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第115回 臨時東京第三陸軍病院の園芸作業~戦時のリハビリテーション

公開日:2021.4.23

『実際園芸』昭和14年2月号(第25巻第2号)

[発行] 誠文堂新光社
[発行年月日]1939年2月
[入手の難易度]難

参考論文
「昭和十年代の臨時陸軍病院におけるリハビリテーション―傷痍軍人の就労への道―」
上田早記子 2012 (『四天王寺大学紀要』第54号)
※下記サイトからダウンロード可
https://www.shitennoji.ac.jp/ibu/toshokan/kiyou/054.html

スポーツ・ガーデニング

「スポーツ・ガーデニング」という言葉があるかどうか、ネットで検索してみると、意外とそのままの言葉としては検索にヒットしないものだということがわかった。

いよいよ2021年も楽しい草取りのシーズンが始まった。本連載でも第6回第14回の2度も草取りの楽しみについて書いてきた。春の草はやわらかく、触れるだけで楽しくなる。そして、けっこういい運動になるものだ。

草取りする面積と自分の好みと都合によって、「除草剤を散布する」から「手でむしる」まで様々な方法と道具が自由に選べる。
草取りは文化であり娯楽である。そして実際に草を取ってみると「いい運動になる」というのは誰もが実感することだろう。このようなスポーツ性について詳しい研究もあるのだろうが、また別な機会に探索してみたい。

草取りを疲れない程度に適度にやってみると、まずなんといっても背筋が張ってくる感じがする。背筋が鍛えられるということは腹筋もそれなりに使っているだろうから、いわゆる体幹が鍛えられる。あと、立ったりしゃがんだりするので太ももの前後の筋肉とか、いわゆるスクワットで鍛えられる筋肉に良い影響があると思う。

なにより、草取りは「仕事ではない」という状況でやるのがいい。と同時に、まず絶対にやってはいけないのは、「ここからあそこまできれいにしたら終わりにしよう」というふうに決めてしまうことだろう。終わりきるまでやる、途中でやめないと決めてしまうと、体がきつくてもつい、がんばってしまって、結局は強い疲労感が残ることになりがちだ。

だから僕は5分やる、10分やる、というふうに時間を決めてささっとやっている。植えつけなど作業のスケジュールがあるなら、毎日少しずつやるか、10分を1セットにして

時間を変えて3セットやる、5セットやる、というふうにする。また、少しくらいの雨でも休まずにカッパを着てやる、というようなやり方も植物の違った姿が見られて面白いと思う。

さて、今日は園芸を運動機能向上のための手段としてみる、そんな話をしていこうと思う。

図A 見開きのグラビアページ 「武器を鍬に代へて」「鍬を採る白衣の勇士達」(『実際園芸』1939)

臨時東京第三陸軍病院

『実際園芸』昭和14(1939)年2月号の口絵にどこかの大きな農場が紹介されていた。見開き2ページのグラビアで写真以外の記事はなく、これだけである(図A参照)

「武器を鍬に代えて」という題名とともに、「園芸家として新しき職業戦線に立つ為」「鍬を採る白衣の勇士達」「臨時東京第三陸軍病院に於ける職業準備教育」という見出しがつけられている。

[陸軍省医事課・情報部許可済]というクレジットがあるのは、日中戦争が始まってから2年という、この時代を表している。記事に詳しい説明がないのは、軍の関連施設だったためなのかもしれない。
これらの写真を雑誌の誌面で紹介するのも軍による広報活動の一環と考えられる。

さっそく5つの写真をそれぞれ(見開きにわたっている写真はつなぎあわせて)見てみよう(図1~5)。

図1 「農場において鍬を振るう戦傷兵達」  遠くに見える山容は、大山(左端)から丹沢山塊にかけての山々。丹沢の向こう側に富士山があるがここからは見えなかったそうだ。
図2 「温室の外形」 図4の温室の外観。奥に見えるのはバラック造りの病棟などの施設だと思われる。
図3 「薬草園において薬草栽培実習中の戦傷兵達」看板を拡大してみると、「薬用植物見本園/職業輔導部」と書いてあるようにみえる。 ここでは、白い着物のような作業着を身につけている。理由は不明だが、手指に問題がありボタンが留められないのかもしれない。
図4 「温室内の実習」 鉢植えもあるが、手前は「高設」のベッドになっていてメロンのような植物が見える。 腰を曲げなくてもよいつくりになっているようだ。※図6、7参照
図5 「温室内に満たされた熱帯植物や亜熱帯植物」

以上が写真とキャプションのすべてである。
余談になるが、雑誌の写真はスキャナーでパソコンに取り込んで、それを拡大して見ると詳細がよくわかることがある。例えば、スマホで写真を撮って拡大してみたらいろんなものが写り込んでいて驚くといったことは誰でも経験があるだろう。
同じように、生の植物や乾燥標本をスキャナーで画像データにして拡大すると非常に細かな特徴までよく観察することができる。実際、このようなスキャナーで撮影した写真だけで制作された植物図鑑もある。

さて、今回の雑誌写真では、図6~9のような画像が得られた。

図6と7は、図4を拡大したものだが、作業をしている人が「義手」をつけているのがわかる。図6の人はジョーロで水を与えている。右腕が義手である。
図7の人は右手に植物を持ち、左腕に装着した義手を使って台に置いた鉢に植え替えをしようとしているようだ。また、作業者のすぐ後ろ手前の柱のところには「しいたけ」が発生している「ホダ木」のようなものが幾本か立て掛けてあるように見える。

図8と9は、図1を拡大してみた。看板の文字は「蔬菜園」と読める。畑には義手をつけている人や腕一本で鍬をふるっている人がいる。

図6
図7
図8
図9

「病院の街」になった「軍都」相模原

臨時病院というのは、戦場における野戦病院であり、現在のコロナ禍にあっては重症患者のための特別病棟といったものにあたる。現在、すでに1年以上になった「コロナ」の流行当初、中国で昼夜兼行の突貫工事が行われ巨大な臨時病棟ができるのをテレビのニュース映像で面白おかしく見ていたのを思い出す。
日本ではすでに第4波の大流行を迎えているが、病棟不足に対して満足の行く対応がなされているとはとても思えない。

現在の日本はともかく、戦時中は総動員体制の下、軍によって広大な土地を接収し施設を建設することも短期間に着実に実施されていた。
神奈川県の中央部にあたる現在の相模原市は、1936(昭和11)年、陸軍士官学校と練兵場の移転予定地として650haもの大規模な農地・原野の買収計画が実行され、「軍都(軍事都市)」としてその歴史をスタートした。
1937(昭和12)年の陸軍士官学校の移転を皮切りに、翌昭和13年には臨時東京陸軍第三病院と兵器製造所、工科学校、通信学校等の施設が次々と建設された。
戦後は占領軍によって解体され、敷地の大部分が米軍の基地用地(キャンプ座間、相模総合補給廠、相模原住宅地区)として接収された。

臨時東京陸軍第三病院は昭和20年に「国立相模原病院」となり、一般診療を行う国立病院に変わった。現在の正式名称は「独立行政法人国立病院機構・相模原病院」となっている。

戦時中は10万坪の敷地で日本一の面積だったというが、戦後は団地や学校施設に分譲され、戦前のほぼ3分の1の3万坪にまで縮小した(それでも東京ドーム2つ分の面積がある)。
最寄り駅は小田急線「小田急相模原」駅(通称「オダサガ」)で周辺は「病院のある街」として、また東京都内への通勤に便利な街として多くの人口を抱えながら発展し現在にいたる。

新しい「軍都」(士官学校用地)の選定にあたり、いくつかの候補があったというが、面白いのはその選定条件で、
「天皇の行幸に便利であること」
「富士山が眺め得ること」
「飲水その他、士官学校生徒の生活に必要なものが十分であること」
「予算275万円以内」
の4つがあったそうだ。残念ながら、丹沢山塊のために相模原台地から富士山は臨めなかったが、その他は十分にクリアできていたため決定された。

昭和天皇は士官学校の卒業式などに行幸されているが、昭和14(1939)年には病院を訪れ傷病兵を見舞っており、この行幸を記念して建立された記念碑が現在も病院の正面わきにあるという。
天皇が病院を見舞う行幸は日露戦争時における明治天皇の広島陸軍病院以来2度目であり、戦時中唯一の慰問だったというから、当時のこの病院はたいへんに重要視されていたことがわかる。

臨時東京陸軍第三病院は昭和12(1937)年12月から昭和13年にかけて突貫工事が行われ、わずか3ヵ月の短期間で完成、開院となった。

そのため臨時病院の名の通り、建物はバラック建てのシンプルな作りだったわけだが、病院施設の他に2767床の病棟、兵舎など約60棟がひしめくなかに食堂、面会所、娯楽室等が配置され、プール、相撲場、運動場などがあった。この他に、職業準備教育のための温室や畑、薬草園などがあったのである。

戦地で負傷した兵士はどうなるのか

この巨大な臨時東京陸軍第三病院の建設の目的は、傷病兵のリハビリテーションと社会復帰のためだった。傷ついた兵士は戦場へ復帰することができない場合、病院船などで帰国し、必要に応じてさらに治療を受け、「除役」となれば、社会生活へと復帰しなければならない(「再起奉公」という)。

臨時病院が建設されることによって、戦地の病床を開けることと傷痍軍人をいきなり社会へと放り出さないような配慮が実現できた。退役軍人には恩給が支給されたが、傷痍軍人が恩給のみに頼って無為な生活を送ることがないように手当をする必要があったという。

臨時東京陸軍第三病院は治療と訓練を必要とする患者、4,500人を上限に受け入れる計画だったが常時5,000人の収容者がおり、記録では6,000人を超えたこともあったという。
しかし、職員約2,200名のうち看護師は5、6名しかいなかった。つまり、日常生活のほとんどを自分でできる患者がほとんどであったようだ。

実際、戦地で負傷した兵士はどのような扱いを受けていたのだろうか。

上田早記子(2012)によると、次のような順序で治療が行われていた。

(戦地の)衛生隊野戦病院野戦予備病院兵站病院戦地軍病院(病院船などで搬送され)内地軍病院、陸軍軍医病院などの衛生機関除隊、社会復帰

というふうに、前線から後方へと送られていった。

戦地で負傷した場合、重傷でなかったとしても、治ったからすぐに最前線で戦えるかというとそうではない。治療が終わっても気力と体力を取り戻す準備の期間が必要だった。
また、重傷者の場合は、リハビリや職業訓練を受けた後に社会復帰が求められるため、先に述べたように治療以外にリハビリ専門の医療施設が必要だったのである。

現在、ひとくちにリハビリテーションというと、「理学療法」と「作業療法」があり、それぞれに理学療法士、作業療法士という専門の職業資格がある。
理学療法は、「立ち上がる」、「起きる」、「歩く」、「寝返る」など、基本動作のリハビリテーションを行い、作業療法では、「顔を洗う」「食事をする」「料理をする」「字を書く」等の生活する上で必要不可欠な動作や応用的動作のリハビリを行っている(作業療法には精神分野のリハビリも含まれている)。

戦前、戦時中の臨時病院の役割は、こうしたリハビリに加えて「職業斡旋(職業紹介)」までカバーしていた。現在のリハビリ病院に「ハローワーク」が一緒になった施設というふうなイメージだ。体力増強と職業訓練を受けた患者は退院にあたって個別面接を受けてそれぞれの道を歩んでいった。

傷痍軍人、水木しげるの場合

「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるは、現・パプアニューギニアのニューブリテン島、ラバウルに送られ、転戦するなかで敵の攻撃に遭い左腕を失う大怪我を負った。結局、掘っ立て小屋のような救護室で麻酔もせずに肩近くから骨を削り切断された。
現地では「戦争の役に立たない兵隊たちは、どこかにまとめて捨てられるんだ」「殺されるのかもしれない」と傷病兵同士で話し合っていたそうだが、1945(昭和20)年の初め頃、無事に後方のナマレという地につくられた野戦病院に移ることができた。

ここは、軽作業ができる傷病兵を収容する施設で、掃除や炊事の他、畑仕事などもやっていた。
この療養期間に水木はスケッチをしたり現地の住民と親しくなったりする。終戦も現地で迎えたが、このまま島に残って暮らそうと本気で思っていたという。最終的には軍医のすすめもあって7年ぶりに帰国することになった。
しばらくガゼル岬のキャンプに留め置かれたのち、半年後の1946(昭和21)年3月、ようやく帰国がかなった。水木は駆逐艦「雪風」で浦賀港(神奈川県横須賀市)に入り、そのまま国立相模原病院(旧・臨時東京陸軍第三病院)に入院した。

「戦地で応急手当てを施した左腕からのぞいている骨に肉と皮をかぶせ、もう一度きちんと手当し直す必要があったのだ」(水木しげる『水木さんの幸福論』2007)。

当時(終戦直後)の相模原病院は、医者も薬も医療器具も足りず、なかなか手術が受けられなかったそうだ。それでいったん故郷の境港に帰ることとし、ようやく父母と再会できた。
母親は息子の左腕をさすって「ずいぶん短いなあ」と言った。父は「おまえはもともと無精者で、両手を使うところを片手でやっていたんだから、一本で大丈夫だろう」と「変な慰め方」をしてくれたそうだ。

結局、手術が受けられたのは1年後だった。病院の食事の主役はトウモロコシの粉を固めて作ったパンで、まずい上にものすごく固かったという。お腹がすくので、何度も病院から抜け出して仲間と闇市に買い出しに行ったり、職業訓練のための授産所跡に作られた染め物工場で下絵を描いたりしていたそうだ。
水木しげるは退院後も傷痍軍人関連団体の人々と知り合い、様々な仕事をしながらこの混乱期を生き抜き、自分の絵の才能を活かせる画家への道を進んでいった。

「園芸療法」は戦後に発達

ここまで見てきたように、戦前の臨時東京陸軍第三病院は、現在のリハビリテーション専門病院であったわけだが、傷痍軍人に対する機能検査、後治療、体力増強といった取り組みだけでなく、職業準備教育、訓練および職業紹介までも一貫して行っていた。

職業訓練では、珠算簿記、温室作業、薬草園作業、ミシン作業、札勘定、手旗通信、タイプライターなどがあり、義手をつけての習字や農作業も行われていた。無教育の患者のために普通教育や職業常識教育といった知的教育も行われていたという。患者は職業相談ののちに仕事を紹介され各地に雇用されていった。

戦後の陸海軍病院は国立病院として引き継がれ、診療や入院は傷痍軍人とその家族に限定されなくなった。
同時に、サービスは医療行為のみとなり、職業訓練や紹介といった業務は切り離されることになる。

この当時、訓練が必要な障害者は全国に50万人も存在しており、戦後も引き続きケアが求められた。そこで、国は1949(昭和24)年に「国立身体障害者更生指導所設置法」「身体障害者福祉法」を制定し、対応していくことになる。先ほどの水木しげるの場合は、ちょうどこれらの法律ができる前の混乱期の事例だとわかる。

戦時中の臨時東京陸軍第三病院は戦後に「国立相模原病院」となったが、同時に一部が「国立身体障害者更生指導所」としても使われており、医師や職員が兼任するなど戦前と戦後は密接につながっている。
当初は職業指導も継続したいところだったが、結果的には傷痍軍人対策で蓄積された能力を持った職員、機器、訓練のノウハウなどは、戦後に厚生省から分科した「労働省」の国立身体障害者更生指導所へと引き継がれた。

植物や園芸が人間に与えてくれる恩恵は大きく、多様だ。日本では戦前から傷痍軍人のリハビリと社会復帰のために園芸活動が利用されてきたのだった。
こうした活動は日本だけのことではないし、また作業療法のひとつにとどまることもなく、現在では「園芸療法」として広く知られ、実践されている。

グロッセ世津子の『園芸療法』によると、その歴史は新世界アメリカが始まりだという。

18世紀には、精神病患者や精神薄弱者を保護する施設で、自給自足や患者の日課を目的にした農作業が治療効果にもつながることが認められていた(草創期)。
こうした取り組みは一時衰退するのだが、アメリカでは第二次世界大戦後の傷痍軍人(身体障害者)のリハビリや職業訓練への導入から広がりを見せ、園芸作業を応用した治療効果についての科学的な分析と実践から治療法として再評価されるようになる。大学で園芸療法士の養成も始まった(変革期)。
1970年代になるとアメリカやイギリスで専門機関が誕生し、精神病患者や障害者の治療だけでなく老人や子供を含むより多くの人々や社会的な活動、生活の質の向上といった目的にも応用されるようになっていく(成長期)。
その後の世界的な広がりとガーデニングや園芸活動の社会的意義が深まるにつれて、「人間の幸福と社会の発展に対する園芸の役割」に関する研究も盛んに行われるようになっている。

国連が掲げるSDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)の時代にあって、人権や健康・福祉、教育、質の高い生活やバリアフリーで安心して暮らせる街作りであるとか、環境、生物多様性といった様々な目標に対して園芸やガーデニングは大きな武器になるはずだ。しかも、僕らの先輩たちはそれぞれの持ち場で営々としてそれをやってきたのだ。
大きなことでなくていい、自分でできることが何かあるはずだ。今日は見開き1枚の記事から論文を読み、歴史をたどりながら、いろいろなことを教えてもらったような気がする。

参考

検索ワード

#リハビリテーション#理学療法#作業療法#相模原#職業訓練#傷痍軍人#水木しげる#園芸療法

プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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