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第120回 古き園芸人、その半生を語る~偉大なる裏方、吉津良恭の回顧

公開日:2021.5.28 更新日: 2021.6.29

「園芸生活四十五年の回顧―古き園芸人半生の人生行路(2)」『新花卉』第15号

「園芸生活四十五年の回顧―古き園芸人半生の人生行路(3)」『新花卉』第16号

[著者]吉津良恭(大阪市嘱託)
[編集]日本花卉園芸協会
[発行]タキイ種苗出版部
[発行年]1957年
[入手の難易度]超難

第15以降の巻を含め、一部は国会図書館に所蔵がない。
以上の資料はタキイ種苗株式会社に特別に提供していただいたものを活用させていただきました。

『自給農園 蔬菜栽培の要領』(『新版 自給自足 隣組の菜園』改題)

[著者]吉津良恭
[発行]タキイ種苗出版部
[発行年月日]1946年11月30日
[入手の難易度]超難(吉津の著作としてはほどんど検索できない)

吉津良恭(よしづよしやす)という人は、歴史に埋もれている。
大正4年に徴兵検査で丙種となり免除という、メガネをかけた細身の人物だ。(図1)。生まれた年は明治29年9月とわかっているが、いつどこで亡くなったのか知らない。
ただ、この人は長く公立の植物園に奉職し、20冊以上の著作をなした。たびたびラジオ番組に出演して園芸の楽しみを語り、また雑誌に様々な記事を書き残している。
吉津は大正の初めから昭和戦後にかけて日本の園芸界が発展する最前線にいた。

本連載で、第57回86回114回と過去に3度も取り上げてきたのも、吉津が書き残した事柄が、本人が実際に経験したことばかりであり、記録的に重要だと思われるからだ。

吉津の著作は草花の育て方などの解説書が多いが、なかには戦後に出版された『新選花言葉集』(タキイ種苗出版部1950)のように広く読まれたものもある。
それでもなお、吉津の文章はとても抑制的で偉ぶったところが少しもない。50年近くもこの道一筋に歩み、いつまでも草花を愛し、また学ぼうとする意欲が熱い思いとして伝わってくる。
吉津は園芸一筋、それぞれの時代を生きた証言者として語り継がれるべき人である。

図1 吉津良恭の肖像 『新花卉』第14号の記事から(本連載第86回参照)

今回は、昭和21年に発行された「自給菜園」に関する解説書と昭和32(1957)年の『新花卉』15、16号を紹介する。

『新花卉』の記事については、国会図書館に所蔵がない(欠番)ため、この6年間、いろいろなルートで入手を試みたが、果たせなかったところ、このたび、タキイ種苗株式会社のご好意によって資料をご提供いただいたので、これを詳しく紹介し、読者諸氏の園芸知識向上と研究に役立てていただきたいと思う。

『自給自足 隣組の菜園』

吉津良恭による『自給農園 蔬菜栽培の要領』の奥付を見ると、その発行は、昭和21年の11月末日となっている。
この時代に発行された本、雑誌の特徴は、とにかく紙が悪い、ということだ。薄い「わら半紙」のような質感で強く焼けたようになっている。取り扱いには注意が要る。
『新版 自給自足 隣組の菜園』改題、とあるように本の企画当初は、『自給農園』というタイトルではなかったようだ。吉津の著作を検索してもこのタイトルの本はヒットしない。『隣組の菜園』はおそらく戦時中に出されたもので、戦後すぐ、恐ろしい食糧難に向けてあらためて空地での野菜の自給を勧める内容で作り直したものと思われる。

おもしろいのは、表紙カバー(端が接着されているので取れない)を浮かせて見ると、元のタイトルがきちんと印刷までされていたことがわかる(図2)

図2 表紙カバーを浮かせてみると、もともとの表題が異なっていたことがわかる。

本連載第73回では石井勇義の『空地利用・野菜の作り方』を紹介した。石井の本が昭和16(1941)年に発行されたのに対して、吉津のものは戦争末期から戦後すぐに「新版」として書き下ろされたもので、明らかに物資の不足、配給の滞りが反映された内容になっている。
それでもなお適所に線画による図や表を入れながら解説している(図3、図4)

残念ながら、一般の生活者がこの本を読んですぐに理解ができるようには思えない。ただ、吉津の真面目さはとてもよく伝わってくる文体だ。

吉津は、戦争で長男を亡くし、自宅も被災した。そのようななかで戦後早くにこの本を上梓した。出版は例のごとくタキイ種苗の出版部である。
この時代、現実に餓死する人が少なくなかった。種苗会社は日本人の生命を預かる重要な局面を支えていた。肥料や薬剤が乏しいなかで食糧増産のもととなる野菜や穀物の種子と苗を大量に確保する使命を着実に果たすために奔走していた。
それでもなお不足する部分は「生活者自身が生産者となる」ことが重要だったのである。

図3 町内会(隣組)で菜園を運営するモデル的な畑。右に水路が見える。

本文では、盗難対策のために柵をつくるように勧めている。

『自給農園 蔬菜栽培の要領』の冒頭に、著者の紹介文があり、吉津の経歴(および住所!)がわかる。
吉津は明治29年、日清戦争に勝利した日本は大陸に足がかりをつけ対露戦争に向かっていく、そんな時代に生まれた人だ。石井勇義が1892年生まれなので4歳年下だった。

〈著者紹介〉

明治29(1896)年9月広島県深安郡吉津村に生る。
大正3年大阪府立農学校園芸科を卒業後、京都府立植物園に入り、建設事業に携わり、爾来20余年間、各種樹木、園芸作物、その他一般花卉、及び熱帯植物の栽培管理等、園芸各班の事業に終始一貫従事し、昭和13年大阪市に転じ、専ら公園管理の傍ら、休閑地の利用、菜園化、並びに是れが指導方面に研鑽を積まれ今日に至る。
この間主著、標準園芸十二ヶ月、私の菜園、最新花壇園芸の他数種の著書あり。

前・京都府立植物園技師、現・大阪市技師
住所 大阪市住吉区鷹合町1番地

珍しい漬物の漬け方

この本は、他の案内書と同様、野菜栽培の概説と各作物の個別の栽培法の説明に分かれているのだが、興味深いのは「貯蔵」の方法が書かれているところだ。
生鮮食品の保存は難しかった。家庭用の冷蔵庫などほとんどの人が望めるわけもなく、終戦からまだ1年、電気やガスなどのインフラもまだまだ整っていなかったと思われる。

ここに記された貯蔵法の説明は戦時中の内容のままのようである。野菜は、乾いた日陰にできるだけ広げて保管された。さらに加工して貯蔵する方法も解説されている。
まずは乾燥させ、干し野菜とする。もうひとつ、漬物に加工することだが、ここに「変った漬け方」として「藁とモミガラ」による漬け方と「砂漬け」というものが紹介されているので、以下、抄録する(一部、読みやすく書き換えました)。

変った漬物の漬け方2種

(一)野菜の藁と籾殻漬

従来から漬物は主としてぬか漬であったが、ぬかは現在重要な食糧の他、搾油用及び家畜の飼料として用いられる関係上、これに代わって藁と籾殻が登場した。
この方法は新藁を適宜に切り適当な塩と一緒に漬物材料の間に挟み、普通の要領で漬け込む。また籾殻と豆腐粕があれば、これも立派に糠の代用品として役立つものである。
即ち先ず籾殻を灰汁で水洗いして豆腐粕と混ぜ、ぬか味噌の場合と同様の塩を加えて漬ければまことに美味しい漬物ができる。

(一)野菜の砂漬

この法は茨城県で広く行われている方法で、砂糖の少ないこの頃、実に便利なのはこの砂漬である。
分量は砂一升、塩は砂の20分の1内外で足りる。
先ず砂を濁らない水になるまで少量あて良く洗い、これを釜か鍋で煮て消毒し、湯を捨て塩を入れて冷し甕に取り入れる。
上から小指2節位掘ると水がある程度に水を注ぎ、これに人参、蕪、大根、胡瓜、茄子、青トマト、甘藍、茗荷、各種青菜類を漬け込む。塩が強ければ2、3時間後で既に食べられる。

使用後次々と漬ける場合は必ずその位置を定めて置き、右側には食べ頃のもの、左には新しく漬けたもの、下部は漬込みのものとすると都合がよい。かくてもし漬汁が殖えてかびを生ずるような事があれば、水を入れて上澄液をすくい取るか、または砂を洗って新しい塩を入れて作り直す。
漬物を出す時、材料に砂が付いて出るが、洗えば器物の下に砂が自然に沈殿するから、この砂は再び甕に戻して置けば砂減りも少なくて済む。
新しく砂を入れる際は必ず煮沸し、後冷やしてから入れる。
この砂漬法は殊に盛夏の野菜保存法として真に便利である。なお茄子には少量のミョウバンを入れれば色沢よく漬かる。
かように重宝な漬物が容易に得られるのであるから、各家庭に於ては是非専用の漬用甕の用意があっても宜いと思う。

菜園を始めるときの各種届け出

市民レベルでの戦争推進(監視・思想統制)の組織ともなった「隣組」組織は戦後まもなく、進駐軍の政策によって廃止されるのだが、これが昭和22年の春となっている。
それ以前から隣組批判はあったのだろう。それで本書がもともとの「隣組の」という言葉が消されたのではなかっただろうか。

ただ、配給制度は依然として続いており、生活必需品の調達のためには隣組やその後の町内会が存続していくことになる。
本書でも、隣組単位で菜園を運営するために各種届け出を行い、各所のルートを通じて種苗や肥料等の供給を受けるよう指導している(一部、読みやすく書き換えた)。

第18 種苗・農具・肥料・薬品の配給

種苗・一般蔬菜種子は種苗商で自由に公定価格に基き購入することが出来るものであるが、薯類中、甘藷、馬鈴薯と豆類のほとんどは国家管理に置かれてあるため、これを求めることは困難である。

しかし大都市では、一区一ヶ所には、当局指導になる休閑地利用組合、もしくは家庭園芸研究会なる園芸指導団体が設立されているから、加入申込書を提出して、一カ月些細な会費を負担して、栽培指導はもちろん、前記入手困難なる種苗はその筋からの割当により、多少とも配給を受ける事が出来るのである。

また隣組単位としてでは、その栽培面積その他を取りまとめ、別記様式に基き申請されることが最もよい方法である。
場合によっては農具、及び薬品も適宜配給される事もあるから、趣味園芸家は素より、多少とも空閑地を利用して蔬菜栽培を実行の向きは、これ等の機関を是非とも利用し奮って加入されるのが最も得策である。

この事務所はいずれも最寄りの種苗配給所である種子商に照会すれば良い。
またこれらの団体は当局からの指示奨励により春、秋二回くらい各々生産品の品評会を催し、優品に対して賞金付与等の奨励法が講ぜられ、時としては会員に試作用として種苗の無償配布をも行われるのであって、いかに当事者は、熱心なるこれら空地利用の方々を重視し、指導に腐心して居られるかは想像に難くないところである。

空閑地利用者の栽培品には同一種30坪以内を限度として、たとえ甘藷、馬鈴薯、あるいは穀椒類(注:穀物や豆類)にしても供出するには及ばないことになっている。
左に申込書の様式の一例を示すならば(注:図4のような様式になる)。

図4 隣組単位で菜園を営むために必要な休閑地利用についての報告書式の例

農具は現在品薄のため、多くの場合市販の金鍬で我慢するか、手持ちの材料を提供して製作を依頼するかしなければなるまい。
この故に各市町の農業会に入会して、これが配給を受けるのが好都合である。

肥料は現在の状態では専業の農家に対してさえ普通使用量の3分の1程度の配給で辛棒して頂いている実状であるから、家庭菜園用には一握りのいわゆる金肥もほとんど配給を受けることが出来ないから、必ず自給肥料を調製しなければならない。
これも見返り物資調製を重点的に事業配置の関係からむしろ当然の処置で、我々はただ工夫創意を凝らして、この隘路打開に懸命の努力を致し、人造肥料に依存することなく、手間肥(注:手間を掛けることによって)で大成果を収めるべきである。

農用薬品も前述の研究会か、利用組合又は各地の農業会の加入者には夫々適当なる薬剤の配付を受ける途が拓かれているが、薬種商の免許を有する薬店ないし種苗商に於ては割当数以外の入荷のある場合が少なくないから、統制品以外の薬剤ならば会員外といえども自由に購入が出来るものである。
即ち除虫菊乳剤1.5(アブラムシ、グンバイ、スリップ、シンクイ虫用)、魚油石鹸、硫黄液(病害用)、ソイド(病害用)等はその一例である。

 

園芸生活四十五年、古き園芸人の半生の物語

今回紹介する『新花卉』第15、16号の記事は、本連載の第86回で取り上げた『新花卉』第14号の「園芸生活四十五年の回顧(一)」の続きとなっている。

昭和32年、終戦から12年目。この頃の『新花卉』誌は一年に4冊のペースで発行されていたようだ。
最初にも触れたが、この一連の記事については、国会図書館に所蔵がない(欠番)ため、この6年間入手を果たせず悶々としていた。今回、記事を目にすることが出来て非常なる感激とともに、やはりたいへんに重要な証言だと確信できた。資料を提供していただいたタキイ種苗株式会社にあらためて感謝を申し上げる。

資料では、辻村農園研修生時代の最後から、京都府植物園を経て大阪市の園芸技師として活躍、戦後、定年後も嘱託として仕事を続けたことが、そのときどきのエピソードや教訓として得たことなどを交えながら丁寧に語られている。

吉津は園芸人生のほとんどを公立の植物園に奉職して過ごしたが、学校を卒業してすぐの就職ではなく、当時の最先端かつ大規模な経営を行っていた小田原の辻村農園で研修をした。またその後、芦屋の小さな民間農園を切り盛りする経験している。

こうした経験で吉津は研究者としてのそれではなく、経営者的な感覚を身につけているのが面白い。
生産では単に良いもの、珍しい花をつくればいいのではなく、生産方法を合理化し着実な販売へつないでいくように考えているし、集客の手法やサービスについても常にアイデアを出して結果を出すように努力していた。

注目すべきエピソード

以下、吉津の芦屋時代、天津時代、京都植物園時代、大阪時代のそれぞれで注目すべきところをメモしておきたい。

芦屋の小農園時代

大正4年頃の芦屋地域の様子が描かれている。
商売の難しさを経験し、生産や販売の要点について学んだ。

天津時代

大正6年頃、中国(天津、上海)の租界地における盆栽人気のすごさ。そこで扱われていた種類など。
中国で盆栽店を出せば一財産を築くことも不可能ではなかった。

京都植物園時代

吉津良恭が京都植物園の建設当初からの「生え抜きの職員」であったことを初めて知った。
まもなく100年を迎えようとする京都植物園の基礎をつくり、あらゆる困難に立ち向かった人だった。整地の様子や植栽など初期の貴重な証言となっている。

明治神宮の森の造設に携わった寺崎良策の人物像や仕事ぶりが描かれており、当時の園芸人の力、先を見る目、想像力を感じられる。
温室の大煙突から撮影したという初期の花壇のレイアウトが美しい(図5

大正初期の植物の流通やコンテストの様子、花き装飾まで請け負っていたことなどを知ることができる。
皇室関係の事績を見ると、京都植物園は、東京における新宿御苑と同様の役割を担っていたことが分かる。

図5 記事では大正14年とあるが、開園間近(大正12年)の京都府立植物園。各種花壇地区のようすを温室の大煙突の上から撮影したもの。
図6 写真の説明は以下の通り。
「昭和8年11月26日 京都放送局から吾国で初めて座談会の形式によって放送したもので、放送時間も午後七時から九時まで実に二時間、今日の放送時間に比し隔世の感が深い。テーマは「これからの草花園芸」。写真は座談会の講師。左から、故浦川京大講師、永富大阪府立園芸学校長、橋本宝塚植物園長、筆者、故勧修寺伯爵(京都園芸クラブ会長)」

図6は、日本で放送事業が始まったばかりのラジオ放送の様子が記録されている。2時間の生放送による園芸座談会が昭和8年に行われたというのはとても興味深い。
日本のラジオ放送は1925(大正14)に東京、大阪、名古屋に置かれた社団法人3局によって開始された。
その後1930年代に入ると、全国に放送局が設立されネットワーク化が進む。昭和8(1933)年というのはそのような時代だった。

大阪時代

お客様を喜ばせるために集客力向上とそれを維持するための工夫をしており、吉津の真骨頂が見られる。
在阪の大手マスコミの資本力、宣伝力を大いに利用して植物園を盛り上げていた。

大阪での技師としての正式採用や退職後の嘱託要請など、吉津がベテランの園芸実務者、指導者として認められていたことがわかる。
その交友関係は、植物園関係や役所関係、『実際園芸』の石井勇義のようなジャーナリストだけでなく、幅広いものがあったと思われる。

吉津の記録はもっと多くの人が共有し、細かなところをたどってみることで新たな発見があったり、理解が深まると確信している。

以下、全文を抄録した。ぜひ、最後まで読んでみていただきたい。

「園芸生活四十五年の回顧(2)」―古き園芸人 半生の人生行路―吉津良恭(大阪市嘱託)

=小規模の芦屋農園時代=

大正四年春、官給旅費同封の徴兵検査の通知に接したので即日帰阪、その結果は丙種で免除の結果、母校の推薦と家族の奨めに従い、キリスト教信者の経営する面積三百坪内外、温室約三十坪の小農園に勤務することに決心した。

この動機は、一応大農場の経営とその実際面を知悉したので、次は反対に小規模の園芸の実情を知り、密かに将来の自営に備えたい希望も存したがためである。
ご承知の如くこの地一帯は天下に名だたる富豪、名士の住宅街であり、花卉園芸も営業方針如何によっては相当の成果が収め得られる可能性は誰しも肯定するところであるが、園主自身は建築士で全然事業に熱意少く、単に自身の趣味と、健康の目的で創めたもので極めて呑気な営業振りであった。

作品は売店に捌くではなく、只朝夕の散策に来園乃至参観者が思いつきに求めて行く程度で、商売も閑散であったが、衒い連(注:てらいれん、知ったかぶり、知識自慢)や見得坊の多い地区だけに、月末支払いが多かったこともこの地域の色彩を現していた。
商人としての経験のない筆者は偶々(たまたま)月末に集金に出掛け正門から這入って来意を告げると、忽ち大目玉、勝手口に廻れと一喝を喫したこともあり、一時は腹立しく思ったが、商人ともなれば何を言われても何時も愛想をよくしニコニコ丁重、いんぎんに応接することと、常に余分の釣銭の準備は、書類の正確、整備と共に大切な心得うべき事柄であることを痛切にこの時に知った。
このことは彼我その所を変えた立場におかれる際にも、処世上大切なことだと感じ、集金人などには常に温い心で応接したいものである。

この農園では所謂八百屋式栽培で数量は少くともなるべく一種でも多く季節の各種観賞植物を集めておく主義なので、相当の種類を取扱ったが、これが結果は管理が多く、非常に面倒で、勢い優れた生産品は望めなかった。
今になって思えば、たとえ種類には乏しくも、何種を問わず一たび栽培を志した種類は、絶対に見事な作品として仕上げることに専念すべきで、平素左程関心をもたない種類でも、立派な成育振りを誇るものに対しては誰しもが認識を新にし、必ず欲求するに違いないであろう。
この点管理、経営両面からも大切な方針である。

昨今阪神地方にゼラニューム専門栽培家があることを耳にしたが宜なる哉(むべなるかな)で、吾が意を得た気がする。
なお年々斯種の新品種が紹介せられて来ている今日、昔日の東京の一部業者に見られるようにバラ、ダーリア、すいれん、朝顔、花菖蒲、仙人掌、アザレア、石楠花、菊、洋らん、百合等々の専門栽培の出現を見ることは必至の情勢に在る。

さて経費の最たる冬期間の温室燃料は専ら粉炭を用いていたが、其の年の秋二十坪鞍型温室には木材の鋸屑利用として東西に土管二本を五寸勾配に配管した。
しかし燃料入手難のため、後日温湯橋釜(注:橋釜とはどのようなものか不明)を対置し、石炭を用いたのであったが、近年麺類製造業が使用する木屑ボイラーを少しく工夫するか、煉炭式のものを用うるならば案外簡単に加温問題も片付いたことであろう。

特に花卉園芸を直営せんとするには大工、左官、電機、塗料等随分多方面の技術と知識を体得しなければならない。
更に世の好況に対しては残念ながら最も遅く、反対に不況には全く時を移さず鋭敏に影響する園芸商売であることを思えば、営業には最も慎重に処さねばならないことを痛感した
ことは、筆者のこの農園に在って体験した最大の収穫であった。

=中国天津に於ける生活=

大正六年春、突然恩師山本正英先生からの通信により、支那天津の某実業家から大陸で棉花栽培を大々的に実行するにつき適当な技術者の斡旋方依頼を受けたが、渡支の決心をしてはと慫慂(注:しょうよう。しきりに勧めること)して来られたので、若輩にして、且つ末子でもあり、決意の旨返信した。

ところが用地買収まで当地日本租界一等の繁華街である旭街に盆栽を販売する友人の店舗で当分勤務して欲しいとの話になったので、その道の心得が皆無のため早速大阪市上本町の或る著名な盆栽家に師事し栽培管理の実地見習として二ヵ月間連日連夜速成修練の上、兵庫県山本及び池田在から相当量の既製盆栽としてオニヅタ、ソテツ、杜松、錦松、五葉松、カエデ、イチョウ、ツバキ、ナンテン、モミ、ツゲ、ジンチョウゲ、カイドウ、クチナシ、サツキ、ドウダン、ボケ、ミズキ、花ゴウカン、ビナンカズラ、ツルウメモドキ等を携行、単身神戸港より五日の日子を要して着津、直ちに該売店に赴けば、想像通り殷盛を極めた商店街、間口は狭いが奥行があり、通路の両側の三段の棚には内地生産の中小形盆栽が化粧鉢も美しく並べてある。
そこを分限者然たる上流支那人がさも珍し顔、物欲し顔に一つ一つ眺めては正価通りの支払を済せ、紙にも包んで貰うことなく、却って先進国の日本人から譲って頂いたものと計りお辞儀して行く有様、結構な商売もあるものかと先ず驚いたものである。

後日に至り聞いた話であったが、上海にもこの内地の盆栽屋、と言っても未熟な植木屋程度が渡航し、盆栽の店舗を構えて二、三年にして立派な成績を挙げ、産を成した者は随分多きを数えたとのことであったが、成程と容易に納得がいった次第である。
戦禍さえなければ外貨獲得も無造作なものであったと思われた。

将来国交が回復すれば、以前の様に威張っては商売できないまでも、盆栽の販路は他の園芸植物を栽培することよりも遥かに有望であることは否めまい。
観賞時期の短い西洋草花類よりも好評で、需要の前途は極めて有望であることは、一度彼地において開業した向の等しく同感するところであろうかと信ずる。

斯て平凡な日常数ヵ月を経過するも、資金関係のためか一向に用地買収の実現に至らず、不調となり、未来を夢見た青年棉花王も終に涙を呑んで雄途空しく挫切し、再び帰国の余儀なきに至った。

今に思えば、よしんば成功したと仮定しても全財産没収の憂目を見、現在は何んな境遇に喘いでいるか、或は生死さえ筆者自身疑いたくなる思いで、茲に思いを致せば誠に幸いであった。
「人生万事塞翁の馬」であることを泌々味わい、今日あるは只感謝あるのみである。

=大典記念京都府植物園に入る=

大正六年初夏帰国するや、無聊を忘れるため大阪キリスト教青年会館の夜間英語科に臨時入学し、専ら会話を英人教師に就いて学んでいた
一方、今回の顚末と現在の生活状況は早速紹介者たる山本先生(既に東京府立園芸学校長として赴任)並びに後任の大屋霊城氏(その後学位を授けられ大阪府都市計画課長とならる)に報告しておいた。

丁度その年の秋大屋博士から、同窓の寺崎良策氏は明治神宮の造営工事が一段落を告げ、今回大典記念(大正四年一月大正天皇即位の礼を挙げ給うたに由来)事業として京都市下鴨の広茫十万坪の地域に府営の植物園の建設が始まり、漸くその緒についたのであるが、花卉栽培に経験ある者を採用したい旨の照会があるが就職の意志あるやの書面を紹介状と併せ戴いたので、渡りに船と、十一月二十三日上洛、技師寺崎農学士に面接、その頃令兄は主管の土木課長であられた関係と、親友大屋氏の紹介者とあって即時京都府工手を拝命、植物園勤務の第一歩は翌二十四日から始まり、その急速振りにはセッカチな寺崎技師も大層お喜びになり、印象を良くしたらしく、翌日の昼食時にこのことを洩らされて面目を施したのであった。

寺崎主任と千葉高等園芸専門学校二回卒業生の今泉万吉氏(六年後他界)と私の三名の他に園丁二名、臨時女人夫二十名、整地工事は土木部直属技術者によって始められていたのである。

最初は十万坪の予定地のところ内二万坪を府立農林学校及び農事試験場に分割せられた結果、八万坪に縮小を見た。
これが財源は三井財閥から二十五万円、大正十三年に五十万円増額、建設費二十五万円、開園後の維持費二十五万円の基金で実行を見たものである。

広大な敷地は元の田、畑地の他、一部上賀茂と下鴨を通ずる潅漑用水路に当る場所とその付近の河原であったが買収後三年を経過放任してあったので野草の繁茂その極に達し、優に人影を没する高さとなり全然荒廃そのままの姿であった

斯る地勢の原野を土工によって連日整地を行い、これと並行して滋賀県下から蛇取り専門人夫三名を約半年に亘り雇用の結果、多き日は一日に青大将百尾、蝮(マムシ)十余尾の捕獲を見た事実に徴しても如何なる荒地であったかが容易に想像できよう。

寺崎技師は明治神宮造営時代過労が原因で遂に呼吸器を害せられ神戸須磨の病院に加療、月一回現場に出務一ヵ月分の勤務量を指導、他方行程量を厳重に点検せられるもので、現場職員として今泉君と二人は自発的に二年以上も一日の休務さえ取ったことはなかった。

上司を敬い愛し、又一度事務を一任されれば只睡眠するのみで疲労は一日にして癒えることも体験した。

服装と言えば神宮工事そのまま、農学士様さえ草鞋履(わらじばき)、脚絆掛、詰襟服である。
このことは草鞋は兎も角地下足袋さえ用いることを心よくしない現今の現場監督員が過半数以上とは、その熱意振りの低調が窺われて心構えの点で寧ろ寒心に堪えないと思う者は、筆者一人の感想ではないであろう。

さて我々少数とは雖も一日も早く開園し、市民に利用して貰うためには、先ず一人でも多く園内に誘致するにありとして、第一着手として三百坪の苗床と、フレーム五框の完成に力を注ぎ、完了と同時に予てから依頼してあった英国サットン商会より春秋二回に各々三百円前後 (只今の金額にして約二〇万円)の草花種子を購入した。ラベル書きも帰宅後認めるので約十日間を費した程の量である。
全く人の精神力はその緊張如何によっては意想外の能率を示すものである。之等の努力は将来有益とはなるも、決して損失とはならないものである。

筆者も此の頃に於て初めて知る数百種の西洋草花を栽培する絶好の機会に恵まれ、今後と雖も左様簡単に誰もが経験することは出来ないことで、再び来ない幸運であったと未だに痛感している楽しい思い出である。

其の頃の園芸技術としてダーリア、シクラーメン、カンナ、フクシア、ゼラニューム、パンパスグラース等の実生が想像も及ばなかった程、早期に開花し、然も、実生すれば一般に劣等品が多いと言う観念を全く裏切り、予期以上の優良種が作出されたことを知り、欧米の花卉園芸中特に育種に深い研究が払われ、その進歩の目覚しさを認識し、よって安心して実生が楽しめることを知って、学ぶところが大であった。

東京では屡々(しばしば)愛蘭会を筆頭に妍を競う各種花卉展覧会が催されていたものであるが、関西地方では唯一の関西園芸会の発足を見た頃とて催物は稀であったが、同会第一回の品評会を大正十三年春大阪大丸百貨店で開いた折には輸入一作のシクラーメン、プリムラ、カルセオラリア及びミムラスの色分別による鉢植各種五鉢宛を数人の者が携えて出品し、悉く優等賞を獲得したことがあり、古老の園芸家達は必ずその折りの模様を記憶されていることと思っている。

爾来業者でさえ嘗てはシクラーメンの如き、球根で栽培するものと計り考えていた向も、挙(こぞ)って実生を行うように栽培法が変って来たということもあった。

話は遡るが、大正十二年関東大震災の年に開園したと記憶する。
経営上入園料大人五銭、小人三銭を徴収するからには、せめて春から秋までは花を絶やさない為に、花壇整備が最も緊急を要するので、先ず花壇設計、芝張り及び通路の完備を主眼として事業を進めた

苗床も花壇地区も処女地だけに、何種を作るも何れも素晴しい成長振りなる上に、京都特有の朝夕の冷気は花の色彩を一層美しくした。
一・二年草花壇は苗床面積が十分確保されていた関係もあるが、冬季以外大花壇には花を絶やすことなく栽植が出来た。

大正十四年五月には天皇様が摂政宮殿下と申し上げた頃、理学博士郡場寛園長(京都大学教授兼務)のご先導で行啓があったのを始め、皇太后、秩父、高松各宮様、皇后様がご成婚でご報告の砌(せつ、みぎり)でご覧園を辱うしたことは、私共関係者の最も感激に堪えないところであった。

京都ご在住の久邇宮多嘉王殿下は毎年春スイートピー狩りにご来園に成られ、其の都度親しく同席の光栄に浴し得たことは、園芸人なるが故にと身にその幸福を覚えしめたものである。

昭和三年十一月天皇ご即位の礼を行われた頃は、京都御所及び大宮御所の装飾用花の御用あり注:本連載第57回参照)、終って園内に数回に亘り設けられた大宴会場の設備には、皇太后陛下行啓時と共に、数十日間は寧日なく(注:気が休まることなく)懸命の奉仕に終始し、重なる芽出度い行事も滞りなく終り、園長始め安堵の胸を開いたと云う嬉しい経験もあった。

中でも最も見事だと感じたことは大正十三年初夏御所に直輸入のスイートピー一種十二本束五十種を献上した折のことであるが、何れも花茎の長さ一尺二寸、花付四、五輪、実に凄い作柄で、一束十二本とは申せ立派な量感を示し、五十色を一堂に集めたのは寧ろ壮観で、係員も面目を施した次第である。

更に今一つは昭和四年六月頃であったか、オーストリヤ国皇儲(注:こうちょ、跡継ぎ)カロル殿下が入洛の際大宮御所に御滞在中、その頃予て東京堀切菖蒲(栽植品種二百余種)中特に逸品と目されていた銘花座間森、江戸自慢、黒雲、泉川、及び媒助実生大輪新花中の錦山、雲衣裳、赤覆輪、日出桜、若武者、治まる御代等を府より献上したが、未だに脳裡から当時の華麗さが離れないのである。

行幸、啓のある毎に府知事を通じてその都度献花は常に植物園の担当なので、洋蘭、菊、特に関東において多く栽培を見る中菊、別名江戸菊、温室培養になる季節の各種熱帯観賞植物、稀には外国産の実生樹木の盆用(注:盆養か)もその御用に供した。
持参に際しては差廻しの自動車で只今の様に平服は許されず、モーニング着用の上白手袋を用い、威儀を正して参向したものであった。その上到着すれば控室で植物に対する簡単な説明を御用掛に申し上げ、且つ一応形式的な消毒が行われることが常例であった。

大正十四年春と思うが対島沖付近で有史以来稀有の海軍の大夜間激闘大演習が行われた砌、駆逐艦蕨他数隻が一時に大衝突した大椿事が勃発した。
この時には陛下、各宮家、各大臣よりの献花の御用は当園にその調製一切が下命され、大小四十以上の花環を二日間で園員総動員して徹宵の上作製、直ちに汽車で舞鶴に運び、再び、葬儀式場に当てられた軍港まで軍用自動車で同時に届けたと言う、植物園としては最初にして最後の珍しい作業も起った。
京都市内の各花屋では、斯る大量の然も短時日に花環調製することは高貴な方の注文だけに挙(こぞ)って断ったものである。なる程花環の基礎とするサツマスギ(注:ヒムロ)、泰山木及びソテツの葉は容易に入手出来るものでないからでもあった。
これがためこの二種の樹木は一時は哀れな形相となった事を考えても如何に大量の葉を用いたかが判って貰えよう。

注:「美保関事件」。大正14年ではなく昭和2年8月24日、大規模な夜間演習中に起きた艦艇の多重衝突事故で、駆逐艦「蕨」が沈没、他3隻が大破し、120名が死亡、責任者であった水城圭次海軍大佐は自決した。殉職者合同葬儀が舞鶴で9月1日に執り行われている。)

さてこの植物園創設には斯の明治神宮のように全国からの無料輸送による莫大な数に及ぶ名木、珍樹が手許に自由にあれば、それこそ何等不足なく直ちに理想に近い群植は見事な樹相を示し、短い歳月で庭苑の完成が望めるが、二十五万円の建設費では此の点、並々ならない苦労があった。
従って栽植樹木は全部苗木を採らざるを得ない結果となり、全国の苗木業者から正確な見積書の提出を求め、更に一種と雖も多いことが望ましいので成可く種類の多いことも条件とした。

主なる購買先として先ず第一に埼玉県下安行、広島県己斐(こい)、新潟県中蒲原郡、愛知県中島郡、並びに大阪府池田とその近郊より生産されたものである。

竹類は岐阜県養老在の坪井竹老氏遺愛のもの、その他各大学、東京府、熊本県より或程度の払下の他に市内在住者より区々に寄付木があったに過ぎなかったのが実情である。

さて夏冬の別なる到着した各種苗木は図上に示された距離、間隔通り確実に植えなければならない。
即ち基本杭を基準に一本宛その位置を定め、此処に竹竿を立て、これに樹名を認めた札をつけて植込むもので、現物の状況により前後、左右を融通することは許されないので、一層慎重を要するだけでなく時間を費すことが夥しい。このため開園後は定刻に退園したことは皆無の状態である。

斯く図面に従って栽植した当時は間隔が非常に広過ぎたかの感を抱かしめたものであったが、完成後は実に見事な樹相となり、今日残る樹木が比叡山を背景とした景観は人工庭園中優れた作品だと感歎するもので、故寺崎良策農学士の非凡な才能には只管(ひたすら)敬意を表する計りで、長逝されたことは返す返すも本邦造園界の一大筋痛恨事である。

次に温室は沈床花壇設置場所の土砂を高さ六尺三十間(注:六尺三寸間だと思われる)正方に盛土し、此処に第一期と第二期工事に分け、コの字形百三十坪、蒸気式六個のセクションボイラー二基を有するものを作り、その当時としては我国でも屈指の観賞温室の偉容を示したものである。(注:六尺三寸間=太閤検地時代の「一間」、約2m)

この内に収める植物としては、当初は秋末から初夏までに咲く半耐寒性及び不耐寒性草花を栽培、夏と秋は多年生草本又は花木類を当てた。
これは勿論一時に多数の苗の育成が可能であるからである。

この方法を採りつつ冬から早春の観賞者の誘致に努める旁(かたわら)、当時温室植物販売業者の第一人者であり既に述べた横浜植木会社、並びに福岡県戸畑市にある倉富隆氏経営の戸畑閑農園、神奈川県大磯の池田農園、東京用賀の戸越農園等より購入する他、各地大学、千葉園芸専門学校その他二、三の植物園より参観の都度分与を受けて、漸く整備を終った時は昭和六、七年の頃である。

該温室は台地に建てられた上に防風設備も考慮が払われず、更に盛土であった結果、昭和十二年頃には極度に地盤が緩み、建設十二年後にして大修繕を必要とする状態にあった。

然し股設計者の意図は沈床花壇に一大白亜の背景を求め、彼我の対照を観賞すべきところに狙いが存したのであろうが、厚い防風林の欠除は、如何に高温が自由に望める蒸気鑵であるにしても、その維持管理が仲々面倒であったことは事実である。

昭和九年に至り公立大学が実行している外国植物園との種子交換の議が進み、早速その目録を編集交換したのが世界各地に且り約三十個所
幸いにして、栽植後二十年を経過した各樹木には年々相当の結実を見るので、これを採種ずる一方、近郊の山野に至り野生品の採種を行い、これ等の総てを目録に載せ紹介したものである。

この反響は覿面(てきめん)、居ながらにして各国産の珍木奇草の種子入手の恩恵に浴せられ、三年後には三百坪の苗圃と五十坪の鉢栽場を優に満たすことを得、名実共に東洋有数の植物園に成長せんものと夢を描きしも束の間、大東亜戦となるや経理難から依願退職、後髪を引かれる思いで満二十二年の在勤を全うし、幾多の想い出を残して前途を胸に秘め、大阪市に転じたのは昭和十三年六月上旬のことである。

(以下次号)

「園芸生活四十五年の回顧(3)」―古き園芸人 半生の人生行路―吉津良恭(大阪市嘱託)

京都植物園在職中、福岡市公園課、並びにタキイ種苗株式会社長岡農場花卉部より招聘を蒙ったが、何れも恩給年限に達しなかったので辞退し、退園の決心がついてからも京都ホテルの温室及び室内装飾の担当者として交渉を受けたのであったが、頭初の念願として第二の故郷である大阪市内の緑化に非常な関心を抱いていた関係上、当時の助役であられ現中井市長と畏友公園係長(前千葉高等園芸学校助教授)方米次郎(注:方米治郎)氏の紹介で、前職歴が認められ、破格にも採用と同時に大阪市技師の拝命に接し、生涯中最も感激した次第である。

市町村の如き公共団体にあっては、受給年限の関係上、容易に任用せられないことが通例で、大学出身者と雖も、必ず五、六年間は技術員、臨時職員、或は見習生として勤務の上、更に場合によっては、予備講習、又は任用試験が課せられることになっていたものである。
何れの場合も、履歴書に転々勤務替えを行った事実がある場合は、採用に最も不利な条件となることを考えたい。

さて、大阪市在職十八年間中、何んといっても最大の行事は、大阪市、大阪新聞社、及び産業経済新聞社の共催にかかる講和記念婦人とこども大博覧会が、昭和二十七年三月二十日から五月三十一日まで七十三日間、天王寺、大阪城両公園で戦後初めての大博覧会として開かれた際のことである。

名誉総裁に高松宮宣仁親王殿下と同妃殿下を推戴、吉田内閣総理大臣を最高顧問に、総裁中井市長、会長前田久吉(注:大阪新聞、産業経済新聞創業者、社長)の各氏の他、名士多数が役員という大規模なものであった。

そこで、天王寺公園植物温室も施設の主要な部分となるので、両新聞社は莫大な経費を投じて温室の大改造を実施し、戦禍とジェーン台風で極度に大破した無残な温室も改装の結果、全くその面目を一新したのである。
然し、外装のみに止まらず、収容植物の新購入が必要となりこれ又巨額の費用を要したことは申すまでもない。

このうち、平素から筆者の垂涎久しきに亘る図示のマクロザミア・ミケリーの高さ五尺、葉二〇枚、二尺五寸鉢の珍樹を再三交渉の末、名古屋市の畏友樋田義雄君から快く譲渡を受けたことは有難いことであった。

樋田君を知ったのは京都植物園勤務の頃で、二十年以上にもなろう。
この時、同君はオーストラリアから該種子を取寄せ実生せられて未だ五年生の高さ僅か一尺位の若苗であったもので、全国にも未だ栽培するものがなく、只一鉢あるのみで、私は二十数年この方熱望し続けていたものだけに、真に嬉しい思いがすると同時に、同君の好意を感謝してやまなかったほどの珍品である。

次に、主催者側から会期中、園芸作品展覧会を週一回宛行って欲しいとの希望が述べられたため、委員と共に各界の有力者と数回に亘って会合の上、八回実施することが出来た。
この種の会は、らん、朝顔、菊、花菖蒲、椿、バラ、ダーリア等々、概ね一種に限られた催しが通例であり、只一回で足るものであるが、僅か五十余日間に一日も間断なく開催することは至難の事で、本邦園芸界に於ては、前代未聞の行事であった

何れも出品者が自慢の作品であり、貴重品揃いなので、平素の管理は勿論、搬入、搬出の運送には、一方ならない心労を伴ったが、全会期中、厳重な監視の許にありながら一、二の不心得者によってサボテンの盗難を見たことは残念で、申し訳次第もないが、少数に終ったことは不幸中の幸いであった。

各催物の変る毎に、お手のものの報道機関によって写真諸共詳細に掲載されるので、連日好事家のみでなく他府県からの観覧者によって盛況を見、全国的に天王寺公園植物園温室が紹介せられたのでこの点からも、苦心さんたんはしたものの、非常に有益適切な展覧会たらしめることが出来て働き甲斐のあったことを嬉しく思っている。
これとても、永年この途に携わり、多くの先輩知友の平素からのご交誼の賜と信じ、今更友情に感激した次第である。

上述の通り、諸種の催し中、その観覧人員は僅か五十余日にも拘わらず、実に三十五万人の多きを数えた。
この数字は毎年平均延五万人(約八十万円)を見る同温室の現状から見て、優に三年間の観覧人を収容した好況を呈したので、会としては非常な成功であった。

この温室は飽くまで本市の文化施設の一部で、収入本位ではないが、収入の伴わない施設に対しては予算の配分に相当影響を見るので、内容の充実を望むにはどうしても宣伝を以て有料観覧者の増加を図らねばならない関係上、珍奇植物の蒐集に努める一方、常に緊密に新聞、或は放送機関を通じて、これが誘致に苦心を払わねばならなかった

これ等の見地から、昭和二十九年四月水野名古屋東山植物園長に請い、同園愛培にかかる南米アマゾン河原産の世界の珍花の一つとして知られている斯のビクトリア・レジア(おおおにばす)の苗の分与を受け、温室裏のプールに養成、九月に至り、写真の様な直径五尺の大葉四枚と端麗な白色の大花を咲かすことができた。
このことは、市内の中心に丁度真夏に蓮の花でも眺める具合に簡便に鑑賞し得て、市民から頗る好評を得たものである。

然るに、水温不足から採種するに至らず、残念だったが約半年にしてあたら枯死に至らしめて仕舞った。
折角の評判に応えねばらず、種子の入手に奔走し、或貿易商を通じて東印度セイロン方面から再度種子の輸入を試み、慎重に播種したが、予想通り種子の乾燥が原因して不発芽に終り、三十年は見送りの止むなきに至った。

翌年、折も折、静岡県下伊豆南端にある知人東京大学附属樹芸研究所長渡辺章氏より、苗を分譲するから引取られるようとの好意ある通信に接したので、三十一年四月、係員出張持参し、今回は予め準備した温室内の水槽に植込み培養、秋には百十数粒の優良種子も登熟せしめることが出来た。
直ちに二、三栽培希望者に試作方を奨めたので、今後は先ず内地の何処かに作られている訳で、絶種の心配は先ずなく、この点安心である。

温室に目下栽培中の植物は、種類として六十科約二百五十種で、この数は現在のところ、植物園並の内容と言えよう。
然し、京都植物園で筆者が取扱ったものは五百余種であるから、半数が戦災の厄に逢い、絶種となった計算になる。

けれ共、最近に至り一、二の業者により、或は遠洋航路の船員などの手により、種苗の移入を見つつある今日、数年を待たずして、戦前に見られない新品種と併せ、賑々しく登場することであろう。
園芸界にも神武以来の好況が訪れるのではないかと想像を逞しくしている向は豈筆者のみではなかろう。

私が大阪市に赴任して以来、自身鋤鍬を手にして栽培したことは殆んど皆無で、多くの従業員諸君を口述指導する程度で、現場技術者は担当する大小数十ヵ所に余る公園の管理に当ること少なく、机上計画、或は隣設公園に於ける地元民との折衝、営造物その他電灯水道、治水等々に関する事務的折衝で四六時中煩雑な事務に追われているのが公共団体における技術者の実態で、本市で体験した園芸技術は一歩も前進しなかったことは詮方ない次第である。
これ等実地指導に当っては、総て京都府時代、大学の諸先生方を始め、上司先輩より受けた知識のみで、今後は改めて古きを尋ね新しきを飜き(注:繙、ひもとき)十八年の空間を補う意味で、只管(ひたすら)勉強に励みたい念願である。

昭和三十一年十月、停年制実施により依願退職、茲に満十八年間を過ちなく全うし得たことは多くの先輩諸氏のご懇情によるもので、終生忘れることの出来ない大きな感謝の気持で一杯である。
なお退職に際しては特別に上司の配慮により、満四十年の官公吏生活とその間園芸事業に永年関係せる技術者として認められ同年十二月大阪市嘱託として、市長より「園芸事務を委嘱する」辞令を受け、深い感激に浸っている。

今後は浅学微力ながら、都市の美化、園芸技術の向上、趣味の普及、及び土地の美装問題等につき、乏しい経験ながら専心尽したい所存である。
希くば旧倍に優るご支援をお願いすると共に、読者各位のご健康を祈って筆を擱く。

顧れば過去六十一年間の比較的永い間のうち、長男を戦闘に捧げ、吾身は戦災、水害、風害に遭う等の厄に禍され乍らも、公私とも種々悲喜交々の境涯を経験するも、只今は平和に孫諸共、余生を何等煩労もなく消光し得られることを神に感謝せずにはおられない。
二十冊余の著書は半生の記録として目の辺りに眺め、数十回の園芸放送等も想出として時折懐しく瞼に浮ぶ。感謝に満ちた人生である。

(完)

講和記念婦人こども大博覧会  乃村工藝社のサイトから
https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=746

天王寺公園の温室は、2014年9月に閉園し、植物の一部は「咲くやこの花館」に移植された。

参考

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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