが芝・苔香園、木部米吉によって「真・草2つの庭園模型」が製作されており、庭園模型が、「箱庭」と称されていた。理由は不明だ。現在の僕らの感覚では、箱庭と庭園模型では大きく違う。造園家にとって庭園模型は自らの思想を表現し、実際の施工に関わる重要なものだという。当時のことは詳しくわからないが、うまく表現する言葉がなかったのかもしれない。

東京農業大学名誉教授、近藤三雄先生から話を聞いたおり、当時の欧米人にとって「miniature garden」は、もっと大きなサイズのものまで含まれていたのではないか、と話されたことがとても興味深かった。チェルシーフラワーショーなどでつくられるサイズも、ミニチュア・ガーデンと考えるならば、日本の標準的な家屋に付属する庭や、へたをするともっと大きなものまで、すべてミニチュアに含まれる可能性もある。外国人からは「寸尺の土地にも深山幽谷を現わす技術(『実業金剛石』)」「日本人は小さなスペースにみごとな庭園をつくるのがうまい」という評価があったことは古い資料にたびたび出てくる。

(図1、2)「dwarf trees」として紹介された盆栽類。明治44年(1911)版、横浜植木株式会社の海外向け英文カタログから

ドワーフ・ツリーとはなにか?

同じような問題が、「ドワーフ・ツリー(dwarf trees)」という言葉である。

『実業金剛石』(小笠原長信・著、力之日本社1935)には、当時、植物の輸出入で活況を極めていた横浜植木株式会社の事業に関して、次のような記述がある。「外人の嗜好を調べて見ると、日本の庭園に対して非常に感心して居った。寸尺の土地にも深山幽谷を現わす技術に寧ろ敬服して居ると云うども庭園を売る訳にはいかないから、それを縮小した盆栽類を提供したいと考えて、やや大規模に販売を試みて見ると果然それが当った。」この本は、掲載企業の業績を称える文脈で書かれており、多少の誇張が感じられるのだが、「盆栽は日本庭園を縮小したシンボルである」という見立てはとても興味深いと思う。

昔の盆栽は大きかった、ということはよく言われており、江戸時代の傾向を今に伝える「皇室の盆栽」のように1m以上あるものも少なくなかった。たとえ庭に植えられる樹木にしても、輸出用の場合は鉢に仕立てられる場合も多かったと思われる。また、日本の植木は庭園用に仕立てられた状態で植木溜(本連載第30回参照)に置かれていたであろうし、いわゆる「盆栽」と「植木」は、一見、同じような姿で輸出され、すべてひっくるめて「ドワーフ・ツリー」と呼ばれていたのではなかったか。

一方、こうした「ドワーフ・ツリー」は、自然にこういうふうになったものではなく、人間の手が持続的に加えられ続けてきたことも了解されていた。日本文化の傾向として、いろいろなものを小さくする傾向があることは、昔も今もよく知られていることで、植物に対しても、小さくする方向性があり、それを実現する技術がある、ということを示している。図3は明治後年の輸出用カタログに掲載された樹齢400年のチャボヒバだが(※これを単純に盆栽と言えるのか!)、「dwerfed(小さく仕立てられた)」というふうに動詞として使われており、日本人が手を入れて小さいままに維持し続けてきたという意味合いを表現している。

世界の人々は博覧会の会場で、日本庭園に設えられた小さな家(茶室)を見て、日本人というのはどれだけ小さな人たちなのかと驚き、また小さな庭園模型を見て、また小さな樹木を見て、これはいったいどういうことなのか、と不思議に思ったのではないだろうか。

(図3)江戸時代から伝わる樹齢400年のチャボヒバの盆栽。チャボヒバは、耐寒性のある矮性の針葉樹としてイギリスを始めとする欧州でたいへんに人気があった。横浜植木創立まもない明治38年(1905)版の英文カタログ。このチャボヒバは横浜植木のトレードマークとして長く使われていた。

「鉢植え」から「盆栽」への変遷について

鉢植えに関しては、本連載の第2回でも考えた。そこで取り上げた『鉢植えと人間』(田嶋リサ、2018)にも詳しく説明されているが、明治期のさまざまな文献や記事に出てくる「盆栽」は、現在の「鉢植え」と同じ意味を表していた。

江戸時代中期ころから普及する植木鉢によって植物の鉢植えが広まり、「盆栽」=「鉢植え」時代が長かった。実際に、当時の文献には盆栽という文字に「はちうえ」「はちき」「はちもの」というふりがなを振ってあるものが数多く見受けられる。「ぼんさい」と読ませても、実際は鉢植えを意味する場合が多かった。また現在のような自然の情景を表現するために手をかけて仕立てられた芸術作品としての「盆栽」のイメージが定着するのは比較的新しく、大正から昭和にかけてのきごとである(平野2010、2019等)。

もう一つ、盆栽や鉢植えが室内に飾られるようになるのも明治以降に広まった慣習である、ということだ。

江戸時代に描かれた多数の浮世絵を検討すると、盆栽が座敷に上げられた事例は数えるほどしかなく、逆に明治以降に多い(田口文哉2011、2012等)。例えば、煎茶の茶会の席で床飾りに盆栽が用いられ、盆栽の陳列会を屋内で行うといったことが始まった。このように盆栽を芸術品として格上げする動きは知識階級や富裕層を中心に定着していく。江戸期の大名庭園の維持管理、また維新後、華族の邸宅とつながりのあった駒込・巣鴨の植木屋は明治25年(1892)には根津の料亭で「美術盆栽会」を開催するなど上流階級に盆栽趣味を広げていった。

また明治後期には日清・日露戦争での勝利をきっかけに日本独自の文化が見直され再評価される動きのなかで芸術的な盆栽の価値も向上する。千葉大学園芸学部元教授、岩佐亮二(1915-2003)の『盆栽文化史』(八坂書房刊昭和51年初版)によれば、明治 36 年(1903)、貴族院の開会で玄関や便殿(控室)に盆栽が初めて飾られたとあり、この時代の様子が推察できる。昭和9年(1934)に行われた上野での国風盆栽展の開催等を経てこの時代に芸術的な盆栽の地位が確立していったようだ。このような鉢植えの室内装飾への利用は、貸植木、貸鉢という専門業者の誕生を後押しすることになっていくのだが、これはまた別の機会にゆずる。

英国庭園における「庭木」や「鉢植え」の意味

『英国ガーデン物語』(1997)の著者、赤川裕は明治学院大学名誉教授、イギリス文化史、英文学を専門とし、大学ではイギリス文化史、紋章学、庭園学等を教えていた。NHKテレビの英語講座の講師を務めたこともあるという。イギリスの庭園や園芸文化に関する著作が複数ある。本書では、英国庭園の特徴や歴史を解説した上で現代に生きる我々に対して庭や植物がなにをもたらしているのか、といった人間と園芸の関係について考察していく。

庭園というのはもともと塀に囲われた安全、安心な場所につくられる楽園のモデルだった(本連載第74回参照)が、英国の庭園は塀を見えなくし、より自然でまるで絵に書いたような風景を目指す。こうした18世紀のピクチャレスク(絵のような)の庭はやがてたいくつなものと思われるようになり19世紀には古典主義の復活、家の中から眺めて楽しめるような整型花壇や、自然な形で見栄えよく育った樹木が好まれるようになった。こうしたガーデネスク(庭らしさがあるスタイル)と呼ばれた19世紀の庭園では、人間が手を入れなくても自然な樹形が美しい樹種が重要視され、日本から輸出されたコウヤマキなどたいへんに人気となった。日本の盆栽や日本庭園にあるような庭木は人間がそうとうに手を入れて造形されたもので、この時代の価値観とはおよそかけ離れている。

本著で注目したのは、第三章「英国庭園が現代に問いかけるもの」で語られる「縮小する庭」という項目だ。

ここで、17世紀の後半に建てられたヴェルサイユ宮殿における鉢植えについて述べられている。ここには多数の鉢植えがあった。木製の四角い箱に鉄の「たが」をはめ、白く塗った大型のコンテナには、当時たいへんに貴重だったオレンジなどの柑橘系果樹が植えられていた。冬でもたわわに実ったオレンジは太陽王の象徴でもあった。オレンジは戸外で越冬が出来ないため、鉢植えにされ寒気は「オランジェリー」と名付けられた温室に移動して大事に管理されていた。このように、当時の鉢植えの使い方は戸外に植えっぱなしにできないものを移動可能にするものであって、自然や庭園を縮小してみせる日本の「鉢植え」「盆栽」とは異なる意味合いを持っていた。

これが、大きく変わるのは、産業革命後、19世紀になってからのことだった。このころ、イギリスでは植物を鉢植えにして家の窓辺や室内で楽しむ人が増えた。鉢植えを求めたのは、産業革命後に農村から都市に流入した工場などの賃金労働者だった。人々は「レースのカーテン(現在でも「趣味の園芸」で多用されるキーワード)」をかけた出窓を設え、自慢の鉢植えを並べて内からも外からも見えるようにした。一方で富を蓄積した中産階級以上に流行ったのは高価なガラスケース入りの「テラリウム」だった(当時のロンドンなど大都市では大気汚染がひどくテラリウムを用いなければ栽培できない植物が多かったのも流行の要因だった)。ロンドンの貧しい労働者が手にした小さな鉢植えと豪華な飾りのついたテラリウムでは見た目に大きな違いがあった。しかし、鉢植えにしてもテラリウムにしても「自然の縮小化」であり、ひとつの思想現象なのだと著者は指摘する。

(図4)こんなに美しく多様な植木鉢を普通に使っている国は日本以外にあるのだろうか。1910年版の横浜植木株式会社の海外向け英文カタログから

かつて、庭園は権力や政治のメッセージを表し、思想の具現化として存在していた。それが鉢植えに縮小化することで思想性は希薄化し「モノ」となっていく(=近現代における鉢植え商品の意味合いと同じ)。スラム化し伝染病が蔓延するような劣悪な環境のなかで人々は小さな自然を手元に置いて大切にした。これは現代人も同じである。新しい「パイエリダーザ(楽園)」、「囲まれた小パラダイス」を鉢植えに見出そうとしている。この「楽園」は18世紀以前の手を入れない庭ではなく、手をかけて慈しむ小さな庭である。つまり、この頃のロンドンの人たちは日本の「ドワーフ・ツリー」を本質的に理解できたはずなのだ。それでも、戸外で越冬できるものなら、鉢植えではなく庭に下ろしたのではないだろうか。やがて、19世紀の英国社会は都市の問題を解決するために「田園都市」を構想・実現し、労働者向けの農園付き小住宅を郊外に数多く作り出し、劣悪な環境で鉢植えを育てるような社会のあり方を根本から変えようとしていた。

ここまで見てきたように、ヨーロッパの植木鉢は、「コンテナ(容器)」なのだと改めて思う。植物と容器は別々のモノなのだ。そもそも鉢植えに思想も哲学も入れないようにしてきたのだと思う。一方で、日本の「ドワーフ・プランツ(盆栽・整型された庭木)」では、植物と植木鉢は一体のもののように思える。そうでなければ、わざわざ浅い鉢に植えて何年も維持する必要がないはずだからだ。水やりも数日に一回やればいいくらいに手頃な大きさの深い鉢に植えればいいのだ。でも、それをしない。理想を追求し、形(枝ぶりやサイズ)を追求し、それを維持するように大切に手を入れていく。

現代の私たちが扱っているのは、19世紀にイギリスの都市労働者が「レースのカーテン」越しに陽を当てて飾った鉢植えと同じ意味の「モノ」としての鉢植えなのだ。そして、かつて「ドワーフ・プランツ」と呼ばれた「盆栽」や「何年も手を入れて整えた庭木」とは似ても似つかいないモノなのであり、同じように扱ってはいけないものなのだと思うのだ。

参考
①小笠原長信『実業金剛石』力之日本社1935
②田嶋リサ『鉢植えと人間』法政大学出版局2018
③平野恵「江戸の鉢植と盆栽」「近代の盆栽文化」(『美術コレクション名品選』さいたま市大宮盆栽美術館編2010)
④平野恵「植木鉢の普及と園芸文化」(『江戸の園芸熱』たばこと塩の博物館2019)
⑤田口文哉「盆栽(はちうえ)の図像学」第12回(月刊『近代盆栽』2011年12月号)
⑥田口文哉「美人画の道具立て〈盆栽〉―その置かれた場から見る」(『ウキヨエ盆栽園』大宮盆栽美術館2012)
⑦岩佐亮二『盆栽文化史』八坂書房 1976
⑧飯田操『ガーデニングとイギリス人 「園芸大国」はいかにしてつくられたか』大修館書店2016

検索ワード

#盆栽#植木鉢#箱庭#チェルシーフラワーショー#ヴェルサイユ#オランジェリー#ガーデニング

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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