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第112回 女子の教科書に載る「いけばなの奥義」~西川一草亭の言葉とその解説 (後編)

公開日:2021.4.2

『日本の生花』

[著者]西川一草亭
[発行]河原書店
[発行年月日]1941年9月25日
[入手の難易度]やや難

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238914
国立国会図書館デジタルコレクション(図書館のみ)

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前回に引き続き、京都の貧しい花屋の跡取りとして生を受け、大正から昭和にかけて「いけばなの近代化」に大きな足跡を残した偉人、西川一草亭の話をしたい。
一草亭をいま人気のマンガ『呪術廻戦』でいうなら間違いなく「特級呪術師」になるだろう。そんなすごい花人、一草亭は、いけばなの目的は人間の生活を豊かに美しくする装飾性にあり、生活に仕える芸術であるべきだと考え、それを終生かけて実践した。今こそ「生活文化」「生活技術」(第100回参照)を考える上で、ぜひ見直したい人だと思う。
そこで今回は、作品の写真も交えて見ていこうと思っているのだが、まずは前回の内容を少し振り返っておきたい。

前回、紹介した西川一草亭の「生花我観(いけばながかん)」だが、もとになった『茶心花語(さしんかご):茶の話・華の話』(1931年)を見ても「生花我観」という題の文章はない。この本に収められた「挿花の要領十ヶ條」を中心として、「枝振り」「取合せ」「草木の個性」といった小文をもとに、教科書を読む学生たちに向けて一草亭が体得したいけばなの奥義をわかりやすくまとめて書き下ろしたものだと思われる。

一草亭は、日本のいけばなの特徴は「枝振り」にある、それは日本の植物が多様であって、個性的な枝振りのものが多数存在していたことによる、と看破した。それゆえ、花を生けるものは自然をよく観察し、植物の個性(枝振り)を感じ取ってそれを生かすことが大切だと述べている。
この小文は「教科書」に掲載するという目的があり、現在の女子中学生から高校生に向けてつくられたものであって、誰にでも理解できる言葉だけで書かれている。しかもその内容は、いけばなの本質をとらえ、今日でもまったく古びていない。

茶人、建築家でもあった一草亭は、「いけばなは生活の芸術」とみなし、生活環境、しつらえを重視し、現在なら花をいけるためのインテリアというような道具までもデザインし、自ら愛着をもって使っていた。
例えば花の屏風(あるいは座屏)のデザイン、製作意図では「食事をする時、友と話す時、茶を飲む時、読書する時、座右に置いて、美しい花を見ながら気持ち良く本を読み、茶を飲み、話したいため」と語っている(『西川一草亭・風流一生涯』1993年)。
このような「一草亭好み」の花器、道具を含めて一草亭の仕事を振り返ることは、いま現在、花の仕事に携わる人達にも大きな刺激となり、参考になるはずだ(図1~10)。

図1 一草亭好みの「花車」。カエデ、紅白のシャクヤク、バラ、黄梅など(『瓶史』1931年 から)。雑誌『なごみ』第125号の表紙に美しい意匠の車輪が大きく掲載されている(今回のタイトル写真右上)。
図2 一草亭好みの「掛樋」。11代中村宗哲作。一草亭により大正12年に考案されたモダンで独創的な花入れに草花をいけた作品。(『FLORAL ART OF JAPAN』から)
図3 玉簾花座屏(ざへい)にツルバラの釣り花、器は古尹部釣舟花器。座屏(ざへい/ざびょう)は文字通り、座のかたわらに置く屏風のこと。一草亭は、素材やデザインを変えていくつも製作している。フレーム効果や空中に浮かすことによる軽快さや絵画的な面白さが際立つ装置である。(『瓶史』1930年)
図4 銅製瓶架釣花生、アールヌーヴォー風の瓶架、フランス製染付陶器にカーネーション。「挿花時代展覧会」に現代の花として出品。昭和3年。(『茶心花語』から)
図5 桐花座屏。桐板をくり抜いた石崎蘆流作の座屏に洋蘭をいけた。大正3、4年頃の創案。器は河村蜻山作の飛鶴文様の染付釣花入。(『日本の生花』から)
図6 代表的な一草亭好みの花屏風。色とりどりのスイートピーを「1種いけ」で軽快に(『盆庭と盆石』から)。一草亭は古い花伝書を収集し、研究した。花屏風は室町時代の近衛家熈によって考案され愛された形式の花生けだという。一草亭の花屏風は大正3(1914)年の創案で、筒20本を4枚折(2曲)で構成、前後から花を鑑賞できる。花座屏は発展型。
図7 黒木(栗の木)と青竹でつくられた黒と緑の交差する二曲一双の花垣の一方。花はアサガオの1種いけ。一草亭は1種いけを好んだというが、いま見ても実にモダンで鮮烈な印象に打たれる思いがする。(『瓶史』1937年)
図8 台湾から送ってきた緑色が印象的な枝付きバナナをいけた斬新な盛果物。器は時代木鉢。(『瓶史』1937年)
図9 3.6mクラスのソテツと石、バラをいけた大作。一草亭はソテツやシュロなど大きな花材も使用した。器は舟板大水盤。(『瓶史』1935年)
図10 「長板二瓶飾り」という花型は、流祖が考案した去風流の伝花の一つだという。ちょっと見ただけでは、見逃してしまいそうなシンプルな構成、スタイルだが、茶道具を転用したり花材を対比させて用いるなど、見れば見るほど味わい深く感じられる作風といえる。ここでは枝が複雑な動きを見せる白梅と大輪のツバキがそれぞれの器にいけられている。肥痩、高低、明暗、老若の対比(『西川一草亭』1993)が鮮烈で、器も形や趣がまったく異なっているのに不思議な調和、おちつきが感じられる。(『瓶史』1936年から)

花売りから文人花を確立した伝説の花人

西川一草亭は、去風流といういけばなの1流派の家に明治11(1878)年に生まれた。風流を愛し花人、茶人、文人墨客的な生き方をつらぬき、質素清廉で豊かな人生を歩んだ。
弟は画家の津田青楓。夏目漱石の有名な作品の装丁画で知られる。

一草亭の人生の前半は貧しい暮らしだった。大流派ではないにしろ、いけばな宗家が明治10年代になぜ没落していたのかは個人の「自己責任」として簡単に切り捨てられない理由がある。いわゆる「御一新」のために、社会が一変し、武士階級や御用商人の家族といったいけばなを習う人がほとんどいなくなってしまった。
全国から人が集まっていた江戸(東京)は壊滅的で、郷里に帰る士族とともに地方へ転居した師範もあったという。東京だけでなく、伝統を誇る京都六角堂の池坊ですら窮乏の状態にあったそうだ。一草亭の家もほとんど生活ができないほどに困窮した。

いけばな文化史家、小原流の工藤昌伸の「西川一草亭の花」(『西川一草亭』1993年)によると、明治初年から大正にかけてのいけばなの盛衰は次のような段階が見られるという。

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明治初年から大正にかけてのいけばなの盛衰

  1. 流儀花の衰退

    明治維新による社会体制の大転換期(混乱期)に、いけばなを取り巻く環境は壊滅的な打撃を受け多くの師範がその生活を脅かされていた。

  2. 「抛入」「文人花」の隆盛

    この混乱期にあって、一部の人々の支持をうけた流派があった。それは煎茶式の花としての「文人花」であった。
    その中心地である大阪では、幕末以来、田能村直入らによる煎茶会が行われた。茶席には文人風な抛入が長崎を通じて輸入された中国の花瓶に挿されていた。

  3. 中国文化の影響

    中国も清の末期で国内が混乱しており、多数の文化財、器物が流出していた。
    大阪の山中春篁堂に代表される美術商(海外に日本・東洋美術を売った山中商会もこの一族)が煎茶会を支えていた。煎茶会には切り花だけでなく盆栽が飾られることもあり、そこで使われる中国輸入の盆栽鉢への関心が高まった。
    煎茶会グループ、文人花、盆栽、ひいては、バラやシャクヤクなどの花の栽培なども煎茶文化にあって共存していたことは注目すべきだと思われる。

  4. 『瓶花挿法』

    吾園=細川潤次郎による『瓶花挿法』は明治10年の発行(フリーペーパー『園藝探偵』2参照)。この本では吾園がアメリカ留学で見たフラワーデコレーションについての記述があり、日本のいけばなとの比較を試みている。
    ブーケや装飾について、「マッスとライン」、形態と色、花と葉を別々に組み合わせることやアメリカのドライフラワー(「イモータルフラワー」)と日本の枯れもの花材との共通性についても触れているという。
    この他に、「日本のいけばなには定まった形はない」「いけばなは生活美術だ」「瓶花はただ趣がたいせつであり、趣は変化するものだから、趣を表現するためには形式にとらわれず自由に挿すべきだ」(『いけばなの道』工藤昌伸 1985年)などと説いた。
    西川一草亭はこうした記述に強い興味を持っていたという。

  5. 明治20年代のいけばなの復興

    明治20年代になると、日本は国力をつけ日清戦争で勝利するとともに、伝統文化の復権が社会風潮になっていった。いけばな各流派も全国的に復活していった。
    東京などの大都市では西欧の文化の影響を受けた新時代に適応しつつ、伝統的な古典花を再生しようとする努力を始めるものが出てきた(いけばなの効用を訴える活動)。

  6. 「盛花」の登場

    明治30年代、小原雲心が「盛花」という近代的ないけばなの様式を創案。作品を通じて自然描写(自然本位)をするという表現が人気を得る。その後、洋花を用いた色彩的な表現(色彩本位)も加えられ、洋風化する生活空間になじんでいった。
    いけばなの近代化は、色彩本位の表現から始まった。

  7. 新しいいけばなへの模索

    一草亭がいけばなの花技を父に習い、去風流の再興を意図して活動し始める時期は明治30年頃からのことで、この時期は、それまでの伝統的ないけばなが、西欧文化の影響を受けた社会生活の変容(洋風化)に対応して、近代の新しいいけばなの創造に向かって模索をし始めようとしていた時期にあたる。

  8. 洋風の花き装飾の広まり

    明治40年代には、一部で行われるだけであった卓上装飾やブーケ、コサージュといったフラワーデコレーションが次第に注目されるようになる。
    宮川紫外の『盛花と贈花』(1908年)や前田曙山の『花卉応用装飾法』(1911年)、その他の園芸雑誌も発行された。日本でも多様な洋花が少しずつ生産されるようになっていく。
    いけばなに携わる人々もこれらの新しい素材を取り入れ、いわゆる「伝花」とは別に、洋風の空間に適応できる花飾りを工夫するようになった(例:古流折り入れ花の復活や、卓上の抛入、ガラスの釣り花など)。

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こうした時代の変化を受けながら、一草亭は自身の花を研究し、独自の作風を確立していった。当時の一般的な花の師匠と同様で、教室に生徒を集めるのではなく、弟子(官僚や貴顕、新興の富裕者や商家の夫人や子女など)の家に赴いて教える、いわゆる「出稽古」が普通だった。一草亭の場合は、先代から花売りもしており、むしろ花屋として生計を立てていたという。明治の終わりに近い40年代のことである。
一草亭は後年、「風流は所労のなかに生る」と言ったという。

一草亭のいけばなのベースは「抛入(なげいれ)花」であった。父の頃にはある程度の「型」があったと思われるが、一草亭はそれに反発し、「型のない抛入」を追求する
窮屈な法則がなく、その季節に咲く花を大切にし、自然の枝振りに応じて自由に花を取扱い、花と器の調和に重きを置く。これは言うは易しで指導するのが難しく、習う方も同じである。
去風流では、父の代からというが、まず生徒は師範からなにも教わらず自分一人でいける。師範は生徒がいけたものを講評しながら手直しをしていく、という教授の方法だった(勅使河原蒼風らの指導法にも共通)。時には師範はその場から席を立つこともあり、全員がいけあがってから誰のものかわからないようにして、評価をすることもあったという。

一草亭は、洋画家・浅井忠、作家・夏目漱石、幸田露伴らを教えたが、露伴は一草亭の花はわからないと漏らしていたという。
「牡丹剪って一草亭を待つ日哉」という夏目漱石の句が残されている。一草亭は日本を代表する文化人たちに花を教え親しくつきあいながら、彼等から様々なことを貪欲に学んでいた。
風流に徹するために金銭を超越する心持ちが第一とし、花を教えて謝礼を取っていたが、いけばなから得る報酬を厭う気持ちが強く、袋のまま放り出すのが常でそれを妻がいつも拾い集めていたという。

一草亭の「抛入」、「文人花」、『瓶史』雑誌による研究は、のちの花道家に大きな影響を与えている。
特に草月流を立ち上げた勅使河原蒼風は、一草亭に強い関心を持っていたという(蒼風は一草亭のように絵も書も手がけた)。一草亭もまた蒼風の才能を認めていた。ある時、東海道線の寝台車で偶然乗り合わせた際に、一草亭は蒼風に弟子の伊藤青寒を指導して欲しいと依頼したと伝えられている(『日本いけばな文化史4』工藤昌伸 1994年)。
一草亭の時代は、まもなく「自由花運動」(山根翠堂・岡田広山ら)、「飾花」の安達潮花、「新興いけばな宣言」の重森三玲らの登場へとつながっていく。
またいつか「文人花」を含めてこのあたりの流れをまとめてみたいと思う。ここでは、細川吾園『瓶花挿法』→西川一草亭『瓶史』→勅使河原蒼風というつながりを覚えておきたい。

一草亭の卓越した「いけばな史観」

いけばな史家、工藤昌伸は一草亭が独自のすぐれた「いけばな史観」を持っていたと指摘している(『西川一草亭』1993年)。
実際に昭和3年の3月、室町時代から現代にいたる各時代を代表するいけばなのスタイルを再現し展示する「挿花時代展覧会」を開催した(図11、12)。
「東山時代」の三具足の花に始まり、「桃山時代」(茶の湯、抛入)、「徳川初期」(立花の完成)、「徳川中期」(抛入の復興)、「徳川後期」(生花・流儀花の全盛期)、「現代」(盛花・文人花)の6つの時代に分けたのは、それぞれに時代にデザインの大きな変化があったからだ。この展覧会で公開した作品は「挿花60余瓶」あったそうだ。

この展覧会が非凡なのは、作品の陳列と同時に、作例の典拠を示すためにいけばなの歴史を総覧できるような書籍、絵図、資料130種を収集展観していることである。この関係書籍展観資料のなかには、日本の伝書、版本だけでなく、西洋のフラワーデコレーションの書籍も含まれていたという。

一草亭は、大正から昭和にかけての多くの若き花道家がそうであったように、新しい時代に似合った作風を提示しようとしていた。去風流伝来の抛入を中心として独自の「文人花」を確立していくのだが、その研究の過程で過去の古典的ないけばなの手法をしっかりと捉え、自分独自の作風を歴史のなかに位置づけようとしていたのだと思う。

例えば、現代日本を代表する美術作家のひとりである村上隆が世界のアートシーンにデビューする時に、日本と世界の美術史を総覧する研究を行い、日本画や日本のアニメ、ポップカルチャーを背景にした自分の作品の立ち位置(「スーパーフラット」「オタク文化」的な表現)を明確化しており、その過程を著作として発表している(『芸術起業論』2006年など)。村上が歴史的な各時代を代表する「マスター・ピース」や「ピリオド・デザイン」を研究して世界に打って出たのと同じように、歴史的知識を背景にした新しいいけばなは、自身の創作のしっかりとした土台となるとともに、国際的な理解と受容を広げることにつながっていった。

ジャパン・ツーリスト・ビューロー日本旅行協会(のちの日本交通公社、現JTB)が外国人向けに日本文化案内書のシリーズを制作・出版している。日本のいけばなを紹介した1冊、『FLORAL ART OF JAPAN』(1936年)(図13、14)は、歴史研究の一つの成果であり、その内容は西川一草亭だからこそできた仕事だと思う。

図11、12 昭和3(1928)年発行の西川一草亭『挿花時代展覧会図録』。和綴じの2冊、箱入りのたいへん豪華かつ美しい装丁の図録。室町から江戸、現在にいたる時代を6つに分けて、それぞれの時代のスタイルを再現し写真に記録したもの。個人(社中)がこのような企画を主催し、実現させていることだけでも非凡なものを感じさせる内容になっている。図14は東山時代の三具足の花飾り。

図13、14 西川一草亭は、外国人向けのいけばな解説書にも関わった。床の間に花をいける様子を解説する図。鉄素材の器は一草亭好みのひとつで、三代高木治良兵衛作の鉄透腰高花籠。和にも洋にも、どちらにも合わせられる軽快で洗練された器で、1934年頃の作。(『Floral art of Japan』1936年から)

白洲正子が語る西川一草亭

白洲正子(1910~1998)は著名な随筆家。「能面」「かくれ里」で読売文学賞を二度受賞した。夫は白洲次郎。
古典や骨董など幅広い分野に造詣が深く、まさに人生の達人である。川瀬敏郎をはじめ多くの文化人に影響を与えた。
白洲正子は『花日記』(1998年)で、西川一草亭について「自分のいけばなの師」と語っている(「花をいける」「私といけ花」)。一草亭から直接教わったわけではないが、大きな影響を受けたと語っている。
いけばなは、周囲の環境(空間や生活)にとけこんでこそ成り立つ総合芸術だといい、好きな骨董を日常の花器として自由に季節の花を愉しんでいけた。白洲正子の花は写真集になって残っている。

(前略)

それにつけて憶い出すのは、昔見た西川一草亭という人の作品である。

今は知っている方も少ないと思うが、花というものをはじめて教えてくれたのはこの先生であった。といって、私は習ったことは一度もなく、殆ど面識もなかった。展覧会を見て、これこそ花だ、と合点したのである。
そこでは、器に重きが置かれていた。よほど目の利く人だったのであろう。ざんぐりした背負い籠(しょいご)に、秋草が咲き乱れていたのとか、「松風」と題して、汐汲車(しおくみぐるま)に撫子がいかっていたのとか、今も目先にちらついている。
中でも忘れがたいのは室町時代のいい味の銅器と、桜草の取り合わせで、しっかりした形の器と、可憐な花の対照が、目のさめるように新鮮であった。古い器物ばかりとは限らない。今いった汐汲車でも、―これはお能の『松風』からとられていたが、木の香りも清々しい曲物で、ほかにもガラス器とか、うぶな農機具の類とか、自身の発見によるものが多かった。
一草亭は、津田青楓さんの兄さんだったといい、花屋さんの出だったとも聞くから、花の性質をよく知り、この花をこういう器にいけたい、こういう器が似合うということを、花の側から熟知していたのであろう。一つ一つの作品に、神経がよく行き渡り、並べ方にも工夫があって、この頃の展覧会のように、花同士が殺し合ったりしない。会場全体が、和やかな雰囲気に満ち、花も満足して、互いに言葉を交わすように見えた。

一草亭が、花器に重きを置いたため、まるで器の展覧会みたいだ、と悪口をいう人もいたが、それがほんとうのいけ花の在り方ではないか、と私は思っている。少なくとも日本の華道の伝統だと思う。
私の場合は骨董が好きなので、そういう考えに至ったのであるが、たとえば花瓶を買う時に、この器には何の花が似合うかということを、先ず第一に考える。人間に家が必要であるように、花にも落ちつく場所が要るからだ。はかない花の命は、しっかりした器を得て、はじめてそこに静と動、不易と流行の、完全な調和が生まれる。極端なことをいえば、器あっての花なのだ。
このことが、現在は忘れられている。いわゆる前衛芸術家達は、自分の作品、もしくは「個性」を見せることに急で、器にあまり神経を遣わない。時にはひどく不調和であったりする。花をいける、というのは、器に入れるからいけるのだ。そういう考え方は古いのであろうか。古くても構わない。私は生涯そういう気持ちで花をいけつづけるだろう。

(「花をいける」/『日本教養全集15』1975年・角川書店)

私はいけばなを習ったことはない。しいて先生があるとすれば、昔から好きで集めた器の類と、西川一草亭の編纂による「瓶史」と呼ぶ冊子かも知れない。
一草亭はずい分前に亡くなったが、京都の花屋の生まれで、胸のすくような花をいけた。単に花をいけるだけではなく、日本の文化一般に通暁している教養人で、したがって「瓶史」という冊子も、近頃よく見るような花(華)道の機関誌ではなかった。志賀直哉、和辻哲郎、西田幾太郎といったような、錚々たる人物が執筆している芸術論集で、彫刻、絵画、書、庭園、建築などを網羅しており、今読み直してみても、なかなか充実した面白い本である。

そこから私が学んだのは、いけばなは一種の総合芸術であることだった。
総合芸術というと、大げさに聞こえるが、花は花だけで孤立するものではなく、周囲の環境と生活の中にとけこんで、はじめて生きるという意味である。「瓶史」はそういうことを見事に語ってみせてくれた。
私は一草亭に弟子入りしたいと思ったが、近づけないでいるうちに、不帰の客となった。が、花の写真と書いたものが残っているのは、ありがたいことである。幸い求龍堂が「瓶史」を復刻してくれたので、その本を通じて、生前に果たせなかった弟子入りを、私は勝手に敢行した。とんでもない弟子を持ったと、一草亭は、草葉の陰で笑っているかも知れないが、いけばなは下手でも、彼の志はうけついだつもりである。

もう一つの先生は、器である。
家庭の事情で、大したものは持っていないが、花が好きなので、何となくいけている間に、花は器にしたがっていければ、自然に形になることを自得した。ただそれだけのことだから、自慢してお見せするような花は一つもない。
流儀や約束事とは無縁なところで、私が愉しんでいけていることを、知って頂ければ充分なのである。

(「私といけ花」/『花』1980年・神無書房)

近年、世界中でナチュラルな雰囲気のフラワーデザインが流行している。かつてないほど、「枝もの」が使われ始めている。国内外の枝ものへの注目も上がり、生産も増えていると思う。(カルチベ市場動向『【切花】枝物の輸出、春の切り枝について 2021年3月』参照)
いまSNSを席巻しているのは、いわゆる「ライン」や「空間」を大事にしたデザインだが、一草亭は90年も前に実に明確に解説していた。難しい奥義や秘伝ではなく「枝振り」「個性」といった実にわかりやすい言葉だけで示した。
西川一草亭は、日本文化の源流をなす京都という土地にあって多彩な文化人との交流をもち、外国人への文化の伝承者でもあった。そのため、日本のいけばなについて誰もがわかるような表現で解説することに努めていたのではないだろうか。こうした言葉がいけばなを特殊な芸能ではなく、他のジャンルと交流できるような美術の枠の中に入れていくことに効果があったのではないかと想像する。

前回の話のなかに、植物との向き合い方を示唆する「造花」のエピソードがあった。これに関連して、詳しく書いた文章を見つけたので、ここで見ていきたい。

「花に個性が無い」 西川一草亭

いつだったか、もう十年も昔の話ですけれども、朝香宮が御渡欧の時に、殿下の知遇を受けている大阪の実業家のT氏が、お船の中へ造花を差上げたい、しかしこのまま差し上げたのでは興味が無いから、私にこれを生けて欲しいという。花は何だったか忘れてしまったが、とにかく殿下に献上するというので特別に骨を折ったのですから、ほとんど天然の花と違わないくらいよく出来ていたことを今でも覚えています。

造花だから無論枝にも花にも針金が入っていて、枝振りはどうでも自由になるのですから、真物の花を生けるのと違って大変生けよい訳なのですが、それが実に生けにくくって困ったのです。

(中略)

真物の花を生ける場合は、枝振りとか木振りとかいうものはちゃんと相手の材料の中にそなわっているのです。ただそれをどういうふうに向けて、それをどういうふうに組み合わせて、どんな方向にどんな姿をさせるかということが問題で、いわば花の個性をはっきり会得してそれを最も有効に生かせば、それで生花術の能事は終るのです。
だから生花をやる者は、枝振りや木振りを創造する、つまり花の性格を創造するというような考えはてんで必要が無くて、それを自然の中から見出すということに一番興味を持つのです。ちょうど教育者が生徒を教育して、人物を作り上げるようなもので、相手の持っている性質や長所や欠点や、色々な性格を見極めて、その才能を伸ばして、それぞれの人格を完成するのと同じように、個性を見出すということに、生花というものの一番大きな興味があるのです。

(中略)

私は決して自分の頭の中に平生梅とか菊とかいうものの木振りや枝振りの概念を蓄えておかないのです。それはそういうものが頭の中にあると、どんな枝振りのものを見ても、いつでもその頭の中にあるような木振りのものにすべての花を生けようとする習慣がついて、そこに無理ができ、不自然が出来ます。
生花の一番の禁物は、無理をすることと、不自然になることです。一寸でも無理があったり不自然な点があると、決して気持ちのよい花は生からないのです。

(以下省略。『日本の生花』と『落花帚記』に掲載されたものを参照した。)

作品展ではなく生活のなかへ

西川一草亭という人物の書いたものを実際に読んでみると、非常に現代的な感覚に驚かされる。
一草亭は昭和13(1938)年に60歳で亡くなるが、その精神は次の世代へと引き継がれ、蒼風や重森三玲などの新興いけばなへと移転し、戦後の前衛運動へと展開していったと思われる。
しかし、多くが自身の活動の価値を上げるために、徹底した表現主義、純粋な「芸術」を志向し生活から離れていった。一草亭は、大正期に出された『生花の話』(1923年)でもすでに、将来、いけばなは表現の時代になることを予測していたという。
その上で、それでもなお、表現のためのいけばなと生活のためのいけばなが分裂するのではなく、日常生活に溶け込んだ芸術であることを志向していた。
「人間は生活が貴いので有る。生活を離れた純美術などより、実は工芸美術、応用美術の如き物が吾人に取っては遥かに尊重す可き価値が有る」(『西川一草亭』1993)。

一草亭が目指したのは、生活から離れた芸術ではなく、また総合的な生活芸術だった。現在に展覧会を開くならば、フードショーやテーブルウエア展とガーデニングショー、ラン展、フラワーデザインやいけばな展覧会を総合したものをホテルやレストランでやる、といった考え方なのだと思う。こうした一つ一つが統合されていくことが重要なのだと思う。

最後に、一草亭の小文を2つ紹介して今日のお話を終えることにする。
おそらく80年前の文章というよりも、スマホをタッチして身近な先輩が書いたものをスクロールしながら読むような、そんな気持ちすらしてきそうではないか。

「工芸美術の鑑賞法」西川一草亭(『風流生活』1932年)

吾々は実生活の外に芸術を求め趣味を求めて、芝居を見たり、音楽をきいたり、画を味わったりしているが、毎日の生活をそのまま芸術として味わい楽しむことができたら、どれほど人間は幸福だろう。茶碗土瓶が芸術であり、椅子卓子が芸術であり、机硯が芸術であって、行住座臥、随時随所にそれぞれ鑑賞して楽しむことができたら、それほど便利なことはない。

画や芝居はそう毎日見る物でない。月に一二度見るか、忙しい者は一年に一度の帝展さえ見に行かないことがある。
日常生活は毎日である。朝起きるから寝るまで繰り返されて人生の全部はほとんどこれ日常生活の連続である。その日常生活が蝋を噛むように、無味乾燥な物であるのと、そこに芸術が味わい得られるのと、人生の幸不幸にどれ程の懸隔があるだろう。社会人生に及ぼす効果の大小を考えると、画や彫刻よりも工芸美術の消長の方が遥かに大きな関係を持っていると思う。

しかし今世間が考えている工芸美術というものは非常に範囲の狭いもので、これは工芸美術というよりも、一種の骨董品または工芸品の形を借りた一種の純美術として考えている事実がある。実生活の必需品というよりも、実生活に役立たないものの方が美術品の如く誤解している者さえある。
実用にならない方が高尚で、実用品を造るのは下等だというふうな考え方は、あたかも働くべく生まれてきた人間の能力を無視して、汗水を垂らして毎日働いているのは下等で、懐手をしてぶらぶら遊んでいる方が尊敬すべき人間だと考えるのと一般、これが世間普通の見方かも知らぬが、大なる誤解である。
工芸美術は骨董品ではない。工芸品の形を借り、工芸品に仮託する以上、いくら美術品でもその実用を無視しては、これは工芸美術でもなんでもない。実生活を背景とし、実生活に交渉を持たないような物は工芸美術としては決して重要なものではない。ただ貴族階級や、殿堂生活を目標とするか、民衆生活を目的とするかは製作者の勝手であるが、それは何にしても、実生活の芸術化を理想として製作さるる事は必要である。ただ床の間の置物や、ケースの中に陳列して手も触れぬような品物ばかりを美術品として考えるのは、工芸美術の理想目的を知らない者である。

既に工芸美術が一面実用上の意義目的を有し、衣食住の生活に随伴して飲食起居の間にこれを観賞さるる性質のものとすれば、その鑑賞法として展覧会のごときは実はあまり適当でないのである。
もっとも甲者と乙者の技術の優劣を批判したり、作家の特色を比較研究したりするにはこれを一堂に集めて陳列した方が便利かも知らぬが、工芸美術の真の面白味を解するには帝展のごとき会場に陳列して、その外観だけを一瞥しただけでは解らないはずである。茶碗火鉢は茶を飲んで見て、その飲み工合や口当たりや火のぬくまり工合や撫で心地などを実際に経験しなければ、茶碗火鉢としての美醜をほんとに知ることはできないと思う。
だから展覧会の制度がいくら完備し、展覧会によってこれを鑑賞し得る機会がいくら作られても、それで工芸美術の真の批判観賞は不可能なはずである。その点は他の純美術と大分性質が違うと思う。

帝展で工芸美術を批判するのはちょうど働きのある人間を何もさせずに、じっと座敷に座らせて置いてその才能を批判しているようなものである。見当のつく事もあるが、つかないこともある。

これは私の単なる空論ではない。鉄瓶一つでも、火鉢一つでも買った経験のある人にはこの道理は誰にでもわかるとおもう。これは面白いと思って買ってきたものが、実際に使ってみると、わざとらしい形がうるさく見えたり、手の持ち工合が悪かったりして、展覧会や三越の陳列で見たときに見出せなかった欠点や短所を見出すことが度々ある。
もっとも生活の程度が違ったり、殿堂生活のために造られたものを草庵生活に使用したりして、ちぐはぐな感じを起こしたりするのは選択を誤ったわけで、それは製作者の罪ではないが、鉄瓶として湯のつぎ工合が悪かったり、湯の味が不味かったりするのは美術品としても一つの欠点であると思う。

そんな事を考えると、工芸美術の鑑賞法としては、生活の形を備えて、これを実際に使用して、その美醜適否を観賞批判し得る方法が必要である。

ここに至って顧みられるのは日本の茶の湯である。
今茶の湯といえば富豪か女か老人か、とにかく閑人の仕事になっていて、現代多数の生活者には何の交渉もない物になっているが、足利時代の一禅僧がこれを発明し、利休、秀吉がこれを当時の社会に普及した根本精神に遡って考えると、あれほど深く実生活を味わい楽しんだ人間は他にないのである。だから後来、茶の湯の影響は工芸美術の上に大なる感化を与え、足利以後、明治以前に残された工芸美術といえば、たいてい茶の湯の洗礼を受け、茶人の指導監督を受けないものはないくらいである。
もっとも茶の湯は実生活の形を備えているといっても、華美贅沢な殿堂生活、貴族生活を讃美したものでなく、簡素枯淡な一種の境地を愛したので、その点は歌人西行や芭蕉の俳諧生活に共通したものがある。

樫の葉のもみぢぬからにちりつもる奥山寺の道のさびしさ

の一首は利休が茶庭の理想を人に示した歌であるが、この歌で見ても、茶湯がいかに極端な閑寂枯淡な趣味を愛したかがわかるだろう。

探偵注:「樫の葉が紅葉しないままに散りつもった、深山の寺に続く道の寂しさよ」
桑山左近が利休へ露地のしつらいについて尋ねた際に利休がその極意を示した歌、『茶話指月集』にある「わび」に関する挿話)

だから茶の湯をもって、直ちに今の工芸美術の鑑賞法にあてはめる事はできないだろうが、実生活を愛し、工芸品を観賞した精神だけをとって、工芸美術の観賞を目的とした茶会を起こせば、工芸美術の発達に帝展以上の効果を見ることができると思う。

またこれを他の一方から考えてみても、工芸品はただその製作の良否以前に、その使用法の適当か否かの問題、物の取合わせ、使用場所の調和不調和などの問題がその物の価値に大きな関係を持っているのだから、その点に於いても絶好の研究方法であると思う。

「日本文化の危期」 西川一草亭

(「大字村舍茶話」『落花帚記』1939年から ※「危期」は一草亭の用語)

この頃は右を向いても左を向いても、日本は非常に偉いという。世界に日本くらい偉い国はない、日本の文化は世界に冠たるものだ、というふうに皆が考えるようになった。
しかし日本の偉くなったのは、日本は駄目だ、何でも舶来でなくては上等ではない、日本製は下等だ、というふうに、30年来欧米を尊敬し続けてきた結果である。

お茶は日本精神を最もよく現したものだというても、そのお茶は最初は支那文化を崇拝して、それを取り入れるだけ取り入れて見た結果が、今のような日本的なものになってきたのである。

お茶の始まった時代は足利時代である。足利時代くらい腰を屈して支那文化を尊敬した時代はないのである。
足利義満は明に対して臣下の礼を取っている。義政の身辺は唐宋元明の支那画、青磁、堆朱(ついしゅ)、天目等、支那文化の山積である。その中からお茶が生れてきたのである。
だから今でもその遺習が残って、器物は何でも支那製の唐物を第一位に置いている。唐物の前には特別にお辞儀をしなければならない。丁重に扱わなければならない。
今の日本人の意気をもってすれば、何という卑屈であろう。何が支那がそれほど恐ろしいのか、と言いたくなるが、それが日本的な物を生み、日本的なものを発達させたのである。今のお茶には唐物などは一つも要らない。井戸、唐津、御本の朝鮮陶器も要らない。茶碗は楽茶椀の方がずっと深味があり、書画は日本人の物で充分用が足りるのである。
殊に草庵の茶室建築などは、支那人の丸で知らない、簡素にして深い味を見せている。しかしそれは全く我々祖先の自卑の賜物である。丁稚奉公をしたお陰で、辛抱強くなり、分別ができ、人情が解り、世の中に出て仕事を成し遂げる人間になれたのである。それを考えると、私は今の日本は一つの危険期に立っているような気がする。

(昭和10年頃)

※参考

  • 『生花の話』
    西川一草亭 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社 1923(「サンデー毎日」叢書)
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977061
    国立国会図書館デジタルコレクション(公開・ページ欠あり)
  • 『挿花時代展覧会図録』
    西川一草亭 去風洞 1928
  • 『茶心花語: 茶の話・華の話』
    西川一草亭 実業之日本社 1931
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175431
    国立国会図書館デジタルコレクション(図書館のみ)
  • 『風流生活』
    西川一草亭 第一書房 1932
  • 『風流百話』
    西川一草亭 創元社 1933
  • 『Floral Art of Japan』
    Issotei Nishikawa Japan Travel Bureau 1936
    ※JTBの海外向けサイトから  https://www.jtbusa.com/ha/Floral-Art-of-Japan.aspx
  • 『盆庭と盆石』上下巻
    西川一草亭 盆庭と盆石. 下巻 創元社 1936
  • 『落花帚記』
    西川一草亭 河原書店 1939
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1687961
    国立国会図書館デジタルコレクション(図書館のみ)
  • 「西川一草亭の風流」
    『なごみ』第125号 1990年5月号
  • 『花道去風流七世 西川一草亭 風流一生涯』
    熊倉功夫ほか 淡交社 1993
  • 『花日記』
    白洲正子 世界文化社 1998
  • 「風流道場・花人、西川一草亭の生涯」
    季刊『銀花』第145号 2006
  • 『京都 近代美術工芸のネットワーク』
    並木誠士・青木美保子編 思文閣出版 2017

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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