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第104回 吉田進と「日本園芸会」の発足前後のこと―近代園芸学の導入と発展

公開日:2021.2.5

『観賞園芸学』

[編者]金浜耕基
[発行]文永堂出版
[発行年月日]2013年3月1日
[入手の難易度]易

吉田進は日本赤十字社で翻訳に従事

吉田進の経歴について、詳しく書かれた資料を見つけた(吉田については本連載第69回70回も参照)。
金浜耕基・編の『観賞園芸学』第5章4「近代園芸学の導入と発展の歴史」のなかに次のような解説がある(出典は佐賀市の大隈記念館にある資料のようだが不明)。

《吉田進(1862頃~1934)…東京府の士族出身で、明治10年代に大蔵省に出仕していた人である。
明治17年(1884)に外務省にいたフランス人・サラゼンからフランス語を学んでいたときに、欧米における果樹、花きの生産と利用の先進的実情を知った。
明治19年に加藤済(わたる)銀行局長に随行して欧米に派遣され、明治21年に帰国した(佐賀市大隈記念館調べ)。
明治22年2月(1889)に日本園芸会を設立し、明治22年11月に第一回総会を開催して、会長に花房義質(はなぶさ・よしもと)、副会長に田中芳男と前田正名を選出した。
明治23年8月(1890)に横浜港を出港し、欧米の近代的な園芸事情を視察して、明治24年9月(1891)に帰国した。
佐野常民が日本赤十字社の社長であった時期の明治24年9月、日本赤十字社の翻訳係を拝命した。外務省と会計検査院の翻訳も行って得た収入で、『日本園芸会雑誌』を経営した。
明治28年(1895)に、吉田進・佐藤曲辰著『園事暦・西洋園事暦之部』を発行した。
明治41年2月(1908)に日本園芸会の幹事を辞任した。
その後、昭和9年(1934)までの42年(※正しくは43年)間、日本赤十字社に奉職した人である。》

これまでの資料では、日本赤十字社で翻訳の仕事をしていた、ということはわかっていたが、ここにはさらに詳細な情報が記されている。初めは大蔵省に出仕、のちには赤十字社だけでなく外務省と会計検査院の仕事も請け負っていたというのは才能であり、人脈の広さを感じられる。
吉田は私財をなげうって『日本園芸会雑誌』を始めた。当初は自分が翻訳すればいくらでも金は稼げると自負していたものの、やがて「にっちもさっちもゆかなくなり」、政財界、貴族会員に援助を仰ぐことになる。電車も自動車もない当時、取材と翻訳に追われて「小便をする暇がないほどだった(本連載題70回の吉田の回想)」という苦労を背負っており、『観賞園芸学』に記された経歴は、こうした話を裏付ける内容になっている。フランス人脈の他、佐野常民、花房義質をはじめ日本赤十字社に関係した人脈のなかにいた人物であることが興味深い。

以下、「日本園芸会」の発足前後の詳細について、『観賞園芸学』の記述に沿ってまとめる。

『日本園芸会雑誌』と『日本園芸雑誌』

「日本園芸会」とは、吉田進が中心となり、平山成信と平野師應が実務を担う幹事となって、西洋の近代園芸を導入、普及、教育、研究することを目的として明治22年2月に設立された団体である。

日本園芸会は明治22年4月に『日本園芸会雑誌』第1号を創刊、明治38年6月までに157号を発行(『日本園芸会雑誌』の時代)し、続けて『日本園芸雑誌』と改題し、明治38年7月(第17年7号)から昭和20年1月(第57年1号)まで発行した。

○『日本園芸会雑誌』明治22年~明治38年 1号~157号(17年6号)
○『日本園芸雑誌』明治38年~昭和20年(57年1号) 40年間

※標題に「会」という文字がある・なし、であるが、名称が変わったということに注意。この『日本園芸会雑誌』は明治32年まで毎月発行ではなかった。しかし、明治33年からは毎月発行されるようになったことと、明治35年11月から大隈重信会長に代わったことから、明治38年7月発行の158号相当号が日本園芸会発足17年目の7月号という意味で『日本園芸雑誌』17年7月号と改題された。それとともに、その後は毎月発行されるようになった。

(図1)日本園芸会雑誌創刊号 (『実際園芸』第12巻第3号から)

日本園芸会の設立前夜

日本の園芸生産および園芸学における近代化のルーツは19世紀のフランスにあるといわれている。
その経緯は明治時代前後の資料を照らし合わせると明瞭になる。

江戸時代末期に幕府から欧米へ派遣された使節は、
万延元年(1860)の遣米使節
文久元年(1861)の遣欧使節
文久2~3年(1862~63)の横浜鎖港談判使節
慶応2年(1866)の遣露使節
慶応3年(1867)のパリ万国博使節 の5回。
これらのうちで近代園芸学の導入と深い関わりのあったのはパリ万国博使節(1867)の派遣である。

パリ万国博使節の派遣は慶応2年、フランス皇帝ナポレオン3世から幕府に送られた万国博覧会への出品要請に始まる。幕府が諸藩に対してパリ万国博覧会への参加を呼びかけた結果、これに応じたのが佐賀藩と薩摩藩であった。幕府は徳川昭武を団長とする30名を慶応3年11月に横浜からフランスのアルフィー号で派遣した。幕府の団員の中には幕府洋書調所に出仕していた博物学者・物産学者・農学者・園芸学者とも呼ばれる田中芳男が含まれており、のちに日本の博覧会(勧業見本市などの振興)、博物学(博物館・動植物園)、植物学、農学、園芸学等の発展に多大な貢献を果たした。

日本園芸会の設立

(1)「大日本農会」の設立
明治維新直後、北海道と樺太開拓のために設置された開拓使(1869~1882)の初代長官は佐賀藩第10代藩主・鍋島直正(1815~1871)であった(実務にとりかかる前に辞任)。鍋島直正は開拓使が廃止される1年前の明治14年(1881)の春、農業の経験や知識の交換を通じて農事の改良発展を図ることを目的として、下総牧羊場にあった「東洋農会」と「三田育種場」で開催していた種子交換会を連合して「大日本農会」が設立された。

名誉会員には有栖川宮、三条実美、大隈重信、佐野常民、福羽美静ら33人が加わり、会頭には当時の博覧会総裁であった北白川宮能久親王が就任した(※日清戦争で台湾に出征中、マラリアに罹病し逝去)。幹事長には農商務太輔(のちの農商務大臣)・品川弥二郎、幹事には田中芳男、池田謙蔵ら6人が選出された。この他に、常置議員として津田仙ら25人が選出された。

明治19年(1886)に三田育種場が民間に払い下げ
明治21年(1888)には三田育種場附属の播州葡萄園が前田正名に払い下げ
明治23年(1890)には、明治22年に3年間のフランス留学から帰国した福羽逸人が、東京農林学校において園芸学の講義を行うという節目の時代であった。

(2)「日本園芸会」の設立
明治22年(1889)2月に日本園芸会が設立された。
日本園芸会とは、吉田進と田代安定らによって「園芸事業の改良発達を図る」ことを目的として設立された団体である。

○設立趣旨
明治22年4月の『日本園芸会雑誌』創刊号に、吉田進による日本園芸会設立趣意書が掲載されている。
「今日の日本は昔日の日本と異なりて、正に外を観、而して内を顧むべきの秋なり。吾国園芸の一点に至りては、全く之と異なりて、未だ外を観、而て顧みるの状あらずして、なお依然として孤立閉居空しく熟睡の中にあるものの如く、毫もその改良発達の跡を顕さざるを覚ゆ。これ吾輩が朝夕痛歎する所にして、ここに本会の企画ある所以なり」

初代会長の選出

日本園芸会は明治22年11月に上野公園内の日本美術協会で臨時総会を開き、日本園芸会規則を定め、初代会長に宮中顧問官・花房義質、副会長に元老院議官・田中芳男と農務局長・前田正名を選出した。

幹事は吉田進の他に、農商務省・外務省・大蔵省などを経て、第一次および第二次松方内閣で内閣書記官長を務め、ウィーン万国博覧会に佐野常民とともに行ったことがあり、日本赤十字社の第5代社長にもなった平山成信、および大正6年3月に園芸雑誌『花』(東台園、東京)第一号を編集発行した人で、大日本農会の発足にも貢献した平野師應の3人であった。
日本園芸会の臨時総会では、この他の役員として6人の評議員が選出された。

また賛成者として三条実美、徳川義礼、大隈重信、榎本武揚、土方久元、佐野常民の6名と、3人のフランス人、1人のドイツ人の他に、田代安定、池田謙蔵、玉利喜造(明治26~36年に東京大学園芸学講座教授となり、農学博士第1号を授与された人物)、牧野富太郎ら164名が参加していた。(※『横浜植木株式会社百年史』によるとフランス人はボアソナード、サラゼン、ダウトルメール、ドイツ人はメイエルという名前がある。)

日本園芸会の設立に関わった花房、田中、平山と佐野はパリ万博やウィーン万博に一緒に行った旧知の仲であった。さらに佐野常民、田中芳男、前田正名、平山成信は日本の近代的な産業振興を目的として始められた内国勧業博覧会の運営にも一緒に関わっていたという関係でもあった。

(図2)花房義質 若い頃の肖像写真 幕末に留学し、維新後も海外勤務が長く見識の高い優秀な外交官だった。花房は第3代赤十字社社長を務めている。
(図3)田中芳男 壮年時代の肖像。若い頃の写真も残っているが、髪型もおしゃれで聡明な雰囲気がある。
(図4)前田正名 温和な表情の晩年の肖像 薩摩藩出身、政府の官僚として勧農興業に力を尽くした。
(図5)佐野常民 佐賀藩出身の政治家。西南戦争の際に設立した博愛社をもとに日本赤十字社を創立、初代社長、伯爵に叙せられる。

歴代の会長と任期および副会長

  1. 初代会長:花房義質(明治22年~35年) 岡山藩出身、緒方洪庵の適々斎塾の塾生
    副会長:田中芳男・前田正名・岩村通俊、福羽逸人
  2. 第2代会長:大隈重信(明治35年~大正11年) 佐賀藩出身、総理大臣などを歴任
    副会長:渡邊千秋・藤波言忠・福羽逸人・牛村一・原煕
  3. 第3代会長:鍋島直映(大正12年~昭和16年) 佐賀藩第12代当主
    副会長:藤波言忠・原煕・赤星朝暉・恩田鉄彌
  4. 第4代会長:有馬頼寧(昭和17年~昭和20年) 久留米藩第15代当主、農林大臣などを歴任
    副会長:菊池秋雄・安藤信昭

日本園芸会の発展

日本園芸会は昭和7年5月に社団法人となって理事長制に変わり、副会長兼初代理事長に原煕(はら・ひろし)東大教授が就任した。
日本園芸会は昭和13年(1938)に創立50周年を迎え、記念特集号が発行された。また記念誌として『日本園芸発達史』が昭和18年に発行されている。

日本園芸雑誌の内容も当初から大きく様変わりしていった。それは、大正末年からの様々な学術専門誌の発刊、また「園芸学会」が誕生し、学術発表機関誌たる『園芸学会雑誌』が発行されるようになったため、棲み分けが迫られたためだった。これにより本誌はさらに大衆性を目標とし、しかも園芸関係のすべての人々の機関誌として、その編集目標を改めたという。

また、大正12年に園芸学会の初代理事長(会長)となり、昭和7年に社団法人日本園芸会初代理事長ともなった原煕が亡くなると、『園芸学会雑誌』から造園関係の論文が独立して『造園学会雑誌』が創刊された。明治の半ばから大正時代にかけて「園芸」は多くの物事を包括していたが、それぞれの専門分野が発展することでより精密な研究・議論が行われるようになり、専門化が進められたということなのだろう。学術的な研究と社会一般の産業や趣味家との間にあった歴史ある「日本園芸会」の性格は、だんだんとあいまいになっていったのかもしれない。だんだんとその役目にも終わりが近づいてくる。
その後、すでに戦時統制に入っていた昭和16年に(社)日本園芸会は(社)日本園芸中央会と名称変更し、4代目会長に有馬頼寧、副会長に菊池秋雄京大教授と安藤信昭が就任し、理事長には淺見與七東大教授を選出して、昭和20年まで活動を継続した。

この項の最後に「園芸学会」について記す。いままでの話は「日本園芸会」→「日本園芸中央会」という団体についての歴史だったが、これとは別にもうひとつ、日本の園芸生産および園芸学に関する学術・研究団体に「園芸学会」がある。

園芸学会は大正12年5月20日(1923)に創設(現在98周年)。創設当時の理事長は原煕、理事・折下吉延(おりしも・よしのぶ)、平野英一、太田謙吉、森一雄であった。
評議員は35名、構成は、生産園芸、造園、初代理事長・原煕の同僚関係者であった。創立目的は、「果樹、蔬菜、観賞植物および庭園、公園、風景修飾等に関する学術技芸の攻究をなし、その発展を図る」とされていた。
園芸学会の初代理事長(会長)に選出された原煕(1868~1934)は明治25年東京帝国大学農科大学を卒業し、同大学で明治44~昭和4年に園芸学講座教授を務めた。

園芸学会の設立には、日本園芸会も深く関わっている。『観賞園芸学』で著者は「園芸学会は日本園芸会を母体として生まれたと言っても過言ではない」と述べている。実際に日本園芸会の役員18名のうち13名が園芸学会の創立に関わっており、第1回の総会が日本園芸会事務所で行われている他、例会もここで開かれていた。その後も両会は良好な関係を継続した。

初代会長に花房義質が選出された経緯

『観賞園芸学』では、吉田進がどのようにして日本園芸会という「華麗な団体」を設立するという大きな事業を成し遂げたのか、について推察している。初代会長となった花房義質の日記には次のような記述がある。

近世の園芸に志のある吉田進という男と、台湾の植物取調に従事している田代安定らが、ロシアで万国園芸博覧会のある時(明治17年、1884)に日本の園芸界の代表者として出てきたので、その道であの人等に交際があり、それ等が日本園芸会という名を付けて会員とては僅かに数人に過ぎぬけれども雑誌を出しており、それに同意して私が会長ということで、主として果実と花物と野菜の事を研究し始めたので、大分連中も出来て日本国中に及んだけれども、私が元々その道の知識もなく趣味もなきもの故、後に大隈(重信)さんに懇請して会長を引き受けてくれられて、今日では年々春秋に大会でもするといえば大隈伯爵家の庭ですることになったのである。(『子爵花房義質君事略』)

吉田には有力者を動かす人間力があったということか。『実際園藝』誌に掲載された本人の回想(本連載第70回)にも、ロシアの園芸博の際に田代安定が花房子爵に会長をお願いし、賛成してもらった、という記述があり、このあたりの事情が裏付けられる。
また日本園芸会の運営がいかに盛大で華麗であったか、明治28年に開かれた第22回小集会の記録に次のような記事が掲載されている。

今ここに、明治28年10月27日午後1時より本会名誉会員大隈伯爵の邸において開会せしに、当日花房会長、福羽副会長、その他の会員並に来賓として三條、岩倉の2公、5~6の各県知事、貴婦人等およそ350余名に達したり、園中温室の傍に椅子数百脚を配置して、この所を以て講話所となし、まず副会長福羽逸人師、次ぎに在横浜のドイツ園芸家アンガー(※ボーマー商会、アルフレッド・ウンガー)氏、終わりに農科大学教授玉利喜造氏の園芸上有益の講話あり。同園の出口においては広き庭園の芝生上にテーブル、椅子等を配置し、折詰弁当並に酒を来賓に供され、一同退出せしはカラス林に帰るの頃なりし。(『日本園芸会雑誌』明治28年)

初代会長・花房義質は明治35年11月に退任するまでの15年間、会務に当たり、総会や小集会にほとんど欠かすことなく出席したそうだ。副会長は当初、田中芳男と前田正名の2名であったが、しばらくして、時の農商務大臣・岩村通俊を加えて3人となり、岩村が副会長を辞任したあとは後任に福羽逸人が選出され、副会長3人体制が続いたが、明治28年には田中芳男と福羽逸人の2名となった。

大物が死去する大正後期は時代の節目

『観賞園芸学』で著者は、「日本園芸会」の隆盛に関して人的にも地理的にも有利な条件があったと指摘する。
人的には、政財界の大物や上流階級の人々に園芸の趣味素養があったことが挙げられる。当時、必須の教養課目だったといっても過言ではないと思う。
また、地理的な視点で日本園芸会に関わった重要人物の邸宅や公園を見ると、それらが往来に便利な位置にあったと指摘する。花房義質(目黒・花房山)、大隈重信(早稲田)、福羽逸人(新宿御苑、目白・日本女子大学校)、鍋島直映(渋谷区・松濤町「鍋島松濤園」)、原煕(目黒区・駒場「東京農林学校=農科大学」)というふうに、現在のJR山手線の西側沿線に分布している。

このように、奇跡のように偉大な人達が集まっていた華麗な団体、日本園芸会であったが、中心となった重鎮たちは、大正時代から昭和のはじめにかけて次々と亡くなっている。

田中芳男(1916)、花房義質(1917)、鍋島直大(1921)、前田正名(1921)、福羽逸人(1921)、渡邊千秋(1921)、牛村一(1921)、大隈重信(1922)、池田謙蔵(1922)、森鴎外(1922)、藤波言忠(1926)、吉田進(1934)、原煕(1934)

このような影響力の大きな人物が亡くなっていくことで求心力が薄れていくということはあり得る。
その後、どこに新たな中心(人物、機関、施設、事業等)が生まれ、どのような変化が起きていったのだろうか。

検索ワード

#大日本農会#日本園芸会#日本園芸中央会#園芸学会#造園学会#三田育種場

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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