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第99回 「文化」はどこからやってくるのか~昭和の画報『文化生活』

公開日:2021.1.1 更新日: 2021.1.7

画報『文化生活』(月刊誌)

[発行] 国際文化情報社 (のち国際情報社 1922~2002)
[発行年月日] 1953年(昭和28年)~不明 だが 1959年(昭和34年)頃までは確認できる
[入手の難易度] やや難

経済が右肩上がりの時代

画報『文化生活』はいわゆるグラフ誌で、サイズはA4と大きめ、ページは60ページほどで厚さは約3mmという薄いつくりになっている。カラーは数ページだが、文章は小さな文字で詰めてあり、残りは大小数多くの写真で構成されている。
生活に関する国内外の様々な話題を扱っており、現在ならば、『家庭画報』や『婦人画報』と同じような位置づけになろうか。ただ読者は女性だけでなく、男性や子供向けの記事もあるので家族みんなで読める雑誌として企画されたものだと思う。

ネットオークションで少しずつ集めたが、専用のバインダーに挟まっているものもある。一般書店で販売するというより、契約者に対して毎月定期で送られていたようだ。
価格は100円(のち130円)。消費者物価指数で換算すると、現在では670円くらいになる (当時のかけそばの値段は30~35円)。

1953年(昭和28年) の5月号が創刊号 (新年度4月発売か) で、休刊の時期は不明だが、6年後の1959年 (昭和34年)頃までは発行が確認できる。
表紙は女性モデルを起用したたいへんに明るい感じのものが多い(図1)。女性以外には文化的なシンボルや、自然の風景などがテーマになっている。
創刊号のタイトル・ロゴには、「PICTORIAL CULTURAL LIFE」の文字が添えられていたが、いつのまにか記されなくなった。数年後に「暮らしの画報」と加えられている。

(図1)画報『文化生活』の表紙の例。現在はよく見かける雑誌のタイトル・ロゴの上に女性モデルがかぶさるようなレイアウトがとても斬新だ。
(図2)表紙の裏からすぐに記事が始まる。創刊号の巻頭は、評論家、大宅壮一のコラム。左は折込付録のA3サイズの大型のグラビア。江戸時代の相撲を描いた浮世絵と当時の関取、大鳥居雲右衛門の手形だった。写真のキャプションは「建物は立派だがこの生活の仕方は困る。いまひとつ工夫すれば快適なアパートになるものを。」とある。

経済成長の光と影

創刊号(1953年)の巻頭コラムは、ジャーナリスト、評論家の大宅壮一(1900~1970)が書いている(図2参照)。
タイトルは「文化生活」。写真は当時、あちこちに建てられ始めた集合住宅、記事では 「コンクリートのアパート」 と書いている。
こうした集合住宅が集まった 「団地」 という言葉は、まだ広く使われてはいなかったのかもしれない。日本住宅公団第1号の金岡団地の完成は1956年(昭和31年)である。
それにしても、大宅壮一が書いたこのコラムは華やかな創刊を祝う感じがまったくない。むしろ批判を含む生活者への忠告のような内容になっているのが印象的だった。そこには次のようなことが書かれている。

《文化とは何か。一口にいうと、人間の生活が豊かになり、高くなり、楽しくなり、便利になることである。しかし、その現われかたは生活の面によってずいぶんちがっている。
(中略) 文化というものはジグザグな形で、或は古いものと新しいものが重なりあって、互に競争したり、負けたり勝ったり、一度亡びたと思われたものが復活したりしながら、次第に発達して行くものである。》

こうして戦後の日本人の衣食住は回復しつつあるのだが、

《一番おくれているのは住の面で、建つのは立派なビルばかりである。住宅金融公庫ができて個人の住宅もボツボツ建ち出したが、一方では相変わらず出火が多くてどしどし焼けて行く。焼けなくても都営住宅などはひどいもので、五、六年もたてば大修理を要するものが多い。》

著者は、東京都の安井誠一郎都知事と飛行機に同乗して空から東京の今を観たとき、一番目についたのが都知事自慢の真新しい「鉄筋コンクリートのアパート街」だった、という。そうして、こんなふうに続けている。

《だが、これも裏からみると、おしめその他洗濯物の共進会みたいで、窓という窓には台所道具のようなものがずらりとならんでいる。これほど今の日本人の生活、日本文化の在り方をはっきりと具体的に示しているものはない。明らかにセメントでつくった長屋の集団である。》
《考えてみると、日本人の精神生活や内面生活、日本式デモクラシーなどというものも、テレビか何かで写し出すことができたとしたら、やはりこういうものだということになるかもしれない。》

あらためて、文章の上に置かれた白い集合住宅の写真と合わせて見ると、いったい、これが新しい生活雑誌、しかも創刊号の巻頭に置かれたコラムでいいのか、と心配になるような内容である。

「量から質へ」生活改善運動の時代

終戦から10年、一面の焼け野原からようやく復興してきた昭和30年代(1955~)の日本では、少しずつモノ不足も解消され、「量から質」への転換がいわれるようになっていた (本連載第13回53回参照)。

この雑誌は、華やかで明るい光にあふれる表紙を身にまとい、最新の科学・技術や便利な生活のための道具を紹介しながら、なかの記事は、現在進行形の様々な国内外の問題にも目を向けているのが面白い。
海外の最新のファッションやインテリア情報、スポーツや映画スターの話題がある一方で、 「混血児」 「ヤミ米は誰がつり上げたか」 「危い!家屋周旋屋」 「第三次大戦は皆殺し戦争か」 「堕胎の流行をめぐる2つの提言」 「人権とは何でしょうか」 といった硬い内容の記事も織り交ぜている。
生活をよりよくしていこうという国民的運動であった 「新生活運動」 を進めた岸信介首相の在任期間(1957~60年)とも重なり、生活改善系の雑誌、ジャーナル、ビジュアル雑誌というとらえ方ができそうだ (本連載第64回も参照のこと)。

この雑誌を出していた「国際文化情報社 (のちに国際情報社) 」は、『国際文化画報』『画報近代映画』『芸能画報』などの他に『画報近代百年史』『画報近世三百年史』『画報現代史』などのたいへん大きな企画をいくつも手がけている。
これらは、すべて写真を主とした画報形式による歴史出版物で、わかりやすい写真を選び、多くの人が理解できるような簡潔な解説が求められる難しい仕事だった。
出版の歴史においても、これらの画報は、後に続く多くの図説や図録物の先駆的出版だったという (のちに、これらを再編集し1956年に出版された、日本近代史研究会編 写真図説『総合日本史』 は、昭和32年の「第11回毎日出版文化賞」を人文・社会部門で受賞している)。

画報『生活文化』は、このような優れた編集チームが手がけた新しい生活雑誌である。
創刊号の編集後記には次のように記されている。

《編集部としては家庭の誰にも本誌は楽しく有益な画報であって欲しいと思う。家庭生活を豊富にする画報、日常生活の話題となる画報にしてみたい、そして内容的には夢の生活と現実の生活を織り交ぜていく予定です》

《われわれの生活の御手本になるような「誰かの生活」、真似てみたいがとても実現出来そうもない「夢の生活」、又時にはこれは余りにもひどすぎるといったような「社会悪の生活」等、各種各様の生活モデルを展示してゆきたい。》

《(「一枚の写真は一千語の記事に優る」という言葉があるように) 読んでもわからないニュアンスを写真で見てわかるようにする》

《できる限り天然色写真を多く掲載してゆきたい。画報を美しくするためばかりではなく、色でなければ実相を伝達出来ないという意味でこの画報編集者最大の希望を実現してゆきたい》。

以下、紙面の雰囲気を見ていただきながら、今日の話を終えようと思う。

(図3)当時各地で料理指導を行ったキッチンカー。ここでは、銀行がスポンサーになったという記事で興味深い。いま日本人が日常的に食べている洋食や栄養バランスのよい食事といったことを教えていた。  昭和28年6月号
(図4)夢の「家庭電化」のモデルルーム 昭和28年8月号
(図5)見た目にも美しくおいしそうなスイーツ特集。ご家庭でもお試し下さい。  昭和28年8月号
(図6)アメリカからの援助でアメリカに留学し、機械化した農業経営を学ぶ青年の様子。温室での花作りも体験。  昭和28年8月号
(図7)「新生活の合理化工夫を規格品で」主婦連合主催「私たちの新生活展」から 台所の改善が焦点になっている。 昭和28年9月号
(図8)いわゆるユースホステルを利用した旅の紹介。日本のユースホステル団体も、この時期にスタートしている。  昭和28年9月号
(図9)「アメリカの生活改善に学ぼう」生活の合理化、しくみや道具の改善。 昭和28年10月号
(図10)外国人にも人気の盆景。日本で学ぶ外国人も少なくない。 昭和29年8月号
(図11)当時最新ヘア&メイクアップの第一人者、メイ牛山さんの記事。メイさんは大の園芸好きで知られ、『園藝手帖』シリーズや『ガーデンライフ』にも登場している。 昭和31年6月号
(図12)住宅公団による「ニュータウン」の記事。団地の周辺や室内が紹介されている。 昭和32年3月号
(図13)セルフサービス、レジ決済のスーパーマーケットが日本でも広がりつつある。 昭和32年3月号
(図14)朝日新聞主催、現代いけばな代表作家展。日本を代表する流派の家元、十作家による展覧会。前衛的な作品が圧倒的に多い。このころ、いけばなの全盛期だった。 昭和32年4月号
(図15)日本で開催される第4回目の国際見本市、成功裏に終わる。第1回は三年前だったという。メイドインジャパンを売り込むと同時に、海外からのメーカーも数多く出展した。 昭和32年7月号
(図16)日本に駐在する海外の大使の公邸を訪ねて、その暮らしを紹介する記事。日本文化と母国の文化を融合する工夫が随所に見られる。 昭和32年9月号
(図17)無駄な飾りのない機能美、大量生産で廉価に製造し普及するモダン家具の全盛期。観葉植物が似合う部屋。 昭和33年1月号
(図18)ミッドセンチュリーモダンの代表的な作品が並ぶ。北欧デンマークのデザイン家具、ガラス器などがリアルタイムで紹介されている。 昭和33年3月号

参考
小田光雄氏によるWeb連載「古本夜話」に、編集者 服部之総 と 国際情報社 についての記事あり
https://odamitsuo.hatenablog.com/entry/20161122/1479822856
※服部之総が中央公論にいたことや、大宅壮一との関係は東京帝大在学中からであったこともわかる。

検索ワード

#経済成長 #大宅壮一#岸信介#生活改善#新生活運動#盆景#前衛いけばな#メイ牛山#画報#服部之総

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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