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第102回 「副業」とはなにか~園芸品目、新規導入のプロセス

公開日:2021.1.22

『農地利用 庭木栽培の手引』

[著者]上原敬二
[発行]加島書店
[発行年月日]1971年6月25日
[入手の難易度]やや難

※参考
『実際園藝』第14巻第4号 「実際園藝」増刊号 副業園芸実例集
誠文堂新光社 1933年3月10日発行

『実際園藝』増刊号、副業園芸特集

大正15年から昭和16年までの足掛け16年間、日本の園芸界をリードした雑誌『実際園藝』には、通常の月刊の誌面の他に、増刊号がいくつも出されている。
『実際園藝』の表紙リストは『園藝探偵』第一号ですべて紹介した。表紙に書かれた「巻号数」と内容が異なっているものがある、という不思議な問題があって、今まで混乱している部分があったが、その際にすべて解決できたと思う。
『実際園藝』誌の記事は様々な論文等で引用されており、古書でその記事が掲載された誌面を見たい、という場合に、表紙の絵がわかっていると古書店やネットオークションでただちに見つけることができるので、あのリストには価値があると思う。実際に自分でも繰り返し活用している。

今回参照する「第14巻第4号」(昭和8年3月発行)は、「副業園芸実例集」と題して、出された増刊号。
表紙は新潟のチューリップの球根を養成する圃場の様子。
内容としては、花き(特に切り花)を中心に花木、球根、野菜、果実など多岐にわたる。
折りたたみ付録で、東京周辺の産地ガイドマップ「東京近郊園芸視察案内図」がついているのが面白い(図3)。
裏面には、産地の紹介文と電車等での行き方まで詳しく解説されている。「実際」を重視する園芸誌の面目躍如といったところだ。東は荒川左岸の西新井、安行、鹿骨、西は世田谷、大森、蒲田地域に産地の集積が見られる。

(図1)鹿骨付近(現在の江戸川区)における秋ギク切り花の出荷風景。東京のキクの約8割はこの地域から出ていた。
(図2)東京市芝区三田の芝生花市場の様子。東京大田市場、FAJ(フラワーオークションジャパン)の源流のひとつ。
(図3)「東京近郊園芸視察案内図」昭和8年当時の産地分布がわかる貴重な資料。

昭和恐慌と「副業」へのニーズ

『実際園藝』増刊「副業園藝実例集」の巻頭に、主幹、石井勇義による「副業花卉園芸の実例」という短い導入文がある。
そこには次のようなことが記されている。

1、ここ数年、農村の不況が年とともに加速度的に叫ばれるようになり、一方では副業が農林省当局をはじめ、地方では県の農務課、農会等の技術員によって調査・奨励されるようになっている。
副業に関する出版物も雨後の筍のごとく現れてきた。なかには一攫千金を得られるなどと事実とはかけ離れた記事も見受けられるが、実際は決してそうではない。
本書は、それらの誤解を解き、事実に近い副業園芸の実例を紹介する。

2、農家の副業にはいろいろあるが、園芸関連で成功し潤っている事例は少なくない。特に大都市近郊では副業のほうが発達し、米麦の本来の農業と逆転しているところさえある。
本書ではすでに副業から専業の域に入った事例も多く含む。果樹栽培および蔬菜の露地栽培については省略し、花き園芸(温室、切り花、球根、花木類)、蔬菜の促成栽培、イチゴなどの果実類について紹介する。

ときの政府も、農村の救済を目的とした各種公共工事などを行い(※時局匡救事業)、それと同時に、土地利用の合理化、高度化を進めた。
こうして空き地、宅地、堤塘などを使って果樹や蔬菜、花きを育てることが推奨されるようになった。
この当時、関東大震災以来の周辺への都市の拡大、工業の発展による労働人口の増加など、園芸作物の需要は急速に伸びていた。花きは都会人の生活に欠かせない「青春植物」と呼ばれ注目されていると記されている。

さらに、「副業法令」というものもあって各道府県ごとにそれぞれ「推奨」される副業園芸の指定がなされ、苗木等が配付されていた。
青森県は苹果加工(りんごの加工)、山形・群馬県には山葵(ワサビ)、千葉県の花き改良奨励、埼玉県の球根原種圃設置、新潟県は球根花き栽培、高知県の黄蜀葵(トロロアオイ)など現在につながるものも少なくない
(なぜか長野、島根、香川、福岡、長崎、宮崎、鹿児島県は指定なし)。

昭和8年頃に農林省「副業法令」により各道府県に推奨された副業園芸品目の一覧表

  • 北海道 苗木(ウメ、アンズ)養成
  • 青森県 苹果加工奨励、苗木(カキ、クリ、ウメ)購入配付
  • 岩手県 苗木(クリ、サクランボ)養成配付
  • 宮城県 苗木(カキ)養成配付
  • 秋田県 苗木(キリ、カキ、ウメ)養成配付
  • 山形県 山葵栽培奨励
  • 福島県 苗木(カキ、ウメ、クルミ)配付
  • 茨城県 シイタケ・マツタケ栽培、促成筍栽培
  • 栃木県 苗木(カキ)購入配付、蔬菜軟化栽培、ヒサゴの加工
  • 群馬県 山葵栽培、シイタケ栽培
  • 埼玉県 苗木(ウメ、カキ、クリ、イチジク)養成配付、球根原種圃設置
  • 千葉県 シイタケ栽培、花き改良奨励、促成栽培の奨励
  • 東京府 蔬菜、花き促成栽培、苗木(カキ、クリ、ウメ、イチジク、草イチゴ)養成配付
  • 神奈川県 苗木(カキ、クリ)購入配付、山葵栽培
  • 新潟県 球根花き栽培、果実加工、苗木(ウメ、クリ、カキ、サクランボ)配付
  • 富山県 カキの空地利用栽培、マツタケ、シイタケの栽培
  • 石川県 ラン栽培奨励
  • 福井県 カキ栽培、山葵栽培
  • 山梨県 苗木(クリ、カキ)養成
  • 長野県 ―――
  • 岐阜県 ダイコン、トマトの加工
  • 静岡県 苗木(カキ、クリ)購入配付
  • 愛知県 蔬菜加工
  • 三重県 漬物改良、苗木(ウメ、カキ、クリ、イチジク、シュロ)配付
  • 滋賀県 蔬菜加工
  • 京都府 苗木(カキ、クリ)購入配付
  • 大阪府 花き種苗ならびにクリ苗木購入配付
  • 兵庫県 苗木(カキ、ウメ)購入配付
  • 奈良県 カキ苗木養成配付、漬物奨励
  • 和歌山県 苗木(カキ、クリ)養成配付、シイタケ栽培
  • 鳥取県 宅地利用苗木(ウメ、カキ、サクランボ)購入配付
  • 島根県―――
  • 岡山県 シイタケ栽培、山葵栽培
  • 広島県 苗木(カキ、ウメ、クリ、サクランボ)購入配付、缶詰製造、ハッカ栽培および製造
  • 山口県 苗木(カキ、クリ、ウメ)養成配付
  • 徳島県 苗木(ウメ、カキ、ビワ)養成配付
  • 香川県―――
  • 愛媛県 苗木(カキ)配付、シイタケ栽培、山葵栽培、筍缶詰製造
  • 高知県 蔬菜果実加工、トロロアオイ栽培
  • 福岡県―――
  • 佐賀県 苗木(カキ、クリ)購入配付
  • 長崎県―――
  • 熊本県 山葵栽培、苗木(クリ、ウメ、カキ)養成配付
  • 大分県 シイタケ栽培
  • 宮崎県―――
  • 鹿児島県―――
  • 沖縄県 熱帯果樹栽培、袒柑(タンカン)、ビワ栽培

※ 【時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)】
昭和恐慌(昭和4年)の影響は大きく、日本全体が不況の波に飲み込まれた。特に農村は疲弊を極めた。このため政府は昭和7年(1932)から昭和9年(1934)にかけて、景気対策を目的とする時局匡救事業として公共事業を立案し、各地で土木工事などが行われた。

※ 昭和初期の困窮する農村の救済政策における農家の「副業」奨励は、農業経営の維持を助けた一方で、賃労働に出る農家によって「低賃金労働」が広がり、労働者の所得レベルが低いまま固定化するという影響が出たという。農家の副業の問題は、戦後、「兼業農家」の形になって問題化する。

※  「副業」という言葉によって、米麦の穀作=耕種農業こそが農業の中心で、園芸作物などはそれに準ずるものとして軽視されるイメージを固定化する働きをし、土地利用の高度化が遅れたという見方もある。戦争があり、食糧増産のため穀作はより重視され、園芸関連は栽培が不可となった。

副業園芸は大都市の周辺に発生

副業が農家にとって魅力である理由とはどのようなことだったのか。元東京農業大学教授にして日本造園学の巨人、林学博士、上原敬二は、次のようにわかりやすく説明する。
「(※副業は)土地の価格とか地代とかいうものを計算に入れていない。労力も家族の手で行なうのであるから無代と見なしている。農具や掘り取り荷造りに使う材料も(※専業である)農業の方から無代で出されているからで(※副業の)庭木代はそのまま収入となっている。専業はどこまでも農である」。
これは戦後、昭和40年代に書かれた『宅地利用 庭木栽培の手引』のなかに出てくる一節だ。

戦前、長引く戦争と世界的な不況、天候の不順などで疲弊困窮した農家を助けるために副業が奨励されたことは先に見た通りだ。一方、戦後は、稲作の「減反政策」によって米以外の作物への転換が求められ、政府も農家も一緒になって新しい品目の導入を模索した。これらが最初は稲作と並行して始まっていくので、「副業的」な導入の経過をたどるケースが多かった。明治神宮造営の100年計画に深く関わった伝説的造園家、上原敬二が戦後に目をつけたのは、庭木の需要拡大だった。

本連載第99回でも紹介したように、昭和30年代は戦後の復興期を担った若者たちが次々と結婚し家庭を持ったために集合アパートの新設、戸建ての「マイホーム」ブームが起きていた。こうした個人住宅用の庭園樹の需要以上に巨大なニーズがあったのは、全国に張り巡らされる高速道路や各地に新設される巨大な「ニュータウン(公営住宅団地)」、工場などの緑化樹である。昭和43年(1968)には、都市計画法が全面改正・施行され、市街化区域と市街化調整区域の線引き、住環境における緑の保全の重要性が広く認知されるようになった。

温室で栽培される観葉植物も「貸植木」需要が爆発的に増えていた。オフィスビルが建つごとに莫大な量の貸植木が利用されている。都市化が進むなかで公園整備は遅れていたが、ようやく昭和47年(1972)に都市公園整備に関する緊急措置法が制定され、都市と緑と公園は一体となって維持されることになった。

もうひとつ、この当時、土地にかかる固定資産税(戦後、昭和25年に創設)がどんどん上がってきていることだ。経済が活性化し都市に人が集まると、数年前までのどかな田園が広がっていた場所も次々と都市化し、固定資産税の算定基準となる地価も値上がりを続けていた。こうしたことから、農家は収入を増やす手段を考える必要に迫られていた。

上原敬二はこうした需要の増加に対応して、新たに庭木生産を始めようという農家に対して実際的なアドバイスをするためにこの本を書いた。内容は実にわかりやすく、数字も詳細で具体的である。ずばり、「どういう土地に、いくらの金をかけて、何という植物を、どのくらい多く栽培し、何時、いくらで、どういう方法でどこへ売り出したらばよいのか、どうすれば利益があがるのか」、この問いにしっかりと答えを出すことが要点だとまとめている。

実際に栽培を始める際に気をつけたい「栽培の心得、15か条」。
(1)土地が相手であること
(2)植物が変わってくる(学びが必要)
(3)計画を立てる
(4)他人のまねをしない
(5)流行を追わない
(6)後悔さきに立たず(樹木は間違うと取り返しがつかない)
(7)他の栽培を参考とすること
(8)栽培品はその土地特有でありたい
(9)自分の手で流行をつくる
(10)流行にこだわらぬこと
(11)失敗した時の用意をすること
(12)将来性の大きい産品であること
(13)確実に利益の多いものはない
(14)庭師、植木屋との連絡あること
(15)栽培には順序あること

三代かけてできる「造園業」モドキ

この本のなかで興味深かったのは、「造園業」の看板を掲げただけの「にわか植木屋」が増えており、園芸学校や大学などできちんと造園を学んだ人たちの仕事のさまたげになっている、という指摘だ。造園関連の国家資格は、この時にはまだ作られておらず、造園技能士(1973)と造園施工管理技士(1975)の資格は、ともに昭和40年代の終わりから50年代まで待たねばならなかった。つまり、誰でも看板を掲げれば仕事ができた。この時代の庭作りの本を読むと、造園業者と契約をする場合は、「職人の仕事ぶりを見て、問題があれば途中で代えられる」「見積もり書や図面と違った作業を行った場合は業者の責任で作り直しをする」といった項目を契約の際に入れておくことが勧められている。いろんな職人、業者がいたことが推察される。

上原敬二は、「にわか造園業」がどのようにして発生し、増えているのか、について、およそ三世代にわたる物語のように記述している。いろいろなことが見えてくる興味深い内容なので、以下、要点をまとめてみたい。

 

【前史】
これまでの植木栽培業は、まず大前提として、大都市の近くに存在した、ということがある(本連載3回66回参照)。いくら土地が安く、条件がよく、労力が十分にあったとしても大都市という売り先が近くになければ生産品の売行きが悪いからだ。

山のなかや純農村の田舎で(植木の)栽培が行われた例はない。公園など昔はなかったのだから、そこで使う植木の必要はなく、庭園だけが目当てであり、その庭園も都市のなかに作られたものが庭木を需要した。庭木だけではなく、庭園用材料(丸太や竹)の商売も成り立たないのは昔も今も同じである。

つまり、立地が大きな要因であったがゆえに、栽培業者の営業方法はまことに幼稚なものであり、始めから計画を立てて行ったものはほとんど皆無だった。以下、都市近郊で植木業が発達し、造園業者へと変化していく順序を述べる。

①土地は親ゆずりのもので、手に入れる苦労なし。この土地を利用して代々農業を営んできたもののなかに、植木に趣味を持つものがあった。いろいろの花木を植え、実生や挿し木を楽しんでいるうちに、いつとはなくそれらは生長し、また数も増えていく。もともと土地には困らない。こうした庭木は自分の楽しみであって金に代えるような気持ちはなかったが、たまたま庭木の仲買商や庭師がそれを見つけてなんとか譲ってくれと頼まれる。さて、これを売り渡してみると意外にも割合よい値で引き取っていく。
こうなると、人間は欲のかたまり、初めから道楽だった庭木作りも半分は商売気がついてくる。百姓は労働が大切。年をとった老人たちは一人前に働けないから体力を必要としない庭木栽培に精を出すようになった。売行きのよいものを庭師から教えられ、それを植え増やす。庭師のほうも手近なところでまとまって材料が間に合うので喜んでいる。

②そういう老人たちもいつかは世を去って若いものの世帯へと代替わりする。老人が植えておいた庭木類はそのままあとに残り、毎年生育を続けている。これを黙っていても庭師たちがよい値で買取っていくのだから苦労がない。元手もかからず苦労なしで現金が手に入るのだから、これは悪い商売ではないと気がついた子孫たちは、それならばというので畑の一部分を割いても庭木栽培に打ち込むようになっていった。半ば農業、半ば庭木栽培というところまで深入りしていく。
副業としての庭木栽培は、主たる生業が農業であるかぎり、経費は最低限で、庭木を売った分がそのまま収入となる。このような栽培者を東京の郊外では「地堀師(じぼりし)」「地堀屋(じぼりや)」または単に「ボク屋」などと呼んでいる。
約10年前(昭和30年代なかば)、各地に続々とゴルフ場が作られた。そこで必要とする芝草の量は莫大なもので、これに目をつけた農家はただちに畑の一部を芝の栽培に変えていった。これは手数がかからない上に植え込みの材料ははじめの一回でいい。あとは刈り上げ、切り取りの手間だけで二年に三回ぐらいのまとまった収入になった。ところが、このうまみの多い商売も、ゴルフ熱の下火に伴いゴルフ場の新設がなくなったため、現在はもとの畑か庭木栽培へと変わっている。
こんなふうに、労少なくして儲かる副業が注目されるようになると、その地域一帯で同業者が増えていく。そしてときどきは神社の境内などを借りて「植木市」を開く。すると他の地方の同業者もこれに加わるようになっていった。このとき初めて農家は消費者に直売する経験を得た。仲買や庭師などの買い値、すなわち卸し値と異なり、直接町の人、庭好きの人、庭木好みの人を相手とするから値段も上回ってくる。そうなると市を開く回数も増える。もともと植木市は昔、桑苗、桐苗から始まったものだったが、こうして庭木へと移っていったものなのである。

③以上のような道筋を経て栽培だけを行っていれば無事なのだが、近来(昭和40年代)それが行き過ぎの状態を示している。栽培農家は、自分たちから庭木を買い取った庭師が依頼主に高い値で売り込んでいることを知るようになると、やがて自分たちで庭師の真似をすれば大きな利益を得られるというふうに考えるようになった。庭師は、依頼主にそうとう高い値で売り込んでいた。それは、荷造り、運搬、さらに植え込んだものが枯れたら交換しなければならない危険を見込んでつけた値段である。農家は親が残した庭木で元手はいらないが、庭師は農家から金を出して仕入れている。利益をみなければ商売は成り立たない。栽培農家はそういう経済を抜きにして、大きな価格差のみに欲の目を張り、仲買や庭師の手を通さずに消費者に庭木を売る。自分たちで庭師の領域を侵すような動きになっていった。つまり自分たちが庭師になることを選んだ。

農家は今まで庭作りの技術などまったく知らなかったが、自分で十分な量の庭木を持っていることを背景に、見よう見まねで庭作りを業とするよう気持ちが変わってきた。大規模なものはさておき、経験を積むうちに小さな屋敷の庭など器用に形作れるようになっていく。庭園業というのは、建築業と異なり(この当時)許可も認可も必要としない。学校で本格的な造園学を学び、または親方について若い時から苦労を重ねて庭作りの技法に打ち込んできた専門家としては抗議をしたくても法律では取り締まれない。
かくて農家出の駆け出し庭師、にわか庭師が「造園業」などという看板を掲げ、門の前に大きな庭石の二つ三つもころがして、けっこうそれで商売になる世のなかになってしまった。手持ちの庭木がある、ということは非常なる強みで、万一足りなくても、今度は自分が仲買となって周りの農家から調達してくるといったことまで手がけるようになった。
こうした庭師の手によって満足な庭ができるわけがないのだが、依頼主は農家手持ちの庭木に目を奪われて、庭作りを発注してしまうという結果になる。世のなかにはもののわかる人、わからない人どちらもいるものである。にわか庭師も庭園の書物でも求めて庭木、庭石、工作物の勉強でもしてくれればまだしもなのだが。果して実際はどんなものだろう。

 

以上が栽培農家三代で「にわか庭師」ができ上がる物語のすべてだ。上原敬二はこの本の最後を次のような言葉でまとめている。

《何を植えれば儲かるかということを記してあるかと思って読まれた人は失望するかもしれませんが、およそ世の中に苦労なくして利益のある事業というものはあるはずがなく、殊に栽培業は右から左に易々と金の入るような仕事ではありません。
この点をよく考え、自分の土地、世の人々の意向、好みを十分に判断し、他人の言葉に迷わされず、信念をもって着手されるならばかならず成功するもの。見本市、植木市、講習会などまだ書き足りない事もありますし、根廻し、剪定、促成栽培などもっと勉強してもらう事も残っていますが、いちおうこれで終り。新規事業の成功されんことを心から望んでおります》。

※参考
青木 紀 「戦前期における農家副業論の再検討」 東北大学農学研究所報告第342号 1983
平野侃三、蓑茂寿太郎 「造園領域の変遷と今後の展望」 日本の造園1965~1984 造園雑誌48(4) 1985

検索ワード

#副業#実際園藝#団地#高速道路#都市計画法#緑化#固定資産税#造園#植木市#芝

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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