農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第108回 コラン先生に日本の草花を贈る~ジャポニスムの画家と日本植物

公開日:2021.3.5

「コラン先生の追憶談」

黒田清輝、久米桂一郎、岡田三郎助ほか
『美術新報』第16巻第5号(第270号)に掲載
[発行年月日]大正6(1917)年3月5日
[入手の難易度]難(国立国会図書館蔵)

「明治期博覧会における園芸振興と日本植物ブーム」山塙菜未 (『近代画説』明治美術学会誌第23号)

※論文
[発行年月日]2014年12月13日
[入手の難易度]易

ラファエル・コラン(1850~1916)は、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスのアカデミスム、外光派の画家(図1)。日本近代の洋画家たちのフランス滞在中の恩師として知られる。コランの活躍した時期は印象派全盛期に重なっており、フランスでも忘れられた存在になってしまったというのだが、当時の先生は極東アジアの小国から来た若い画学生たちを分け隔てなく愛し、よく育てた。
その弟子たちとは、黒田清輝(1866~1924)、藤雅三、久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作、浅井忠など日本の近代洋画界に名を残すそうそうたる顔ぶれだ。日本人画学生は長期、短期含めるとそうとうな数の若者がコランに手ほどきを受けている。
黒田清輝(図2)は、先生は外国人には珍しく鼻のあたまに「ジャンコ」(あばた)があった(ジャンカ、天然痘の病痕、かつての日本人には多かった)と回顧している。
一見すると快活な人というには遠く愛想もない、むしろぶっきら棒なところのある人だが、実際の性格はとても親切で心のうちは快活な人で、しばしば食事やカフェに連れて行ってくれた。身長が5尺8寸(約180cm)もあり、黒田より頭一つ分背が高く、先生は一緒に歩きながら黒田の肩に手をかけて抱えるようにして親しく歩いたという。

最初に取り上げるのは、黒田清輝がコランの死後、その追悼の意味を込めて思い出を語ったものだ。
黒田はもともと法律を学ぶためにフランスに留学していた(初期の明治政府は法制度、法体系をフランス法に習おうとしていた)が、藤雅三の通訳としてコランと出会い、やがて自分の才能を開花させた。法学をやめてコランの下で8年間かけて絵を学ぶことになったという。まさにコランあっての黒田といえる。
そんなコラン先生は、庭と植物をこよなく愛した人でもあった。弟子たちも師と師の庭を通じて植物と触れ合っていた。20世紀初頭のパリでどんな植物があったのか、そんなところも興味深く見て取れると思う。1889年のパリ万博で日本ブームを巻き起こしていた「ジャポニスム」の断片を読む(引用は読みやすいように一部漢字をひらがなに直し、送り仮名を変更した)。

図1 ラファエル・コラン(1850~1916)の肖像(Wikipediaから)
図2 黒田清輝(1866~1924) 17歳の時(明治17/1884年)に法律を学ぶためにフランスに留学。コラン先生との出会いから、もともと関心のあった絵画にめざめる。アカデミックな教育を基礎に、明るい外光をとりいれた印象派的な作風を身につけ、明治26(1893)年に帰国し、日本の美術と教育に大きな影響を与えた。(写真はWikipediaから)

コラン先生の別荘の庭

ラファエル・コラン先生のアトリエはずっとパリ市内、ヴォージラール(Vaugirard、15区)の「ロンサンという袋町の6号地」にあったという。黒田清輝を始めとする弟子たち(日本人画家)はみな、このアトリエで学んだ思い出多き場所であった(自宅は別にあった)。家具や絵の道具等室内の配置は長年ほとんど変わらなかったというが、当時流行っていたギリシャの「タナグラ人形」(紀元前4世紀後半以降に製作されたテラコッタの彫像で1870年代にタナグラで発掘され流出、売買された)の他に、いつの間にか日本の器物が数多く置かれるようになった。画室の隅には鉢植えの「棕櫚(シュロ)」が置かれており、長い年月で大きくなって葉を広げていた、と黒田は追想している。

コラン先生の別荘はパリ郊外南西部のフォントネー=オ=ローズという町にあり、そこで日曜を過ごしていたが、そのうち家を持ち、別な別荘も構えて完全に田舎暮らしとなった。そこからパリのアトリエに通っていたそうである。

(前略)

先生は花ものを非常に好かれて、始めの別荘は庭があっても、これに栽培するほどの広さではなかったので、その外に1,000坪ばかりの地面を借りて、そこでは専ら花ものを栽培された。温室はかなりのものが2つあって、主に蘭科植物を栽培されていた。日本の、例えば牡丹とか百合とかも取寄せられたこともあった。先生の庭で最も綺麗であった花で、記憶に残っているのは石楠花(シャクナゲ)であった。種類も多くあって非常に美しい花を見ることがあった。
1900年すなわち明治33年に行ったときなどは、この庭の一隅に小高い丘があり、その上に亭ようのものがあって、そこで先生の母堂―その頃まだ存命であって80歳位であったろう―などと写真を写したこともあった。そして賑やかな楽しい食事の饗応を受けた。

(中略)

最も記念に残っているのは、一番始めの別荘で、それはやはり後までも持っておられた。しかし空家にしてあって住まってはおられなかった。この別荘はやはりフォントネーであったが、花畑のある別荘より約半町ばかり隔たっていた。この古い別荘の庭が先生の製作の内に多く描き入れられてある。

(中略)

この別荘には花ものとしてはチューリップがたくさんあった。その他には、モネー・ド・パープ(法王の銭)という団扇太鼓のような形の実ができる奇草で、その枯れ枝を賞観する草があった(※ルナリア Lunaria annua 図3)。その枯れたのを今でもここに記念に持っている。渋谷の合田君(※合田清か?)がこの草の種を先生からもらって来て植えている。

その外に幅4、5間(7~9m)、奥行は少し広い芝生があった。これを先生が外光のアトリエとしておられた。そこで色々な製作の下絵も習作もできた。そこは先生が専ら裸体を外光で描かれた所である。

(中略)

この戸外の画室は西と南の二方が石垣で、それには葡萄など這わしてあって、少しばかりの植込みがあって垣根があった。家に近い方に入口があって傍に薔薇が生えていたと思う。それで全く四方囲まれた、非常に清らかな、心持ちのいい画室であった。私も是非こんな画室が欲しいという気が始終している。ここなどは先生を紀念(※記念)するには一番屈竟な(※ちょうどよい)場所であるのだが、もし日本などであったならば、どうにかして、この別荘だけは先生の紀念として保存したいと思うようなところである。

(後略)

注)※印は著者

図3 ルナリアの果実 Lunaria annua

弟子たちはコラン先生に日本の花を贈った

黒田がコランと出会ってからほぼ1年後に久米桂一郎(1866~1934)も先生の弟子となる(図4)。黒田と久米は親しく付き合った。久米も『美術新報』の同じ号に追悼文(談話)を寄せ、コランの経歴等詳しく述べている(「コラン先生の製作と其平生」)。
そこには、コランの日本びいきと当時のジャポニスムの影響が見て取れると同時に、当時の知識人に共通する日本植物への愛好も記されていた。
ポーラ美術館学芸員の山塙菜未は、論文「明治期博覧会における園芸振興と日本植物ブーム」(2014)のなかで、コランを「ジャポニスムの画家」として見るべきであること、またその日本趣味は、まず最初に花好きであったということから始まり、その庭に日本の花きが植えられ、やがて日本の美術工芸品へと関心が広がっていった、という順序であることを指摘している。

(前略)

先生はまた日本美術の熱心な愛賞家として知られる人であるが、これは全く道楽の方で、日本の絵が先生の製作に影響を及ぼした所は余りない。
ただ古い錦絵の色の使い方は、先生が最も日本の美術として賞美されたものであって、春信と清長とが最も好きであった。北斎はやはり非常な天才であると言っておられたが、殊に風景と花の画や装飾の図案に長じているという説であった。かように古版画を色々集められた時代から、多少先生の色彩の使い方が違って来たようにも見える。その以外には先生が非常に熱心な日本好きであったに係らずその影響の表れている所はないように思われる。

先生が日本の物に段々親しまれたのは吾々の如き日本人の門下生が断えず有ったからの縁故には違いないが、その始めは日本の花の苗を取り寄せて、それを頻りに培養されたのが初めであった。吾々が先生を識る以前から、先生の唯一の道楽は何であったかというに、パリ付近のフォントネーという村に先生の庭園があって、そこで種々な草花を作り休みの時はそこに出掛けて自ら手入れをして眺めるということであった。

殊に蘭科植物の多くの種類を集めて、種々な美しい花を咲かせるのが、何よりの楽しみであった。それで日本からも吾々が蘭の種類を集めてフランスに送ったことがしばしばあった。蘭のみでなく百合も種類も多く集まり、その他牡丹、躑躅(ツツジ)、石楠木(シャクナゲ)等の日本花卉や果樹も栽培してあった。
そういう所から段々日本の美術品に趣味が生じて来て、遂には種々な古器物または絵画の類までも集めらるるようになり、仕舞には随分多くの品物があって、先生の画室の装飾の主な物となっていた。

(後略)

図4 久米桂一郎(1866~1934) 明治19 (1886)年、絵画修業のため私費で渡仏、黒田清輝とともにラファエル・コランに学んだ。黒田と共同でアトリエ付きのアパートを借りていたという。帰国後に画家として活躍し、東京美術学校で教えた。
図5 岡田三郎助(1869 ~1939) 佐賀県の洋画家、版画家。明治30(1897)年、フランスに留学しラファエル・コランに師事する。明治35(1902)年、帰国し東京美術学校の教授に就任。第1回文化勲章を受章。

最後に岡田三郎助の「夏期のコラン先生」(談話)から園芸部分を抄録する。
三人ともにコラン先生がどのように作品を製作し、また弟子を指導したかを詳しく書いており、その描写も興味深く明治の大家がいかに学んだか、その雰囲気がよく伝わる記録になっている。季節は夏だった。

(前略)

食事後は、花園の後の広場に米国女などが、多い時は10人位も写生しているのを見回られることもあり、用事で外に出られることもあるが、あとは直ぐ一人住居に帰られてエチュード(※習作)の始末なんかをされた。午前中はこんなことで昼食時が来ると再び花園の家に帰られる。午後の一時にはパリから手本が来て、仕事を始められたが夏場のことだから5時頃まではキット勉強された。

夕方一先ず絵を切り上げられると筆を下婢(※かひ、下女、女中)に渡して置いて、花園を巡り―夏だから蘭の温室にはあまり入られなかった―、朝から来ている夫婦者の植木屋に色々指図されたりした。

一度面白いことがあって大笑になったことがある。

ある日自分は夕食に招かれて行ったが、その時の膳部にアスペルジュ(※アスパラガス)が出ていた。偶々(たまたま)日本にこれがあるかと問われたので自分はそれに似た物で独活(ウド)というものがあると答えた。植物好きの先生のことであるから似たものということからよほど面白く考えられたらしい。ぜひと所望されたので私は遥々(はるばる)国に注文して独活の根を取り寄せた。すべて箱詰めにして14、5本送ってきたが3、4個の外はことごとく腐っていた。先生は大層よろこんで早速床に下して翌年を楽しまれた。
長く待たれた春が来て、様々な草木が柔らかい芽を出すようになった一日、先生は怪訝な顔して、どうもこれは此方にもあるようだということで私は驚いた。実を言うと私は独活はよく知っていたが未だ葉を見たことがなかった。だんだん日数が立って若葉を出して見たら驚くまいことか、当時パリには至るところ賞観がられて、庭園にも部屋にも鉢植えとなって見受けられるものであった。ただし、その頃は日本人の好む野菜(※山菜、食べられる野草という意味か?「蔬菜」ではなく「野菜」という表記に注意)としてよりも、その葉の茂りを■(※草冠に耿、里芋の茎、ズイキ)と同様に嘻(※嬉、喜)んだのであって、早くから種子を取り寄せて到るところ流行していた。
ことが大袈裟であった結果があまり何でもなかった馬鹿らしさに、楽しみ待たれた先生も私も共に顔を見合わせて大笑に笑った。せめてと思って独活の作り方を教えてあげて置いたが果たして作って食べられたかどうか、私は知らない。(※ウドは日本の北海道~九州、およびサハリン、朝鮮、中国に分布。当時のパリでは注目の渡来園芸植物だったのだろうか?!)

先生の庭園には色々日本植物も取り寄せてあって、大隈伯と蘭の交換をされた事も聞いたし、横浜の植木商会に牡丹その他をしばしば注文されたことも聞いた(※重要)。竹なんかまで庭の隅に生えていた。先生の晩餐後の仕事には各国の園芸カタログを開いて独り楽しんでおられることも一つであった。

(中略)

私の行ったころ(※明治30~35年頃)、しきりに葡萄の種類を集めるのに熱心で、実のなるのを楽しんでおられたが、たくさんには結ばなかった。そのためにはいよいよ植木小屋をガラス張りにして葡萄の室を造られた。二重ガラスの本式の温室2つとこれとで都合3つあったわけである。

私に植物に対する観念が多少あるとすれば、それは全く先生に負うところである。草木の枝を無意味に折ったり、踏みにじって何ら意に介しなかった書生の私は、時々温室内外の植木を通りすがら痛めることがあった。肩に掛けた絵具箱や小道具の端で薔薇の新芽を折ったり、梨の小粒を落としたりすることがあった。先生はそのたびに、害(そこな)われた部分は来年を待たなくては再び出ないこと、出るべきものを中途で阻(はば)めるのは草木に非常な衰弱を与えるなどと説明されて、いかにも植物を可愛がられまた心配さるる態度を示された。

後ほどには、私も色々花に知識を持ちたいことから写生を頻にした。当分先生は描いている所へ来て委(くわ)しい説明をして下すったが、後には晩に描いたのを持って行って話をきいた。しかし、これはあまり長く続かないで仕舞った。

(中略)

先生の屋敷とか庭園とかの話を聞けば、いかにも富裕な家であったかに聞こえるが、暮しは誠に質素で、向こうでは決して中流の高からぬところである。しかし金なんかには随分ホッタラカシの傾きがあったと見えて折々寝床に置き忘れられた大金入の財布を女中が後から届けるのを見たことがある。

(後略)

ここまで読んできて、コラン先生の庭と日本との関係が非常に濃厚だったことにあらためて驚かされる。
論文「明治期博覧会における園芸振興と日本植物ブーム」(2014)を書いた山塙菜美の註釈によると、黒田清輝の日記には、コラン先生に日本の植物を贈るために、横浜の植木屋に注文をした際のやり取りや、金額、到着時の様子といったことが随所に書かれているという。
それが、1890年ごろ、ちょうど横浜や東京、埼玉の植木屋を中心として日本の植物輸出を進めるために創設された「横浜植木商会」ができた頃に集中しているのだという指摘も興味深い(本連載第70回も参照のこと)。

山塙論文2014には黒田の日記が次のように採録されている。

1890年2月20日「横浜植木屋ハ荷作り余程上手にて牡丹ハ箱の内にて芽を出し居候 教師大喜びニ候」、また1890年6月6日には再び横浜の植木屋に「キクやショウブを取り寄せる際に、フランスでの植え付け時期に最適な時期を見計らって発送してほしい」ことを伝え、横浜の植木屋はそうした事情を熟知していたことが分かるような記述があるという。

日付からすると相手は横浜植木商会か横浜の植木屋なのかは不明とのことであるが、横浜の植木屋は、明治初年から外国人貿易商のもとで植物輸出、荷造りを十分に研究、実践してきた経験があったのである。

※参考

  • 「日本におけるラファエル・コランに関するノート」
    三谷理華 『美術フォーラム21』第23号 2011
  • 「ラファエル・コランとフォントネー=オ=ローズのアトリエをめぐる一考察」
    三谷理華 『美術史』第168冊 美術史学会 2010
  • 若かりし頃の黒田と久米の肖像写真が見られるページ (文化庁のサイトから)
    https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_07/series_02/series_02.html
  • 1889年(明治22年)の第4回パリ万博の会場に日本庭園をつくるためにでかけた天才庭師「畑和助」
    「120年前にパリで活躍天才庭師 畑和助」文・写真 鶴見歴史の会 齋藤美枝 (タウンニュースのサイトから)
    https://www.townnews.co.jp/0116/2013/07/04/194519.html

検索ワード

#黒田清輝#畑和助#ジャポニスム#印象派

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア