農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第100回 「生活文化」を見直す ~三木清 「生活文化と生活技術」 を読む(前編)

公開日:2021.1.8

「生活文化と生活技術」 (『婦人公論』 第26巻 第1号)

[著者]三木清
[発行]中央公論
[発行年月日]昭和16年新年号、昭和15年(1940年)12月15日
[入手の難易度]やや難

※参考
後藤静子 「生活文化と生活技術―三木清論文の今日的意義」 甲南女子大学研究紀要 1984年

色褪せない三木清の「生活文化論」

記念すべき第100回は、三木清(1897~1945)が書いた「生活文化」に関する論考をご紹介したい。

三木清はこの論考のなかで 「生活こそが文化」 「生活の内容は楽しむことにある」 「娯楽(趣味)は贅沢なことではなく生活の一形式」 なのだ、と明確に示してくれた。私たちはこの「生活文化」という言葉を手がかりに、自分たちの仕事の価値についてあらためて考え、自信を持って前進したい。

論考のタイトルは「生活文化と生活技術」という。中央公論の女性向け雑誌『婦人公論』昭和16年新年号に掲載された。原典に当たってみると、巻頭言のあとのトップに置かれている(図1)。新しい年の始めに読んでもらいたい、という意図を持って書かれたものであった。

表紙は、婦人像を得意とした画家である木下孝則(1894~1973)による。
真っすぐに前を見据える女性が描かれており、戦時における新年を迎えた人々の内面を映し出しているようだ。

目次(図2)にもあるように、大政翼賛会に関係する人々の記事や新体制下での新年を迎える人々の言葉が並んでいる。まず、このような背景のもとに「生活文化と生活技術」は書かれた、ということを押さえておきたい。

(図1)「生活文化と生活技術」の初出誌面。
(図2)昭和16年、新年号の目次。この雑誌の最後に婦人公論の社員の名前が一覧になっている。当時、「婦人公論花の店」を任されていた日本の草分け的フラワーデコレーター、永島四郎の名前もある。

ブリタニカ百科事典等の三木清についての記述によると、

三木清は哲学者であり、法政大学文学部哲学科教授を務めた。京都大学哲学科で西田幾多郎、波多野精一に学び、西田哲学門下の鬼才と称される。卒業後、ドイツに留学、リッケルト、ハイデッガーに師事。帰国後はヒューマニズムの立場から著作活動を続け、若い世代へ大きな影響を与えた。昭和19年(1944)、治安維持法違反で検挙され、終戦直後に獄死した。
著書に「パスカルに於ける人間の研究」「哲学ノート」「人生論ノート」がある。

今回、紹介する「生活文化と生活技術」は、太平洋戦争を目前にした昭和16年(1941)の『婦人公論』新年号に掲載されたものだ。三木が亡くなって76年になるが、この論考は今からちょうど80年という時を超えてここに飛び出してきた。今回と次回の2回にわたって、可能な限り原文を抄録しようと思っている。ぜひ、ゆっくりと読んでみてほしい。

文化とは何か、伝統とは何か、創造とは何か、生活の技術とは何か…。80年の時を超えて、令和の今を生きる私たちに、未だに色褪せることなく、数多くの示唆を与えてくれるだろう。いや、今こそ三木清から学ぶべきなのではないかとさえ思えてくる。それほど、鋭く問題を指摘し、大切な提言をされている。
僕は、新しい年をここから始めたいと強く思う。「生活文化」を考えることは、僕たちの関わる園芸の仕事にも通じることであり、また日々の暮らし方や娯楽に目を向けることは働き方を見直すことにもつながっている。

(図3)三木清(1897~1945)三木は劣悪な監獄で罹患し、終戦からわずか1ヵ月余の9月26日に獄中で一人寂しく息を引き取った。享年48歳。

「文化生活」における「文化」の文脈

第99回で、昭和30年(1955)前後の『文化生活』というグラビア誌を参照した。
誌面の構成は「夢のような未来」「真似てみたい生活のモデル」「現状、目の前にある課題」といった硬軟織り交ぜた編集ということであったが、商業誌である以上、その比重はやはり「夢のような未来」「真似てみたいモデル」が中心だった。
明るくてスマートな間取りの家、便利でデザインのいい電化製品や動きやすく素敵な洋服、映画スターのファッション、かわいくおしゃれなスイーツ、そんなキラキラした家族、家庭のイメージで溢れている。
女性も、戦後、少しずつではあるが、ようやく自分を主役として発言し、行動できるようになっていたことを象徴する写真が数多く使われた。

(図4)女性が輝き出す新しい時代、「緑の芝生、バラの花壇」が「文化生活」のシンボルだった。左から「国際文化画報」昭和29年2月号、昭和31年4月号、昭和28年11月号(高性のペチュニアは切り花用の品種かもしれない。)

「文化」という言葉も「欧州大戦(第一次世界大戦)」が終結した大正時代以降に流行した比較的新しい言葉で、それ以前は「文明」という言葉が同じような意味を表していたという(シビライゼーション、civilization、「情味生活」、「趣味生活」などの言葉もあり)。

明治維新を「文明開化」と呼び、海外からの様々なモノや情報を日本人は短期間に必死で吸収してきた。舶来品、ハイカラ、洋服、洋食、洋楽、洋花というふうに、文明、文化は海を渡ってきたものだった。
三木は「洋風のもの、バタ臭いもの、また最新流行のもの」が文化的なものとして評価され、逆に日本に古くからあるモノやコトがないがしろにされてきたという。こうした「植民地的」とも揶揄されるような価値観、概念は、モノを売るためのイメージ作りにも応用され、現在までも私たちを縛りつけている。深層にいつまでも潜んでいて、非常事態になるとそれが表に出てくるのではないか。
三木はこのような文化に関する問題提起を投げかけている。次のような文章だ。
繰り返しになるが、これは昭和16年に書かれた文章である。長引く日中戦争は生活に暗い影を落とし、国家総動員法の実施、統制経済に入っている。
そのようななかで、昭和30年代の活況を見越し生活者に対して予言するかのように、鋭い警告を投げかけているように思える。さらに80年経った今、私たちの暮らしは本当に豊かになったのか。女性の地位や生き方はよくなったのか。

《いわゆる文化生活において文化と見られたのは、音楽であるとか美術であるとか、文学であるとかであって、それらのものを生活の中へ持ち込むことが文化生活であると考えられ、生活そのもの、この全く日常的なものもまた一つの文化であるという観念がそこには欠けていた。
例えば言葉、炊事、交際、風俗、このいわば全く平凡なものが人間の作る文化の重要な、基礎的な部分である。
しかるにいわゆる文化生活において主として関心されたのは、レコードをかけるとか、ラヂオを聴くとか、本を読むとか、映画を観るとかということであった》。

もちろん、そのことは生活文化の向上にとってきわめて大切なことではあるが、
《いわゆる文化生活においては文化というものが生活の低地に求められないで高所に尋ねられたために、そこにおのずから種々の弊害を生じたのである》。

まず、文化生活は消費的な面が強く、お金がかかる、贅沢なことになりがちだった。
文化というものが家庭生活よりも家庭の外に求められねばならなかった。こうして、《生活と文化とが遊離し、文化に対する関心が生活に対する関心から乖離することになった》。

(図5)「文化生活」は特殊な才能を持った芸術家や優秀な学者が作った文化を享受するという考え方に基づき、生活と文化が別物になっている。ややもすればお金がかかり、生活の主体としてあるべき生活者が受動的な姿勢に張りつけられてしまう。
(図6)生活と文化が一体となっている状態。「音楽や美術や文学、そして何よりも科学と技術が生活の中に持ち込まれて生活化されなければならない」。生活は文化そのものである。誰もが文化の創造者である。私たちは誰もが主体的で積極的な「生活文化」創造の中心にいる。

「文化」という付加価値の高い「商品」を無数に作り出し、それを受け取るだけの「消費者」が購入し続けるシステムによって世の中が回っているうちはいいが、高齢化、人口減少や中間所得層が減ってくると、「贅沢品」は目に見えて売れなくなっていく。
2020年のコロナ禍は、自分の働き方や家での過ごし方をいやがおうにも見直さざるを得なくなり、ここに「生活文化」という視点が未来への道を探る重要なヒントとして浮かび上がってきた。

三木清の「生活文化と生活技術」は二部構成になっている。
以下、前半の「生活文化」について説明した部分を抄録して今日の話を終えようと思う。

「生活文化」はアーティストや作家の専売するものではない。
私たちがこの手でここから作り出す文化です。(三木清)

「生活文化と生活技術」
(三木 清・著『婦人公論』昭和16年新年号から)

※旧漢字、かな等を読みやすく改変

生活文化というのはこの頃多少目につくようになった新しい言葉である。これまで文化というと、すぐ文学とか美術とかいったものが考えられ、生活文化などいうものは殆ど全く間題にならないのがつねであった。科学の如きでさえ、従来は、文化とは異なる文明に属するといわれ、物質文明と精神文化などと称して、何か一段低いものの如く考えられたのである。
かような見方が今日次第に拭い去られつつあるのは喜ぶべきことである。文化についての新しい見方は、先ず科学尊重の政策が現われることによって方向づけられ、そして次に生活文化という言葉が現われることによって拡げられたと見ることができる。
尤も、この思想的変化はただ可能性においてそれらの特徴的な事実のうちに含まれているのであって、すべての人々において現実的であるわけではない。新しい文化概念をほんとに掴むためには、科学文化とか生活文化とかいう言葉のうちに可能的に含蓄されている思想を現実的に展開することが必要である。

先ず生活文化という言葉のうちに含まれているのは、生活に対する積極的な態度である。文化を意味する英語のカルチュアまたはドイツ語のクルトゥールという言葉がもと耕作を意味する言葉から出ているように、与えられた自然に働き掛けて人間の作り出すものが文化である。与えられたものをそのままにしておくとか、或いは単に消極的にそれに対するとかいうのでは、文化はない。
我々の生活もまた或る自然のものである。これに積極的に働き掛け、これを変化し改造してゆくところに、生活文化というものが考えられる。生活文化という言葉は生活に対するこのような積極的な態度を現わすのでなければならぬ。その根柢には「文化への意志」がなければならぬ。
もちろん我々の生活は最初から単に自然的なものでなく既に文化的なものである。我々の生活は、その内容においても、その形式においても、過去からの文化的伝統によって浸透されている。例えば我々の生活に日常欠くことのできぬ言語である。これは我々が初めて作るものでなく、我々の民族の遠い過去から我々に伝えられたものであり、我々はその中に産れ落ちるのである。あらゆる他の文化と同じく、生活文化もまた伝統的である。伝統というのは過ぎ去ったものでなく、生きて働くものである。

ところで伝統が生きたものであるのは、我々がこれを生かすに依るのである。過去の伝統が我々に働き掛けるのは、我々の現在の行為がそれに働き掛けるに依るのである。即ち伝統というものも我々の働き掛けによって真に伝統となるのである。
「汝の先祖から譲り渡された物を、汝が占有するには、更にそれを贏(か)ち得ねばならぬ」、とゲーテは書いている。生活に対する積極的な意慾がなければ、過去の生活文化の伝統の美しいものも活かされない。創造を通じて伝統も初めて伝統として存在し得るのである。

次に生活文化という言葉は文化があらゆる人間に関わるものであることを示している。
文化は、少数の天才にのみ関わるものでなく、また「文化人」と呼ばれる一部の人間にのみ属するものでもなく、すべての人間に関係するものである。どのような人間も生活していることは確かであり、そしてその生活が即ち文化であり、文化であり得るのであり、文化でなければならないのである。自然人もしくは原始人に対して文化人といわれる意味において、すべての生活者が文化的人間と考えられねばならぬ。芸術家が芸術作品を作るのと同じように、我々は我々自身と我々の生活とを作るのである。すべての生活者は芸術家であり、彼の人間と彼の生活とは彼の作品である。

間題は善い芸術家になるということである。記念碑的な文学や美術を作ることは少数の天才にのみ与えられることであろう。深遠な哲学や精密な科学を理解することは一部の知識人にのみ許されることであろう。
しかるに生活文化はあらゆる人間に関わるものであり、しかもこれにおいて創造的であることは他のいわゆる文化の創造に劣らぬ価値のあることである。

わけても婦人は生活文化に対して密接な関係を有し、一国の生活文化の状態は何よりもその婦人の文化的水準を示すとさえいい得るであろう。生活文化の重要性を考えるとき、これまで文化及び文化的活動に何等関係がないかのように見られていた婦人も、文化に対して重要な関係があり、従ってまた責任のあることが理解されるのである。

ここに生活文化というものの本質が誤解されないために、それをいわゆる「文化生活」から一応区別して考えることが必要であろう。文化という言葉はもと大正時代に、以前の文明という言葉に対して流行したものであるが、その頃、例えば「文化住宅」とか「文化村」などいう如く、文化という言葉を冠した多くのものが現われた。その場合文化というのは先ず舶来などというのと同じく何か洋風のもの、バタ臭いもの、また最新流行のものを意味したようである。日本的なもの、伝統的なものの美しさはその際殆ど全く顧みられなかったのみでなく、西洋的なものにしてもその本質的な深みから捉えられることなく、かくて文化生活の名のもとに恰も植民地的文化が出現したのである。文化生活というものは軽佻浮薄なものとして心ある人から顰蹙された。

このいわゆる文化生活に対して考うべきことは、第一に、それが多くは外面的なもの、表面的なものであったことである。真の生活文化は単に表面的なものでなく、内容的なもの、実質的なものでなければならぬ。ただ表を飾ることでなく、内から充実させてゆくことが大切である。
第二に考うべきことは生活意識もしくは生活精神の間題である。いわゆる文化生活が欧化主義の弊に染りがちであったのに対して、新しい生活文化は我々自身の自主的な立場において作られなければならない。もちろん偏狭で独善的な排外主義に陥ってはならぬ。西洋の生活文化から学ぶべきものは学び、採るべきものは採って、そこに独自の生活文化を形成してゆくことに努力しなければならない。外国模倣の弊害といわれているものが、実は、外国文化を真に理解しないところから生じている場合は多いのである。今日新しい生活文化の創造にあたって我が国の伝統が一層深く顧みられねばならぬことは言うまでもないであろう。

この新しい生活意識或いは生活精神について考うべきことは、あの文化生活の根柢にあったのが個人主義もしくは自由主義であったということである。
人々が文化生活というものに憧れたのは、従来の生活における種々の封建的なものから解放されて個人の自由な生活を求めるためであった。いわゆる文化生活の様式は自由主義的、個人主義的であった。しかも封建的なものの残存を克服することが我が国の生活文化の発展にとって必要であった限り、いわゆる文化生活にも重要な意味があったのである。殊に従来その生活において特に多く封建的なものに縛られていた婦人にとって文化生活というものに対する憧れは大きかったのは当然である。

しかし今日の新しい生活意識乃至生活精神はもはや単なる自由主義に止まることができぬ。もちろん封建主義に逆転するようなことがあってはならぬ。自由主義の長所を生かしつつこれを超えた協同主義が新しい生活文化の基調とならねばならない。従来の個人主義的な生活様式に対して、協同主義の生活様式が新たに形成されてゆかねばならないのである。
この新しい生活文化の形成にとって現在何よりも肝要なのは社会的訓練である。日本人は立派な国家道徳をもっているけれども、社会道徳においては甚だ劣っているといわれる。そのことは例えば今の交通道徳の状態をひとつ見ても明瞭である。新しい生活文化はさしあたり交通道徳の向上の如きことから始まらねばならぬであろう。

ところでかように日本人の間に社会道徳が発達していないというのは、歴史的に見ると、この国における自由主義の発達が十分でなかったということに基づいている。自由主義は社会というものを全く考えなかったのではなく、却ってそれはいわゆる社会道徳の発達に与(あずか)って力があった。今日この社会的訓練というものが協同主義の立場から新たに行われることが必要である。新しい生活文化は協同生活の種々の様式―――隣組の如きもその一つの例である―――を創造してゆかねばならないが、その際また各人の生活様式における個性の尊重ということを忘れてはならぬ。
協同と画一とは同じでない。全体主義と称するものが画一主義の弊に陥らないように注意しなければならぬ。画一主義は生活文化に関しても文化の貧困を結果する。めいめいが自分の個性的な生活様式を重んずることになって初めて模倣とか流行とかの弊害もなくなることができる。個性とはもちろん単に特殊的なものをいうのでなく、却って特殊的なものと一般的なものとの綜合において真の個性は成立するのである。我が国における生活文化或いは風俗の改善にあたって個性の尊重、従ってまた人格の尊重という観念から出発しなければならぬものは甚だ多いであろう。

第三に、いわゆる文化生活において文化と見られたのは、音楽であるとか美術であるとか、文学であるとかであって、それらのものを生活の中へ持ち込むことが文化生活であると考えられ、生活そのもの、この全く日常的なものもまた一つの文化であるという観念がそこには欠けていた。
例えば言葉、炊事、交際、風俗、このいわば全く平凡なものが人間の作る文化の重要な、基礎的な部分である。しかるにいわゆる文化生活において主として関心されたのは、レコードをかけるとか、ラヂオを聴くとか、本を読むとか、映画を観るとかということであった。そのことがもちろん決して悪いのではなく、否そのことは生活文化の向上にとって極めて大切なことである。
しかしながら、いわゆる文化生活においては文化というものが生活の低地に求められないで高所に尋ねられたために、そこにおのずから種々の弊害を生じたのである。先ず文化生活は銭のかかること、贅沢なことになりがちであった。そしてそれは消費的な文化に一層多く関心した。文化というものは家庭生活においてよりも家庭の外において求められねばならなかった。そこにはまた一種の文化主義が現われて、生活と文化とが遊離し、文化に対する関心が生活に対する関心から乖離することになった。

生活と文化とは統一されねばならぬ。
文化を生活的に考えるということは東洋古来の伝統でもある。生活文化の思想は、文化と生活との統一を、生活も即ち文化であるという根本観念から出発して、いわば下から求めてゆくのである。いわゆる文化生活においてもその統一が求められたとすれば、それは上から求められたのである。日常的なもののうちに文化的意味を認め、その文化性を高めてゆくことが生活文化の思想であり、いわゆる文化もかような生活文化の見地から生活の中へ取り入れられ、これによって文化と生活との乖離を克服してゆく。

いわゆる文化生活が消費的な文化に一層多く関心する傾向があったのに対して、新しい生活文化の立場においては生産的な文化が問題である。文化は国民をあらゆる意味において生産的にするようなものでなければならない。
「生産的なもの、それのみが真である」、とゲーテはいった。いわゆる文化生活が少数の芸術家や学者の作った文化を亨受するという立場に立っていたのに反して、生活文化においてはすべての者が誰でも文化の創造に参加しているのであるという自覚が深められ、かようにしてまた芸術とか科学とかいうものに対しても単なる受用の立場に止まることなく、それぞれに生産乃至創造の立場に立つということにならなければならない。芸術的精神や科学的精紳が各自の生活の設計において、その個人生活においても、その家庭生活においても、その国民生活においても、生産的に、創造的に働くようになることが大切である。文化生活というものが少数のいわゆる文化人のみのものであるかのように考えられたのに反して、生活文化は全国民的な間題である。一国の文化的水準は少数の天才の業績によって定まるのでなく、国民の生活文化の水準によって、測られるのである。国民の生活文化の水準が高まることによって、その他の文化にしても、国民的な基礎をもった文化が作られ得るに至るのである。

もちろん既に触れたようにいわゆる文化、これを仮に精神文化と呼ぶならば、その精神文化と、生活文化とを抽象的に分離することはできない。生活を一つの文化として捉えるところに、生活文化の観念がいわゆる文化生活の観念と異なる点があり、それによって生活と文化とを統一的に見ることも可能になるのである。
生活文化にしても精神的でないのではない。他の文化と同じように生活文化もまた精神の産物であり、その民族の民族精神を表現している。生活文化の発達向上のために精神文化が生活の中に取り入れられねばならぬことは論ずるまでもないであろう。音楽や美術や文学、そして何よりも科学と技術が生活の中に持ち込まれて、生活化されなければならない。それらの要素を除いて生活文化を考えることはできぬ。それらのものの生活化はまたそれらのものの発達のために広い豊穣な地盤を作ることになるのである。
かようにして生活文化の観念は究極において文化生活の観念を否定するのでなく、ただそれに歴史的に結びついている間違った前提を取り去って、真の文化生活の発達を図ろうとするのである。

(「園藝探偵の本棚」第101回につづく)

検索ワード

#生活文化#文化生活#文化住宅#文化村#文化包丁#婦人#三木清#文明開化#伝統#哲学

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア