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第96回 「おし葉標本」とは何か~共闘するプラントハンターと研究者

公開日:2020.12.11 更新日: 2020.12.15

『日本植物研究の歴史―小石川植物園三〇〇年の歩み』

[編者]大場秀章
[発行]東京大学総合研究博物館
[発行年月日]1996年11月
[入手の難易度]易

『趣味の植物採集』

[著者]牧野富太郎
[発行]三省堂
[発行年月日]1942年6月3日第3版(1935年6月12日初版)
[入手の難易度]やや難

プラントハンターと植物学者は共闘する

19世紀はプラントハンターの世紀といわれる(本連載第79回参照)。世界を変えるような未知の植物を求めて恐れ知らずのプラントハンターたちは世界中を旅して植物を集めた。こうした勇気ある人々のおかげで20世紀の半ばになると、もはや未踏の地域は数えるのみ。植物学の知識が蓄積した時代にあって、彼らの仕事は急速に減っていった。プラントハンターがわざわざでかけなくとも、現地に彼らの後継者が育っていたからだ。戦後の国際的な植物研究では大学や博物館を中心に調査団が結成され、調査地域に長期間滞在しながら集中的に資料を集めて持ち帰る、という大規模な活動になった。現在も「プラントハンター」を名乗っている人たちは、数少ない本物と植物輸入業者の2者に分類できる。

植物の研究者とプラントハンターは長い間、歩みをともにしてきた。ハンターは数多くの標本を研究者にもたらし、研究者はそれらを深く観察・比較参照して人類にとっての新しい知識を記述していった。日本の植物学の巨人、牧野富太郎はその人生を通じて膨大な距離を歩き、大量の植物標本を製作すると同時に研究者としても偉大な業績を残した。きょうは、牧野が書いた植物採集の解説本をひもときながら、プラントハンターと研究者について見ていきたいと思う。

日本を代表するプラントハンター、冨樫誠

19世紀に世界をまたにかけて活躍した「プラントハンター」は、植物園や富豪からミッションと予算を与えられ、派遣先から植物を送り込む仕事をしていた。プラントハンターに関する本を読んでいくと、生きた植物や種子などの他に、必ずといっていいほど「植物標本」を届けている。リクルート活動の際に、自分が製作したおし葉標本を雇い主に送って腕を見てもらう、ということも普通に行われていたようだ。また、こうした植物標本を売ることで当座の生活はなんとかやっていける、というような記述もあるほどで、当時の植物標本の需要は馬鹿にできないものであったことが推察できる。実際、明治日本の植物輸出の大手、横浜植木株式会社の海外向け英文カタログにも、一時期だが、日本各地の植物のおし葉標本が商品として掲載されている。同じ頃のカタログには「貝類(海貝、陸貝)」も載っているので、これらも海外のコレクターや装飾家に向けての「おすすめ商品」だったと思われる。

白幡洋三郎の『プラントハンター』によると、彼らの最大の目的が「生きた植物」であったことには違いないが、赤道周辺のインド洋の高温地帯やアフリカ、喜望峰をぐるりと廻る長距離ルートでは、植物を生かして運ぶのは困難が多かったという。それが、1840年に「ウォードの箱(ウォーディアン・ケース)」が発明され、スエズ運河が開通して距離が短くなるといったことにより状況は大きく変わった。世界各地からヨーロッパへ美しい園芸植物がもたらされ、ウォードの箱はチャノキ(紅茶)やパラゴムノキなど、世界を変えた植物の移動に使われた。

小石川植物園、横浜植木、武田薬品工業に勤めるなど、戦前戦後にかけて日本屈指のプラントハンターとして名を知られた冨樫誠(1911‐1998)は、本連載第93回に登場した松崎直枝に薫陶を受け、植物園から横浜植木会社に就職し北京支店に派遣された。中国に滞在しながら、いつかは憧れのヒマラヤに植物の調査に入りたいと願っていた冨樫は、戦争の激化による支店閉鎖、帰国命令に従わず退社し、そのまま中国に居残ったという強者である。戦後は、武田薬品工業に籍を置きながらプラントハンターとして活躍した。冨樫が製作したおし葉標本は膨大な数におよび、国立科学博物館をはじめ、大学など各地の研究機関に寄贈されている。野生植物の調査・採集のスペシャリストとして、大学や博物館が組織する植物調査隊のメンバーとして海外へもたびたび派遣された。こうした功績を称えるため1986年には園芸文化賞が贈られている。

冨樫の標本作成のやり方は、ひとつの植物について50枚、あるいはそれ以上の、とにかく多数の標本をつくることだったという。このような標本は通称「セット標本」と呼ばれ、海外の研究機関との標本交換用に重用された。

(1)国立科学博物館動物研究部の川田伸一郎が著した『標本バカ』。題字は書家、金澤翔子、イラストは浅野文彦。非常に面白いおすすめの新刊。

国立科学博物館の動物研究部研究主幹、川田伸一郎著『標本バカ』では、動物の標本にまつわる、驚くような面白い話がこれでもか、と語られる。このなかでも、研究者にとっての標本の重要性が語られているが、その数はできるかぎり多いほうがいいといと述べられている。1つの動物種の個体差、変異を調べる場合、ときに数千もの標本からデータを取って比較する必要があるという。近年は遺伝子レベルの研究になってきており、進化の道筋や系統を調べる上でも多数の標本を調べなければはじまらない。どの生物がどこに存在していたか、という証拠でもある標本は、は大きく環境が変わってしまった場合、今となっては、なおさら貴重な記録となっている。

僕は若い頃、国立科学博物館で小僧のような仕事をしていた。東京都新宿区の百人町にあった「分館」でシダの標本の整理をやったり、シーラカンスの解剖の際、取材で写真撮影をしたりといろいろなことを思い出した。ある時、自分が住んでいた石神井公園の下宿の玄関先にコガモの死体が落ちていた。これは何かの贈り物と思って、標本を作ろうとしたのだが、たいへんなことになってしまった覚えがある。結局、翼の部分だけになってしまった。

(2)牧野は、八百屋の店頭や、街中の植木(園芸品種)まで観察の目を向けよ、と示している。
横浜中華街にある八百屋での「採集」とノダフジの原産地、大阪府野田での「観察」の様子。『趣味の植物採集』から
(3)おし葉標本の「重し(圧石)」に使う巨大な「切り石」を旅館の3階に揚げている、非常に珍しい写真や、神戸に一時期あった「牧野植物研究所」内の標本の山(閉鎖・撤退する際のかたづけを石井勇義も手伝っており、股引き姿の集合写真が遺されている)などが掲載されている。『趣味の植物採集』から
(4)標本を台紙に貼る。レイアウトにはセンスが表れる。牧野先生の標本は美しいと定評あり。『趣味の植物採集』から

おし葉とハーバリウム

大場秀章編『日本植物研究の歴史―小石川植物園三〇〇年の歩み』(東京大学総合研究博物館1996)に、大場秀章が書いた「おし葉とハーバリウム」という論考がある。「研究資料としてのおし葉標本」「ハーバリウム」「おし葉標本の起源」という見出しで説明されている。大場は「腊葉標本」「押し葉標本」ではなく、「おし葉標本」と表記しているので、同じように「おし葉」を使っている。以下概略をまとめる。

研究資料としてのおし葉標本

・おし葉標本は、少ないスペースに大量の資料を長期間保存・収蔵でき、コストもかからないため、植物の研究において最も重要な資料である。

・長期保存ができ、しかも管理が比較的やさしい植物学の研究資料といえば、おし葉標本をおいて他にない。変色や変形もあるが、定形の台紙に貼り収納できるので、保存のためのスペースは液浸標本など他の形態の植物標本に比べ最小で済む。凍結標本などの標本と比較して、保存のためのコストもあまりかからない。そのため何百万点もの標本を一ヵ所に集めて収蔵することが可能である。

・標本は複数点を収蔵する。「ひとつの種が変わりうる幅」を「変異」というが、この変異を具体的に示すものが標本で、分類学の研究ではこの変異を十分に把握することが欠かせない。

ハーバリウム

・分類学者は研究のためにたくさんの標本を集める。集めた標本を既存の標本とつき合わせることで初めて成果を得られる。分類学者は標本を必要としており、たくさんの標本を収蔵している施設で研究を展開する。研究者が多数集まるところはまたどんどんと標本が集まる。

・植物の標本室をハーバリウム(herbarium)と呼ぶ。いながらにして世界中の植物をそこで見ることができる。おし葉標本は細胞レベル以上の形態学の研究、なかでも微小で硬質な花粉や種子からマクロな形態の研究には、支障なく利用できる。

・おし葉標本からは、植物が採集地にあったということを証明する。分布の記録といった情報も伝えることができる数少ない資料でもある。

・おし葉標本からはさまざまな有用物質が抽出される。今日では、おし葉標本から分子レベルの遺伝情報をも得ることができるようになったように、分析解析の技術の進歩が標本の新たな利用を生み、先端研究の推進に役立っている。

おし葉標本の起源

・おし葉標本を研究の素材として利用するようになったのはヨーロッパの本草学が最初。しかし本草学の長い歴史の上では比較的新しいことで、16世紀に入ってから。日本では、19世紀以後のこと。

・おし葉標本の創始者はイタリアの本草学者、ルカ・ギーニ(1490-1556)と考えられている。しかしヨーロッパでは、13世紀には乾燥させた花の色を保持する方法が存在したことから、もっと古い時代のおし葉標本が発見される可能性は残るという。

・アマートゥスという人は、1553年にイギリス人のフォルクナーがおし葉標本を収集していることに触れている。アマートゥスは、標本がひとつの冊子にゴム糊で貼り付けられていたと述べている。このフォルクナーはイタリアを旅行したことがあった。おそらくはギーニからおし葉標本をつくる技術を学んだのだろう。ギーニの弟子だった著名な本草学者ターナ、アルドロヴァンディ、チェザルピーノも、16世紀中頃におし葉標本を作った。

アルドロヴァンディは、全世界の植物を含むおし葉標本の収集を目指した最初の人物であった。遠方の国々の植物を描くための資料としてのおし葉標本の価値はすぐに認められた。

・バーゼルの医師であったプラッターのおし葉標本は、かのモンテーニュが1580年バーゼルを通ったおりにこれを検分し、『随想録』に次のように記している。「他の人が薬草をその色に従って描かせる代わりに、かれは独創的な技術で自然をまるごと適切に台紙に糊づけする。そして、小さな葉や繊維はそれがあるがままの姿を示す」。彼は、ページをめくっても標本がはずれないことや、なかには実際20年以前のものもあることに驚嘆した。

・おし葉標本を収集するための詳細な知識が記述されたのは、スピーゲルの『植物学入門』(1606年刊)が最初である。スピーゲルはおし葉標本が重要なことを察し、ひとつを仕上げるのに費やされる労力が高い称賛に値することを認めている。彼自信はおし葉標本収集を「冬の庭園」Hotus hyemalisと呼んでいるが、「生きた本草書」とか「生きた本草図譜」、あるいは「乾いた庭園」とも呼ばれた。

・おし葉標本室を意味するハーバリウムという言葉が印刷物のなかで最初に登場するのは、1694年に刊行されたトゥルヌフォールの『基礎植物学』である。

・現在、世界最大のおし葉標本コレクションを収蔵する王立キュー植物園、これに次ぐロンドン自然史博物館やエディンバラ植物園があるイギリスでは17世紀の後半になっても、おし葉標本は普及していなかったらしい。

・日本ではいつ頃からおし葉標本が作られたのか、はっきりしたことはわからない。伊藤圭介の師である水谷豊文はおし葉標本ではないが、魚拓に似た植物の印葉図を作った。これは1747年に刊行され渡来したキニホフ(Johann Hieronymus Kiniphof)の『植物印葉図譜』をまねたものである。

・伊藤圭介や宇田川榕庵はシーボルトに会った後、植物採集に出かけ、おし葉標本を作った。ライデンやセントペテルブルクのシーボルト・コレクションには、圭介など江戸時代の日本人の作ったおし葉標本が多数保存されている。これらの多くはシーボルトが勧めて作らせた標本と想像される。いずれも「はがき」よりもひとまわりほど大きめの和紙に、乾燥させた植物を乾燥させ挟み込んだものである。

(5)「活かし箱」は5面がガラスで覆われた植物専用の保管ケース。
採集してきた植物をコップなどに挿し、自然な姿に戻して観察やスケッチに供する。

牧野富太郎が教える『趣味の植物採集』

古い書籍のタイトルに「趣味の」という言葉が入った古い入門書は少なくないが、現代の僕らが思うような「やさしい」内容ではないものが多い。牧野富太郎による『趣味の植物採集』(1942)は、弟子である本田正次、久内清孝らによって先に出版された『植物採集と標本製作法』(1931)に少しも引けを取らない詳しい内容になっている。そればかりか、「わが国において学会に興味を与えし植物発見の略史(第一に田代安定の業績を賛えている)」「曲亭馬琴翁調製のさく葉帖」「明治8年、伊藤圭介翁による植物乾腊法(図入り)」「宇田川榕菴による菩多尼訶経」「牧野・本田・常谷による植物行進歌」「東京植物同好会規約」など、様々な植物学者が書いた興味深い記事も多数掲載されているので、また別な機会に紹介したい。

この本には他に、標本植物の名前を聞くこと(同定依頼)についても、その手続きや態度について詳しく述べている。また牧野も、他者に名前を調べてもらうためにも「標本は複数作ること」を勧めているが、「根絶し」ないように厳しく戒めている。僕自身は若い頃、国立科学博物館とその附属の目黒自然教育園の両方の先生方に教わったのだが、科博のほうでは、どんどん植物に触れて標本を作るように勧め、一方の自然教育園では、必要以上に採集をしないで、自然のなかでよく観察することを勧めていた。僕は尾瀬の山小屋にも勤めた経験があるが、国立公園の特別保護地区・天然記念物に指定される尾瀬では枯れ葉一枚外に持ち出すことはできない。残していいのは足跡と思い出だけ、といわれていた。

参考
白幡洋三郎『プラントハンター: ヨーロッパの植物熱と日本』講談社1994
本田正次、久内清孝『植物採集と標本製作法』総合科学出版協会1931
後藤實ほか『冨樫誠(植物文化に貢献した人々)』日本植物園協会誌 (第32号)1998
川田伸一郎『標本バカ』ブックマン社2020

 

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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