農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第116回 「母の日」という新しい〈もの日〉の誕生~創設者、アンナ・ジャービスと花業界(前編)

公開日:2021.4.30

『Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the struggle for the control of Mother’s Day』
(『母性への追悼 アンナ・ジャービスと母の日の支配権をめぐる争い』)

[著者]Katharine Lane Antolini(キャサリン・レイン・アントリーニ)
[発行]West Virginia University Press(ウェストバージニア大学出版局)
[発行年月日]2014年
[入手の難易度]易(電子版あり)

歴史は、生きている人間によって作られるのだな、と思う。当たり前の話だけれど、若くしてたいへんな才能や技術を持った人も、死んでしまえばそれきりだ。

僕たちはこの連載で園芸の近現代史を見てきているんだけれど、明治から昭和戦前というのは、《戦争の時代》だった。「国民皆兵」、20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受けることになっていた。
園芸家や花屋のなかにも一度ならず二度、三度と戦地へ出かけ、無事に帰って来た人もいるけれど、帰ってこられなかった人も少なくなかっただろう。

その一方で、ちょうど戦争が起こる時にすでに徴兵の年齢を超えていた人、あるいは北米などに留学していた人がいる。また、幼い頃から病弱であるとか、重い病にかかっていて検査に落ちた人たちも少なくない。なかには、第80回で紹介した田代安定のように身長が低くて希望する陸軍学校に入学できなかったという例もある。

上流階級の子弟は戦地へ送られる割合が少なかったともいわれているが、いろいろな園芸家の歴史を見ると、若い頃に病気をして、園芸の道に進んだ人は本当に多かったように思える。(関連:本連載第59回
きっかけは病気になったから、あるいは、身体が弱くて親が「園芸でもやらせようか」と勧めたことに始まって、やがて「園芸をやったおかげで」元気になり、長生きをし、名を残した人も枚挙にいとまがないほどだ。
一人ひとりにその人の人生があり、運命があって、いろいろだなと思う。

前回、「戦争とケガ」について触れたが、いろいろ思い出すことがあった。一時期、戦争の痛みを知りたくて戦争映画ばかりネットレンタルして集中して数多く見続けていたことがある。
そのなかで印象に残っている作品が「ハクソーリッジ」だ。これは、映画館でも見た。この映画に関連して「リンカーン」と「プライベート・ライアン」も心に残る。

「ハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge)」は、実話をもとにした2016年の作品だった。モデルになったのは、太平洋戦争末期の沖縄戦で衛生兵として従軍し、激戦のなかから数多くの傷兵を救い出した衛生兵、デズモンド・ドスという人物だ。
「ハクソー・リッジ(弓ノコギリの崖)」とは、沖縄戦において「前田高地」と呼ばれた日本軍の陣地で、急峻な崖地が難攻不落、天然の要塞となっており、日本と連合国両軍の激戦地となった土地の名前。

デズモンド・ドスはセブンスデー・アドベンチスト教会の敬虔な信徒であり、信教上、徹底して銃を持つことを拒否した。従軍を希望しながら、銃を取らないというのだからたいへんな問題となる。軍法会議にかけられるが、結局、その強い意思が認められ衛生兵として沖縄に派遣されることになった。
結果、その大きな功績によって「良心的兵役拒否者(Conscientious objector)」でありながら初めて名誉勲章が与えられている。

この話は凄惨な戦闘シーンで忘れられないのだが、物語を振り返ってみると、第一次大戦でヨーロッパに赴き、悲惨な経験をした父親の存在もたいへんに重要で、前半のヤマ場をつくっていた。
ドスの父親は勇敢な兵士として勲章をもらうほどだったが、その心を深く傷つけられていた。除隊した後、今でいうPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状で酒に溺れるようになり、働かないダメな男として家族に暗い影をもたらしていた。

「プライベート・ライアン」(1998年)と「リンカーン」(2012年)は、どちらもスティーヴン・スピルバーグ監督作品だった。

「リンカーン」で描かれる戦争は1861年から1865年に起きたアメリカ史上最大の内戦(「南北戦争」)で、同じ国の人間が〈青色の軍服〉を着た北軍と〈グレーの服〉を着た南軍に分かれて殺し合った。民間人を含む62万人が亡くなっており、この数字はアメリカ史上最大の戦死者数となっている。
ところが現在のコロナ禍において、アメリカの死者数はすでに50万人を超えており「南北戦争以来の災禍」といわれている。

映画のなかでは、たくさんの傷兵が治療を受ける野戦病院が描かれ、病棟の裏手にリヤカーで運ばれた多数の手足が穴に投げ捨てられるシーンが描かれていた。これほど多くの人命が失われたため、戦没者を埋葬するために国立の広い墓地がつくられ、戦後、5月の末日を追悼の日と定めた。
これが現在の「戦没将兵追悼記念日 Memorial Day」である。この日は半旗を掲げ、多くの人が墓地を訪ね、花を手向ける、あるいは黙祷を行う。墓地がたくさんの花で飾られ、「デコレーションデー」とも呼ばれるように花が大量に使われる祭日となっている(5月は「母の日」もあり、花がたくさん使われる月である)。

「プライベート・ライアン」は、第二次世界大戦時のノルマンディー上陸作戦を舞台に、1人の若い二等兵=Privateの救出に命をかける兵士たちの物語だった。
欧州戦線に参加し、多大な被害を出しながらノルマンディー上陸作戦を成功させたアメリカ軍だったが、ドイツ国防軍の激しい反撃にさらされていた。そんななか、ミラー大尉(トム・ハンクス)が率いる精鋭の特殊部隊に対して、二等兵、ライアン(マット・デイモン)の救出命令が、ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長直々に下される。
最終的にこのミッションは達成され、ライアンは無事に帰還できた。ただ、この救出作戦には、ミラーを含む8人の命の代償が必要だった。

この映画でいちばん理不尽なのは、参謀総長がライアン家四兄弟の末弟を救うように命じたところだった。
参謀総長は、一人の母親から、4人の息子のうち3人まで戦死させ、残りの一人も行方不明になったという手紙を受け取り、なんとしてもこの一人を救い出して母親を慰めることを決意するのだが、この話は南北戦争時のリンカーンの思いにつながっていた。
凄惨を極めた南北戦争時に5人の息子全員を戦死させた一人の母親に宛てて、リンカーンは哀切に満ちた慰めの手紙を出しており、そのエピソードを語る参謀総長のシーンはこの映画の最も重要な場面になっている。

この手紙の挿話によって、愛する息子たちを犠牲にした母親にとって子供は生きる希望であり光であることが示され、ミラー大尉たちもライアンを救うことで自分たちは誇らしく国に帰れるのだと考えるようになっていく。ライアンの生存は、ただ殺し合う戦場にあって唯一の「善」であり、自らを託すべき「未来」なのだった。
やがて映画を観る私たちもまた自分が無名の戦没兵に守られた「ライアン」であり、その家族の一人なのだとわかってくる。私たちは無数のミラー大尉に守られて今、ここに生きている。

ラストシーンでは年老いたライアンがメモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)に、妻や孫たちと墓地に参拝する姿が描かれている。ライアンは「私はあの人が望むように生きてこれただろうか」とつぶやくように妻に尋ねた。

戦争は敵味方問わず、常に膨大な量の不幸を生み出す。戦地に放り出された誰かの「子供たち」の犠牲によって母親、家族、ひいては国家が守られ、生き残った人たちによって存続していくのだ。

今日は、母の日の創設者、アンナ・ジャービス(1864-1948)の話をしたいと思う。この話も、とてもつらい内容であり、また南北戦争から第一次世界大戦にかけての長い歴史と深く関わっている。
以下、『Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the struggle for the control of Mother’s Day』というアメリカで2014年に発行された本を、翻訳サイト「DeepL」を使いながら参照した。

図1 よく知られるAnna Jarvis(1864-1948)晩年の73歳頃の肖像。1938年5月、『タイム』誌はジャービスのこの写真を掲載し、彼女の常軌を逸した行動とひきこもり生活についてスキャンダラスに取り上げた。

5月第2日曜日が「母の日」になるまで

現在、日本における「母の日(Mother’s Day)」は、アメリカなどと同じく「5月の第2日曜日(The Second Sunday in May)」になっている。今年は1908年の最初の式典から113年目、記念日制定からは107年目にあたる。
概略は次のようになる。

  • アン・リーブス・ジャービス(Ann Reeves Jarvis)という一人の女性がいた。
    ウェストバージニア州にある教会の運営に携わり、南北戦争中、それ以前から「母の日の仕事クラブ(Mothers’ Day Work Clubs)」の活動で地域の女性をまとめていたが、戦争が始まってからもそれを継続し、敵味方問わず負傷兵の世話と衛生状態を改善する活動を精力的に行った。
    成人したのはわずか4人だったが、13人の子供を生み育てた強い女性だった。
  • アン・リーブス・ジャービスが亡くなって3年後の1908年5月10日に、その娘であるアンナ・ジャーヴィス(当時44歳)の呼びかけにより、ウェストバージニアのグラフトンで自分の母とすべての母親を讃える記念式(アメリカにおける母の日運動の最初の式典)が開催された。
    教会には、かつてアン・リーブスが教えていた日曜学校の教え子や関係者約400人が集まった。
    アンナはグラフトンの式典には参加していないが、祝電を打ち、母親が好きだった白いカーネーション500本を贈っている。ここから後に、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。

アンナ・ジャービスは、公立学校の教師から保険会社に転職し、会社では女性初の文芸・広告編集者を務めたキャリア・ウーマンだった。
1912年には会社をやめて「母の日国際協会(MDIA)」を設立した。

  • 同じこの日、フィラデルフィアでは、知人の「百貨店王」、ジョン・ワナメーカーの協力で、彼の持つワナメーカーストアの施設で母の日の礼拝が行われ、1万5000人が参加した。アンナ・ジャービスはこちらに登場し、午後の礼拝で1時間以上も演説したという。
    その後、アンナ・ジャービスは「母の日」を国全体の祝日にする運動を始めた。早くも翌年には42州で母の日が祝われるようになった。
  • 1914年に米国連邦議会は「母の日」を正式に決議し、第28代大統領、ウッドロー・ウィルソンが「母の日宣言」に署名して、5月の第2日曜日は「母の日」として正式にアメリカの記念日となった。
  • 19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、アメリカは移民の増加や都市化、産業化といった社会の変化、政治経済の変動期にあって、「祝日の制定」は社会問題の解決や国民の意識をひとつにする効果があったという。
    その最初が1863年のリンカーンによる感謝祭の宣言であり、1914年の「母の日」宣言だった。その後も新しい祝日の制定と、その時の大統領による宣言はセットになって実施されていった。
  • 『Memorializing Motherhood』には、日本でも1911(明治44)年には母の日が紹介されていた、と書かれているが、詳細は不明。
    戦前には森永製菓が母の日のキャンペーンを行っているが、本格的に拡がるのは、戦後になってからである。

昭和3年「マザースデーの話」

この「母の日」に関して、昭和3(1928)年の『実際園芸』第4巻第5号「特集・副業園芸号」「園芸家の忘れてはならぬ/母への感謝の日」/マザースデーの話」という記事がある。
執筆したのは、日本のフラワーデザイナーの先駆け、恩地剛(おんちつよし)である。恩地剛については本連載110回でも紹介している。

恩地は、明治の終わり頃から大正の初めにかけて10年程アメリカのハーバード大学へ留学し、園芸と花き装飾を学んでいる。
しかしながら、「母の日」運動が始まる最初の動きをキャッチしていた様子はなく、記事には「的確な創案年代および国祭日として編入された年代等がわからない」と書かれている。

ただ、帰国後も海外の園芸情報に関心を持って情報を取っていたのではないだろうか。この記事でもこの祭典が

「特に花との関係が非常に深いものですから、私は、我が国園芸業者諸君のために、ご参考に供え、また一方には、こうした善良な流行を、我が国にも採用したいものだと思いまして、2、3種の雑誌を参考にして」

紹介することにしたと述べている。掲載された写真のなかに「今年の母の日は5月8日(日)ですよ」というような文字が見えることから調べると、前年(1927年)の母の日の結果に関する最新の記事を参照しているようだ。
ちなみに恩地はキリスト教を信仰しており、花の利用と教会の関連行事の両方に関心があったのかもしれない。

本文の内容は「マザースデー」の由来、目的と内容、贈り物に花が使われるために、花店が盛況になっていること、亡き母の墓参も盛んであることなどである。よく利用される花の種類についても触れている(図2~4)

「マザース・デー」は最近アメリカ合衆国で独創されたもので「母への感謝を記念する日」

最初は極めて微々たる、個人的の祭典であったが、今日では米国全州から欧州にも普及し、クリスマス、イースターに次ぐ盛大な記念祝典または祭典となっている

最初の創案実行者はフィラデルフィア州の「アンナ・ジャービス嬢」である(アンナ・ジャービスは創案時、すでに44歳。生涯独身であったためMiss、を嬢と訳していると思われる)

(アンナは)毎年5月の第2日曜日、母の愛する教会に母の最愛の純白色のカーネーションを装飾し、日曜学校の子供たちや、自分の友人、知己、教会の仲間を招いて、賛美歌「母を慕う」を合唱し、来会者一同には胸に純白のカーネーションを飾ってもらうことにし、彼女の心からの愛慕をその母に捧げた。
これが驚くべき努力によってまたたく間に全米に流行し国祭日になった

わたくしは、やがてこの流行は、我が国にも渡来しかつ歓迎されるものと信ずるものであります

図2(クリックして拡大)
図3(クリックして拡大)
図4(クリックして拡大)

恩地剛はこの記事のなかで、「母の日」は花店にとって、とても有望な販売機会になっていることを詳しく書いている。最初の母の日の礼拝から20年経っている。
この当時、アメリカの花店では2週間前からショーウインドウを飾り付けて告知をし、着々と準備をする。贈答用には切り花のバスケットやボックスフラワー、あるいは鉢物や寄せ植え、寄せ籠など、ほぼ現在と同じようなジャンルの商品が展開されている。
現在、日本でも「母の日参り」という言葉が広まりつつあるが、アメリカでは当初から、亡き母も含めての祭日であって、お墓参りの用途も多かった。

母の日の花といえばカーネーションだが、最初は白いカーネーションだけであったものが、年々高価となり、需要に供給が追いつかなくなっており、「母の愛する花」「愛していた花」を贈ろうというふうに広義に解釈され、最終的には、「すべての花は美しい、誰でも好愛する」というふうに、きわめて自由にあらゆる花が用いられるようになっている、と報告されている。
鉢物の種類としてはワスレナグサを筆頭に、ゼラニウム、フューシャ(フクシア)、ベゴニア、プリムローズ(プリムラ)、パンジー、デージーの他、ゴム樹、シダ類なども多数使用されている、とし、ランブラーバラ(つるバラ)や各種のカルセオラリア、西洋アジサイなども人気があると記している。

新しい「もの日」誕生に沸く花業界

 「母の日といえばカーネーション」という組み合わせが始まったのは、アンナ・ジャービスが最初の礼拝を実行した1908年に500本の白いカーネーションを使ったところからだ、ということなのだが、500本というと、個人が購入するにはけっこうな量ではある。
アンナが母の日の公式シンボルに白いカーネーションを選んだ理由は、母親が好きだったからだが、1927年のインタビューでは、次のように答えており、彼女のカーネーションについてのイメージがわかる。
彼女は花を見て自分の母親を思い出すだけでなく、カーネーションが生きて死ぬ姿は、母親の愛の象徴でもあると説明した。

「カーネーションは花びらを散らすことなく、胸に抱きしめて枯れていきますが、それと同じように、母親は我が子を胸に抱きしめ、その母性愛は決して枯れることはないのです」。

アンナ・ジャービスはとても優秀な人物だったようで、ビジネスの世界でも頭角を現し、その有能さが垣間見えるのだが、「母の日」制定に向けてもその力はしっかりと発揮された。
自らが提案する「母の日」をアメリカ全体の記念日として正式に採用するように運動を始めて数年、政財界の有力者をはじめ、いろいろな組織に協力をお願いしながら広めていった(電話はすでに実用化していたが、アンナは「手紙」を使い、熱意を込めて粘り強く訴えかけた)。
ところが、この白いカーネーションは母の日運動が拡がるにつれて品不足になっていく。これは現在の「もの日」とまったく同じだ。

当初からアンナの活動に理解を示しビジネスチャンスと考えた花業界は、白いカーネーションの代わりに「亡き母の思い出には白い花を、お元気なお母さんには明るい色の花を贈りましょう」という代案を考え出した。
図5は、1911年の週刊『The Florist’s Review』の母の日特集に掲載された「広告の事例」。初めての母の日からわずか3年後には、すでにこの代案が掲載され、こうした広告をお手本に、地元のメディアで告知するように勧めている。記事では、当初の困惑を次のように記している。

母の日は3年前に始まりました。この記念日は好調なスタートを切り、このまま世論のゆっくりとした発展を待つことに満足していれば、いつかは三大花の日(おそらく当時は12月のクリスマス、3月のイースター、5月末のメモリアルデー)のような重要性を持つようになるかもしれません。

しかし、なぜあなたはそれをただ待っているのですか? 広告を出して積極的に成長させればいいのではないでしょうか。
みんなで協力しましょう。「5月第2日曜日の母の日」くらい花屋さんに幸運が訪れることはめったにありません。しかも母の日のきっかけとなった「(亡き母とすべての母親を讃えたいという)思い」が、近年では他に類を見ないほどアメリカ国民にアピールしているという事実があります。

しかし、花屋はその人気に頼るばかりでいいのでしょうか。私たちはこれを機会ととらえ、この年に一度のイベントの目的を一般の人々に知ってもらうために最大限の努力をすべきです。
その目的とは「あなた自身のいちばん大事な母親を讃えること」です。これを一般の人々に最大限に伝えるべきです。

母の日はまだ3年しか経っていませんが、昨年は、関心を高める努力をしたすべての花屋に多くのビジネスをもたらしましたし、他の人が関心を高めてくれるのをじっと待っているだけの花屋もありました。
今年は皆で協力して、この新しい花の日を業界の特別な日のトップに押し上げようではありませんか。それには様々な方法がありますが、まず、価格を上げるという方法はありません。どちらかといえば、価格を下げるべきでしょう。

図5 最初の母の日の礼拝から3年目、1911年の広告事例。「お母さんのために花を胸につけましょう~あなた自身のいちばん大事な母親に敬意を表したい。それが母の日の目的です」「5月13日(土)、14日(日)の両日、母の日にふさわしい上質で新鮮な花々を豊富に取り揃え、いつものお手頃価格でご提供いたします。すべてのお客様に迅速にサービスを提供いたします。サンデースクール、ロッジなどには特別料金をご用意しております。ポージー&ブロッサム」(1911年4月27日号)

このような、社説的な解説のあとに、全米各地の花屋さんのレポートがいくつか取り上げられている。
そこでは、いきなり始まった「もの日」に花屋さんがうれしい悲鳴をあげている様子も見えてくる。

「母の日」の物語

1908年に全米で散発的に始まった(1911年の記事です)「母の日」。それまで誰も聞いたことがなかったので、花屋は驚き、多くの人が、我が『The Review』に情報を求めてきました。
しかし、このときの問い合わせは、その後のシーズン、特に今年に寄せられた質問や提案に比べれば、たいしたことではなく、関心の高まりを感じさせるだけのものでした。

その最初の年(1908年)、『The Review』が「母の日」の起源をたどり、その意味を探ろうとしたのですが、意外にも、それは簡単なことではありませんでした。「婦人クラブ連合会」に尋ねたところ、自分たちの関与を否定した上で、「私たちの方に母の日の記録はありませんが、そのアイデアはとても素晴らしいですね」と答え「次回の年次総会で注意を喚起したいと思います。」とつけくわえました。

さらにこの日の創始者を探していくと、最終的に、シカゴの日刊紙の編集者を通じて、フィラデルフィアの北12番街2031番地に住むミス・アンナ・ジャービスに行き着きました。
彼女は、母親の命日を記念したいという思いから、このアイデアを思いついたのだといいます。彼女は、母の墓に花を供えようと思っただけでなく、ある日、母の子供たちが白い花を身につけるというシンプルな方法で団結すれば、生きている人も死んだ人も、すべての母に対する美しい賛辞になるのではないかと思いついたのです。彼女はこのことをフィラデルフィアの新聞に手紙で書きました。
こうした運動をきっかけに、国中のあちこちで「母の日」が始まったのです。

特別な花は必要ない

ミス・ジャービスは母の日にふさわしい花として、白いカーネーションを提案しました。
「その白さは清らかさを、その形は美しさを、その香りは優しさを表しています」。

このページに掲載されている広告(図5)は、昨年本誌『The Review』が提案したもので、何十人もの読者が利用して実際に効果を上げています。
強力な広告を出すことは、準備された地面に良い種子を植えることです。編集者の協力を得て、仕事を進めていきましょう。母の日のカードを、きれいな文字で窓に飾ってください。お客様に母の日の話をしてみましょう。それから、女性クラブ、教会、Y.M.C.A. 、友愛会など、好きなところに行けばいいのです。
このアイデアはすべての階級にアピールすることができます。あなたの街の市長に、最初の母の日に出されたのと同じような宣言を出してもらってはどうでしょうか。

「母の日」最初の2年間に花屋が取り組んだこと

(この新しい「もの日」の可能性に気づいた花屋は「母の日」の実施に動き出した。その結果、最初の2年で)全米でその気持ちが人々に伝わったのか、白いカーネーションの供給が間に合わず、『The Review』』誌は、亡くなった母親には白い花を、生きている母親には明るい花を身につけることを提案しました。この提案は、自分の考えに手を加えられることを好まないジャービス女史の賛同を得られませんでしたが、母の日の発展を継続させるためには、この方法しかありません。白いカーネーションで母の日を制限するのは、愚の骨頂です。

花屋にできることはどんなことがあるか(以下要約)

すべての花屋は、母の日の普及に貢献することができ、またそうすべきです。それには様々な方法があります。例えば、ネブラスカ州リンカーン市では、市長室の名において「母の日」の宣言を出すことに成功しました。 これにより、次の「母の日」には、リンカーン市のすべての男性、すべての少年、そしてこの地域のすべての訪問者は、その日に母親を称えて花を身につけることが提案されました。また、家庭の病人や病院の病人、公的機関や宗派の施設の孤児に花を贈る特別な機会とします。他の価値ある運動と同様に、リンカーンが率先して、この美しい都市に母の日を定着させることに成功することで、将来的には他の都市も倣うようになるでしょう。

自分のお店の「引き」が十分でないと思うなら

自分の花店のアピールが弱いと思うなら、有力な牧師に協力してもらうといい。恥ずかしがらないでください。「主は自らを助ける者を助けて下さる」です。
それにそもそも、これは良いアイデアだし、彼らは皆それを喜んで受け入れてくれるでしょう。

去年(1910年)の事例

昨年の4月21日と28日に発行された『The Review』では、「母の日」に注目し、このアイデアを支援することが望ましいと指摘していた。また、それを実現するためのいくつかの方法も紹介した。
これに対して、かなりの数の人が、意志を持って自分の役割を果たし、興味深いことに、行動した彼らはみな良い結果を得た。
彼等の報告は次のように記されている。

【ウィスコンシン州ケノーシャ市】

私は市長に会いに行き、市長は母の日の宣言を発表し、そのなかで「母の記憶のために白い花を、生きている母には明るい花を身につけること」を推奨しました。また、町のほとんどすべての牧師のところにも行きましたが、皆、母の日について好意的な反応でした。
さて、ビジネスの話ですが、ケノーシャの花屋はどこも大量に仕入れていたのですが、午後2時にはすべての花がなくなってしまいました。ほんとうなら、もっと売ることができたはずです。白と同様に色つきのカーネーションも売れました。

【ワシントン州シアトル】

『The Review』の提案を受けて、私たちは母の日の話題を取り上げました。
まず有力紙に社説を掲載してもらい、それに続いて『The Review』が提案した母の日にふさわしい花の広告をほぼそのまま掲載しました。新聞は1ページを割いて、この新しい習慣の高まりを紹介し、アンナ・ジャービスさんと彼女の母親の写真や、私たちの店の装飾の一部を載せて、ジャービスさんを讃えました。新聞の漫画家たちも、この声を大きくするために協力してくれました。
私たちは、嘘ではなく、土曜日も日曜日もまさに完売したということができて、とても嬉しいです。この習慣は見事に受け入れられ、今では「母の日」は毎年恒例の(カレンダーの)祝祭日リストに入っています。貴誌のおかげです。

【マサチューセッツ州マールボロ】

私たちがこのプロジェクトに取り組んだのは今年で2回目ですが、私たちの努力が報われたと感じています。
昨年は、人々がこのアイデアを好意的に受け止め、その日のための花の販売は私たちの予想を超えていましたが、今年はより一般的に知られているように思われたので、より多くの広告を出したところ、需要はさらに私たちの予想以上でした。貴誌の提案どおりにしてよかったと思いました。

(花の仕入れ値は高騰しており)その日はいつもより多くの卸値を支払わなければなりませんでしたが、「母の思い出には白い花を、生きている母には明るい花を」という貴誌の提案どおりに、お客様には値上げをせずに、ピンクを1本5セントで販売しました
私たちは、この日が人気の出る日だと手応えを感じています。

【ペンシルバニア州マッキースポート】

記事を読み、この問題を市長や主要な牧師たちに訴えました。
その結果、市長はすべての市民にこの日を守り、花を身につけるように促す宣言を発表し、新聞では、花屋は大きな需要に備えて十分に準備しており、値上げはしないと報じられました
もしも、すべての花屋がこのような方法でこの日を適切に宣伝すれば、この日が特別な花の日(もの日)の第一位にランクづけされるのにそう時間はかからないでしょう。

【オンタリオ州トロント(カナダ)】

私たちは切り花の小売りをしていますが「母の日」の活動はこの街にふさわしいものでした。しかし残念ながら、この日のカーネーションの需要を満たすだけの量は手に入りませんでした。
トロントの日刊紙は金曜日と土曜日に、「母の思い出には白い花を、生きている母には明るい花を」と題し、母の日の日曜日には花を身につけるべきだと発表しましたが、すべての色のカーネーションが売られ、カーネーションに関するものはすべて完売しました。
この日はイースターよりも良い日になることが約束されていると思います。

【オハイオ州ニューカッスル】

「母の日」のビジネスは驚くほど好調でした。カーネーションを使い果たしたので、ゼラニウムや他の花を使いました。教会の日曜学校の委員会は、花を求めて何マイルもかけてやってきました。白や色のついた花ならなんとか手に入ります。
ある学校では、ゼラニウムの鉢植えを持ってきてメンバーにプレゼントしていました。他の学校では、家族がお母さんの周りに集まり花を持ってきて、テーブルを囲んでいました。
来年はもっと早い時期に広報することを提案したいと思います。また、「母の日」には1年のうちで最も多くの花が売れるようになると確信しています。

【アーカンソー州テクサーカナ】

『The Review』誌の提案を受けて、私たちの地方紙と周辺の町の新聞に、次のような見出しの広告を掲載しました。
「CARNATIONS。母の日は5月8日(日)です。お母様を偲んで白いカーネーションを、ご存命であればお母様に敬意を表してピンクのカーネーションを身につけましょう。
「カーネーションを贈りましょう。
マジェスティック・フローラル社、ヴァイン・ストリート310番地。」
これが功を奏したので、他の小売店の花屋さんにも参考になるのではないかと思っています。もし違いがあるとすれば、私たちの店の場合は、ピンクの需要が白よりも大きかったのではないかと考えています。

【ノースダコタ州マイノット】

まずは、「母の日」を盛り上げてくれたことに感謝したいと思います。あの日、2〜300本のバラとカーネーションを通常価格で販売しましたが、注文したのに届かなかった500本のカーネーションをどこかの卸売業者が提供してくれれば、もっと売れたかもしれません。
「母の日」は、切り花にとってイースターよりも良い「もの日」になると思います。

【イリノイ州バーリントン】

母の日の広告についての貴誌でのあなたの提案を受けて、私は忙しいなか、地元の新聞に広告を掲載しました。
その結果、1つの日曜学校に325本の白いカーネーションを販売し、Grand Army of the Republic(G.A.R.)=南北戦争従軍軍人会にも提供し、その他にもその日に用意していた花を使い切るほどの注文を受けました。
広告を出すことはお金になる(売り上げにつながる)。

【アラバマ州メイソンシティ】

「母の日」に関連して一言だけ。花屋にとって最も収益性の高いこの日を普及させた最大の要因は『The Review』であると理解しています。地元で貴誌の提案どおりに取り組んできましたが、見事に成功しました。

まとめ [今こそ、あなたの役割を果たそう Do Your Part Now]

「母の日」を社会に広めようとする仕事は、1908年にこのアイデアを発表したジャービスさんが考える以上に、大きく膨れ上がっています。
その一方で、仕事が増えれば、増えるだけ郵便代、印刷代、事務作業など、多額の費用がかかることは間違いありません。このような仕事は、すべてジャービスさん個人にかかってきており、その費用も彼女が自ら負担しています。
ジャービスさんは組織に支えられているわけではないので、いつ関心が薄れたり、方向転換したりするかわかりません。「母の日」によって得るものが多いフローリストは、この仕事を後押しすべきではありませんか。私たちは、今、それを行動に移すべきだと思います。

「母の日」から生まれた有名なスローガン

アンナ・ジャービスの精力的な宣伝活動と「母の日」のシンボルとなった花を供給する花業界の援護もあって、「母の日」は、驚くほど短期間に全米で知られる記念日となった。その結果、1914年にはアメリカの正式な記念日として制定される。
そして当初から推察されていたように「母の日」はクリスマスに次いで売り上げの多い花屋の「もの日」となっていく。

アメリカの正式な祝日としてカレンダーに載るようになってから4年後の1918年、「アメリカ花屋協会 The Society of American Florists」と「Florists’ Telegraph Delivery協会(FTD)」が母の日の広告キャンペーンに有名なスローガンを採用し、新聞や雑誌などに大きな広告を打ち出していった。

これが「Say it With Flowers(思いに花をそえて、その思い、花をそえて伝えましょう)」(関連:本連載第59回)の始まりである(図6)。作者はパトリック・オキーフ(Patrick O’Keefe)という軍人といわれており、1917年に「アメリカ花屋協会 The Society of American Florists」元会長ヘンリー・ペンとともにボストンのバーで飲みながら作ったという。

FTDは1910年、「telegraph(telegram)=電報」という新しい文明の利器を使って遠く離れた街の相手に花を届ける仕組みをつくった。このスローガンは、FTDのグローバル化にともない(英国では20年代にインターフローラが設立されている)、国際的なスローガンとなった。
このスローガンは著作権で縛りをつけることをしなかったため、花屋の店頭や広告に100年を超えて使われ続けている。1936年から39年にかけてはFTD自体のロゴにも使用されていたという。

図6 『The Literary Digest』1918年5月1日号。この年の「母の日」は12日だった。『Saturday Evening Post』誌の5月4日にも同じ広告がある。カーネーションではなく「マザー・ローズ」と題し、バラの名花「アメリカン・ビューティ」などを勧めている。広告の主体は「アメリカ花屋協会The Society of American Florists」だが、FTDを使って遠くの都市にも花を贈れると書かれている。

「母の日」の創設者、アンナ・ジャービスの不満

ここまで見てきたように、「母の日」の創設は、花業界にとって百年に一度の巨大なマーケットをもたらした。早くも1909年、1910年頃には、巨大な鉱脈として理解されていたようだ。
実際に花はよく売れた。そのため、需給バランスが崩れて卸値が高騰することになった。『The Florist’s Review』誌は販売価格を上げないようにしてシェアを増やすようなマーケティングを提案していたが、おそらく、そういうわけにはいかなくなっていったのだと思われる。

特に「母の日」のシンボルである白いカーネーションの価格は、誰の目から見ても驚くほど高値になっていった。創設者のアンナ・ジャービスは、怒りをもって「花業界は白いカーネーションの象徴性を悪用している」と批判の声を上げるようになった。
さらには、白いカーネーションと祝日の関係を断ち切りたいとさえ思うようになっていった。白いカーネーションの価格がどれほど上がったか、ジャービスの個人的な販売領収書によると、「1908年には2分の1セントだったカーネーションの価格は、1912年には15セントにまで跳ね上がっていた」という。たった4年で30倍になったのである。
さらに彼女は、「白いカーネーションの需要が供給を上回ると、業界は赤いカーネーションをレパートリーに導入するための巧妙なキャンペーンを開始した」と決めつけた。白いカーネーションの胸飾りは「母の日の名誉のバッジ」であるはずだった。それが、母親の生死を区別する印となり、白い花が「弔いのバッジになる」など決して許されない裏切りと感じたのだった。

ついには、「母の日のエンブレム」をあしらった缶バッジを製作し、生花に代わる永続的な商品として提供することで、花業界の「もの日」の売り上げを落とそうとしたのである(図7)。このバッジはほぼ材料費のみの価格で配布された。
花産業の儲け主義を止めるために、本気で生花を使うことをやめようとしていた。さらにジャービスは、議会の母の日決議(1914年)の本来の趣旨を思い出し、花を買う代わりにアメリカ国旗を家に飾ることを国民に勧めるようになった。

図7 『Memorializing Motherhood』に掲載された「母の日国際協会(Mother’s Day International Association)MDIA」公式のフラワーバッジ。創立者・アンナ・ジャービスの名前が明記されている。

こうしたジャービスの批判が花産業の経済的な成長を抑え込むことができたかというと、そうではなかった。人々は年に一度、自分の母親に花を贈ることを少しも悪いこととは思っておらず、価格が高騰しても花を求める人は減らなかった。人は誰でも母親にとっての「いい子」でいたいものであるし、母親も「よい母親」として讃えられることを心待ちにしていた。

さらに、アメリカは長く続いた「モンロー主義」から一転、ウッドロー・ウィルソン大統領は第一次大戦に参戦し、5万人もの「アメリカの息子たち」が戦死し、彼等を弔う花や戦没兵の母親を慰める花が必要だったのである。

一方、ジャービスの「母の日」に関わる運動は、経済的なものではなく正義と公正の原則に基づいていたので、大恐慌という社会的・経済的な危機があっても、粘り強く続けられている。1930年代に入り、ルーズベルト大統領の時代になってもそれは変わらず、むしろ過激さを増していった。1933年にはフランクリン・ルーズベルト大統領宛に次のような電報を送り、「母の日」の行事に対する商業的破壊行為を阻止するよう求めた。

「グリーティングカード、花屋、菓子屋、あらゆるコード(文書・情報)から母の日の名称を省いて下さい。母の日を祝日として記載しないで下さい。
不公正な取引方法や利益を得るための法的な罰則を受けている侵害業界は、耐え難い方法でコードを通じて財産を求めていますので、皆様の保護を切にお願いいたします。
マザーズデイ社(Mother’s Day, Inc. アンナ・ジャービス、創立者)」。

このような電報や手紙はあちこちに送られ、だんだんと常軌を逸した、ある種の狂気を含むような言動が目立つようになっていった。

このように、アンナ・ジャービスの晩年は、「母の日」に関わろうとするあらゆる個人、団体に対する不信と敵意に覆い尽くされていく。
こうした創設者の波乱に満ちたエピソードは2008年の〈最初の礼拝から100周年〉、および2014年の〈「母の日」制定100周年〉を機に様々な情報が発掘され広く知られるようになったが、『Memorializing Motherhood』には、アンナ・ジャービスがいったい何と闘おうとしていたのか、詳しく書かれており、そのひとつひとつに興味深い問題があることがわかる。

今日は、もはやこれ以上書けないので、また改めて機会を設けて紹介したいと思います。

参考

検索ワード

#南北戦争#リンカーン#第一次世界大戦#FTD#Say It With Flowers#カーネーション#恩地剛

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

この記事をシェア