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第105回 「それはほんとうに高いのか?」価値の物差し―父、露伴と孫娘の植木

公開日:2021.2.12

『木』

[著者]幸田文
[発行]新潮社
[発行年月日]1992年6月12日
[入手の難易度]易

歴史ある書誌に掲載された珠玉のエッセイ

幸田文の著作に『木』という作品集がある、と知人から教えてもらったので、すぐに取り寄せてみた。
いまは、文庫でも読めるが、新潮社から出されたこの本は、装丁がとてもいい。木肌のような加工をされたカバーを外すと、表紙には木目模様が浮き出る光沢のある布が貼ってある。いわゆる「モアレ模様」というのか、本を手にとって少しだけ前後に動かすと、この木目模様が光を反射しながら動いて見える。

この本には、タイトルの通り、「木」に関する随筆が15篇収められている。1971年から1984年にかけて『学鐙』という雑誌に発表された作品だという。幸田文は1904年生まれということだから、67~80歳という年齢で書かれたものだ。

『学鐙』を発行する丸善のサイトによると、この雑誌は明治30年に創刊の書誌(本の紹介、本を探すのに役立つ情報誌)で、「地味ながら深い学識に基づく」編集方針で出されてきた。幸田文の文章は、まさにそうした雑誌の雰囲気にぴったりの味わいがある。

幸田文と草木、3つのきっかけとは

昭和25年頃の著者の肖像(46歳頃)

「藤」という題の作品がある。1971年の夏頃、『学鐙』に発表された。書き出しの部分を引用する。

どういう切掛けから、草木に心をよせるようになったのか、ときかれた。
心をよせるなど、そんなしっかりしたことではない。毎日のくらしに織込まれて見聞きする草木のことで、ただちっとばかり気持がうるむという、そんな程度の思いなのである。今朝、道の途中でみごとな柘榴の花に遭ったとか、今年はあらしに揉まれたので、公孫樹がきれいに染まらないとか、そういう些細な見たり聞いたりに感情がうごき、時によると二日も三日も尾をひいて感情の余韻がのこる、そんなことだけなのだ。
でもそうした思いをもつ元は、幼い日に、三つの事柄があったからだ、とおもう。

幸田文は、小説家、幸田露伴の娘として知られる。その幼い日に、植物と親しむようになる三つのきっかけがあったと書いている。

「一つは、環境だった。住んでいた土地に、いくらか草木があったこと。二つ目は、教えだろうか。教えというのも少し過ぎる気がするけれども、とにかく親がそう仕向けてくれたこと。三つ目は、私の嫉妬心である。嫉妬がバネになって、木の姿花の姿が目にしみたといえる」。

以下、それぞれについて見ていきたい。

1、住むところに多少の草木があった
当時は郊外の農村で暮らしていた。田畑の作物、雑木林があり、どこの家にも様々な草木が植えてあった。
また、植木屋の植溜もいくつかあった。このような土地柄ゆえに子供たちはひとりでに、草木に親しんでいた。
(※墨田区の向島、寺島あたりか。幸田家=蝸牛庵の跡地は、一部が区立の児童遊園になって残っている。いまでは考えられないが、明治末から大正の当時、墨東地域は田園地帯で、植木屋も多かった。第9回参照)。

2、父、露伴の仕向け
幸田文は姉と弟の三人兄弟。三人「めいめいに木が与えられていた」。不公平がないように、同じ種類の木を1本ずつ、これは誰のものと決めて植えてあったという。しかも、1種類ではなく、ミカン3本、カキ3本、サクラもツバキもそれぞれ3本ずつ、というふうであった。

持ち主は、花も実も自由にしてよい。しかし、木をよく見て回って害虫に注意すること、植木屋さんに肥料を施してもらう時に、礼を言っておじぎをすること、などが約束になっていた。

「敷地にゆとりがあったから、こんなこともできたのだろうが、花の木実の木と、子供の好くように配慮して、関心をもたせるようにしたのだとおもう。」

父、露伴は木の葉を採ってきてなんの木か「あてっこ」をさせることもあった。早くに亡くなった姉「歌」は、この「あてっこ」がとても得意だったという。

3、嫉妬、負けず嫌い
姉の歌は、植物に詳しかった。枯れ葉になっても干からびていても、虫食いでも、羽状複葉の1枚でも、見れば当てることができた。文は答えることができず、つかえてしまう。姉は葉を見せた瞬間にさっと答えて父を喜ばした。自分は、そういうふうにはできなかったし、覚えようとしてもうまくできなかった。父は、「出来のいい」姉に次々にもっと教えようとし、姉はそれによく応えた。姉は父と並び歩き、自分は後ろからついていくだけで、そのとき、嫉妬と淋しさを感じたという。

姉は早逝した。父は、しばしば残念がって、「あれには植物学をさせてやるつもりだった」とこぼしていたという。こうして文は姉を見返すことができなくなった。
父はその後も、文にも弟にも花の話や木の話をしてくれた。ダイコンの花の花弁の色が変化することや、草木の名前の由来や、ハスの花が咲く時はポンと音がするというが、試してみる気はないか、などと話をしてくれた。文は朝早く起きてハスの花が咲く時の音を聞いたという。こすれるようなずれるような、かすかな音だったという。

文は「子供ながら、それが鬼ごっこや縄とびのおもしろさとは、全くちがうたちのものだということがわかっていた」。

幸田家は、関東大震災後の大正13年に文京区小石川(伝通院のすぐ近く)へと転居した。これによって、草木が身近にある、という環境ではなくなった。
向島の広い庭のある一軒家から引っ越したその狭い貸家は、門こそ名ばかりのものがついていたが、玄関脇の白い一重のツバキ、茶の間の前のカナメモチ、シイノキ、「ばさけたレンギョウ」がそれぞれ1株ずつという貧相な緑しかなく、「茶の間に座っていて、目の安めどころ」がなかった。むしろ何もないほうがよかったと書いている。

家族それぞれの心のなかに緑が住みついていたのか、新しい家の緑にみんな不服を口にしたが、父、露伴は草木を買って植え増やそうとはしなかったという。父は、土の質を見ていた。ここの盛り土は木くずや石くれが混ざっていて、植えても枯れてしまう。育たないばかりか、枯れていくのを見るのはごめんだというのだ。それを聞いて家族は、いっさい植木を欲しがらなくなった。

その後、何年も経った頃、植えないと言っていた草木もあちこちから贈られたものですこしずつ増えていた。幸田文は結婚して一度は家を出たが、離婚、父からすると孫娘をつれて実家に戻っていた(文は34歳、娘は10歳の頃、露伴は71歳)。
祖父は、父のいない孫を哀れに思ってか、あれこれと世話をやいてくれたという。事件はこのような新しくできた祖父と孫の関わりのなかで起きた。次のような文章で始まっている。

そのころ町にはよく縁日がたって、人々は植木や鉢ものをひやかすのが好きだった。父は私に、娘をそこへ連れていけ、という。町に育つおさないものには、縁日の植木をみせておくのも、草木へ関心をもたせる、かぼそいながらの一手段だ、というのだった。
水を打たれた枝や葉は、カンテラの灯にうつくしく見え、私は娘の手をひいて、植木屋さんとはなしをした。
「これだけしゃべらせて、なんだ、買ってくれねえのか」といわれたりすると娘は私の手をかたく握って、引っ張った。

戦前の昭和13年頃の話だと思われる。植木の縁日は昼も夜も開かれていた(本連載第76回参照)が、これは夕方から夜の様子だろう。娘がフジの花を欲しいとねだったのは、お寺で開かれた春の植木市でのことだった。

祖父、露伴は、文に「娘の好む木でも花でも買っちゃれ」と「ガマ口(財布)」を手渡した。
汗ばむような晴れた午後、娘が選んだ植木は、フジ。しかも、鉢ごとちょうど私の身長と同じくらいの高さがある老木で、明日あさってには咲こうという、つぼみの房がどっさりとついていた。実はこの鉢、植木市のなかでもとびきり目立つ「お職」だった、と書いている。
「お職」というのは、もともと吉原遊郭における位の高い遊女を指すことばで、要するに、この植木市の目玉商品だった。「子供はてんから問題にならない高級品を、無邪気にほしがったのである」。

当時の植木市、縁日は(花屋もそうだったろうけど)、値札など付いていなかったであろうが、聞かずとも知れる高価で、とてもガマ口の小銭で買えるはずもない。文は娘に、藤の代わりに赤い草花をどうかとすすめたが、それらの花は以前にも買ったことがあるからと、結局、娘は小さいサンショウの木を選び、帰宅した。

「ところが、夕方書斎からでてきた父が、みるみる不機嫌になった。藤の選択はまちがっていない、という。市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目をもっていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに、という」。

それでも文は、父の思いに気がつかず、「藤はバカ値だったから」と弁解すると、父は真顔になって怒った。(以下引用)

好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡してやった、子は藤を選んだ、だのになぜ買ってやらないのか、金が足りないのなら、ガマ口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差にして、価値を決めているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えてやれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の芽を伸ばさないとはかぎらない、そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない――さんざんきめつけられた。

参考
「木」に収められた幸田文の一連の作品は、丸善で発行している『学鐙』に掲載されていたもの
◎『学鐙』の歴史について  創業150年の丸善のサイトから
https://www.maruzen-publishing.co.jp/info/n19654.html

◎『木』に収められた作品「えぞ松の更新」に出てくる東京大学大学院農学生命科学研究科附属北海道演習林、森林資料室
http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/hokuen/ippan/03_shiryou.html
精英樹……森林のなかで飛び抜けて生育がよく、樹の姿や材質など他より形質が優れている個体、エリートのこと。苗木の親として選抜、利用される。

検索ワード

#幸田露伴#向島#百花園#植溜#縁日

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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