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第93回 「花のことなら松崎に訊け」身を飾らず学問を愛した巨人―松崎直枝

公開日:2020.11.20

「松崎直枝(植物文化に貢献した人々)」『日本植物園協会誌』 (第32号)

[著者]松崎直介(茨城県水戸市立植物公園・蘭科協会顧問)
[発行]日本植物園協会
[発行年月日]1998年
[入手の難易度]やや難

『原色 趣味の草花園芸』

[著者]松崎直枝(東京帝大附属小石川植物園園芸主任)
[発行]三省堂
[発行年月日]1937年3月15日初版/1942年7月30日第11版(5000部発行/マル停価格 金二円五十銭)
[入手の難易度]やや難

※1939=昭和14年、「9.18物価停止令」および10.18の「価格等統制令」で制定された「停止価格、マル停価格」

「隠れたる偉大な植物学者」田代安定について、本連載第80回で取り上げている。田代安定について、つい先日、田代が報告書を書き、死後、一冊の本にまとめられた『沖縄結縄考』(縄の結び方でメッセージを表す風習)を入手したので、さっそく表紙を開いてみると、古い新聞の記事が扉に貼り付けてあった。南日本新聞1956年2月13日の「かごしま人⑬ 田代安定」という記事である。

写真1 古書で手に入れた『沖縄結縄考』の扉に貼り付けてあった新聞記事。

『沖縄結縄考』の内容を述べた後、田代の履歴と人となりについてまとめた好記事だった。最後の部分にはこんなエピソードが書かれている。

彼は大変なタバコ好きであった。タバコを吸いながら、植物学や、結縄の本を書き、書き始めると夢中になるので、よくタバコを忘れた。忘れられたタバコは、彼の部屋のタタミを点々と焼き、机を焼き、ために洋服でさえも、指がプスプスとはいるような、そんな穴が数え切れないほどあいていたという。彼はその穴のあいた服を、構わずに着て歩く男であった。学問を愛し、学問だけを愛し、晩年は、あまり恵まれずに死んだ男。名を売りたがらない男。背の低い小柄な、天才であった。いまどきの鹿児島人に、せんじて飲ませたいほどの男であった。

松崎直枝、集合写真の謎

今日お話する松崎直枝(まつざき・なおえ)も、師であった田代安定に似たところがあって、どこへ行くにもいつもヨレヨレの背広、着古した乗馬ズボン、それにズックの靴か長靴という出で立ちの超俗的なタイプの人だったという。松崎は、誠文堂新光社の金字塔的園芸誌『実際園藝』の主幹、石井勇義と親しく、数多くの記事を書いている。『復刻ダイジェスト版 実際園藝1926-1936』誠文堂新光社1987によると、『実際園藝』の執筆者のなかで第1巻1号から第20巻6号までの執筆回数を調べると、松崎直枝は70回でダントツの第1位となっている(第2位は岡見義男の40回)。「渡来花卉物語」「近世渡来園芸植物」の連載は長期に渡って掲載され単行本として刊行された。石井勇義は日本の園芸界の中枢にいた出版人で、さまざまな会合に参加し記事にしているのだが、取材の際に撮影された集合写真に松崎の姿も数多く写っている。いわゆる「いがぐり頭」、「丸メガネ」、「口ひげ」で、間違うことのない印象の人である。松崎の集合写真で、ひとつ不思議なことは、カメラのレンズ以外の何かを見ているものが多いことだ。写真2などはまだよいほうで、後ろの木陰に隠れてしまっているものもある。

写真2 向かって右から五島八左衛門、松崎直枝、後藤兼吉、池田成功、福羽発三、岡本勘治郎、平沼大三郎、岡見義男、山岡健太郎、石井勇義。中央に座っておられるのが吉田進翁。『実際園芸』第12巻第3号、昭和7年8月号から (本連載第69回参照)

戦中・戦後に貴重な植物を守った隠れたる恩人

松崎直枝は、明治22年(1889)12月18日に熊本に生まれ、昭和24年(1949)2月21日に。享年は61才。小石川植物園に長く勤めていたため「小石川植物園園長」と書かれた資料もあるが、それは間違っており、正しくは「園芸主任」である。大場秀章著、『植物文化人物事典』(2007)には「植物学者、東京帝国大学理学部附属小石川植物園園芸主」となっている。以下、同書から松崎の略歴を引用する。

熊本県熊本市出生。鹿児島高等農林学校(現・鹿児島大学農学部)卒。専攻は園芸学。

鹿児島高等農林学校在学中から南方植物について学び(※田代安定の講義も受けていた)、卒業後の大正2年より東京帝国大学理学部附属小石川植物園に勤務。

3年同園芸主任であった中井猛之進に随行して朝鮮に渡り、同地の植物調査に従事した。次いで横浜植木会社に転じ、5年から約3年のあいだ南米のチリで野生植物を調査。

帰国後は小石川植物園に戻り、14年間同園芸主任となった。この間、当時手を着けるものがほとんどいなかった渡来園芸植物について研究を進め、新聞・雑誌にそれらについての文章を執筆。同園や東京帝国大学図書館などの豊富な蔵書を活用し、渡来植物の歴史的考証にも意を用いた。石井勇義の編纂した「原色植物図譜」「園芸大辞典」の執筆者、同じく石井の主宰した園芸雑誌「実際園藝」や小林典雄の「盆栽」の寄稿者としても活躍。

昭和17年には興亜院の命で資源植物を調べるため、中国華北地方や蒙古に渡っている。

19年園芸文化協会の設立にともない理事に就任。戦後、戦争で荒廃した植物園を復興させるため、植物園協会の創設を提唱するとともにその準備に当たり、22年の日本植物園協会発会への道を作った。

大正から昭和を通じて園芸植物・観葉植物の第一人者とされ、英語、スペイン語、ラテン語、マレー語などに通じ、米国からわざわざ彼をガイドに指名して来日する学者もあったといい、「花のことなら松崎に訊け」とまでいわれた。

24年胃癌で死去。その弔事は88歳の牧野富太郎が読んだ。

著書に「一樹一話趣味の樹木」「近世渡来園芸植物」「草木有情」などがある。

松崎に関する情報はとても少なく、ほとんど実像を知る機会がなかったのだが、1つ、東京大学名誉教授、附属小石川植物園の園長を務めた本田正次(ほんだ・まさじ1897‐1984)が書いた資料に松崎についてのエピソードがあるのを見つけた。熊本県広報誌「暮らしと県政・熊本」昭和50年(1975年)7月号のなかにある。本田の郷里は松崎と同じ熊本県である。松崎園芸主任は、園長の本田より8才年上だった。

(小石川植物園について)戦争の混乱時代は回りの塀は壊されほうだい、人が自由に入ってきて煙草やマッチを投げ捨てる。冬場は枯葉が燃え移って火事がよく起こった。何度、始末書を書かされたか分からんですよ。始末書園長とよくいわれました。そういうことで、評判はちっとも良くない、何度も辞表を書けと言われたけれども、がんとして聞き入れなかった。また戦争中は、食糧増産のため、広場やあき地を耕し、芋や野菜、大根などを作りましたよ、僕も恩恵にあずかりリックに入れて帰ったことを思い出します。

当時、植物園の園芸師であった熊本の人で僕の片腕になった人がいましてね、その人は日清戦争で勲功のあった松崎大尉の息子さんで、松崎直枝という方でね、同じ熊本県人だということもあって気持ちが良く通じ合ったし、何かにつけて僕を支援してくれた人でした。この人も頑固一徹の人でね。こういうことがありましたよ。

戦争も末期に近い昭和20年の8月10日頃、終戦直前ですか、陸軍から植物園をこわして高射砲陣地にしたいと交渉にきたんですよ。軍人だから高圧的な態度でね。そこで松崎君と僕と2人で、ここは植物の研究所だから断じて貸すことはできんとがんとして受け入れなかったんですよ。まあ、「肥後モッコス」精神といいますか、最後まで植物園を守りとおしましたがね。

また付近の民家の人々に、戦災で焼け出されたらいつでも植物園を提供するから、ここを避難場所にしなさいと呼びかけたんです。それが僕がにらまれる1つの原因になったんです、大学当局からね。なぜ、大学そのものを守らないで、近所の人達ばかりに開放するのかといったような非難ごうごうたるものを僕は浴びせられたものですよ。

ここで、松崎直枝の父親が日清戦争のヒーローとして誰もが知っていた人物だったことがわかった。その名は松崎直臣という。明治27年(1894)7月、成歓・牙山の攻撃の際に戦死。日清戦争で最初に戦死した将校として当時、新聞などさまざまな媒体で繰り返しその勇敢さが報道されていた。国立博物館に肖像画が収められているという。戦時中の松崎の行動について、植物学者の津山尚は、石井勇義・著/山田寿雄・画/津山尚・編『石井勇義ツバキ・サザンカ図譜』(誠文堂新光社1979)のなかで次のように記している。

近衛の聯隊長、松崎直人(なおと)大佐は松崎直枝の兄である。この縁で、直枝は十四日会を組織し、毎月1回、偕行社、水行社その他で、軍人の話を聞いた。世は軍の主導する時代で、昭和12年頃からのことである。出席者は20名くらいで、岡見義男(新宿御苑、ラン科)、福羽発三(同、西洋蔬菜、イチゴ)、小林憲男(※盆栽芸術運動)らの顔も見えた。石井(※勇義)も、出席して話を聞いた。みな仲のよい多年の友人たちであり、園芸界では当世一流の人々であった。石井は戦局の行方をじっと見つめていたのである。昭和17年の頃、戦は一応勝っているようにも見えたが、太平洋の彼方では敵の反撃のきざしが見えた。人々の思いはさまざまであった。(以下略)

写真3 松崎直枝『原色趣味の草花園芸』(三省堂1937)草花の育て方を解説する一方で、原色図版は、慈しんで育てた植物を切り花として器にアレンジしたり、鉢物を寄せる、花壇にするといった楽しみ方を提案している。アレンジの写真は、いかにもディーセントな(decentきちんとしている)印象の好ましいものばかりだ。こんな愛らしい本を戦時中に第11版も繰り返し発行していたということに驚かされる。

日清戦争で有名な父を持ち、兄は近衛聯隊長という軍隊に近い家系にあった松崎は、戦時中に戦況に関する様々な情報を得ていたと思われる。小石川植物園に高射砲陣地がつくられるのを防げたのも陸軍に近い立場が有利に働いていたのかも知れない。松崎は、戦争末期の昭和19年に日本の植物資源を守ることを目的とした園芸文化協会の設立のために奔走し、設立後は理事を務めた。また、戦後は荒廃した植物園を復興させるため、植物園協会の創設を提唱し、22年の日本植物園協会発会へ尽力した。24年に亡くなったのはほんとうに残念なことだった。

松崎直枝はプラントハンターでもあった?!

その後、やっと見つけた松崎の資料が、今回参照した「松崎直枝(植物文化に貢献した人々)」『日本植物園協会誌』 (第32号)1998である。ここに略歴が詳しく書かれており、ようやくその人となりを知ることができた。著者は、松崎の子息、松崎直介(茨城県水戸市立植物公園・蘭科協会顧問)である。松崎は横浜植木が日本にもたらしたフェニックス・ロベレニーに「親王椰子」の和名をつけたことで知られているのだが、この資料を見て、初めて横浜植木株式会社に入社し、海外に派遣されていたことがわかった。大正3年(1914)から大正8年頃までの横浜植木時代に約3年間南米チリに派遣され現地の野生植物を調査した。当時は南米の植物を研究する日本人は皆無で、現地で作った標本約1500点は東大に寄贈されたという。

横浜植木株式会社に残されている『70年史(原稿)』のなかに「懐古座談会」という原稿があり、本連載第87~90回にも登場した脇治三郎は、横浜植木時代の松崎についてこんなことを話している。「あの方ね、朝一回りするのが一日の日課としていた。会うたんびに英語を習いなさい、英語を習わなくってはいけないよ。しじゅう飯田さん(※社員)には言われたもんです」。何か国語も使えてコミュニケーション力が高く、外国からきた研究社に名指しで案内役を頼まれた松崎ならではのアドバイスだった。

「花のことなら松崎に訊け」

新宿御苑の福羽発三(園芸家・福羽逸人の子息)は「花のことなら松崎に訊け」とまで語っていたという。松崎は観葉植物の権威、園芸界の第一人者と呼ばれ、石井勇義の畢生の大作『園芸大辞典』の主要な執筆者の1人だった。しかし、自身は自らを「花守」と称し草木の間に生きる、そういう人だった。松崎の机にはラテン語、スペイン語、ポルトガル語、マレー語、フランス語の辞書が並んでおり、ぼろぼろになるまで愛用された1917年版の『ベーレー園芸事典』(L.H.Bailey: The Standard Cyclopedia of Horticulure)全3巻には余白がないほど書き込みがあったという。 

参考
1 春山行夫『花の文化史』講談社1980
2 「かごしま人⑬ 田代安定」南日本新聞1956年2月13日
3 『復刻ダイジェスト版 実際園藝1926-1936』誠文堂新光社1987
4 石井勇義・著/山田寿雄・画/津山尚・編『石井勇義ツバキ・サザンカ図譜』誠文堂新光社1979

検索ワード

フェニックス・ロベレニー#石井勇義#園芸大辞典#本田正次#小石川植物園#牧野富太郎#横浜植木#チリ

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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