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第110回 昭和3年の「ワーケーション」~石井勇義の「熱海日記」を読む

公開日:2021.3.19 更新日: 2021.4.12

『実際園藝』昭和3年3月号(第4巻第3号)

[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1928年3月
[入手の難易度]難

「熱海日記」―昭和3年のワーケーション―

「冬になると、いつも一年中の疲れが出て、とかく健康を害しやすい私は、今年こそは、暮れのうちに早く仕事を片づけて、30日頃から暖かいところの温泉にでも行って、ゆっくり来年の計画を練りながら、からだを休めようと思っていたところ、とうとう25日から病床についてしまいました。」
『実際園藝』主幹の石井勇義の「熱海日記」は、こんな書き出しで始まる小文だが、昭和になったばかりの当時のいろいろな状況が見えてくる。
同時に、この小休止をきっかけに、石井自身が紆余曲折の園芸人生を振り返りながら友人との交流を語り、植物を語っていて非常に面白い記録となっている。さっそく読んでいこう。

年号も改まって丸1年の昭和3年の年明けは、前年2月に大正天皇の大喪の礼が執り行われていたが、即位の大礼(京都御所)は昭和3年11月であり、いよいよ新時代到来というにはまだしばらく間があった(御大典の装飾花については第57回で紹介した)。
昭和2年の春は、早くも銀行の取付け騒ぎが起きたものの、世界恐慌が始まるのは昭和4(1929)年10月のアメリカであり、翌昭和5年、6年にかけて日本でも昭和恐慌となっていく、そんな狭間の時期で、なんとなくのんびりした雰囲気がある。
(このほか、2年4月小田急小田原線営業開始、9月宝塚少女歌劇レビュー初演、12月上野浅草間に日本初の地下鉄・現銀座線が開通。流行語は「モボ・モガ」)

このような時代にあって、大正15年に創刊の『実際園藝』は創刊から足掛け3年目にして、すでに人気となり、順調に巻を重ねていた。
主幹、石井勇義は、創刊以来の激務によって年末についに倒れた。しかし仕事は待ってくれない。年明け7日の病床から筆を執り、ぼちぼち2月号の原稿を仕上げ、園芸講座第7巻を校了し、ようやく伊豆に向かったのは、昭和3年が明けて15日を過ぎた頃だった。
日記によると熱海への旅は次のような日程だった。

1月15日(日) 小田原急行電車で小田原着。小田原海岸に向かい、旅舎に一泊

1月16日(月) 朝から小田原市街を車で少し巡って小田原駅へ
12時過ぎに熱海着、伊豆山の古屋旅館に向かう

1月17日(火) 熱海の町へ出かける。錦ヶ浦で大地主・石渡七五郎宅を訪問
その後、馬車に乗って市内の根津嘉一郎別邸を訪ね、温室を見る

1月18日(水) 執筆開始

1月22日(日) 一時帰京

2月2日(木) 再び熱海へ向かい、古屋旅館で仕事

日程からわかるのは、この旅は、観光ではなく「リモートワーク」であったということ。しかも、日本有数の観光地、温泉のある熱海であり、コロナ禍の現在でいうと「ワーケーション」というふうにも見えてくる。
ワーケーションはリモートワークのひとつだが、旅をしながら働く、静かなリゾートで心身を休めると同時に、仕事にも集中して取り組むことを目的とする。
実際、石井はこんなふうに書いている。

「温泉に出かけるというとたいていは気楽な保養がてらのように思われるが、しかし、私には前々からの仕事のおくれたのが山のようにあるので、健康が少しでもよくなったらそれを片づけなければならない。
ことに、誠文堂発行の大日本百科全集の一冊たる、四季の家庭園芸の配本が三月早々なので、どうしてもその原稿を一月のうちに書きあげなければならないので、七百枚からの原稿であるから、私にとってはかなりの重荷なわけである」。

伊豆山の高級旅館である古屋旅館は、熱海駅周辺の市街地から少し離れたビーチのそばに位置しており、有名な「お宮の松」からもそう遠くない。なによりも、伊豆はリモートワークに向いていた。

石井は、以下のように書いている。

「東京との連絡を考えずによいところを求めれば、それはあろうが、一日に二度や三度は電話で東京と話をしなければならないし、鉄道便の早く届くところでないといけないので、便利の点でも本当に都合のよいところだと思った」

当時の強力なコミュニケーションツールである「電話」と「郵便」を最大限に利用していたことがわかる。

古屋旅館もとても居心地がよかったらしい。

「この古屋は昨年改築されたばかりの家(うち)なので、何かに気持ちがよい。すぐ前が海だし、寒い風は少しも来ず、空気はよいので、私などのように静かな気持ちでペンを執ろうとする人にはあつらえ向きの場所である。」

創業1806(文化3)年、200余年の歴史ある熱海の「古屋旅館」HP
https://atami-furuya.co.jp/

古屋旅館と恩地剛(明治最初期のフラワーデザイナー)

熱海の古屋旅館というのはたいへんに歴史ある高級旅館とされる。そんな場所をワーケーションに使えるというのはどういうわけだったのか。
たしかに、雑誌は売れていたというし、『実際園藝』や関連書籍にも、しばしば「実際園藝社」発行という表記が見られる。

石井は、誠文堂からサラリーをもらう社員編集長ではなく、今でいうプロダクション方式で石井が中心となって数人のスタッフで雑誌作りをしていた、その代表者だった。小石川の自宅が編集室である。
そういう意味では、高級旅館をリゾート地のオフィス、書斎とするのも自由にできたのかもしれないが、「熱海日記」には、恩地剛図1)の紹介があったことが記されている。

図1 恩地剛(1877年1月生~1939年9月没、享年62歳) 「実際園藝」第11巻4号から

「ここの古屋というのは、よく本誌にご執筆くださる恩地先生が十何歳のときからのお知合いの宿で特別なご関係のあるところなので、何かに好都合であった。
当時、恩地先生のお邸(やしき)では、東久邇宮殿下はじめ御三名の皇子殿下をご自邸におあづかり申してご養育もうしあげておられたので、恩地さんはよく宮殿下とご一緒にこの古屋旅館にご滞在になられたというような関係がありますので、いわゆるちょっとしたお得意様という以外に、深い関係のある家(うち)である。」

恩地剛の父親、恩地轍(おんちわだつ)は裁判官から宮廷の式部官となり、学習院の教師をしていた。このころ初等科の生徒には皇族が5名いたという。
5人の宮様とは、
東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ、1887~1990)、
鳩彦(やすひこ、のちの朝香宮、1887~1981)兄弟
有栖川宮栽仁(たねひと、1887~1908)
北白川宮成久(1887~1923)、
輝久(のち小松宮を継ぐ、1888~1970)
である。このうち東久邇宮の兄弟ともう一人(不明)の3名が恩地家にあずけられていた。
恩地剛と、のちに日本の現代版画を代表する木版画家、マルチクリエーターとなる恩地孝四郎(1891~1955)は宮様たちと一緒に生活をし学び遊んでいた。

興味深いのは、その親しい「ご学友」の輪のなかに有島武郎(1878~1923)、有島生馬(1882~1974)、里見弴(1888~1983)らの兄弟もいた、という事実だ。
恩地家の屋敷が当時どこにあったかは不明だが、有島家の隣に恩地家はあったという。有島家の場所はわかっている。現在の東京都千代田区六番町、番町小学校からほど近い場所だ。
有島兄弟のうち、小説家、里見弴(さとみとん)を名乗った山内英夫は東久邇宮と一緒にいたずらをするほど仲がよかったという。

東久邇宮稔彦王(なるひこおう、1887~1990)は、皇族でありながら第43代、戦後最初の総理大臣となり終戦後の混乱のなかで敗戦処理、対外折衝、天皇の戦争責任問題など難しい実務にあたり(在職期間:昭和20年8月17日~10月9日の54日)、幣原喜重郎へとつなぐ役割を担った。若い頃から皇族としては少し異端な人物であったようだが、日本の重大な時期に大役を果たした。
その肝のすわった性格を形作るのに、恩地轍という白ひげの人物の教育が影響していないとはいえない。そういう縁のある一家である。

一方、有島家の兄弟は他家の養子となって名字は異なるが、長男の有島武郎は兄弟の面倒をよく見た。兄弟だけでなく、教育者でもあった武郎は教え子や友人をよく助けた。隣家の長男である恩地剛(1歳違いでほぼ同年代)とも深い関わりがあったと思われる。

有島は学習院から札幌農学校へ進み、アメリカのハバフォード大学やハーバード大学に留学(中退)するが、恩地剛もほぼ同じコースで進み、ハーバードでは園芸学や花き装飾を学んで帰国した。
有島は帰国後に仲間と「白樺派」を作り、弟の画家、生馬も参加した。

一方の恩地剛は、大正9年頃に「東洋園芸株式会社」の立ち上げに関わり、小田原の辻村農園にいた若者、石井勇義を農園の主任としてスカウトした。
またその前後で有島武郎の紹介で知り合っていた原田三夫(1890~1977)を「民衆花壇」(西条軍之助主宰)に誘い、温室の設計や花店の運営を委せている。
石井と同じように辻村農園にいた大場守一を民衆花壇にスカウトしたのも恩地剛だという話は本連載第88回で触れた。有島武郎の弟である佐藤隆三も東洋園芸で働いた。

このように、有島武郎、恩地剛、原田三夫といった札幌農学校、新渡戸稲造系の人々の交流は日本の園芸史に重要な影響を残していると思われる。
恩地は石井に原田三夫を紹介した。石井は原田の2歳年下だった。石井の「熱海日記」には、原田三夫に関係する話も記されている。

牧野富太郎先生を旅館に「カンヅメ」にする

「熱海日記」にはこんな話がある。

「錦ヶ浦には今一つ思い出がある。それは例の通俗科学(※一般科学、誰にでもわかりやすく解説、現代なら池上彰的な立場)で有名な原田三夫君が、この錦ヶ浦の一角にエクスタシス(※恍惚、忘我の境地)と名づける小さな庵(いおり)をもっておられ、忘我庵(ぼうがあん)と名付けて、松の丸太を柱にして、ベットも何も手製で、ここに入ると、本当に我を忘れそうな庵をもっておられたので、大正7、8年頃私もよくここに遊んだものだ。
原田君が北海道大学に赴任する前、ちょうど『子供の聞きたがる話』(誠文堂)の1巻2巻は、この庵でペンをとっておられたのであった。惜しいことにここの庵はあの大震災で倒れたままになっている」。(印は著者注。)

庵は東大時代からの友人、図師尚武の建てた小屋で、魚見崎のトンネルを抜けた曽我山の錦ヶ浦に面した中腹、松林のなかにあったという(原田『思い出の七十年』)。
四畳半くらいの丸木小屋で、床が高いところにあったがはしごはなく、よじ登るようにできていた。入り口の柱には同じく友人の有島生馬のイタリア語の詩が落書きしてあった。エクスタシスという名も図師がつけた名前だった。大正7、8年頃に図師から原田に無償で譲渡された。

原田三夫は、札幌農学校で有島武郎に師事したが中退。東大卒業後、北海道大学講師などを務めたのち、一般への科学啓蒙を志し、科学解説者、雑誌編集者として活躍した。
1923年に新光社の「科学画報」、1924年には誠文堂の看板雑誌『子供の科学』を創刊した。戦後、日本宇宙旅行協会の設立など実に才能にあふれた多彩な人生を送った。
晩年は友人の藍野祐之(札幌時代の同級生で終生の友人)の広大な敷地内に庵を構えて隠棲した。この藍野家は千葉県いすみ市の海に近い場所にあり、僕の家から近いので強い関心をもって調べている。付近には、有島武郎や森鴎外の別荘もあった。

原田は科学一般に強い人だが、特に植物を愛し、札幌農学校を中退後に東大理学部生物学科に入ると植物学を専攻、牧野富太郎とも知り合い、生涯親しく付き合った。牧野を石井に紹介したのも原田だった。石井と牧野とは30歳程年の差がある。石井は師を父のように愛し、経済的にも支援したという。雑誌にも数多くの記事を書いてもらっている。

面白いのは石井と原田で謀って、牧野を旅館に「カンヅメ」にしたという話だ。原田の自伝『思い出の七十年』にある。
牧野先生はとにかく筆が遅かった、というより、書かねばならないことはあとまわしにして、やらなくてもいいことを熱心にやる、というタイプだったことは有名な話だが、それならば、ということで、牧野先生を「熱海の旅館」に宿泊させ、座談会という形式でごちそうを食べながら、いろいろ語ってもらい、それを原稿にする、という作戦を立て実行したというのである。
原田は『最新科学講座』の原稿を、石井は『実際園藝』の原稿のために協力した。『最新科学講座』の発行年から推察すると昭和2年のことだったと思われる。

図2は、その時の様子かどうかはわからないが、雰囲気が感じられる写真だ。
原田は「牧野先生はどの植物でも書物などは全然見ずに、形態を詳しく述べるので驚いた」と回想している(『思い出の七十年』)。

図2 左から、石井勇義、恩田経介(明治薬学専門学校教授)、牧野富太郎、原田三夫(『子供の科学』主幹)。恩田経介は東大理学部生物学科で植物学を専攻、原田三夫と同級生。(動物学のほうに森鴎外の長男、森於菟がいた) 『実際園藝』昭和3年5月号(第4巻第5号)から

旅先の緑で心身を整え、仕事をする効用

石井は旅先で大量の原稿を書いた。石井のペンは早い。読みやすい文字を軽い筆圧でさらさらと書いた(『石井勇義ツバキ・サザンカ図譜』1979年)。熱海でも集中して仕事をしたと思われる。
その密度の濃い時間の合間を縫って、植物を見たり、知人を訪ねるために積極的に動いていた。熱海周辺で見られるヤシ類をいろいろと観察した。
また、地元の温泉熱を利用して温室を営んでいる著名な園芸家を訪ねたことも記されている。熱海に別荘を構えていたのは根津嘉一郎(1860~1940)と志村源太郎(1867~1930)の2人だ。
根津は政治家、実業家、根津財閥の創始者。東武鉄道や南海鉄道の経営に関わり「鉄道王」と呼ばれる。美術収集家としても知られる(根津美術館)。
志村源太郎は官僚、銀行家。日本勧業銀行総裁、産業組合会頭、貴族院議員などを務めた。

「熱海日記」で石井は、大正の初めに勤務した小田原の辻村農園時代の仕事も振り返っている。
石井は小田原に「5、6年」住んで働いた。一生のうちで最も印象深い思い出を残す土地で、知人も多いと感慨深く語っている。大農園は、すでになく、その場所は小田原駅になった。美しい石垣があった小田原城は先の震災で崩れたままのところが目立つ。

この小文で初めて知ったが、石井は小峯公園の設計に関わったと述べている。根津邸や志村邸に馬車で案内してくれた錦ヶ浦の大地主、石渡七五郎氏とは原田三夫とともに石井もたいへん親しかった。石渡七五郎は明治38年に温泉利用の促成栽培を手掛け、新宿御苑の福羽逸人にキュウリを褒められたという。
この石渡の温室設計を大正8年頃、石井勇義がやっている。辻村農園を出てからか、そのあたりの仕事だろう。

石井は「熱海日記」の最後に、このワーケーションの効果について次のように締めくくっている。

「ここに来ていたせいか、今年は昨年のようにひどい風邪(ふうじゃ)に冒されるようなこともなく仕事を運ぶことができたのは何よりの幸いであった。いろいろの感想など書きたいことがたくさんあるが、いずれまたペンをとる事にして今日はこれで擱筆(かくひつ)する」。

図3~5 「熱海日記」紙面(クリックすると拡大します)

※参考

  • 結網学人「園芸植物漫談」第1回座談会
    牧野富太郎 『実際園藝』昭和3年5月号(第4巻第5号)
  • 『思い出の七十年』
    原田三夫 誠文堂新光社
  • 恩地轍の経歴(恩地剛、恩地孝四郎の生年等記録)
    http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-3583

検索ワード

#リモートワーク#ワーケーション#牧野富太郎#有島武郎#里見弴#有島生馬#恩地孝四郎#東久邇宮稔彦王#古屋旅館#根津嘉一郎#志村源太郎#子供の科学

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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