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第101回 園芸は英知、生活文化を形成する技術~三木清「生活文化と生活技術」を読む(後編)

公開日:2021.1.15 更新日: 2021.1.25

「生活文化と生活技術」(『三木清全集』第14巻、評論Ⅱから)

[著者]三木清
[発行]岩波書店
[発行年月日]1967年11月17日
(※初出典は昭和16(1941)年新年号『婦人公論』)
[入手の難易度]易

文系の技術がビジネスを支える

大田花き花の生活研究所が毎年出している「フラワービジネスノート」は、花の仕事をする上でとても役に立つ情報が網羅されており、なおかつ見やすく使いやすい。いつでも手に取れるようにしておきたい、と毎年思うのだが、いつの間にかどこかに行ってしまう。今年こそちゃんとやろう。

図1はフラワービジネスノートに示されている各種データのページの様子。とても見やすく心地よい色合いがやさしい。このページは「一世帯あたりの花き関連支出」が見事に「右肩下がり」で下がりっぱなしであることをよく表している。マーケットはこの20年でおよそ3割が失われている。

(図1)大田花き花の生活研究所が発行する、フラワービジネスノート。日々の仕事に役立つ膨大な情報をコンパクトなカレンダーのなかにレイアウトし、ことあるたびに参照すべき業界の必須データが見やすくまとめられている。

この20年間、切り花も鉢物も業界では様々な取り組みを行ってきたし、花卉振興法もできた。それでも下げ止まっていない。販売も生産も両方とも縮小し続けている。この期間の取り組みの特徴は、生産と流通の改善に力が入れられたことだろう。鮮度保持、日持ち性向上のための様々な改善があった。セリを短時間ですませるようにシステムが改善され、市場に滞留する時間も大幅に削減された。やれることはもうやりつくした感がある。
ところが、販売についてはほとんど変化がない。冠婚葬祭、供花、物日だよりから抜け出せていない。変わったのは花の値段がずいぶん下がったくらいではないか。「フラワービジネス」「マーケティング」などという言葉はすっかり浸透したけれど、需要を拡大できていない。
かつて、花が売れない理由として「価格が高い」「日持ちしない」「花屋に入りにくい」といった理由が挙げられていたが、こうした問題を改善してもなお売れていかないのは、何か別な問題があるからに違いない。「金銭的に余裕がない」という意見もある。人口減少、高齢化、格差の拡大(中間所得者層の減少)の問題も影響しているのは間違いない。後継者の問題もある。

こうして見てみると、逆風のなかでの生業として、よく耐えているのかもしれない。このごろ、よくいわれる理系的なものの考え方重視の社会に対する「文系力」の反論に似て、私たちの業界も、人文系、社会科学系的アプローチが必要になっているのかもしれない。
つまり、それぞれが自分の仕事について哲学を磨き、人々が共感できる新しいコンセプトを打ち出すということである。

ひとつの手がかりは、「手入れがたいへん」「扱い方がわからない」という声があることだ。技術的な問題と働き方、暮らし方の問題にまたがっているように感じるが、様々な形でアドバイスできることはあるだろう。
まずは、自分たちの仕事に対して自信を持つことが重要なのではないか。花を買って庭に植えたり、切り花を飾ることはぜいたくなことでも特別なことでもない。とても大切な生活の一要素なのだ。まず、生活を愛し、身近なモノやコトを大切にすることから考えていきたい。生活の主体として積極的に、手元からちょっとずつ変えていこう。そんなことを思わせてくれるのが、今回紹介する、三木清(図2)の論文だ。キーワードは「生活文化」「生活技術」。前回に引き続き、後半を読む。

(図2)三木清(1897~1945)「生活文化と生活技術」は44歳の頃の論考。

高度経済成長期に生まれ育った私たちの世代は、モノを所有し、上手に使うことによって、生活はより充実した豊かなものになると信じていた。それは、どんな生活をするかを考えなくても、どのモノを選ぶかということで解決できるような暮らし方だったと思う。世の中はたくさんの商品とそれらを紹介する情報であふれていた。
甲南大学の後藤静子は「生活文化と生活技術―三木清論文の今日的意義」(1984)のなかで、こうした考えは2度の石油ショックを契機に大きく変わったという。技術を超え、技術を制御し、技術を支配する「ものさし」が必要だという考えが広まった。この「ものさし」を、三木清は「生活技術全体を統轄する技術、技術の技術ともいうべきもの、つまり人間の叡智である」としており、暮らしの主体としての生活者こそが、自ら積極的に実践することの大切さを説いた。
後藤が三木論文の重要性を指摘したのが昭和59年(1984)でバブル経済に入ろうとしていた。振り返ってみると、この時点でもモノやカネによって豊かさを計り、求める思想に支配されており、その勘違いに気づくにはバブルの崩壊を待たなければならなかった。

後藤論文では三木清の「生活文化」論を簡潔にまとめている。

1、生活文化というのは生活に対する「積極的な態度」がなければならない。その根底にはヒューマニズム(よく生きたい、生活を大切にしたいという愛情)があるべきだ。

2、生活文化というものは、「あらゆる人間」に関わる大切な問題である。特に(当時)日常の生活を支えていく婦人(女性)は生活文化を作りあげる原動力であり、それに責任を負っている、としている。

3、生活文化というものを考えるのに、その内容的なものとして「生活を楽しむことが大切だ」としている。生活を楽しむことは「怠ける」ことではない。また「目的のないこと」であるべきである。生活を真に楽しむためには、主体的、積極的に取り組み、工夫する必要がある。これを生活の技術、つまり人間の英知(叡智)であるといっている。

三木清の指摘は戦前に論考されたにもかかわらず、戦後、2度のオイルショック、バブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災と原発事故を経験した今の私たちにもまっすぐに突き刺さる。

誰もが「生活文化」の主体である

2021年、「生活文化」の創造者としての私たちは、面白い時代を生きている。歴史的な職人の道具を研究している人が著作で書いていたことだが、今、若い世代でも古い大工道具を趣味で研究している人がいて、とても上手に刃物を研いであるので、どうやって学んだのかを尋ねたところ、「YouTube動画」を見て真似てやっているうちにできるようになった、と言っていたという。

僕も、初めて自分でキノコの「エリンギ」を料理しようと思った時に、「どういうふうに切ればいいのか」がわからず、動画で調べたらちゃんと丁寧に、幾通りもの切り方が紹介されていた。
今まで、無意識にやってきたことが、実は大切な「生活の技術」なのだと三木は教えてくれている。テレビではグルメ料理を紹介し、おいしいお店を紹介する一方で、YouTube動画では、エリンギの切り方でもなんでも基本的な技術はなんでも知ることができるようになった。花き装飾や園芸に関しても同様である。

三木は「生活文化」は楽しむことが大切だとし、重要な要素としての「娯楽」について触れている。

娯楽を何か余分のもの、ぜいたくなものの如く見る考え方があるが、しかし、娯楽は生活に欠くことのできないものである。
生活を楽しむことはただ少数の人間、金持ちにのみ許されていると考えるのは間違っている。すべての人間がそれぞれの仕方で生活を楽しみ、「生活の余裕」を持つことができる。

《娯楽というものが日々の食卓と同じように生活に必要なものであるという観念があったならば、すべての人は、自分の経済に応じて毎日自分の食事を用意する如く、それぞれ自分の娯楽を工夫するようになるであろう》。
娯楽というものは余分のもの、生活の外にあるもの、単なる付け加えではなく、《生活の中にあって生活を構成すべき一つの要素》であり、《娯楽は「生活の一つの形式」である》。

こんなふうに、三木清は、「生活文化」は外部から付け加わってくるものでなく、私たちが主体的、積極的になって生活を創っていく形式にほかならず、日々、新しい内容を生産してゆくものなのだと繰り返し教えてくれている。
また、娯楽には目的などない、とはっきり指摘している。娯楽には楽しみ以外の目的がないから生活文化の目的にかなう、「無目的の合目的性」があって、これは芸術の働きと似ているのだという。
娯楽はぜいたくなものではない。園芸や花を飾ることは少しもぜいたくではなく、生活の一形式のその部分なのだ。

(図3)娯楽は生活とは別物、装飾という考え方では「生活文化」を正しく理解しているとはいえない
(図4)「生活と娯楽は一体のもの」「娯楽は生活の一形式である」。楽しく暮らすということは東洋的伝統でもある。

三木は、生活が文化だということは、他の芸術や科学と同じように「技術」が必要なのだという。知識と訓練が大切だという。受動的ではいけない。主体的、積極的に行動するのだ。そのためには、まずその技術の存在、価値に気づくことが大事になる。
《我々は我々の生活において自分では意識しないでそのような技術を使っているというのが普通である。既に歩行ということが一つの技術であり、我々はこの技術を習得するために過去において多くの訓練を経て来たのである。我々が無意識に使っている技術を技術として自覚するところに生活文化の改善の端緒が掴まれるであろう》。

《生活は我々が(※主体的、積極的に)形成してゆくものであり、そしてすべての形成には技術がなければならぬ》――この考え方が基本になる。

(図5)生活文化を支えるのは生活の技術。意識的に学ぶことで生活の質を変えられる。

生活文化の技術の基盤にあるのは、主体である私たち生活者の主体性、積極性であり、生活に対する愛、ヒューマニズムである。これが人間の英知であって、生活文化は人間の英知によって運動し、暮らしを豊かに変えていく原動力となる。

《取り除くべきものは、文化を何か装飾的なもの、贅沢なものとする思想である》。

繰り返しになるがコロナ禍の現在において、なおさら大事なことだと思うので、ここに三木清の教えを示したい。そこでは主体的、積極的な態度がどうしても必要だ。暮らしへの愛情、小さなモノコトへのまなざし、大切にする気持ちが必要なのだ。

《新しい生活文化の形成には生活に対する積極的な態度がなければならないが、それは何よりも生活に対する愛というものである。生活に対する愛、――このヒューマニズムがあらゆる生活文化の根柢になければならぬ。この愛は生活をより善く、より美しく、より幸福にしてゆくことを求めるであろう》。

《封建的な忍従の道徳に止まることなく、あらゆる状況の中にあって生活を向上させてゆこうとするヒューマニズムの精神から新しい生活文化は生れてくる》
《その文化は生活を明朗に、健康に、また能率的にするものである》。

以下、「生活文化と生活技術」の後半を抄録し、前後編にわたる生活文化の話を終わりにする。

なお、今回の論考は、後藤静子氏の論文に多くの示唆を得て書くことができました。下記、甲南女子大学の学術情報リポジトリの研究紀要第21号、家政学部門のページにPDF版があります。
https://konan-wu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=215&pn=1&count=20&order=7&lang=japanese&page_id=13&block_id=17

「生活文化と生活技術」

(三木 清・著『婦人公論』昭和16年新年号から)
※旧漢字、かな等を読みやすく改変

新しい生活文化の形成には生活に対する積極的な態度がなければならないが、それは何よりも生活に対する愛というものである。生活に対する愛、――このヒューマニズムがあらゆる生活文化の根柢になければならぬ。
この愛は生活をより善く、より美しく、より幸福にしてゆくことを求めるであろう。封建的な忍従の道徳に止まることなく、あらゆる状況の中にあって生活を向上させてゆこうとするヒューマニズムの精神から新しい生活文化は生れてくる。
しかし生活に対する愛は文化、とりわけ生活文化といわれる種類の文化に対する正しい理解と結び付かなければならない。その文化は生活を明朗に、健康に、また能率的にするものである。取り除くべきものは、文化を何か装飾的なもの、贅沢なものとする思想である。

例えば娯楽である。娯楽は生活文化における一つの重要な要素であるが、娯楽というものを何か余分のもの、贅沢なものの如く見る考え方が今も存在している。
しかし娯楽は生活に欠くことのできぬものである。娯楽の意味を正しく解するためには、生活を楽しむということの意味が正しく理解されねばならぬ。日本人は生活を楽しむことを知らないといわれているのである。
これは、一つには明治以後の日本の社会が短日月の間に駈足で極めて多くのことを為さねばならなかったという事情にも依るであろう。また日本人のうちに今もなお強く立身出世主義が存在しているということも、その生活をゆとりのないものにしている大きな原因であると考えることができるであろう。

生活を楽しむことはただ少数の人間、金持のような生活に余裕のある者にのみ可能であり、許されていると考えるのは間違っている。すべての人間がそれぞれの仕方で生活を楽しむことができ「生活の余裕」をもつことができる。
そのことは例えば支那人の生活を注意して観察した者には容易に理解されるであろう。娯楽というものを最初から贅沢なもののように極めてしまう間違った観念から出発すれば、それを銭のかかる方面、贅沢な方面に求めることになるのは自然であり、貧乏な者は最初からそれを断念するのほかない。その間違った観念を先ず破棄して、その上で探求が始まらなければならぬ。

娯楽というものが日々の食事と同じように生活に必要なものであるという観念があったならば、すべての人は、自分の経済に応じて毎日自分の食事を用意する如く、それぞれ自分の娯楽を工夫するようになるであろう。娯楽というものは生活にとって余分のもの、生活の外にあるもの、単に生活に付け加わってくるものではなく、生活の中にあって生活を構成すべき一つの要素である。娯楽は「生活の一つの形式」であるということもできる。
このようにすべての生活文化は生活に対して外部から付け加わってくるものでなくて我々が生活を形成してゆく形式にほかならず、しかもこの形式は内容を離れたものでなく、むしろ新しい内容を生産してゆくものなのである。
娯楽というものは、生活の一つの形式として我我の力を普通に使用されているのとは違った方面に働かせ、或いはまた我々の普通は使用されていない力を働かせる。楽しむことは怠けることではない。怠けることによって人は真に楽しむことはできぬ。ただ娯楽には平生とは違った力の働き或いは同じ力の違った働きがあるのである。
そこで娯楽は我々がいわゆる「全人」となるために必要なものであり、かような意味においてそれは一つの立派な教養である。教養のために娯楽を求めるのでなく、娯楽がおのずから教養になるのである。専門的でない一般的教養は娯楽の形式で生活の中に入ってゆくといっても好いであろう。
娯楽は生活の一つの形式として、生活の基調にはつねに或る娯楽的なものがなければならない。それによって生活は明朗になり、健康になり、また能率的にもなるのである。
日本人が長期的のことに向かず、文化上の仕事においても大きなものが少ないといわれるのは、生活を楽しむということを知らないためではなかろうか。永続的な活動のためには生活に娯楽の要素が必要であるということは、今日特に我が国の状況において考えねばならぬことである。
もちろん娯楽は目的のないものである。目的のある娯楽は真の娯楽にはならない、娯楽には目的がなくて、しかもそれは生活にとって合目的的なものである。それはいわば「無目的の合目的性」であり、この点においてそれは芸術に類似し、一種の芸術であるともいい得るであろう。
娯楽を贅沢なものと考える観念を棄てて掛りさえすれば、娯楽は到る処に各人にとってあるのである。ただそれには工夫が必要なだけである。しかもこの工夫そのものが一つの大きな楽しみである。

ところで他のすべての文化においてと同じように、生活文化の形成においても技術が必要である。生活文化もまた技術的なもの、技術的に作られるものである。そこには生活技術ともいうべきものがなければならぬ。
従って生活文化にとっても知識と訓練とが大切である。生活文化について語る場合、特にその技術的意義に注意されねばならない。ここに生活技術とは、単に金銭の遣繰算段とか或いはいわゆる世渡りの術とかをいうのでなく、生活文化を作ってゆくことに関するすべての技術をいうのである。技術は窮迫から生れるともいわれる。物資の窮迫から物資を作る技術が要求されてくるように、生活の窮迫から生活技術が要求されてくる。もしも文化が贅沢なものに過ぎないならば、現在の事情において文化について考えることは許されないであろう。
しかるにあらゆる技術は物を作ることによって地上を豊かにすることができる。現在縮小を余儀なくされている我々の生活は、それが却って新しい生活技術に動機を与え、新しい生活文化の生産によってその欠乏が補われるのみでなく、更に豊富にされなければならぬ。これが生活に対する積極的な態度というものである。娯楽の如きにしても、今日ともすれば暗くなり、消極的になろうとする生活に明るさを与え、積極性を齎(もたら)すために重要なのである。

生活文化もまた技術的に作られるものであるとすれば、その基礎に知性的なものがなければならぬことは明かである。技術は知性によって存在する。
近来しばしば現われている知性に対する非難は全く不当である。知性をもって単に批評するものの如くいうのは正しくない。知性とはむしろ物を作るものである、それは物を作るために物を知ろうとするのである。知識人とは単に物を知っている人間のことではない。元来、知識人とか文化人とかいうものは物を作り得る人間のことであった。この観念が今日すべての知識人の間に再生しなければならない。

我々が知っているどのような小さな物も、もと発見或いは発明されたものであり、その中には嘗て極めて大きな量の知性の力が使用されたものも少なくないのである。
すべての生活文化を生産乃至創造の立場から新たに見直すことを学ばなければならぬ。風俗とか道徳とかいうものも元来発明に属している。生活文化もまた技術的に作られるものであるとすれば、そこに科学との結び付きが考えられる。この場合においても技術は科学によって発逹することができる。科学的技術によって作られた生産物即ちいわゆる文明の利器が生活の中に利用されるというのみでなく、生活技術そのものが科学的にならなければならない。
生活文化の形成は工場における生産と全く同じに考えることはできないであろう。しかもそこにも科学が浸透しなければならぬ。風俗の如きものも科学的知識と科学的思考方法とに基づいて改善されねばならぬところが多いのである。かようにして合理性が生活文化の中に行き亙(わた)ることは生活を明朗に、健康に、また能率的にする所以である。

しかし生活文化は機械的技術とは異なるといわれるであろう。その技術は各人において人間化され、個性化されたものでなければならない。
なるほどそうであるとするなら、そこにはしかしまた手工業の職人に似た知性と技術があるべき筈である。更に生活文化には感情的なもの、美的なもの、趣味的なものがなければならぬといわれるであろう。
確かにその通りであり、それは強調されねばならないことである。けれどもその際先ず考うべきことは、合理的なもの、従ってまた能率的なものの持つ美しさである。
美しいものは贅沢なものでなく、却って最も合理的なものである。機械にしても、能率的な機械ほどその形においても美しい。生活文化の基調に趣味的なもの、感情的なものがあることは極めて大切であるが、しかし次に考えねばならぬことは、芸術の如きにしてもただ感情や趣味だけで生れるものではないということである。そこには技術がある。芸術的創造にも技術が必要であるように、生活文化の形成にもその技術がなければならぬ。どのような物にしても、物にぶつかって仕事をする人は皆、技術が大切なことを理解している。その対象が物質であろうと、人間であろうと、そのことには変りがない。我々は我々の生活において自分では意識しないでそのような技術を使っているというのが普通である。既に歩行ということが一つの技術であり、我々はこの技術を習得するために過去において多くの訓練を経て来たのである。我々が無意識に使っている技術を技術として自覚するところに生活文化の改善の端緒が掴まれるであろう。生活は我々が形成してゆくものであり、そしてすべての形成には技術がなければならぬ、ーこの考え方が基本のものである。

生活技術に必要なのは単なる知性ではなく叡智であるといっても、叡智もまた技術的である。西欧的知性に対して東洋的叡智といわれるが、その東洋的叡智というものは実に叡智が技術的なものであることを最も深く理解したのである。「道」というものは単なる道徳法の如きものでなく、実に技術的なものであった。

かようにして生活のあらゆる部面に技術があるとすれば、それらの技術の全体を統轄し秩序付けるものが必要であろう。そのものもまたそれ自身技術的である。それは技術の技術ともいうべきものである。それは国家の政治にも比し得るところの人間生活における最高の技術である。それは全体に関わるものとして理念(イデー)的なものでなければならぬ。理念(イデー)というのは全体性の観念である。
かように生活技術の全体を統轄する技術、技術の技術ともいうべきもの、この理念的技術的なものが叡智にほかならない。それは技術の技術として単なる技術以上のものであり、それ故に叡智と呼ばれるのである。
個々の生活文化の改良はもちろん必要なことであるが、そこにはつねにかような意味における叡智がなければならない。生活文化の問題においても全体的な見方に立つことが大切である。

参考
後藤静子 「生活文化と生活技術―三木清論文の今日的意義」
甲南女子大学研究紀要 1984

検索ワード

#生活文化#生活技術#文化生活#娯楽#ヒューマニズム#婦人#三木清#花研#フラワービジネスノート

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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