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第117回 「母の日」なんか、なくなればいいのに~創設者、アンナ・ジャービスと花業界(後編)

公開日:2021.5.7 更新日: 2021.4.30

『Memorializing Motherhood: Anna Jarvis and the struggle for the control of Mother’s Day』
(『母性への追悼 アンナ・ジャービスと母の日の支配権をめぐる争い』)

[著者]Katharine Lane Antolini キャサリン・レイン・アントリーニ
[発行]West Virginia University Press ウェストバージニア大学出版局
[発行年月日]2014年
[入手の難易度]易(電子版あり)

前回、「母の日」が始まった時の「いきさつ」と、当時の花屋の状況について概略をたどることができて、少しほっとした。1928年の『実際園芸』で恩地剛に託された謎解きの宿題を、93年ぶりに果たせた気がする。少しは役に立てただろうか。
「新しいもの日をつくる」というのは、いつの時代にも目指されるべきテーマであり、その立ち上がりのところはよく見ておく必要があると思う。

今回は、もうひと頑張りして、世界の花産業史上最大のマーケットを出現させた「母の日」の創設者、アンナ・ジャービスについて記憶しておくべきことをメモしていきたいと思う。
今回も全面的にキャサリン・アントリーニの『Memorializing Motherhood』にお世話になります。

アンナ・ジャービスに関するいくつかの謎

今回の「母の日」に関する探索で、いくつか、まったく知らなかったことや、気にもとめていなかったようなことに重要な意味があることがわかったので、そこから話に入っていこうと思う。

アンナ・ジャービスの兄弟姉妹は「11人」説、「12人」説と「13人」説がある

まず、驚いたのは、アンナが自分の兄弟姉妹の人数が正確にわかっていなかったのではないか、という疑問があることだ。
アントリーニ本の「付記」によると、ジャービス家について、アンナの父母、グランビル・ジャービスとアン・リーブス・ジャービスの間に生まれた子どもの数と名前については意見が分かれている、という。アンナの記憶(回想)と国勢調査や地元自治体の記録に食い違いがあって、アンナ自身は11人、記録は13人となっていて、アントリーニは13人説を取っている。

さらにややこしいことに、歴史学者のハワード・ウルフの著書『Behold Thy Mother』には12人のジャービスの子の名前がを挙げられているそうだ。アンナは9番目、ないし10番目に生れた子どもだった。自分の家族の人数がわからないのは、生れてすぐに亡くなった子どもがいることによるのかもしれない。

19世紀から20世紀初頭にかけて、15~30%の乳児が1歳の誕生日を迎える前に死亡するというような時代にアンナの母親は生きた。当時は、子を失う経験をしない母親はほとんどいなかったという。
アンナの母、アン・リーブス・ジャービス(1832‐1905)は17年間で13人の子を産んだが、成人するまで生きたのはアンナを含む4人だけだった。

母、アン・リーブスは1853年、21歳の時に生後18か月の長男を埋葬した。その20年後には7歳の最愛の息子、トーマスを亡くした。10人目の娘、アンナが生まれた1864年5月までに、アン・リーブスは生後3か月から6歳までの7人の子どもを埋葬していた。5人目の娘、コロンビアを出産した1856年12月の同じ日に、長女のアニー・エリザベスを亡くすという、なんとも残酷な出来事もあった。アニー・エリザベスは、妹の出産の1時間前に亡くなったそうだ。
母は、神が奪った娘の代わりにコロンビアを与えたのだと自らを納得させたが、コロンビアもまた1862年2月に「はしか」にかかって亡くなった。コロンビアの姉クララ、弟ラルフ、赤ん坊の妹メアリーも同じ年に亡くなっている。

13人の子どものうち成人したのは、2人めの息子ジョサイア、6人めの息子クロード、10人めの娘アンナ、12人めで実質の末娘エルシノア・リリアンの4人。
ただ、エルシノアは子どもの頃にかかった「猩紅熱」のために視力障害に悩まされ、生涯、母や姉の世話にたよって生きたという。ジョサイア・ジャービスはボルチモアで医師として活躍し、クロード・ジャービスはフィラデルフィアでタクシー会社を設立して成功を収めた。

「Mother’s」と「Mothers’」の使い分け

「母の日」に2つの表記(スペル)がある。考えたこともなかった。日本語だと「母の日」ひとつだが、原語では「Mother’s Day」と「Mothers’ Day」である。
前者が「所有格、単数形」、後者は「所有格、複数形」という違いがある。

アンナ・ジャービスは、この表記にとてもこだわっていた。「Mother’s Day」(単数形の母の日)は、1908年にアンナ・ジャービスが考案し、1914年に議会が制定した家庭と母性の親密な祝い方、「ホリデー・ビジョン(祝日観)」を最もよく表している、とアントリーニは指摘する。
この表記は、ジャービスのビジョンを効果的に表現している。すなわち「母の日は個人的な日、つまり “所有格の単数形 “なのです」と彼女は強調している通りに、「Mothers’」ではなく、「Mother‘s」であることが重要なのだ

「母の日は有名な人のためのものではありません。母の日は、あなたや私の母親のようなつつましい家族を称えるためにあるのです」。

今日、アメリカ人は「母の日」に何十億ドルも費やしているが、アンナが最初に構想した「母の日」はもっとつつましく、親密な家族のイベントだったのであり、現在のような商業化が前面に出るようなイメージは花業界やグリーティングカード業界が作り出したものだと考えられている。

アンナは生前、このような商業的傾向を許さなかった。たとえば、イギリスのクリスマスも19世紀のビクトリア朝以前はもっと騒がしいお祭りだったというが、女王の家族がクリスマスツリーを飾り、家族で親密に過ごす休日に変えていったという。
アンナの考える「母の日」は、これと同じように、家庭的な温かさ、親密さ、ロマンチックな愛、家族への特別な愛情という理想を反映した、子ども中心の家庭的な行事としてデザインされていたのだ。

前回の最後のエピソードにあるように、アンナ・ジャービスは営利、非営利にかかわらず、あらゆる団体の広告や文書に、〈所有格単数形の母の日〉「Mothers’ Day」を使わないように、ところかまわずクレームを入れていった。
1912年、アンナは自らの活動をよりよく調整し、保護するために、「母の日国際協会(MDIA)」という組織を正式に設立し、その際、「母の日Mother’s Day」の名称やシンボルマークをすべて商標登録し、「母の日」を自分たちだけの知的財産、法的財産とした。
これを盾にとって、花やお菓子、グリーティングカードの業界が「母の日」を使って儲けようとしたり、著作権を侵害したりすることを公然と非難し、センセーショナルな報道を行うようになった。

そのため、多くの団体が〈所有格複数形の母の日〉「Mothers’ Day」と表記するなどして、いざこざを避けるようになった図1)。非難はビジネスに関係する団体だけでなく、非営利団体にも向けられた。
たとえば出征兵士の家族の団体である「アメリカン・ウォー・マザーズ(AWM)」では、独自の「母の日」イベントを開催し、小冊子「Memoirs of “Mothers’ Day” by American War Mothers」などを発行しており、そこでも「単数形」は使われていない。
また、同団体が中心となってつくられた「母の日切手」でも切手そのものには「母の日」という言葉自体をいっさい使っていない(後述)。

図1 『The Florists’ Exchange』1917年5月5日 「母の日(所有格複数形)」の広告事例

アンナは母の活動家としての歴史を封印した

「母の日」の原点は、アンナ・ジャービスが亡くなった母親を追慕し、またすべての母親を讃える1908年の礼拝にある。

伝説では、幼いアンナが初めて母の日の特別な願いを聞いたのは、1876年に母親が教えた「聖書の母たち〈Mothers of the Bible〉」という日曜学校の授業中だったという。アンナは母親が朝の授業の最後に、娘の心と魂に永遠に「焼き付いた」と言われるシンプルな祈りを捧げたのを聞いた。
母、アン・リーブス・ジャービスは子どもたちに、いつか誰かが、彼女が人生のあらゆる分野で人類に尽くしていることを記念して、「マザーズデイmothers day」を創設してくれることを願っている、と切々と語ったそうだ。その母は1905年5月に亡くなり、アンナ・ジャービスは母の最大の願いを叶えることを約束したという。

「母の日」の由来が小さな女の子の物語として語られるのはこのエピソードによると思われる。さらにこのエピソードには別な話もある。アンナ・ジャービス博物館の館長であるオリーヴ・リケッツがこの日の起源について語ったところによると、実際は、「母親が休むための日を設けるべきだ」というつぶやきのような発言だったという。
それは、私たちにプレゼントをしてほしいとか、夕食を作ってほしいとか、夕食に連れて行ってほしいという意味ではなく、ただ一日だけ、何もしなくてもいい日を作ってほしい、ということだった。

一方で、20世紀のアンナ・ジャービスが制定した「母の日」は、アン・リーブス・ジャービスの生涯にわたる社会活動に代表されるように、一時代前(19世紀)に母が思い描いた「母の日」とは根本的に異なっていた。母アン・リーブスが思い描いたのは、肉親への奉仕だけでなく、「人生のあらゆる分野における人類への奉仕」を称える日であった。

社会活動家だったアン・リーブスは、この世のお母さんたちが他の母親や近隣の家族の当面のニーズに協力したり、そのために働いたりするコミュニティサービスを含む「母の日」を考えていた。
彼女のこうした「ソーシャル・マザーフッドのモデル(her model of social motherhood社会的母性のモデル)」は、女性の「マザーワークmother-work(お母さんの仕事、おっかさんの仕事)」の力を家庭の外にまで広げるのを第一とし、最終的に娘アンナがすすめたような、(感謝や称賛という)感傷的な母性のイメージをも受け入れるような内容の「母の日」だった。

娘のアンナは、自分のつつましく感傷的な「母の日」をすすめるために、意図的に母の「社会性」を封印するようなところがあった。
たしかに、よく目にする「母の日」の物語におけるアンナの母親は、単に「教会の仕事を手伝っていた」とか「日曜学校の教師を長く務めた」という程度の説明である場合が多い。

しかしアントリーニは、「母性経験を共有することで得られる女性の集団的な強さ」に基づいて作られたアン・リーブス・ジャービスの「母の日」のモデルについて、アンナはこれを常に歪めていたと指摘する。娘が気づかなかったのは、愛する子どもが次々に早逝するという〈悲劇の中で見つけた強さ〉だった。母のその強さが彼女を個人的な信仰だけでなく、公的な活動に慰めを求めさせていた。そういう母親像を娘は黙殺した。
このようにアントリーニは「母の日」創設者の心の動きをじっと観察し分析している。

アンナ・ジャービスはとても頭の切れる人だったから、母親の重要な資質についてほんとうに気づかなかったのか、それとも、何か理由があって語らないようにしていたのかはわからないが、「母の日」を強欲な者たちから守るためには、できるだけ小さな、抱きしめられるようなものに留めることがとても重要だと直感していたように思える。
そうであるからこそ、その「デザイン」を守るために、あらゆる侵略者に対して過激な行動を取るようになったのではなかったか。

「母の日」のもうひとりの主人公、アン・リーブス

地元の伝説では、アンナの母、アン・リーブス・ジャービス(1832‐1905)は存在感のある女性で、子どもたちの生活を支配していたとされている。よく知られた1枚の肖像写真でもその目の鋭さが目立つ(図2)

図2 Ann Reeves Jarvis(1832‐1905)が亡くなる少し前の肖像だというので72、3歳頃 (『Memorializing Motherhood』から)

「母の日」を考えるうえで、アン・リーブスと南北戦争前後の活動はとても重要だと思われるので、アントリーニの著作からその概要を記しておこうと思う。

アン・リーブスが生きた南北戦争(1861~1865年)前後の時代、バージニア州テイラー郡では、はしか、腸チフス、ジフテリアなどの伝染病が蔓延し、多くの子どもたちの命が失われていた。これは主に病気の発生を許した劣悪な衛生環境が原因だった。
こうした地域では、専門の医師が限られていたため、公衆衛生の問題が深刻化し、伝染病の蔓延に対して常に無防備なまま危機にさらされていた。

そんななか、1858年、6人目の子どもを妊娠したアン・リーブス・ジャービスは、地域のすべての家庭を脅かす健康危機に立ち向かうため、「マザーズ・デイ・ワーク・クラブ Mothers’ Day Work Clubs」を組織する。彼女は絶え間なく子どもが失われていくことを、神の思し召しであり母親にはどうすることもできないと受け止めるのではなく、家族を守るという母親の義務を訴えて、集団行動を促がした。他の初期の公衆衛生提唱者と同様に、アン・リーブスは乳幼児死亡率を、衛生環境の改善と、幼い子どもの世話や食事に関する親の教育によって解決できると考えていたという。
彼女は「母親の仕事mothers’ work」の名のもとに、現代的・進歩的で地域をよりよくするために常に地域社会の善意の協力を得ようと努力した。

マザーズ・デー・ワーク・クラブのメンバーは、まず地元の教会に集まり、地域の医師から各地域が抱える健康問題についての講義を聞き、それに対処するための最善の方法を学ぶことから始めた。
専門的な訓練を受けた医師として、著名な医師であった実弟のジェームズ・リーブス博士に頼んで、保健プログラムを設計してもらい、各クラブがそれぞれの地域で実施していった。

マザーズ・デー・ワーク・クラブは地域プログラムを実施する上で重要な自治権を持っており、すみやかに手を打つことができた。最終的には地域の5つの町で組織されたすべてのクラブが、健康状態全般の改善を必要とする家庭を支援することになった。

クラブのメンバーは、定期的に家庭を訪問して適切な衛生状態の重要性を教育し、飲料水を沸騰させる必要性を強調し、子どもに与えるミルクが汚染されていないかどうかをすべて検査した。また、結核を患った母親が一人でひっそりと生活していた家庭には、薬を提供したり、女性を雇ったりして、家族が適切な医療を受けられるように努めた。
また必要に応じて、郡全体の流行を防ぐために家庭を隔離することもあった。

クラブのモットーである「Mothers work-for Better Mothers, Better Homes, Better Children, Better Men and Women」には、女性たちの自己認識の高さと母親としての自信が反映されていた。

1861年の春、バージニア州が南部連合に加盟すると、州西部の郡は南北戦争の最初の戦線となった。この地は、ちょうど南北の境界に位置していたのだ。
マザーズ・デイ・ワーク・クラブは、突然、対立する忠誠心に引き裂かれた地域の真ん中に立たされた。北軍側に属するリーブス・ジャービスは、それぞれの町の忠誠心が揺らぐ中、中立的な立場で一致団結して活動するよう、各クラブ支部を説得してまとめ上げようとした。

彼女は紛争の初期に、分裂したコミュニティを引き止め、まとめようとする勇敢さを示したと伝えられている。それは、メソジスト・エピスコパル教会が北部と南部に分かれたことを支持しなかったことに始まる。
1861年5月、南軍の兵士に殺された最初の北軍兵士の遺体の前で、彼女はたった一人で美しい祈りを捧げたという。 いつしか彼女は地元のヒロインとなっていた。

敵対関係が激化し、北軍と南軍の連隊が各地に駐留するようになると、病気の脅威も増してきた。腸チフスやはしかの流行が両軍の野営地に広がったのである。
北軍のジョージ・R・レイサム大佐は、アン・リーブスにマザーズ・デイ・ワーク・クラブの協力を依頼した。彼女は協力を約束するが、軍服の色に関係なく、すべての兵士が等しく彼女たちの援助を受けることを条件とした。

「私たちはブルーとグレーの両方で構成されているのですから」
(北軍は青、南軍は灰色を基調にした制服を着用した)

と彼女は大佐に念を押した。

彼女たちは治療にあたった多くの兵士たちから「感謝と最高の推薦」を受けた。兵士が戦死するよりも病気で死ぬ可能性の方が高い紛争の中で、マザーズデー・ワーククラブが提供するサービスは、周辺のコミュニティにとって非常に貴重なものだっただろう。
おたふくかぜ、はしか、猩紅熱、天然痘、腸チフスなどの伝染病は、南北戦争の各戦域で広く発生していた。これらの恐ろしい伝染病の多くは、地域社会で繰り返し流行し、戦争に巻き込まれた民間人の命を奪っていったのである。

彼女は戦争と、伝説的な称賛を得たクラブ活動の中で、3回妊娠をし、5人の子どもを埋葬した。
私たちは、リーブス・ジャービスが負った肉体的、精神的負担を想像することしかできない、とアントリーニは述べている。兵士の命を奪ったのと同じ伝染病が、彼女の5人の子どもの命を奪ったのだった。

南北戦争の傷を癒すための女性たちの有名な活動は、戦争だけで終わることはなかった。
アン・リーブス・ジャービスは、自分の家族や地域の兵士たちを連れて、当時の郡庁所在地であるプランティタウン裁判所で集会を開き、人々の癒しのプロセスを始めるように女性たちを説得した。
彼女は、この集会を単に「マザーズ・フレンドシップ・デー」と呼ぶように提起した。

当日は多くの退役軍人が集まった。その多くが武装していたというが、結局は何事もなく、青服の男たちと灰色の服の男たちは互いに握手をして楽しい時間を過ごした。アン・リーブス・ジャービスと彼女のマザーズデイ・ワーククラブは、この集会の成功を全面的に評価された。

戦後、一家は、南北の間に根強くくすぶりつづける敵意によって引き起こされる暴力行為を恐れる隣人たちとともに暮らしていた。当時、様々なコミュニティが、かつての南部シンパや帰還した南軍兵士を物理的に脅したり、逮捕したり、強制的に追放しようとしたことが幾度となくあったという。また、いくつかの地域では暴動も起きていた。
このような状況下で、アン・リーブス・ジャービスが1868年に行ったマザーズ・フレンドシップ・デーのように、地域社会が大胆に和解を図る必要があったことは間違いない。

1864年、ジャービス一家はグラフトンに移った。アン・リーブスは、グラフトンに住んでいる間もコミュニティでの存在感を維持していた。1873年に完成したアンドリュース・メソジスト・エピスコパル教会は、州内で最も大きな教会堂だった。彼女は教会の運営にも積極的で、25年間にわたって初等日曜学校部の監督を務めた。
彼女は、宗教、文学、健康など様々なテーマで講演をすることができ、人前で話すのが好きだった。彼女は公衆衛生問題への関心も完全には失わず、「女性と子どものための衛生の重要性」や「少年少女のための管理されたレクリエーション・センターの重要性」についての講演も行っていた。
経済的にはともかく、社会的には中流階級の女性である彼女が、当時のセルフ・カルチャー・クラブ運動に参加することは珍しいことではなかった。それにもかかわらず、彼女はこの運動の中で積極的な役割を果たした。
男女両方の聴衆を前にした演説者として、リーブス・ジャービスは、抜きん出た人格者であった。

彼女にとって、母性を尊重することは、家庭や地域社会における母性の役割の可能性を最大限に肯定することだった。彼女の母親としての経験は、「ソーシャル・マザーフッド(社会的母性)」のモデルを強固なものにしている。
しかし、母の最大の願いであった「母に敬意を表する国民の日」を実現したのは、その人の娘であった。

アンナの晩年と花業界の人々

アンナ・ジャービスの晩年の大半は、自らの創作した「母の日」を守ることに費やされた。花やお菓子、グリーティングカードの業界がホリデーシーズンに儲けようとしたり、著作権を侵害したりしていることを公然と非難し、センセーショナルな報道を繰り返した。

1922年、毎年5月に白いカーネーションの値段を上げる花屋に対し、公開ボイコットを推奨した。

その1年後には、母の日の思いを経済的に圧迫している業界に抗議するため、小売菓子店の大会に乱入して騒ぎとなった。

1925年、フィラデルフィアで開催されたアメリカン・ウォー・マザーズ・コンベンションを妨害し、乱暴な行為で逮捕された。ジャービスは、休日に白いカーネーションを売って資金集めをする組織を非難したのである。事件は中西部の新聞の一面を飾った。

1930年代後半から、母の日の報道では、彼女の健康状態や経済状態の悪化が取り上げられるようになっていた。

1938年、『タイム』誌は74歳になった彼女の不安定な公私混同ぶりを報じた。記事では、ルーズベルト大統領への「暴力的な電報」や、プレスリリースや若い頃の自分の写真が詰まった黒いかばんを持って街を歩く習慣などが紹介されている。同誌は、ジャービスが年々隠遁生活を送るようになり、重いカーテンに囲まれた自宅で、いつか死んだ母親の声が聞こえることを期待してラジオを聴きながら過ごすことを好むようになったと論じている。彼女は3階に鏡を設置し、窓から顔を出さなくても玄関に誰が来たかを確認できるようにしたと言われている。
ジャービスは、母の日国際協会を通じて4ページにわたるプレスリリースを発表し、タイム誌の記事は名誉毀損であると非難した。

1943年までに、アンナは母の日を終わらせようといろいろな手を打ったが、商業化を止めることができないという事実に打ちのめされていた。これまでの運動に費やした資金は膨大になっており、経済的にも肉体的にも精神的にも追い詰められていった。

このころアンナは母の日を廃止するための嘆願書を集めることにしたのだが、体調を崩し、1943年11月、ジャービスはフィラデルフィアの病院に助けを求めてやってきました。
ニューズウィーク誌の記事によると、彼女は体が弱く、ほとんど目が見えず、貧しい生活を送っていたという。

12人の支援者はすぐにアンナ・M・ジャービス委員会(Anna M. Jarvis Committee=AMJC)を設立し、ジャービスのビジネスを監督し、ペンシルバニア州ウェストチェスターにあるマーシャル・スクエア療養所the Marshall Square Sanitariumに住む資金を提供した。AMJCのメンバーは彼女が攻撃し続けていたカード会社や花屋の人たちだった。
ジャービスが生きている間、AMJCはジャービスの母の日の活動を支援した。また、花業界の協力を得て、ジャービスの医療費を賄うための資金を募った。

ジャービスの心身の健康状態は、その後4年間で徐々に悪化していった。AMJCの理事長は、死の直前のジャービスの状態を、全盲、難聴、寝たきりの哀れな状態と表現した。
彼女が療養所に入った後も、世界中から母の日の挨拶が届いていた。

1947年にAMJCが扱ったジャービス宛の郵便物は、トルーマン大統領をはじめとする政府関係者、宗教団体や社会団体の指導者、個人からの手紙など、1,200通以上にものぼった。彼女はお気に入りの手紙を部屋に飾って、訪問者や療養所の職員に見せるのが好きだった。
そのなかでも最も大切にしていたのは、彼女の境遇を知って貯めていた1ドル札を送ってくれた小さな男の子からの挨拶だったという。

「私は6歳で、母がとても大好きです。母の日を始めてくれてありがとう。お礼にこれを送ります」。

1948年11月24日にジャービスが亡くなった時も再び、公式委員会が最後の準備を行った。
メンバーは、彼女に蘭の花のドレスを着せ、首には真珠をかけ、棺にはカーネーションの花を飾って彼女を埋葬した。葬儀は個人的に行われ、フィラデルフィア郊外のウェスト・ローレル・ヒル墓地に、母、姉、弟と一緒に埋葬された。
委員会は2年後に解散したが、ジャービス家の墓所を永久に管理し、遺品はジャービスの唯一の相続人である長兄ジョサイアの孫娘に譲ることになったという。

アンナ・ジャービスは何を守ろうとしたのか

アンナ・ジャービスは亡くなるまでの40年にわたり、母の日のビジョンとそれを記念する母性のモデルを守るために、様々な敵と戦ってきた。そのなかで母の日を歪めたり悪用したりする人や組織を「反母の宣伝者 anti-mother propagandists」として分類しリストまで作成していたという。

ジャービスによれば、母の日を広めようとしている人たちは、その人気をより崇高な人道的目的のために利用しようとしている人たちも含めて、欲に駆られてやっていると決めつけた。ジャービスは、「母の日」を利用して経済的利益を得ようとする非営利団体は、この祝日の人気を個人的な利益のために略奪する海賊であるとまで言っている。

図3 「サービス・フラッグ」の事例。この旗が掲げられた家では、3人が従軍(青い星の数)し、うち1人が戦死(金色の星)したことを示している。(第二次世界大戦中に使われていたもの wikipediaから)。

「アメリカン・ウォー・マザーズ」、「ゴールデン・ルール・ファウンデーションのアメリカン・マザーズ委員会」、「マタニティセンター・アソシエーション」といった非営利の団体は、それぞれが独自にキャンペーンをを行い、教育、宣伝、資金調達のために「母の日」を利用した。
そうした活動を通じて、母親を国の尊敬、関心、寛大さを受ける権利のある人物として描き出し、母性を私的な問題から世間の注目を集める問題へと劇的に変化させた。さらに、社会的な救済や福祉の動きの中で、母親の活動の機会を増やしていったのである。
母の日のキャンペーンは、母の弱さと力強さの両方を含んだ、アメリカの母性のより豊かなモデルを促進し、国内の賞賛と世間の敬意に値するものとなった。

結局、ジャービスが「チャリテイー・チャラタンズcharity charlatans(ニセ慈善家)」や「expectant mother racket妊娠詐欺師」と揶揄した団体は、母の日のビジョンを現代風にアレンジしたものだった。

アメリカが国家として行う戦争のために犠牲となった兵士たちの母親は、「アメリカン・ウォー・マザーズ(AWM)」という全国組織を立ち上げた。彼女たちは、自らの大切な子どもたちを産み育て、国家に差し出すことで多大な犠牲を払った。
悲しい経験をした人たちも大勢いたが、それが他の母親や女性との差別化を生じさせ、ある種の特権意識のようなものになっていった。たとえば、家族が出征していることを示す旗を家の玄関先や窓辺に掲げる活動がある。
この「The Service Flag(兵役旗または兵役バナー)」とは、米軍に従軍している人がいる家族が掲げることのできる旗のことで、公式には、白地に赤の縁取りに青い星(Blue Star)が描かれている。金色の星(Gold Star)は、軍事作戦中に死亡した家族を表わす。こうした旗の表示は、第一次世界大戦から使われるようになった(図3)。

「私たちの素晴らしい息子たちがいなければ、軍隊は成り立ちません。私たちには、彼らの成功と福祉のために何が行われているかを知る権利があります。私たちは、少年たちに、私たちの力、時間、お金、そして食料を提供しています」というふうに政府や社会への影響力を強めようとする動きを始めていた。

1918年にAWMは全国的な組織となったことで、会員たちの母性のアイデンティティが戦争との関係でさらに強まることになった。
アメリカはウッドロー・ウィルソン大統領のもとでモンロー主義を転換し、国外で行われる戦争に参戦するようになっており、第一次大戦から第二次世界大戦にかけて兵士の育成は非常に重要になっていた。これに合わせて兵士の母親の影響力も大きくなっていった。

こうしたなかで、AWMは「母の日」にカーネーションを販売するなど資金集めに利用し始める。5月の第2日曜日は、国を守るために息子を送り出した母親たちで構成された組織以上に、この祝日を祝うのにふさわしい組織があるだろうかと、彼女たちは信じていた。
アンナ・ジャービスはこうした動きを黙って許すわけにはいかなかったのだ。

ジャービスが問題にしたのは、愛国的な母性という組織のモデルの排他性と、その結果としての権利意識だった。
ジャービスによれば、家庭を守るために献身的に働き、静かに目立たないように家族の日々のニーズに応える母親は皆、国に奉仕する愛国者なのだった。愛国心とは、戦時中に限らず、市民活動の一環として行われるものでもなく、また、愛国心の捧げ物は、その犠牲がどれほどふさわしいものであっても、英雄や殉教者の母親だけに許されるものでもない。

AWMが母の日とその象徴を母の権利とした時、ジャービスはその振る舞いを、自分の人格に対する侮辱であり、民主的な行事である祝日への侮辱であると直ちに解釈した。そのため、すべての母親を平等に称えるための記念日を奪おうとする組織の「虚栄と偽善」を暴くことが、彼女の愛国的な義務となっていった。

これに対して、AWMは、愛国心と母の日のシンボルを絡めたり、母の日の所有格の複数形を戦略的に使ったり、ライバルの母の日推進者と提携したりして、ウォー・マザーたちはジャービスが母の日を創設したという主張を消し去ろうとした。アンナ以前からある母性を讃える運動の歴史を探し出し、それをもって「母の日」の正史とするようなキャンペーンに力を入れた。

図4 アメリカを代表する画家、ジェームズ・ホイッスラー(1834-1834)の有名な絵画「グレーと黒のアレンジメント No1」を元にしてつくられた「母の記念」の3セント切手。1934年に発売された。「母の日の記念切手」として広く知られているが「Mothe’s Day」という言葉をいっさい使わずに、「In Memory and Honor of the Mothers of America(アメリカの母親たちの記憶と名誉のために)」という言葉が記されている。

1934年に記念切手を発行したことほど、母の日の祝い方やその歴史的記録を定義するアメリカのウォー・マザーの力を示すものはない。母の日の20周年を記念して行われたプロモーションでは、組織が母の日を利用する際の主要な要素がすべて盛り込まれていた。
AWMの働きかけに賛同したルーズベルト大統領は、アメリカを代表する画家、ホイッスラーの母親の象徴的なイメージと「In Memory and Honor of the Mothers of America(アメリカの母親たちの記憶と名誉のために)」というフレーズをあしらった切手のデザイン原案を自らスケッチするほどの力の入れようだった。
この切手の販売や、「初日カバー」の売上の一部はAWMの活動資金に組み入れられることになっていた。

1934年5月2日、郵便局は2億枚の母の日切手の初版をワシントンで発売した。有名な画家の作品を取り入れた切手は人気を得るはずであった。
ところが、ふたを開けてみると、多くの美術評論家はこの有名な母の肖像画を大幅に切り取った郵便局を非難したのである。ジャービスは、美術評論家や切手協会などと一緒になって、この記念切手を非難した。ジャービスは、切手の象徴的なメッセージを複雑に分解して、それが金儲けの手段であることを明らかにした。

まず、この切手のモチーフは、自分の母親であるアン・リーブス・ジャービスとは異なり、アンナ・マクニール・ホイッスラー夫人は母の日の歴史とは全く関係がなく(もともとの絵は「灰色と黒のアレンジメントNo.1母の肖像」といい、母の日とは全く関係がない)、むしろ「母の日」を馬鹿にしているとすら感じられる。
また、美術評論家を怒らせたたように、ホイッスラーの母親の体が、カーネーションの花瓶を置くスペースを確保するために、足の部分をカットされていたのだった。アンナ・ジャービスはAWMの金儲け主義によってホイッスラーの母親の足が切断を強要されたと非難した。
また、足を切断しただけでは飽き足らず、切手詐欺師たちは「結婚指輪」も盗んだ、とジャービスは揶揄している(図柄では左手の薬指から指輪が省略されている)。

「ポスト・センチメンタル」時代の「母の日」観

アントリーニは、『Memorializing Motherhood』のなかで、文献を調べていくと「母の日」は相互に関係しあう3つのカテゴリーに分類できると指摘している。
すなわち「感傷的な祝日(センチメンタル・ホリデーthe sentimental holiday)」、
「作り出された伝統the invented tradition」、
「再帰的な祝日recommitment holiday」
である。

アンナ・ジャービスが提唱した「母の日」は、子ども視点で、個人的な祝日=「センチメンタル・ホリデー」だった。

アンナは自分が「母の日」の真の創始者であると考えていたが、AWMが反論のために調査し論証した通り、実際に母の記念日という考えを広めたのは彼女だけではなかった。
アンナ・ジャービスが1907年に母の日運動を始める前に、他に5人の人物が母の日の行事を主催し、国内外で注目されていた。Ann Reeves Jarvis(1858年)、Julia Ward Howe(1873年)、Juliet Calhoun Blakeley(1877年)、Mary Towles Sasseen(1893年)、そしてFrank Hering(1904年)である。

基本的に、母性的な祝日の初期の推進者たちは、所有格の単数形ではなく、所有格の複数形である「Mothers’ Day」に最もよく例示される行事を想定していた。「Mother’s Day」(単数形の母の日)が家族とそのなかでの母親の中心的な役割を感傷的に祝うものであるのとは対照的に、「Mothers’  Day」(複数形の母の日)は母親としての女性の役割のすべてと、母親としての女性の影響力の無限の広がりを称えるものだった。

自身が母親であるアン・リーブス・ジャービス、ハウ、ブレイクリーの3人は、女性の母親としてのアイデンティティの私的・公的な動きを理解し、社会的・政治的な活動を奨励する形で、母親としての経験を共有する女性たちを組織する機会を得た。
一方、初期の3人とは異なり、「Mother’s Day」(単数形の母の日)を推進したサッセンとヘリングは、親ではない。彼らの子ども中心の母性観(子ども→親)は、母の日の元々の〈所有格の複数形Mothers’〉のデザインが尊重していた母性の特徴を認識できなかった。
彼らは代わりに、後にアンナ・ジャービスが考案し、20世紀初頭に広めた感傷的な母の日の祝い方を導入しようとした。
いうならば、アン・リーブス・ジャービス、ハウ、ブレイクリーが母親に積極的な社会的役割を与えたのに対し、サッセンとへリングは母親を「受動的な」賞賛の対象に閉じ込めたのである。

次に出てくるのが「つくられた伝統」だ。「母の日」は、ヴィクトリア朝の理想を20世紀の現代に引き継いだものであり、社会が急速に変化する中で、過去との連続性を保つために作られた「発明された伝統(つくられた伝統)」とも言える。
「母の日」の問題を取り上げた歴史家は、その時期の重要性を指摘している。母性と家庭性を讃えるこの祝日は、世紀の変わり目に女性の公的役割が拡大したことへの「明らかな反発、反動」であるとしている。

同じ論法で「再帰的な祝日」も語れる。「母の日」は、社会的認知を強化するために特定の物語や儀式を使用することから、「再帰的な祝日」と見なすこともできる。この場合、母の日は、妻や母として家族に尽くす女性の姿を称えることで、伝統的な男女の役割を再確認するために利用される祝日となる。

たとえば、歴史家のステファニー・クーンツ氏は、母の日に息子から手作りのプレゼントをもらった時のことを語っている。
学校側は、母の特別な愛情と思いやりに感謝して、購入するのではなく、自分でプレゼントを作ることを奨励していた。プレゼントを受け取った彼女はもちろん喜んだが、彼女の中の歴史家は「少し困惑していた」と認めた(古い役割としての母親を押しつけられたように思えたからだろうか)。

実際、アンナ以前の「母の日」は、女性が家庭外で組織的に活動することを祝うことを目的にして始まったものだった。それが核家族という特別な関係に限定されるようになってから、矮小化され、商業化された。
しかし、母の日を最初に思いついた人たちは、母親を特別な存在とすることについて、まったく異なる考えを持っており、母性は政治的・社会的な力になりうると信じていたのだ。彼らは、コミュニティのまとめ役としての母親の社会的役割を祝い、単に自分の子どもを優先するのではなく、将来の世代全体のために行動する女性を称えたいと考えていた。

「母の日」の文化的な正当性を批判したのは、21世紀のアメリカ人が初めてではない。母の日は最初から懐疑的な見方をされていたのである。
センチメンタリズム(感情主義)は、家庭内の調和を求めるメッセージに対して、20世紀初頭の産業・都市の拡大がもたらした社会的混乱との間の不調和を完全に覆い隠すことができなかった。そのため、多くの人が、現代の母性に敬意を表するという新しい祝日の妥当性を疑問視するようになった。

しかし、母の日に限らず、感謝祭やクリスマスといった伝統的な感傷的な祝日も、感性の変化や商業化の進展に直面して、その純粋さを失っていった。
エリザベス・プレック(Elizabeth Pleck)は、このような20世紀の祝祭日の進化を「ポストセンチメンタル」と表現している。シニカルで批判的なポストセンチメンタリズムは、感傷を「箔付け」に使う、つまり、家族の理想を肯定する代わりに、お祝いの気持ちを大切にしている。
ポストセンチメンタリズムは、儀式について語る方法であると同時に、それを実践するスタイルでもある。ポストセンチメンタル時代のお祝いは、個人主義、多元主義、療法的、消費者主義などと表現される一連の価値観を支持していた。

センチメンタルな時代からポストセンチメンタルな時代への移行期間は、20世紀の最初の数十年で、まさに母の日が全国的に認知された時期である。ポストセンチメンタル(後感傷的)な社会に出現した感傷的な祝日として、母の日の行事の価値は決して否定されるものではなかったのである。

図5 「母の日」に関わる「母」の概念図。個人としての母親(Mother)、複数形の(Mothers)に対して、経済的な視点、政治・社会的な視点、戦争推進の視点など複数の思惑が関係している。(著者作図)

こうしてみると、「母の日」をめぐるイメージは、多様な層で成り立っていることがわかる。中心には個人としての「母」があって、その外側に「複数形の母」、「母性」がかぶさっている。
こうした二重、三重の性質を、ある時は社会的な存在として、家族や世の中の問題解決のために引っ張り出し、ある時は商売の対象として利用し、いざ戦争になると兵士を産み育てるために尻を叩くというふうに時代と都合によって様々に変化してきたことがわかる図5)。このような多層、多義的な見方がポストセンチメンタリズムなのだろう。
この図は「母の日」をめぐる概念図ではあるが、たとえば、スポーツとオリンピックに置き換えてみてもいいだろうし、本連載第112回の西川一草亭と勅使河原蒼風の「いけばな観」にも当てはまる。

ジャービスは、もっともシンプルな母親像、家族像を守ろうとしたが、それもまた、母親を受動的な立場に縛り付け、ある種の理想的なイメージに固定する不自由さを伴っていた。同時に子どもたちにも「いい子」であることを求めるもので、「ポスト・センチメンタル」な時代に生きる現代の我々には単純には受け入れられないイメージでもある。

アンナ・ジャービスにとって「母の日の守護者」を自称した40年間は、経済的、肉体的、精神的に大きな負担を強いた。しかし、彼女はこの感傷的な祝日の所有権を手放そうとしなかったばかりか、彼女の考えでは、その祝日を終わらせる権利も持っていた。ジャービスは自分の運動とその支持者を代表して、
「1000人が母の日を乱用するよりも、100人が真の精神で母の日を祝い、確立された路線で母の日を存続させる方がいい」。もしそれができなくなるのなら、自分たちのやり方でこの祝日をやめることも辞さない、と宣言していた。

一方で、「母の日」が議会に認められ、社会に定着していったのは、単純にアンナの努力だけではなく、グリーティングカードや花屋の業界(Card and florist people)からの後押しもあって急速に広がった、というのも否定できないことである。
後年、アンナ・ジャービスは自分のアイデアが商業的に利用されることを嫌って、これらの業界を徹底的に糾弾した。晩年はこの祝日を元に戻そう、終わらせようと努力していたが、晩年の彼女を助けたのもこれらの業界の人たちだった。

戦後の日本でも「母の日」が広がるにつれて、子どもたちが胸に紙でできた花をつけて家に持ち帰るといった活動が学校で行われていた時期がある。僕らの子供時代がそうであった。
これは、父の日も同じで、母子家庭や父子家庭の子どもたちにとってはとてもいやな祝祭日の思い出になっている。ぼくもまた母子家庭の子どもだったから実感としてよくわかる。今ではおよそ考えられない活動だと思うが、当時は、親に向けて感謝の手紙を書いたり、簡単なギフトを製作することが普通に行われていて、その時間、母子家庭や父子家庭の子供たちだけが一室に集められ自習をさせられていたように記憶している。

『Memorializing Motherhood』には、「母の日」が無言で押し付けようとする「母親像」(=理想の家庭像、理想の子ども像)への嫌悪感についても事例をあげて検討している。

ミシガン州ビッグ・ラピッズに住むメアリー・B・フェネロンは、

「私は健康な二人の子どもがいるごく普通の母親になったので、毎年、母の日が近づいてくると、その感傷的な雰囲気に嫌悪感を覚えます」

と述べた。
彼女は、母の日が大げさに母親を崇拝するものだと批判する。彼女は子どもたちから「畏敬の念」を抱かれることを望んでいなかった。あらたまって「ありがとう」などと言われたくないのだ。

ニューヨーク市のエリナー・フランクリン・ヤングも、この行事は良いことよりも悪いことの方が多いと考えていた。
彼女は、子どもの頃に母親への感謝の気持ちを学んだ人は、その気持ちを表わすことを公式の祝日に促される必要はないと考えていた。

「誰かが母の日は必要に決まっているんだから、といって母の日を大事に守ろうとする人たちがいるけれど、間違った感情にとらわれたり、守らない人たちの心に苦痛を与えないかと心配になります。
母の日があることで、考える必要のないつらさ味わう女性のことや、届くことのない手紙や贈り物を楽しみに待っている多くの母親のことを考えてみてほしい」。

ここに挙げた二人の母親の「声」は、1927年の雑誌に掲載されたものだという。
「この祝日のセンチメンタルなデザインが、母親とはこのような存在である、と普遍的に語りかけるものではなかったことがよく示されている」と、アントリーニは指摘する。
フェネロン夫人とヤング夫人は、この感傷的な祝日をポスト・センチメンタル的に皮肉っただけでなく、この日を記念するためにデザインされた「母性のモデル」を声高に批判したのである。母の日は、少なくとも彼女たちの生活には関連性がなかったのである。なぜなら、その理想化された母性の尺度は、彼女たち自身の経験や期待をなにも反映していなかったからだ。
「母の日」の構造は、その日を祝うためには、まず記念すべき母性の理想を構築しなければならないことを、私たちに教えている。

長い長い、「母の日」の話は、これで終わりにします。「母」をめぐる様々なビジョンが祝祭日のデザインに大きな意味を与えていたことがわかっただろうか。かつて、こうした意図は発信する側に大きな力があって、受け手の声が可視化されることはほとんどなかった。
しかし、現在は違う。SNSなどを読むだけで実に様々な受けとめ方があることがよくわかる。そうした多様な反応がなぜ生まれるのか、それには、「母の日」が歴史的にたどってきた多重的な性格に由来していて、それぞれの祝い方の背景にある人間のモデルに反応しているということなのかもしれない。

参考

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#南北戦争#第一次世界大戦#ソーシャル#ポスト・センチメンタリズム#カーネーション

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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