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第113回 フルーツバスケットの整え方~戦前の果物ギフト

公開日:2021.4.9 更新日: 2021.5.19

『実際園芸』第3巻第6号

[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]昭和2(1927)年12月
[入手の難易度]難

※参考

  • 『商店界』第37巻第6号
    昭和31(1956)年6月号 誠文堂新光社

今日はフルーツバスケット、贈答用の果物かごの話をしようと思う。
資料は戦前、昭和2年の『実際園藝』と戦後、昭和31年の『商店界』である。
どちらも誠文堂新光社の看板雑誌だが、『商店界』は、戦前の唯一の商業・流通業の専門誌として知られた有名な雑誌で『広告界』とともに「誠文堂」(創業者・小川菊松)が最初に手がけた雑誌である。

もと『商店雑誌』の主幹、清水正己が洋行帰りの新知識をベースにした新雑誌を世に問うということで、白洋社という小さな出版社から大正10年(1921)1月に創刊。翌11年には、早くも経営危機となったところを、当時の金額で3万700円という巨額な負債(現在の価値を試算すると4,000倍して1億2800万円ほど)を肩代わりして誠文堂が引き継いた。
大正13年から倉本長治が編集長となり清水、倉本で多数の関連出版物、全国講演を企画し誠文堂の業績を大きく伸ばす原動力となった。

本誌は1993年まで発行されたが、倉本長治は戦後独立し、自らの雑誌『商業界』を創刊した(2020年に休刊)。

図1 『商店界』1956年6月号の巻頭特集「くだもの店の構え方」:ブルーツの「看板建築」が目を引く東京・池袋駅前の「ゆう文」。店舗左部分で「たばこ」を売っている。右ページのレジスター「金銭登録機」の広告に注目。1960年代に始まる完全セルフサービスの「スーパーマーケット」時代は、もう目の前に来ていた。(クリックで拡大)

図2(上)、図3(下) 記事の場所と同じか不明だが、「ゆう文」の店舗は現在5階建てのビルになっている。2013年まで果物店として営業していたようだが、現在は中華料理店が入っている。(クリックで拡大)

昭和30年代の「くだものや」さん

図1~3は、昭和31年ころの、果実店の模範的な商品陳列を表したページだ。戦後の復興期に造られた建物や店舗は経済成長に合わせて「若返り」が求められるようになっていた。
『商業界』の記事では「他の業種と比べて軽装備で店舗の改装が実施でき、お金もそれほどかけずに美しく効果を上げられるため、果実店の『改造』がめっきり増えている」と記されている。

果実店は商品は色彩的に美しいのに陳列や構成が乱雑になりがちで、陳列を工夫することが売上に直結する。また菓子店、食料品店、果実店は贈答品が多く出るため、パイプと鉄筋による陳列棚を工夫し店内に贈答品売場を確立すると大きな効果が期待できる。写真では、現在では考えられないような高い位置まで商品を陳列している。

商品がすっきりと見え、手に取りやすいように、また、お客さんが店の中まで入りやすいように陳列台(平台)を4か所の島状にに配列し、通路もしっかりと取っている。間口が広く奥行きがない店舗は果実店としては悪くないが、落ちつきを与えるためにまわりの棚や陳列の仕方で好ましい雰囲気をつくる必要がある、と書いている。

写真をよく見ると、バラ売りの果物よりも、多くのスペースを割いて、贈答用のギフトボックスやバスケット、カンヅメの詰め合わせがびっしりと並べられている。陳列量は販売量を示すという。池袋の駅前というので、立地のよさもあるだろうが、贈答の需要が大きかったということだろう。今はほとんどなくなったが、葬儀用の果物籠や花環状になっていてスタンドつきのものも果物屋さんが扱っていた。当時は、基本的にフルーツは高級品であり、今よりはるかに多く贈答用に使われていたのである。

以上が、戦後約10年を経過した東京のようすだが、戦前のフルーツ、とくに贈答用の取扱いはどのようになっていたのだろう。誠文堂新光社『実際園藝』からその記録をひもといてみたいと思う。

昭和2年、フルーツギフトの「整え方」

記事のタイトルは「御歳暮の贈物として 果物の整え方」。書いた人は、銀座千疋屋の吉川由磨。12月号ということもあり、記事の内容はお歳暮向けのギフトについて語っているので、リンゴやミカンを中心に語られる。

まず当時、果物は大箱に詰めて産地からやってくる。贈り物にする場合には、

「それぞれ都合のよろしいように、中箱なり小箱なりへ詰め替え、果物の贈り物として出来得るだけ美しく飾り付けるのでありますが、果物も従来のように、ただ箱に入れるというだけでなくどうしたならば、贈り物を受けた人に対してまことによい感じを与えるか、そしてまたどんなふうに配置したならばそれぞれの果物を、いっそう見事に見せることができるかというようなことに、非常に苦心をするのであります」

と語っている。

「生産地から来るものもいろいろありますが、ふつう大箱で80個、100個、120個、140個入りのものがありますから、これを贈答品として売る場合には、小箱ならば25個入れ、中箱ならば45個入れというふうに詰めるのであります。
贈答用の果物には、籠の詰合せのものと、箱詰めのものと2通りありますが、箱詰めのものは、どちらかと申しますと、遠距離の場合、地方向きの場合が多く、市内では籠詰めのものが一般に歓迎され、したがって多くつくられておるわけであります」。

図4、図5 化粧紙を敷いて「角籠」に丁寧に詰められたリンゴ(品種は「甘露」)(上)と温州みかん(下)。

どんな籠が贈答用によいか

贈答用の盛籠として一番多く用いられるものは「柳籠」で、形では「浅形、舟形、角形」がその大部分で、いずれも大中小の3通り用意してあった。

図1、2で使われている「柳角籠(やなぎかくかご)」の寸法は、小さいもので縦が1尺1寸の横が8寸、深さが2寸5分(D33cm、W24cm、H7.5cm)だ。

「これにオレンジをいま仮に入れるといたしますと、2側入れ(※探偵注:ふたかわいれ、2列に並べ入れる。現在は普通には使われない表現)として、10個ほど入ります。この大きいものになりますと縦1尺7寸の横幅1尺2寸からのものになり深さも4寸5分もあります(D51cm、W36cm、H13.6cm)。これですとオレンジが40個から入ります」

と述べている。

「浅形かご」図6、7)は楕円形で、小さいもので横径9寸、深さ3寸、縦径1尺1寸(D33cm、W27cm、H9cm)からあり、大きいものは、横径1尺1寸、縦径1尺3寸、深さ3寸5分(D39cm、W33cm、H10.5cm)、というのがある。

「舟形かご」は浅形かごに似たもので、違っているのは、持ち柄のところがいくぶん内側にそれていて舟形をしているだけだという。この籠の大きさは前の浅形と大同小異。

贈答用の「月形かご」。これは前2者より体裁のよい「文人塗りの籠」である。これに盛りつける果物はいずれも最上のものばかりだった。当時まだ広く普及していなかった温室栽培の高級贈答用で、フルーツと一緒に花も盛り付けて贈られることも少なくなかったようだ。次のような記述がある。

「(月形かごは)竹文人の月形(ちくぶんじんのつきがた)と申しております籠で、これにはネーブルオレンジ、ザボン、メロン、温室ブドウなど温室産の果物を盛りまして、むかって左方に、ユリとかバラ、カーネーション、アスパラガスのごときものを一束といたしまして、アンチモニイの花瓶に水苔でつつんで花瓶ごと挿入いたします。
そうして右角の持ち柄にはトキ色のリボンの細いものを蝶結びに取り付けます。これはもちろん飾り籠でもあり、また盛り籠でもありまして、お祝いお見舞用としても用いられます」。

千疋屋は早くから生花(切り花)を扱っていたから、自社でフルーツと花の両方をアレンジした商品を製作できたと思われる。現在創流94年のいけばな草月流、第一回花展は、千疋屋銀座店(フルーツパーラー)2階で行われた。昭和3(1928)年のことだった。千疋屋の主人、斎藤儀一が初代家元、勅使河原蒼風の弟子(飲み友達)というつながりがあったからだというが、この展覧会がきっかけとなり蒼風はNHKのラジオでいけばな講座を担当し、たいへんな人気となった(『花日記』早坂暁1989)。

文人かごの他に、水盤形のアケビで作られたものがあった。これも同じく光沢のある文人塗りの素材で作られていた(図8)

「この水盤形の籠でありますと、深さはさほど深くはありませんが、同じく三段ほどに分かれておりまして、オレンジ、パインアップル、ブドウ、リンゴ、ナシの5品くらいであります」。

図6 大きめの浅形かごにリンゴやブドウが盛られ、セロハンがかかっている。持ち手のところにはカーネーションの花束が取り付けられている。戦前のカーネションらしく茎が柔らかく、リボンで巻かれた持ち手に沿うようにしなっている。蝶々結びのリボンは太幅でふっくらと結ばれている。
図7 手付きの浅形かごに花とフルーツが盛ってある。底面にはヒバの葉が敷かれ、リンゴ、オレンジ、ブドウなどが見える。右奥に花が咲いたシクラメンが入っているようだ。持ち柄の向きが図6と逆にして、構成を左右2分して見せている。持ち柄にはリボンを巻いていない。
図8 立派なメロンと温室ブドウの盛りかご。これは水盤形のかごだろうか。

贈り物かごはどのように盛ればよいか

当時、どのようにしてかごに果物を盛っていたのだろうか。記事ではつぎのように解説している。

「果物を詰めますには、まず最初籠に檜葉(ヒバ)のなるべく枝幹(えだ)の堅くないものを敷き込みまして、これに心(しん)になる果物、たとえてみますれば、ザボンとか鳳梨(パインアプル)というようなものを真ん中に据えます。
そうしてブドウとかイチゴのようなものは余裕をつくって置きまして(後で乗せ入れるからか)、リンゴとかナシ、ミカン、ネーブル、オレンジのごときものを順次に差し入れます。」

後述する新宿高野のかご詰めでも、中心に効果で見栄えのする果物を据えて、次にリンゴやミカンで抑え、最後にブドウやイチゴをやわらかく上に乗せ、隙間を押さえてラッピングする、という手順だろうか。メロンは現在でも高級品だが、当時のパイナップルはまさに中央に配置されるべきフルーツだったと思われる。

「(先の文章のつづき。リンゴやナシ、ミカンなどは)元来が丸いものでありますから、自然すきまができ、外見が悪いので、花束にアスパラを用いますように、すきますきまにイチゴおよびその葉を敷き込むとか、檜葉の葉先の柔らかいもので調和を採るようにいたします。
これは主として取り合わせ籠に用いますので、オレンジ、ポンカンのようなものを単独につめ合わす場合には、ペーパーパァキング(紙綿かみわたパッキング資材)を用いております。地方へお持ちになりますのには、檜葉よりもパァキングの方が品物のためにも、また品物を活かす上からもすこぶる効果のあるものでございます。
こうして詰め合わせて盛り上げました果物は、セロハンという薄い透明な紙でやんわりと覆い、それからリボンを掛けます。このリボンには赤、白、とき色、黒、水色と5種類からありまして、普通の御見舞贈答用には、赤色を用い、仏事には白と黒を、神前には白色か水色を掛けるようにいたします。
セロハンを覆い、リボンを掛けましたものは、ゴムバンドでセロハンをとめます。そうして出来上がりましたものが、盛り上げ籠の贈答品であり、また飾り籠に入れられましたものは、装飾棚にのせられて店頭に飾られるのであります。」

セロハンについての説明があること、また、色の名前をピンクと呼ばず、「とき色」としているところに時代が感じられる。

かご盛りを終えた商品は陳列棚に並べられていた。
盛り籠に持ち柄がついている籠が利用されるのは、まさに、贈り物用であり、持ち歩くのに便利であること、リボンを取り付けるのに都合がいいこと、果物のレイアウトするときに正面・横、など構図が取りやすいことなどがあっただろう。これは、花き装飾の花かごでも同様で、もともと西洋の文化にあるものが日本に入ってきた明治以来の贈り物文化だと思われる。

贈答品お買上げについて

この記事で面白いのは、仕事をする上で、客からの理不尽な注文、「蒸し返し(クレーム)」に関する商売人のホンネが見えるような言葉が掲載されていることだ。現代でも事情はまったく変わらない、それは次のような話である。

「歳暮のお忙しさはどちらでも御同様で、中には今お買い上げ下さいまして、今すぐ持って行ってくれとおっしゃる方もあり、また今日中にとか明日までとお言いつけくださる方もあります。
こうしたお客様方のお言いつけに対して一言お願い申しておきたいことは、何分一度にどっとご注文がございますので、お約束の時日までにお届けいたしかねる場合が時折りございます。それでどうしてもご贈答品は早めに少なくも2、3日のご猶予を頂きたいと存じます」。

「御贈答品お買上げに付いてお願い申し上げたいことは、何と何と何を幾らとおっしゃって頂きたいことで、またどういう贈り物かをはっきりしてくださいますれば、私の方でご希望に添いますようご便宜をお計らい申します」。

「よくご贈答品をおもらいになった場合、中に蒸し返しをなさる方がありまして、何だこの果物は腐ってるじゃないか、などとおっしゃる方がありますが、どうぞそういう方は必ず果物店(くだものみせ)の方では販売日付の紙片が入れてありますから、それに依って全てをご判断くださるよう願いあげます。贈答品用果物の地方発送はどうしても籠よりか、箱に限られております」。

この他年末に出る果物のいろいろ

当時、年末に出回る果物のほかに、意外な売れ筋商品として「ドライフルーツ」があった。次のように書いている。

「乾果実(ほしかじつ)の贈答品を見ますと、プラム、ペアー、ブドウ、アンズ、イチジクなどの乾したものを5種類ほど混ぜ合わせまして箱詰めにいたしましたものが、案外需要がございます。これもやはり価格によって3つに別れていまして、小さいもので2円2、30銭から3円くらいで、その次が3円から3円5、60銭、大きいもので4、5円見当であります」。

これら多くは、「舶来」の輸入品であった。
興味深いのは、「乾しアンズは昨年その筋から発売を禁止されました」とあることだ。これは、植物防疫に関する輸入禁止措置だったのだろうか。調べてもわからなかった。

これらのドライフルーツは、お好みで他のフルーツやナッツと一緒に組み合わせて、籠詰めにできたそうだ。

「前述のペアー、ブドウ、イチジクのほかに、支那広東産の俗に龍眼肉(りゅうがんにく)といわれますライチー、信州から参りますクルミなど、そういうものを取合せます。贈答品として籠詰めにいたします場合、どうしても多く入りますから4円から10円位の価格となります」

とある。

また「月の雫」という商品があった。これは「生ブドウに砂糖を厚くかけた、お菓子のデコレーション」で

「ホンザン(※探偵注:フォンザン、フォンダン=とろけるような砂糖衣)と申すのに似通ったもので、箱入(はこいれ)として贈答用にできております。価格は4通り程に分け、小で70銭、中で1円、大が1円50銭、その上が2円見当であります」

といった説明がある。

調べると甲州ぶどうを原料に使ったの山梨の銘菓のようだ。名前もいい。現在でも甲州ぶどうを一粒まるごと使い、糖蜜をからめて作られているという。明治初期に菓子職人が砂糖蜜の壺の中にあやまってブドウを落としたのが始まりだというのも面白い。

新宿高野の「乃木結び」

誠文堂新光社のフリーペーパー『園藝探偵』第2号(2017年)〈フルーツギフトと「乃木結び」のはなし〉を掲載した。
明治18(1885)年創業の新宿高野は、果物の販売と卸しの他に、華族、軍人、官吏など上流階級の得意先を増やしていた。目白の学習院をはじめとする有名校には、毎日注文を聞いてまわっては品物を届けていたという。
こうした客がフルーツギフトとして、盛かごを求めることがあったようだ。

この新宿高野のフルーツギフトにはリボンが美しくかけられていた(以下『新宿高野100年史』1975年による)。
リボンの結び方を教えたのは陸軍大将、乃木希典の妻、乃木静子だった。高野では「乃木結び」と呼んでおり、「ふたのついた籠の上から結んで、たくさんの房をつけた繊細なもの」とある。リボンの輪の部分をしっかりと膨らませて、「ウサギの耳のように立てる」のが重要だった(取材してみたが詳しいことはわからなかった)。ふっくらした蝶々結びに細いリボンを幾本も足して留め付けていたのではないかと思われる。

乃木静子は陸軍大将の妻という立場もあってか、西欧の礼儀作法とマナーを心得ており、紅茶を飲むときのレモンの切り方や添え方までも高野に教えたそうだ。
静子の教えは、商売のあり方にも及んでおり、新宿高野では、贈答品の三原則として伝えられる。

、籠詰めの果物は、品質や大きさが外見、内容ともにおなじでなければならない。
、籠の底にわらや紙などを入れてつめものをしてはならない。つまり、あげ底をしてはならない。
、籠に入れた果物は、同じものを店に展示しておいて、籠の内容物を客にわかってもらうようにしなければならない」 。

これらは必ず守るように店員に教育された。関西の方式では、あげ底が多かったそうだが、静子の教えを忠実に守る新宿高野の盛かごは、たいへんに評判がよかったという。

一方、昭和初めころの高野でどのようにかご詰めをしていたか、その要領については以下のような記述がある。

「まずパイナップルを左にもってきて、最も高級な果物を中心に据え、それから他の果物を詰め、上にぶどうを飾るという具合で、まるで生花のような細心の注意と美的感覚を必要としました」。

中元や歳暮の時期は戦場のような忙しさだったという。

※参考

  • 『出版興亡五十年』
    小川菊松 誠文堂新光社 1953
  • 『新宿高野100年史;創業90年の歩み』
    新宿高野 1975
  • 『華日記-昭和生け花戦国史』
    早坂暁 新潮社 1989

検索ワード

#商業界#広告界#清水正己#倉本長治#千疋屋#ドライフルーツ#月の雫#リボン#乃木静子#乃木坂#新宿高野

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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