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第97回 東京で百年続く老舗花店~2つの「花茂」の物語

公開日:2020.12.15

『この道六十五年~花茂の歴史~』

[著者]阿木翁助
[発行]甲陽書房
[発行年月日]1966年10月20日
[入手の難易度]難(非売品)

『花に命あり~花茂三代~』

[著者]阿木翁助
[発行]甲陽書房
[発行年月日]1972年5月1日
[入手の難易度]やや難

※本文は2冊ともほぼ同じ内容。前著の出版後の昭和47年(1972)、東京・新橋演舞場で舞台化され水谷八重子ら新派一座によって演じられた(「花に命あり―花茂三代記」)。これを記念して標題を『花に命あり』と改め、新書判サイズで新装普及版として刊行されたものだという。前著に掲載された写真等は大幅にカットされている。

2つの「花茂」

東京の渋谷区青山と港区三田に「花茂」という名前の花店が所在する。いずれも創業から100年を超える老舗中の老舗である。きょうはこの2つの「花茂」の成り立ちについての話をしようと思う。

青山「花茂」(株式会社花茂本店)は明治37年(1904)、初代社長、北野茂吉(写真1)が東京・青山に創業、現在まで110余年も続く老舗花店である。北野茂吉はもともと午蔵という名前だったが、「茂吉」の名に変えた。明治の元勲、西園寺公望公爵から頂戴した名前だという。「花茂」の名の由来にまつわる重要なエピソードだ。もしも改名しなければ「花午(はなうま)」になっていたかもしれない。ちなみに明治25年(1892)に六本木に開業したゴトウ花店の初代は長州藩士、後藤午之助(うまのすけ)といい、「花午(はなうま)」を名乗っている。大正8年(1919)、「後藤洋花店」(のちに「ゴトウ花店」)と改称、午之助のUを記念して「U.Goto Florist」を通称とし現在に至る。

(1)「花茂」初代、北野茂吉
(2)「花茂」2代、北野豊太郎と妻きよ
(3)「花茂」3代 北野太郎
(4)「三田花茂」初代、川原常太郎
(5)川原常太郎、青山での修行時代 大正時代(『花の文化史』から)
(6)大正元年に撮影された川原常太郎。18才頃の姿。
(7)20才の川原常太郎 大正2年頃

もうひとつの花茂、「三田花茂」は初代、川原常太郎(写真4)により、大正8年(1919)、港区三田に創業。現在は東京生花株式会社に組織変更し、「三田ハナモ」と「REN」の2つのブランドを展開、小売りの他にホテルなどの装飾業務を行っている。2019年には創業100周年を迎えた。

初代、川原常太郎は、青山「花茂」の2代、北野豊太郎の弟である。常太郎は明治27年(1894)、徳島県板野郡坂東村に川原家の三男として生まれ、16歳の時、「花茂」の養子に入った兄、豊太郎に呼ばれ上京、花屋としての修業が始まった。その後、常太郎は豊太郎とともに「花茂」を全国に知られる名店に盛りたてた。大正5年に兵役を終えると7年に結婚、翌大正8年(1919)、勇躍独立し、「三田花茂」を開業した。その後2代、3代と受け継がれている。1948年には「東京生花株式会社」に組織変更し、同時に屋号を「三田ハナモ」に変更した。2005年「REN」を開業、2011年に植物専門店として史上初めてグッドデザイン賞を受賞した。(以上、東京生花株式会社HPを参照した)

北野午蔵夫婦と西園寺公の出会い

青山花茂の初代、北野午蔵は明治2年(1869)徳島県名東郡加茂村字田宮(現・徳島市)に農家の次男として生まれた。午蔵は士族の娘である井上つやと恋愛結婚し、明治34年(1901)に上京する。このとき頼ったのは、青山で「佐阿徳」という名のうなぎ屋の店主をしていた、佐藤多蔵という人物だった。「佐阿徳」は現在の表参道の交差点すぐの「佐阿徳ビル」(現・表参道サンケイビル)を構え、近年まで存在していた名店だったようだ。

しばらくして佐藤を通して夫婦の働き口を世話してくれる人とつながり、西園寺公望公爵(1849~1940)の大森別邸(実際は本宅)に留守番として住み込むことになった。ここで午蔵は庭番、妻のつやは女中として、骨惜しみすることなく働いた。百姓育ちの午蔵は、広い庭を丹念に手入れし、草花をつくった。きれい好きであり、何をさせてもできる器用な腕を持っていた午蔵は、西園寺公に気に入られ、かわいがられたという。午蔵夫婦は翌年には西園寺邸を出て青山に「お休み処」を開くため、西園寺邸には1年ほどしかいなかったわけだが、この間に午蔵は西園寺公から「茂吉」という名前を授けてもらっている。また、花づくりを実践したのもこの大森の邸宅が始まりで後年の花の仕事につながっている。西園寺公との出会いは、茂吉を決定づけたと言えるだろう。

西園寺公望の邸宅は、その一部が現在の大森郵便局だという。大森駅をマミフラワーデザインスクールのある山王側の出口から出て、だらだらと坂を下った場所だ。元勲、西園寺公望は明治新政府の要職を務め、公使として外国に駐在するなど多忙を極めており、ようやく大森に自邸を構えたのは明治27年(26年末とも)のことだった。のちに大森不入斗(いりやまず)の「望緑山荘」と呼ばれるようになるこの邸宅は、当時は広い畑のなかの一軒家で、新橋駅から大森駅まで汽車に乗り、そこから10分ほど歩く必要があった。敷地は千余坪、屋敷は京都風のものやわらかな平家普請でありながら、あちこちに風流なしつらえがなされ、部屋にかこまれた中庭もあった。建坪は狭かったが、庭や周囲の空地は割にゆったりと取ってあった。庭も何の奇もなく、芝生と4、50本のウメの木があるだけであったという。

公務で忙しい西園寺は東京の内幸町にも事務所(邸宅)を持ち、東京駅ステーションホテルを利用するような日々を送っていたため、大森の自邸は茂吉のいう「別邸」のような使われ方をしていたようだ。その分、静かな田舎に構えた自邸では心身ともにゆっくりと過ごしたかったに違いない。そのような場所を留守番役としてしっかりと守ってくれた北野茂吉夫婦は、西園寺にとって心許せる信頼すべき人物として映っていたのかもしれない。茂吉が士族出の妻とともに、日本最高クラスの上流階級に属する偉人の私的なライフスタイルや感性を若い時に経験したことはその後の花屋としての展開にも大きな自信になったと想像する。

陸軍の駐屯地と青山墓地

西園寺邸を後にした茂吉夫婦は青山の「玉川屋肉店」の脇を月3円で借り、おしるこ屋、茶屋兼業の「お休み処」を開いた。明治37年(1904)のことである。今なら、青山通りにカフェを開いた、というべきところだが、当時のお客は青山墓地とその周辺のお寺(このあたりは墓地や寺がたくさん所在する)へ詣でる人くらいであった。茂吉は店を妻に任せると自分は箱車(リヤカーのようなもの)を引いて、そと商いに出る。ゆで卵、ラムネ、シロップの瓶を並べ、墓参り用の花を積んでいた。そんなところへ日露戦争が始まる。すると青山の第三、第四連隊に入営する兵士が増え、「お休み処」は急に繁盛するようになった。ところが、これはぬか喜びで、翌38年に戦争が終わると店はまったくさびれてしまう。

この頃はまさに「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉通りのときを過ごすことになったわけであるが、店がさびれた代わりに、茂吉の引く箱車は忙しくなっていった。日露戦争は苛烈を極めたことで知られ、旅順包囲戦をはじめ、各地でたくさんの戦死者を出したのだが、そうした戦死者を弔うための仏前の供花が各所で売れた。結局、店は不要になったため、外回りの行商だけやることにした。当時の花売りはこのような行商がほとんどだったという。当時、店を構えている花店は日本橋に2、3軒、神田に2、3軒というありさまだったという。

こうして真面目に働いた茂吉夫婦は資金を貯めて、明治42年ようやく青山善光寺の門前に「花茂」の看板を掲げ自分たちの店を出した。青山善光寺は、これもまた表参道の交差点からすぐ、表参道ヒルズ側の一角に現存、所在する。青山周辺は当時、のんびりした土地だったというが、現代の目で見ると実によい場所に店を構えたというほかない。

材木屋に勤める青年を養子に迎えるもすぐに徴兵

青山善光寺前に出店した時、すでに茂吉は40才になろうとしており、将来を考えるようになっていた。子供のいない夫婦は、徳島に住む実家の姪を養女とし、その夫も同時に養子として迎えることにして(両養子)、すでに青山六丁目の戸島材木店で働いている二十歳の青年、川原豊太郎に白羽の矢を立てていた。川原豊太郎(写真2)は、茂吉のいとこの子供だったというのだが、引き合わせたのは上京して最初に世話になった「佐阿徳」の佐藤多蔵だった。茂吉は人との出会いに恵まれた人生だったといえるのかも知れない。

川原豊太郎は明治22年(1889)、徳島県板野郡板東村字檜八番屋敷で、川原宮太郎の次男として生まれた。川原家は祖父の嘉次郎が上下十六村の庄屋を務め、名字帯刀を許される家柄だったという。15才で上京し青山の戸島材木店へ奉公した。徳島は材木の産地として知られ、四国出身で材木商として成功した人は数多いという。豊太郎もゆくゆくは材木商として成功したいと志して修業に励んでいたが、茂吉が両親に養子縁組を申し込んだ時には、材木店の屋台骨を背負って立つほどになっていた。材木店の主人からは強く引き止められたが、すでに両親は快諾しており、縁談を受けて養子と花屋の跡継ぎになることを承諾せざるを得なかった。もっとも、妻となる「きよ(写真2)」をひと目見た時に豊太郎はその美貌に心動かされ、決心したという話も記されている。こうして豊太郎ときよは明治42年に夫婦となった。

茂吉も跡継ぎができて一安心というところだったが、なんと結婚の5日後に豊太郎に軍隊へ入営の連絡が届く。そのため、豊太郎は急遽、弟の川原常太郎を徳島から呼び寄せ、店を託すことにした。こんなできごとが、三田の花茂百年の始まりに連なっている。勉強好きだった常太郎は明治43年に勇んで上京した。16歳の少年はいきなりの行商で、きびしい日々を送ることになり、逃げようと考えたこともあったようだ。しかし、きれいな花を箱車に積んで家々を回り、たくさんの売り上げを得ることに充実感を覚えるようになり、ついには独立し自分の店を持つまでに至った。花を抱え、あるいは箱車を引く若い頃の常太郎の写真が残っている(写真5、6、7)。

きょうの話はここまで。今回ご紹介した本は、生花商の組合活動のことや、いけばな小原流とのつながりなど、まだまだ話すべきことが残っている。また次の機会に取り上げることにしたい。

(8)昭和23年(1948)、用賀の仮店舗から青山に復帰後、最初の店舗。
火の見櫓のようなものがある(進駐軍の警備施設か、正体不明)。
(9)昭和29年に新築された店舗。フロントに風防、リアに荷台のついた
三輪のオートバイ(三輪貨物自動車)が見える(マツダか、ダイハツでしょうか)。
(10)昭和37年(1962)12月に竣工した「花の館」
その後、昭和63年(1988)、今の建物に改装された。
(11)昭和41年(1966)当時の青山本店、店内の様子。
(12)いけばな小原流などいけばな花材に強い青山花茂本店の第一営業部(当時)の様子。
温度変化の少ない地下に設けられた広い倉庫で材料を仕分けしている。「いかなる大花展の花材も全て処理し得るいけばな花材専門店」としての誇りであり心臓部だと記されている。
(13)社員の福利厚生
男子寮、女子寮を備えていた。現在とは異なり、一部屋に数人で同居している。
(この時代は「金の卵(1964年の流行語)」と呼ばれ、中学を卒業してすぐに就職する若者も多く、企業側では社員寮を備え、夜学に通わせる事業所も少なくなかった。)

参考
『花の日本史』シリーズ自然と人間の日本史 別冊歴史読本特別号 通巻96 1989
佐藤信『近代日本の統治と空間 私邸・別邸・庁舎』東京大学出版会 2020
小西銀次郎『東京花一代記』草土出版 1992

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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