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園藝探偵の本棚

第107回 「エクセレント・トゥエルヴ」という歴史的事件 ~来年、50周年を迎える日本フラワーデザイン史の金字塔(後編)

公開日:2021.2.26

『Excellent Twelve 花と12人の男たち』

※フラワーデザイナー集団「エクセレント・トゥエルヴ」によるイベントのパンフレット
[発行年月日]1972年1月15日
[入手の難易度]超難

「ヤング」が輝いていた時代

前号で示したのは次のようなことだった。

  • 当時30才前後の12人の若者が集まり、「エクセレント12(トゥエルヴ)」という集団をつくった。
  • 彼らは1972年の1月15日(成人の日の祝日)に、歴史的なフラワーデザインショーを行った。
  • 12人で広告を集め、知人友人の力を借りてパンフレットを製作し、プログラムの構成を考える手作りのイベントだったが、その会場となったのが、新宿厚生年金会館という大きな舞台であり、ほぼ満席の観客を集めた。

「エクセレント12」については、『園芸探偵no.1』で1項目を設けてまとめておいた。記事では次のように書いている。

1971年の「フラワーデザインライフ」11月号にこんな見出しのインタビュー記事がある。

「われら12人 若くてデッカイ夢があるさ! ヤングマン・フローリスト トゥエルヴ 大いに語る」
「ウーマンリブ(?)のフラワーデザイン界に挑戦する」

これは、翌年(※1972年)の1月15日にせまった「エクセレント・トゥエルヴ」について当事者である若手男性デザイナーたちに話(気炎)を聞く、という企画だった。
その「エクセレント・トゥエルヴ」とは、12人の熱い気持ちを持った若手デザイナーたちで、今なら「チーム」とか「ユニット」と呼ばれていたかもしれない。
スクールの講師やホテル、花店スタッフだけではなく、資材店に勤めているメンバーもいる。それぞれ何歳だったのだろう。田中栄氏、福徳八十六氏に話をうかがったときに計画は(※前年早くから始まり)足掛け2年にもなったということだった。佐納和彦氏が発起人だったという。(※彼らは仕事が終わると)毎週のように集まって、夜が白むまでディスカッションしていたという。
このグループインタビューでは、マミ川崎さんが司会でもあり、参加者でもあり、先生として若者たちへアドバイスする言葉もある。
外国人がたくさんやってきてアメリカの技術を学ぶことの多かった60年代は過去のものになりつつある。これからの花屋とはなにか。プロフェッショナルなデザイナーとはなにか。日本的なもの、自分たちにしかできないデザインはなにかを模索しているようすがうかがえる。これまでのデモンストレーションを越えるものにするという意気込みが見える。

今からちょうど、50年前の『フラワーデザインライフ』誌の見出しに、「ヤング」「デッカイ」「ウーマンリヴ」というワードがあって、昭和30年代生まれの僕は、それだけで懐かしく、むしろ新鮮な感じすら覚える。70年安保闘争の他、ベトナム反戦運動、成田空港問題など「若者」の周辺は騒々しく、日々安穏と過ごせるような雰囲気ではなかっただろう。
一方で、こうした社会運動を横目に朝早くから夜遅くまで花の仕事をする人々がおり、それも中学を卒業してすぐ働き出した若者が数多くいた(本連載、第97回の社員寮など参照)。
こうした時代に、ようやくフラワーデザインというような「仕事」が見えてきた。60年代は外国人デザイナーによる教育とデザインデモンストレーションを見る立場だった日本人が、自らビジョンを打ち出す時が来ていた。あとで示すように、この12人の若者の多くがアメリカを中心に海外へ武者修行に出ている。自分の目で海外を見て経験した上で、新しい時代を開こうとしていた。
来年が50周年である。福徳氏、田中氏、渡辺氏にはお目にかかって話を聞いたが、もう4年も経過し、僕が仲卸で働いていた頃にお世話になった成瀬房信氏もすでに天に昇られた。もしできるなら、ここに登場されている方々から再び話を聞く機会があればいいのだが。

図1 左から雨谷貞、いけだこうじ、飯塚伸哉
図2 左から池田賀男、今井弘一、成瀬房信
図3 左から佐納和彦、田中 栄、村田憲一
図4 福徳八十六、望月 真、渡辺富由

「12人の若者」とは誰なのか

あらためて、「エクセレント・トゥエルヴ」のメンバーを当時の肩書で紹介する(五十音順)。

雨谷貞 ゴトウ花店(横浜店)マネージャー
飯塚伸哉 東京フラワーデザインセンター講師
いけだこうじ 中央フラワーデザイナー協会デザイナー
池田賀男 池田生花店、フローラルアートプロダクション経営
今井弘一 ハナトモ(赤坂プラザ)店長、チーフデザイナー
佐納和彦 東京フローラルアートセミナー主宰、ミウラフローラルアートスクール・チーフデザイナー他
田中 栄 ホテルニューオータニ(株式会社レインボウ)チーフデザイナー、近代花卉装飾デザイングMEDD主宰
成瀬房信 ナルセフローリスト チーフデザイナー、マミフラワーデザイン講師
福徳八十六 サンフラワー経営
村田憲一 村田永楽園生花園芸部 チーフデザイナー
望月 真 マリモクラフト チーフデザイナー
渡辺富由 神宮ガーデン経営 ※東京・原宿

以下、パンフレットに掲載された各人のコメントとプロフィールを抄録して今日の話を終えようと思う。

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【エクセレント・トゥエルヴ 花と12人の男たち パンフレットのテキスト抄録】

○デザイン:ナルセ・モトコ、タカハシ・ユミコ
○写真:アンザイ・シゲキ
○コラボレート:ミタムラ・ショウホウ、ナカムラ・リカ

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12人の男たちがフラワーデザイナーというだけでその考え方のまったく違う仲間がひとつのイベントをとおしてワンステージに作品を創りました。
12人が共同の作品を創作することはひとりひとりの個性の違いからぶつかりあいむずかしさがあります。約半年の間12人はまずその違いにふり回されたといっていいでしょう。

その混沌とした中から新しいフラワーデザインを見い出すということをたよりに12人が何かを語り問いかけ創作しました。まったく不思議な仲間たちの持ち味が若さというエネルギッシュな大胆さで力み私たち自身というものを精いっぱい表現してみました。

私たちはいまこの時点でこのイベントにいまという私たちのすべてを出したつもりです。そしてこの“いま”の時点からもっと新しい自分たちのフラワーデザインというものを考えやってくる“いま”に向かって考えて行きたいと。

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【雨谷 貞(あまがい・さだ)】
フラワーデザインは、おのおのの人間が花を通して表現したい感情であり思想であると思う。その意味からも自然と花と自分との一体化したかかわりあいの中から花という美しさの持つ“付加価値”を見つけて行きたい。
そのパースペクティブな付加価値をいかに作品の中の私自身の表現手法と組み合わせて創りあげるかが課題であると思う。
茨城に生まれ小さい時から自然に親しんでいた私は、好きな花と毎日顔を会わす職業を選んだ。店頭に飾られる花を無気に求める人。一輪の花を大切に求める人。さまざまな人の心の中に私は本当の花の美しさ、表情を知らせたい。それは私の小さいときからの夢でありFDを志すひとりとして願いたい。
FDを通して人に感情(動)を伝える代弁者になりたい。それは人間の創作に対する無限の可能性への挑戦であろう。
どうしたら可能たらしめるかが今私のいちばんの問題だと思う。

【いけだこうじ(※池田孝二)】
いつも考えること。それは花について。自分を考えるとき花の存在が判らなくなる。
花について考えるほど、自分が判らなくなる。
いまFDを創るということだけの実存的な考えにひたってしまうのかも知れない。
自分の満足の行くような作品を創るのは不可能なことかも知れない。
できれば、自分のための花をつくりたい。そしてもしできれば、自分自身の花をつくってみたい。

67年 中央フラワーデザイナー協会発足、参加
68年 NFD第一回コンテスト第3位
69年 アーティストグループ ファースト結成
70年 桑沢デザイン研究所卒業。ヨーロッパより帰国後、銀彩堂画廊にて個展/中央フラワー第1回フェスティバル演出/NFD第6回コンテスト第1位
71年 ‘71トップデザイナーコンクールNFD大賞/中央フラワー第2回フェスティバル演出
現在、NFD東京支部委員/NFD一級正会員/中央フラワーデザイナー協会チーフ

【飯塚伸哉(いいづか・しんや)】
FDを始めてから私にとって大きな変化をもたらしたのは4年前に渡米したことだろう。
それはもっとも素直に自分の作品を見る機会が出来たということだ。
自分の作品に対する不安感は断えず消えないものだ。
「アメリカに行って変わった」とよく友人に言われる。実際、本場アメリカで学んだものは無に等しい。
しかし、いちばん明解な答が出た。FDに本場もなにもないと。
創るということ。それは確かに無から有にすることだと思うが、その過程も「有」も改めて分析する必要はないと思う。

NFD第7回コンテスト第1位
71年 NFDトップデザイナーコンテストNFD特賞
現在、東京フラワーデザインセンター講師/NFD関東甲信越支部委員

【池田賀勇(いけだ・よしお)】
花屋に生まれ花に囲まれて育ちながら、私は長い間その存在に無関心だった。
だが花は決して優等生でなかった私にひとつの安らぎを与えてくれたのかも知れない。だからひとつひとつの花に想い出が残されている。
FDも社会や生活の変化にしたがって変化して来た。私のFDに対する考え方、表現手法もこの10年間で大きく変貌した。
しかし“創る”という行為そのものに変化はない。私はその中でいかに自分自身を見つけ出すかということ。またその中から日本人の感性をダイレクトに表現するもっともすぐれた“芸術”であることには変わりないはずだ。

48年 神奈川県生花商組合技術コンテスト第1位
68年 第13回日本生花商組合全国大会技術コンテスト特選/神奈川県園芸展覧会FDコンテスト三部門特選
69年 第14回日本生花商組合全国大会技術コンテスト 農林大臣賞及び銀賞
70年 第19回関東東海花の展覧会技術コンテスト三部門金賞ほか/現在池田生花店、フローラルアートプロ経営/NFD三級会員

【今井弘一(いまい・こういち)】
“大きくなったら、お百姓さんになりたい”――と、幼な心に抱いていた私は、浅草に生まれた。この点を見れば時代の最先端を走っていたわけだが、これが今では病い膏肓に入り、田舎、民具といった堆肥の臭いがプンプンするものに憧れて毎日を送っています。
当然のことながら私のFDも、その病いにかかっているといえましょう。いまあるFDで、あくまでも、日本ではまがいものに過ぎないと思うのです。
確かにFDというものは外国産であります。土着性のおびたFDは単に花に素材を求めることなく、野菜、木の実、まつかさ、それに日本の民具、土、自然界(田舎)の中にたくさん秘んでいると思う。
アメリカ留学後、※※からずもそのことを私は発見し、それに取り組もうと考えたのです。
FDの世界に日本の田舎の美しさを再現できたら…。

【成瀬房信(なるせ・ふさのぶ)】※Nobu Naruse と表記
たった一輪の花の美しさは、無限に広がって行く。
ボクはいま想像を絶するような広大な花の宇宙を手に入れたい――。
それはうつわのないフラワー・アレンジメントであり、花一輪がもたらす虚実皮膜の本質であると思う。
私自身が想像しえないような作品を作りたい。

57年 草月流師範/マミフラワー講師
66年 明治学院大学卒業。フローリスト研修のため渡米
2年間アメリカ各地にて活躍。この間A.I.F.D会員となる。
68年 秋イスラエル建国記念にFTDインターフローラデザイナーとして他の7ヶ国の代表と伴に招待される。晩秋スエーデンに於ける国際コンテストに出場、帰国
70年 ヨーロッパを代表するフラワーデザイナー、ウィリー・シーフリッグ氏と伴に東急ホテルにてデモンストレーションを行う
71年 NFD一級会員となる/JFTDコンテストにて農林大臣賞を受ける

【左納和彦(さのう・かずひこ)】
誰もが美しいものに憧れるように、私も憧れる。
幼い頃から花の中で生活して来た私は、その美の象徴を当然のことながら花に託し、FDを通してそれを表現したい。
私なりに花との体話(ボディローグ)が生まれたとき、自然の持つ耽美な世界を知ることにもなると思います。
――美(花)は、跡絶えることなく広がります。それが空になり、海になり、女性になると…。

69年 第3回NFDコンテスト第1位。後楽園フラワーホリデイコンテスト第1位、2位独占。読売新聞社賞。東京銀座東電画廊にて第1回個展を開く。
70年 米国バーバンク・スクール・オブ・フローラルデザイン卒業。東京銀彩堂画廊にて第2回個展を開く。
現在、東京フローラルアートセミナースクールチーフデザイナー。フローラルアート千穂スタヂオ講師。NFD1級正会員。東京支部委員。

【田中 栄(たなか・さかえ)】
初めて花と接したのが18才のとき。それは趣味としてではなく職業としてのこと。
ゼロからの出発は毎日毎日記憶しておかなければならないことばかり。それに花を見ながらも、じっくりと花を見つめるチャンスも少なかった。それはまるで花との戦争。
FDを始めたのはその数年後、第一園芸に入り、師を得たからである。師のすべてに於ける教えが私のひとつのFDに対する根底になっているといってもいい。
師とともに作品創りをする中から私は、花の持つ表情を知ったといえる。
ある面では、フラワーデザインというものがその花の表情をありのままに表現することができ、美しさを人に伝えられる気がする。
私はコンテストに出品することよりも、まず自分自身の作品に対するありのままの表現を託したい。
いやそれよりなによりも花だけはより美しく飾ろう、ということに命を打ち込みたい。
※田中栄氏の師は、永島四郎先生。1963年逝去、68才。

【村田憲一(むらた・けんいち)】
私は南国が好きだ。まっ青に澄み切った海。強烈な太陽。その中にあるパームトゥリー。
7年まえ 船旅でハワイに着いた時、いちばん先に私の目に焼きついたのがそれである。水や空気や花は人々に勿論私にとっても欠くべからざるものです。
FDを志す単純な理由がそこにあります。
大学を出てサラリーマンの仲間入りした私は、それなりに意義のあることでした。しかし北米、欧州、東南アジアを何回となく見に行くにつれ、私はFDにそれを表現したいと思ったのです。

66年 立教大学卒業。パイロット万年筆(株)入社
67年 同社退社後渡米。American Floral Art School 修了。以後、北米、欧州、東南アジアを数回にわたり視察。
現在、村田永楽園生花園芸部チーフデザイナー

【福徳八十六(ふくとく・やそろく)】
生花を素材とした“生け花”と外来者であるFDは日本という土壌の上に根ざしたFDを創る大きな役割りになると思う。
生け花の伝統と流儀はそれなりに極みを得ている。
そのあらゆる創造性を日本にしかない生け花の妙味を自然に学びとることが重要な要素のひとつであろう。それが私自身のフラワーデザインを見い出すことであり、単なる“真似”でなくホンモノの味を知ることでもあろう。

62年 岩手県立宮古高校卒業
63年 ホテル大倉にて宴会装飾一般を故永島四郎先生に学ぶ
67年 東京フラワー・アカデミー卒業。渡米(ネブラスカ州 アザレアランド フローラル&グリーンハウス)
69年 帰国後、(株)東京花材センター入社
71年 現在、フロリスト・サン・フラワー経営

【渡辺富由(わたなべ・とみよし)】
福島の片田舎に生まれた私は東京に出て初めて花に興味を抱いた。それまで、余りにも自然にとどく花に対して無神経だった私は、それが生きることの土壇場に立たされた時に得た仕事となったのだ。
花の持つデリケートな感覚に大きな夢をたくしたい。

63年 南龍商事(株)入社
64年 大石寛氏に師事。東京フラワーデザイン研究会に入会
65年 恵比寿園芸(株)入社
66年 関東東海花の展覧会入賞(C)/第4回フラワーショー入賞(C)(B)/東京フラワーデザイン研究会発表会会長賞受賞(A)
67年 日花協神戸大会コンテスト日花協会長賞、神戸市会議長賞(C)受賞 /関東東海花の展覧会日花協会長賞受賞(C)/藤田観光街(ママ)園芸部入社
68年 NFD第1回コンテスト2位(A)/関東東海花の展覧会入賞(A)
69年 フラワーホリデイ日本生花市場協会賞/東京都生花商連合共同組合賞(B)受賞 /第2回通常総会コンテストの部第1位(テーブルデコレーション)/神宮ガーデン開店
※(A)アレンジメント、(B)ブーケ、(C)コサージュ

【望月 真(もちづき・まこと)】
港町に生まれた私は、自然の中のすべてが欲しい。
青い空ときれいな花ときれいな海。
私は、花の世界に生きながらも、民芸品が好きだ。
澄み切った青空に広がる草原の花をそのままFDの世界に生かせたら…。

65年 花茂フラワーデザインスクール(山家直之助氏)師事
66年 芳花園フラワーデザインスクール設立。チーフデザイナーとして活躍
67年 芳花園フラワーデザインスクール第一回展示会
68年 芳花園フラワーデザインスクール第二回展示会
68年 第一回NFDコンテスト入賞
69年 第三回NFDコンテスト第一位
70年 株式会社マリモクラフト入社チーフデザイナー

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※参考
『フラワーデザインライフ』第46号 1971年11月号 マミフラワーデザインスクール

検索ワード

#マミフラワーデザインスクール#NFD#新宿厚生年金会館#ナルセ・フローリスト#ホテルオークラ#第一園芸

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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