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第114回  無理解・無関心という危機~京都府立植物園、栄光と受難の歴史

公開日:2021.4.16 更新日: 2021.4.19

『花と緑の記録―京都府立植物園の五十年』

[著者]駒敏郎
[発行者]山口紫都
[発行年月日]1979年7月20日
[入手の難易度]やや難

『打って出る京都府立植物園 ~幾多の困難を乗り越えて~』

[著者]松谷茂
[発行]淡交社
[発行年月日]2011年10月11日
[入手の難易度]易

京都府立植物園」は今年、98周年を迎えた日本で最も歴史の古い「公立の」植物園である(よく知られる東京・文京区、小石川植物園は東京大学附属の植物園、研究施設です)。
東には比叡山、東山連峰を望み、西は鴨川、北は北山連峰を背景とした景勝の地にある。
総面積は、7万2600坪、植物は1万2000種類、約12万本あるという。

この植物園は、大正天皇の御大典を記念して博覧会開催のために用地取得されるも実現できず、植物園にする案が計画され、約10年の紆余曲折を経てようやく完成した。
この間、2度にわたって財閥・三井家同族会から多額の寄付金を寄贈され、それでようやく工事を進めることができた。
開園式が挙行されたのは大正12(1923)年11月10日だった。

関東では大震災があったその年に完成した当時の敷地面積は約10万坪、広い運動場とともに整備された日本一の植物園は、翌13年の1月1日から有料公開が始まった。
園内に建てられた「大森文庫」(計画立案の大森鍾一府知事を記念して命名)には、珍しい本草書など植物学・園芸に関する古今の貴重な書籍・資料も集められている(現在は植物園会館で保管)。

かわいい豆本

この京都府立植物園の50周年を記念して制作された「豆本」がある。

著者の駒敏郎(こま・としお)は京都生まれ、京都育ちの文筆家。
若い頃からテレビ番組の脚本を書くようになり、のちにプロデューサー、大学の非常勤講師などを務め、地元京都に関する著作を数多く残した。

この豆本は、1971(昭和46)年5月から翌年にかけて京都「府政だより」に連載されたものをまとめて「美也古豆本」の第7集として出版されたものだという。
これとは別に「特装版」もあるらしく、戦前・戦後の2分冊、手摺りの版画をつけて制作されているそうだが、こちらの普及版も厚さ2cmほどのしっかりしたつくりの本で、手に取るだけで楽しくなってくる(図1、2)。戦前・戦後の園内を撮影した貴重な写真や園内配置図も収められていて単に読み物というだけでなく、資料的な価値もある(図3~5、8)。

これとは別に、園内の写真に関連して図6、7に示したように、昭和3年頃の花壇の写真がある。
同年の『実際園芸』誌に掲載されたこれらの写真は当時、京都府立植物園の技師を務めていた吉津良恭(よしづ・よしやす)による「球根花壇の意匠と植方」という記事にあった。

吉津良恭は、本連載第57回第86回に登場している。若い頃『実際園芸』主幹の石井勇義第110回参照)とともに小田原の辻村農園で働いていた仲間であった。
写真では、植物園の周囲の山々が植物園の借景となって穏やかな印象を与えている。特徴のある山容は比叡山のようだ。

植物園の黎明期、もともと広大な水田地帯だった場所を植物園にするための造成作業では、連日、土を運ぶところから始まった。雨の日は唯一の骨休めができる日で、作業員たちは近くの賀茂川にでかけてゴリ釣りを楽しんだりしていたという。

開園当初にはよくマムシが出て心配されたとか、正門の切符売り場には「下足番」がいたなどという話が掲載されている。
当時は芝生が傷むのを防ぐため、下駄ばきで来場した人から履物を預かり、草履に履き替えさせていたのだという。

園の収入は、入園料の他に運動場や会館使用料が主なものだが、切花を販売したり草花の種子や球根を販売したりすることもあり、たいへん人気だったという。
温室の花がたくさん咲き過ぎたときなど、「植」の字を染め抜いたハッピを着て町まで花を売りに出ることもあったそうだ。

他にも上賀茂の山からシカが降りてきて畑に入ってくるとか、来園者のなかには植物を勝手に持ち出す不届き者が多く、守衛は忙しかったなどというエピソードがいくつも紹介されており、草創期の植物園と当時の人々の暮らしぶりが感じられる。

(図1、2)サイズがわかるように、「チロルチョコ」を置いた。箱付き、硬い表紙のついた、しっかりしたつくりの本。
(図3)うすい和紙に昭和2年の植物園の地図が付録されている。(クリックして拡大)
(図4)写真ページもある。植物園ができる前は賀茂川に隣接する広大な田園地帯だった。(クリックして拡大)
(図5)横長の写真に合わせて、本を横にして見る。広々とした園内、戦前の様子がわかる。(クリックして拡大)

(図6、7)おそらく大正末から昭和のはじめ頃に撮影された園内の花壇の様子。(『実際園芸』第5巻第7号)

植物園の楽しみ方

この歴史ある植物園の第9代園長を務め「名誉園長」の称号を贈られた松谷茂の著作『打って出る京都府立植物園』(2011)によると、園内には比叡山を見るのに最高のビューポイントが2か所あって、観覧温室前の芝生地と植物園会館のベランダがいいという。ここからの比叡山の眺望はすばらしく、この植物園の大きな魅力となっているそうだ。
松谷は、大正時代の設計者に感謝するとともにこの光景がいつまでも市民のものであるようにと願っている(図5、7)。

松谷名誉園長は、植物園には数々の「お宝」があって、それを見てほしいという。
歴史の生き証人としての樹木はもちろんだが、それ以外に5つ挙げている。

  1. 初代観覧温室跡地
    大正12(1923)年に完成した初代の温室は、各地で空襲が激しくなった昭和19年に取り壊された。敵機の攻撃の際に、地形的目標になっているという理由だった。
    この時20年来大切に育てられてきた温室植物の大半が消失した。
    この温室は高台にあったため、暖房効率が悪いというので戦後、新設された大温室は現在の場所に移された(現在の温室は三代目)。高台から見る夕陽がいいそうである。
  2. ロックガーデンの跡地(旧高山植物園跡地)
    昭和12(1937)年に完成した純英国式で、当時は新しい感覚の展示として人気の場所だった。
    発案は二代目の技師、野間守人著作多数あり)で、一時工事が止まっていたが、趣旨に賛同したスピンドル(工作機械)会社の社長、桑田権平による多額の資金提供によって立派なものがつくられた。日本で最初の本格的なロックガーデンだといわれている。
    ここでは珍しい高山植物や山草を集めて展示していたが、盗難もあとを絶たず、土日だけの公開となったという逸話が残っている。
    このロックガーデンは敗戦後、接収したアメリカ軍によってブルドーザーであっという間に崩され、周辺のカツラの木もチェンソーで伐採、9m幅の舗装道路になった。
  3. アジア原産のタケ類の盛り土
    株立するタイプのアジア原産のタケ類は長年の栽培により落ち葉などが根本に溜まって自然に盛り上がり、高さ1.3mの奇態となっている。
  4. 比叡山の眺望(先述)
  5. 大芝生地
    立入禁止にせずに入れるようにしてあり、裸足になると心地よく大地と触れ合う体験が楽しい。比叡山の眺望も最高。

このように少し関心を持てば植物園には見るべきものが数々あって、どのような目的でもいいから、何度も足を運んで利用するのはとても楽しい経験になると思う。もちろん、植物園という場所の一番の特長は園内の草木であることは間違いない。

京都府立植物園では来園者向けに様々なプログラムを用意しているが、そのなかに「お宝発見ツアー」という企画がある。昭和のはじめに導入されたような由来がはっきりしている古木をはじめ、先ほどの5つのビュースポットなどひとつひとつに物語があって、それを教えてもらいながら見て歩く。

あるいは、「わたしの好きな木」のように、ひとつの植物を選んで年に6回、四季を通じて観察し、変化のを絵に描くようなプログラムもあり、植物園や植物と身近な関係を築けるようなサポートも行っている。
学びたいという気持ちがあれば、植物園にはいろいろなかたちで、その思いに応える用意がある。植物園の学習機能や社会的な貢献度は思うほど小さくはない。

繰り返しになるが、どのような目的であれ植物園というのは、そこに足を運んで歩くことに意味があるのだ。日本の庭園を研究し数多くの著作を残した重森三玲は、庭は一度や二度や三度見たといって、正しく理解できるものではないから何度も通うことが大事だと言っている。

庭というものは、生きている生物的存在で、晴天の日と、雨の日と、雪の日と霧の深い日とでは趣が全く別である。朝と夕方と昼間でも異なる。明るい光線の強い日と、曇天の暗い日とでも異なる。拝観者の多い日と少ない日、同伴の人の相手にもよる。
全く一つの庭でさえ千変万化である。それを一度見たのみで、二度見る必要がないというのは馬鹿げている

というふうに述べている。

「庭というものだけではなく、建築でも、仏像でも、すべての芸術品は、そのような態度で見て解る安物ではない」のだ(『重森三玲 庭を見る心得』から)。

何度も足を運ぶ。そのような利用をしないともったいないと思う。

お金を積んでも得られない植物園の価値

植物園は、1年2年ではなく、10年単位のスパンでものごとを考えないと何も進められないというようなことがたくさんある。

例えば、東京の渋谷区にある「日本一小さな植物園」、渋谷区ふれあい植物センターでは、今年(2021年)コロナ禍で臨時休園中のさなかの3月にヒスイカズラが咲いた。
このヒスイカズラは17年栽培され、開花は3年ぶりだという。休園中というのが残念だったが、Twitterやインスタグラムなどで画像や動画が公開され多くの人がその青くて不思議な花を見ることができた(渋谷区ふれあい植物センターは本年12月28日を最後に施設の大規模改修のため長期休園となるそうだ…)。

同じように、とても臭い匂いがする奇妙な巨大花として知られるショクダイオオコンニャクは、小石川植物園筑波実験植物園などでその開花がニュースになる。
小石川のものは1991年に国内で初めて開花させるも枯死。その後1993年に種子から育てて18年目の2010年にようやく開花した(日本で6例目)。
筑波のものは、2006年に小石川植物園から譲ってもらった株を育てたもので、初めての開花は6年後の2012年だったという。その後2年間隔で花を咲かせ、同一個体で5回連続して開花させることに成功した。これも10年の月日をかけ、注意深い栽培を継続して初めてなせる技である。

世界中の様々な環境で生きる植物を相手に、根気強く努力が続けられ、植物園が維持されている。
関わる人々が技術を高め、組織力を発揮し、またバックヤードを含めて、植物を栽培するスペースと環境、設備がとても重要なのだ。
言うまでもなく、このような技術を持った人も環境も、どこからか持ってくることもできないし、お金を出せば買えるものではない。

ホンマモンの植物を展示して見せる

植物園というのは、「博物館」なのだという。動物園が生きている動物を集めて研究、展示しているのと同様に、植物園は「生きた植物の博物館」である。
日本国内外の植物を系統的に収集し、栽培、保存、研究し、生きた姿を展示する。「公園」にもたくさんの緑があって、広いスペースを持っているが、公園との違いは、植物園が文字通り、「植物学的」であることだ。
植物園には「植物学」に関して学習できる機能があり、かつそのような場所として人々が利用するという態度が求められる施設である。現在では単に植物の知識を得るばかりではなく、環境教育や社会教育の場としても重要な施設となっている。

公立の植物園は、一般の役所とは姿がまったく異なっていても、あくまでも税金で運営される地域の一組織である。
ところが、博物館でありながら「学芸員」が置かれることもなく、もともと限られた予算が近年ではさらに縮小する傾向にあって、日本全国どこでも同じようで運営には非常な苦心があるという。
このようななかで植物園として、まずは来場者を減らさないこと、できれば増やしていくことは植物園の運営上、最も重要な事業の柱の一つである。

2006年に京都府立植物園第9代園長となった松谷茂は、植物園の教育機能をあらためて重視し、植物の博物館でしかできない「ホンマモンの植物」による生きた展示を工夫していった
動物の「生態展示」で有名になった北海道旭川市、旭山動物園の小菅正夫園長に会いに行き、展示の方法だけでなく、園の運営、予算の獲得や人材確保、観光戦略、あるいは泥臭さや現場重視の姿勢や信念までも含めていろいろなことを教わったそうだ。動物と違って植物は動かない、と思い込みがちだけれど、松谷園長は、いや、そうではない。花はつぼみから色づいて開花し、やがては実になる。落葉樹は春になって葉を展開し、秋には紅葉する。こうしたことが植物も動いている証拠になると気づいた。それから植物園の職員とともにアイデアを出し合って様々な企画を実行していった。

困難に立ち向った歴代の園長

松谷の本には歴代園長の名前と在職期間が記されている。
第二代園長の菊池秋雄は果樹園芸の専門家で、京都帝国大学園芸学教室の初代教授であり、在職中に植物園の園長を兼任し20年を支えた。戦前戦後のほんとうにつらく厳しい時期の園長だった。本連載第82回でも触れた石井勇義『園藝大辞典』の執筆と監修者として牧野富太郎らとともに名を連ねている。

○京都府立植物園歴代園長

初代 郡場寛(1921~1929)
二代 菊池秋雄(1929~1949)
植物園が米軍により接収されたため菊池と松尾の間が10年空いている
三代 松尾賢一郎(1959~1962)
四代 麓次郎(1962~1978)
五代 木幡欣一(1978~1993)
六代 高林成年(1993~2000)
七代 兼松信夫(2000~2004)
八代 中村幸男(2004~2007)
九代 松谷茂(2007~2010)
十代 金子明雄(2010~2013)
十一代 長澤淳一(2013~2017)
十二代 戸部博(2017~)

図8 戦後の写真のページ。(『花と緑の記録』駒敏郎)(クリックして拡大)

無理解と無関心という暴力

98年の歴史ある植物園は、その歴史ゆえに様々な困難をくぐりぬけてきた。
計画立案から開園まで10年もかかったその間の紆余曲折も、多難の歴史の始まりに過ぎなかった。

昭和9年9月の室戸台風は京都を直撃し、植物園でも数千本の木が倒された。翌10年6月末には京都大洪水が発生し、隣接する賀茂川の濁流が園内に流れ込んだ。丹精した花壇や圃場は全滅、大量の泥が全体を覆い尽くしていたという。
もともとは広い田園地帯にゼロから作り上げてきた植物園は、このように幾度も痛めつけられたのである。

昭和12年に始まる日中戦争から太平洋戦争の時代に入り、花作りは難しくなった。ところが意外なことに、戦争が深刻化しても植物園を訪れる人の数は減らなかったという
駒敏郎は、「集団から個々の人間に立ち返った時、人は花や自然を愛する優しい心を失っていなかった」と書いている。
ただ個人ではなく、隣組や町内会を単位とする入園者が目立つようになった。思想もモノもあらゆるものごとで国家統制が進むなかで、みんなで自然と触れることは束の間の開放感と安らぎが得られたのではなかったか。

やがて園内の耕作できる場所はすべて「分区農園」となり府民に分けられた。様々な農作物が栽培される一方で、職員は日常の業務の他に野菜の苗を生産した。
いよいよ本土でも敵機による空襲が始まると大温室の硝子が外され、ついには解体されてしまった。

このように、戦前はたいへんなことが幾度となく起きたのだが、しかし、現在までの歴史で最も大きな災難は意外にも戦後になってから始まったのである。
戦争ではほとんど無傷で終戦を迎えた京都にあって、植物園は戦勝国に奪われ、乱暴狼藉の限りを尽くされた。

1945年9月、終戦後、進駐軍の家族住宅用地として指定を受ける。
京都府は米軍に対し植物園の由緒やその価値を説明し、陳情に努めていたのだが、候補地として京都御所の外苑の接収が指定されると、それは絶対に許してはならないということで折れざるを得なかったのだという。植物園は天皇の地所の身代わりに差し出されたのである図8)。
当時の園長、菊池秋雄と主任技師の浅井敬太郎らは貴重な植物を保存するという名目で必死に交渉し、園の南部と東部の帯状の一角だけはどうにか確保したものの、それ以外はほとんど全面接収となった。

こうして翌46年10月、植物園に住宅地の工事が実施される。
植物園という文化施設を潰して住宅地にするなどという野蛮を文化国家であるはずの戦勝国アメリカが平気でやったのである。
測量の段階から作業のじゃまになる樹木は情け容赦なく切り払う。枝一つまでも神経を使って育ててきた木が次々と切り倒された。
測量後はさらにひどく、ブルドーザーやクレーンカーが入れられ、学術上の意味などまったく意に介さず単なる用地として切り拓かれ、広いスペースを取った明るい住宅地が出現した。
庭園の池は蚊がわくというので、殺虫剤が投入され、大きなコイやフナもみな腹を上にして死んだ。
子供が入って溺れるといけないからと、しまいには、水を抜いて芝を植えたという。ショウブなどの水生植物は全滅した。
多くの府民に親しまれた植物園の正門には「日本人立入禁止」と大書された白い看板が掲げられていた。

樹木を切り払う理由はいろいろで、日本人が襲ってきた時に視界が悪いからであったり、車を入れるスペースをつくるためだったり、単に日当たりが悪いからという理由であったりした。子供がいたずらをして枝を折ったり、花を残らず切り落としたりすることもあった。
園内にある半木神社の鎮守の森が不気味だから撤去してクラブハウスを建てたいなどという要請も拒絶できなかった。敗戦国というのは惨めなものである。

結局、神社は一時的に上賀茂神社へ遷座させたが、社の森の伐採については、さすがに丁寧に説明をして、かろうじてそのまま残すことができた。
麓次郎技師はアメリカ人を前に「流木の森は、われわれにとっての神の住いの神聖な場所である。もしかりに、日本人が貴国を占領して教会をぶち壊し、そのあとへクラブを建てたら、貴国の民衆はどんな気分を味わうだろうか」と抗議したという。

当時の職員は人員整理のため菊池園長、浅井主任技師が辞職しており(1949年)、後を託されて残った若い技師、麓次郎は、孤軍奮闘で、少しでも植物を救うように粘り強く交渉をしていった。
先述の通り、植物園にわずかに残された土地に事務所があり、麓はここで返還までの10年間、ひとり闘ったのである。
時には将校の家族に対してもひるむことなく、「(今は接収はされているけれども)ここにある樹木は植物園の貴重な財産であるから伐採するならば高額の賠償金を請求することになる」と主張して強い姿勢を示すこともあった。
麓はのちに第4代園長になった(1962年~78年)。

接収前、まだ菊池、浅井両氏が在籍中に園内の貴重な植物の一部は移植を行い避難させようと尽力した。浅井敬太郎技師はGHQのあった四条烏丸に日参し陳情を行った。
幸いにも教育部長のアンダーソンは文化事業に理解があり、園の植物をできるだけ保存するように働きかけてくれたそうだ。それで先述のわずかな土地が残された。
また貴重な植物はできるかぎり疎開された。疎開先は大阪府の私市(きさいち)や名古屋などの植物園が協力した。タケ類のコレクションは上賀茂の演習林へ持ち出された。
この時救われた植物は返還後の植物園の復興にとても役立ったという。しかし、現実はそうとうに厳しいものがあり、大半の植物は救うことができなかったのである。

接収前に2万5千本あった樹木は、1957(昭和32)年の返還時には、ほぼ7割強が根こそぎ切り払われ、わずか6千本しか残っていなかった。この接収期に将校のクラブ、バーとして利用されていた昭和記念館が火災により焼失している(当日は大宴会が行われていたそうだが、火災の原因は不明で「漏電」とされている)。

1950年の朝鮮戦争勃発により日本の占領政策は急変し、京都の米軍住宅も徐々に家族が転居し始めている。
同じ年の秋には「ジェーン台風」が襲来し、大木が何本もなぎ倒された(ヒマラヤシーダーの並木32本中25本が倒れた)。

米兵が去った後に残された園内はまさに荒廃した姿そのものであった。植物園は30年ほど経たないと植物が落ち着かないといわれているそうである。
このあまりにも無残に変わり果てた姿に、もはや植物園への復帰は無理として、府立大学の拡張用地や国際会議場、遊園地にといった様々な代替案が交わされたという。
しかし、京都府はあくまでも植物園の再興を目指し、職員たちも必ず元の姿を取り戻すことを決意していた。

終戦直後の昭和21(1946)年、小石川植物園の園芸技師、松崎直枝本連載で幾度も紹介した偉人)が植物園協会の必要性とその設立を力説する。当時の小石川の園長であった本田正次は即座に賛同し行動に出る。
二人は関西に赴き、準備会を結成、本田正次、松崎直枝、浅井敬太郎、山内芳太郎、広津旭、堀江聰男を提唱者として「日本植物園協会」を立ち上げた。初代会長を務めたのは、菊池秋雄京都府立植物園長だった。

先述の通り、浅井敬太郎は当時、まだ京都府立植物園の主任技師である。早速できたばかりの日本植物園協会は、アメリカの植物園協会へも手紙を書き、現状を知らせて支援を仰いでいる。
こうしてみると、植物園協会の結成と京都府立植物園の救済は深い関係があったと推察でき、松崎直枝の目的が見えてくる。

一方、当時の京都府知事は蜷川虎三という人物で、この人も動いてくれた。蜷川は京都帝大教授から政治家になった人物で、この時、知事三期目だったという。
大阪にあった「特別調達庁」への陳情や国ともよく交渉してくれた(特別調達庁は1947年に設置された国の機関、占領軍の調達業務を担った。のちに「調達庁」から「防衛施設庁」となる)。特に返還時の補償金(接収期間に損なわれた損害への補償)の折衝は重要で、再建の第一歩は接収補償の交渉から始まった。

補償のための調査は麓技師が担当し、植物園に残っていた数少ない現場職員も不眠不休で手伝った。伐採された木の数1万9千本の記録を追跡、確認し、一本一本それらを評価する。それを4ヵ月足らずでやり遂げた。
賠償金額は6億8千万円という数字になった。京都府は、この数字をもとに特別調達庁と折衝するのだが、基本的な意見の食い違いが起きた。調達庁は、樹木の評価を「材木」として計算しようとしていたのである。これに対して麓技師は、植物は「生き物」であると主張した。

「植物園は材木置場ではない。植物の一本一本は、必要があって植えられ、心を籠めて育てられ、それぞれが有機的に結びつきながら緑の園をかたち作っていたものだ。植物は生物なのだ。そのレーゾンデートル(生存価値)を評価せねばならない」(『花と緑の記録』)。

折衝は厳しいもので、書類に掲載された一本一本について両者立会いで検討するといったことが何十回も繰り返されたという。
結局、この交渉は1年と数ヵ月続けられ、最終的に蜷川知事と丸山佶調達庁長官とのトップ会談の結果、1億5千余万円という額で昭和34(1959)年の暮れにようやく妥結した。

昭和32年12月に返還されたが、住宅の撤去に丸1年を要している。
府では、現状を府民に見てもらう目的で、昭和34年4月に臨時公開を実施した。実に13年ぶりの公開であった。
開園にあわせて丹後海岸の砂丘で養成し植え込んであったチューリップがちょうど開花しており、来園者をよろこばせた。12日間の来場者は15万5千人を数えたという。

この当時、まだ調達庁との折衝中であり、再建工事には取りかかれていなかったが、最初の公開で手応えを感じた植物園では、秋までに都合4回の臨時公開を実施している。
例の日本植物園協会は、臨時総会を京都で開催し、一丸となって京都府立植物園を支援することを決議したという。年末に折衝が終わり、松尾賢一郎が三代目の新園長に就任した。

翌昭和35年になってようやく再建工事が本格化した。最初に建物の基礎を掘り起こした穴埋めをするために大量の土を運び込む必要があった。大正時代に田を埋め立てた時と同じように土運びからのスタートだった。

大温室は、焼失した昭和記念館の跡地に建てられた。当時としては巨大な温室であったが、やはりがんばってそのサイズで構想した先人のイメージは正しく、堂々たる植物園のシンボルとなっていった(現在は建て替えられ3代目になっている)。
展示する植物は植物園協会の仲間たちから様々な種類が寄せられた。

京都府立植物園はその草創期である大正から昭和にかけて、地元京都の園芸の趣味家による団体「京都園芸倶楽部」と表裏一体となって園芸技術の開発と普及に取り組んだ。
京都園芸倶楽部は1923(大正12)年7月に、旧公家の園芸家である勧修寺経雄、京都植物園技師の寺崎良策、京都市技師の浦川卯之助らが発起人となり、植物園の開園に合わせるように会を発足したという。
当初は貴族や大学教授、軍人といった人々が中心だったが植物園の開園とともに園芸熱が高まり、一般の同好者の加入も増えた。京都は歴史的に高度な園芸文化があった土地柄でもあり、自然と植物園の栽培技術は高度に蓄積されていった。植物園には歴代の名人が在籍し後進を育てた。

そうした積み重ねもあって、第5代園長である木幡欣一の時代、1992(平成4)年にフロロセレクト(FS:欧州草花新品種審査協会)の展示場に認定、また1994(平成6)年、第6代の高林成年園長の時代にオール・アメリカ・セレクションズ(AAS)の公認ディスプレイガーデンに認定されている。
欧米で品種改良された世界的な新品種を特別に展示紹介できる世界でも限られた場所に選ばれたのである。これは、京都府立植物園が世界的に見てもたいへんに優れた栽培技術を持っていることの証しであり、誇るべきことなのだ。

こんなふうに苦難の時代を乗り越えて再開園を果たし、現在も高い技術で植物を育て「生きた植物を展示」し続けている京都府立植物園であるが、それでもなお、植物園を取り巻く環境は厳しいものがある。
松谷茂園長の時代、2005(平成17)年にはサッカーのプロチーム、京都パープルサンガの本拠地スタジアム建設地の候補のなかに府立植物園が入るなど、まったくもって驚くべき構想に強い危機感を持ったこともあった。

最終的には、市民の良識によって競技場の計画は消えたが、入園者の減少や指定管理者制度の適用か否かといった問題が次々と突きつけられ、松谷園長の活動の背景には常に植物園存続の危機感があった。
間もなく100年という歴史ある植物園に対し、さらに拡充しようというならまだわかるが、まったく逆なのだ。考えるだけで残念、としか言いようがない。しかし、どのような状況にあってもなお、植物園に関わる人々は地道な努力を積み重ねてきたことを忘れてはいけないと思う。

京都府立植物園はもうすぐ100年を迎える。本稿では、その歴史の一端を概観してきたが、つらいことの多い100年だったと思う。ぜひ、次の100年は幸せな時代であってほしいと願う。

日本はすでに人口減少に入っている。日本の植物資源をいかに守っていくか、また江戸時代から引き継がれてきた園芸植物をどのように保存していくのか、困難な問題を解決するのに植物園の重要性は増すばかりである。
その際、重要になるのは、長い時間をかけてつくりあげられた植物園の土地そのものだと思う。バックヤードを含めて大きな土地面積を必要とするのが植物の仕事だ。江戸時代から明治の植木屋は、土地を取得することを重視していた。土地(スペース)があるということは可能性があるということなのだ。品種の保護・増殖にしろ、品種改良をするにしろ、たくさんの種子を播き、多数の品種を維持するためにはバックヤードに広い圃場がなければならないからだ。
例えば東京の新宿御苑では、伝統の菊花展を行うために広大な圃場で品種を維持している。ひとつの品種の母本は何年か経つと更新する必要もある。植物園に不要なスペースなどないのだ。

国も地方財政も厳しい日本であるけれど、2014(平成26)年には京都を本拠地とする種苗会社、タキイ種苗が京都府立植物園のオフィシャルパートナーの第1号となった。この制度は、開園90周年を期に始められたもので、同社は新品種や試作品種の試験栽培の他、資金や技術的支援を行っている。今後もぜひ増えてほしいと思う。

京都府立植物園はこれまでも世界有数の園芸組織と連携して様々な事業を行ってきた。いうなれば、世界の貴重な遺伝資源をここで預かっており、また最新の種苗や知識をここで導入、広めていくとても重要な拠点ともいえる。
多くの人々の支援がこれからもこの植物園に集まることを期待したい。

 

※参考

  • 「球根花壇の意匠と植方」京都府立植物園 吉津良恭
    『実際園芸』 第5巻第7号 昭和3(1928)年11月号 誠文堂新光社
  • 『重森三玲 庭を見る心得』
    重森三玲  平凡社 2020年
  • 『日本の植物園:1987』(日本植物園協会創立20周年記念)
    日本植物園協会 1987年
  • 『日本の植物園』
    日本植物園協会編 八坂書房 2015年
  • 一般財団法人「京都園芸倶楽部」HP
    https://kyotoengeiclub1923.jimdofree.com/

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#博物館#旭山動物園#進駐軍#京都園芸倶楽部#ロックガーデン#温室#比叡山#松崎直枝#タキイ種苗

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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