農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第121回 アジサイ「Otaksa」への思い~其扇(そのぎ)への手紙

公開日:2021.6.4 更新日: 2021.6.29

『シーボルト先生其生涯及功業』(復刻版)

[著者]呉 秀三
[発行]名著刊行会
[発行年]1979年(原著初版1896年吐鳳堂書店)
[入手の難易度]易

「1830年3月 帰国途中のシーボルトが其扇(そのぎ)に送った手紙」

[著者]石山禎一、宮崎克則(いしやま・よしかず、みやざき・かつのり)
[掲載]『西南大学研究紀要』第8号
[発行]2020年3月

入手の難易度 易 下記サイトにて論文閲覧可能

http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/1890

 

シーボルトが名づけたアジサイ「オタクサ」(Hydrangea macrophylla 図1)について、本連載第20回で山本武臣『アジサイの話』を紹介した。「オタクサ」の名前の由来がシーボルトの日本人妻だった楠本滝の愛称である「お滝さん」だと判明した逸話についての物語だった。

さて、『アジサイの話』の著者、山本武臣はこの逸話のなかで医学者、呉秀三(くれ・しゅうぞう1865~1932)による大著『シーボルト先生其生涯及功業』にある記述に触れている。この分厚い本(図2)は復刻版だが、本文920ページ余、これとは別に索引と資料が500ページほどある。たいへんな著作物だった。

図1 シーボルトの著作『日本植物誌』に掲載されたHydrangea otaksa(Hydrangea macrophylla)の図 (Wikimedia commonsから)
図2 呉 秀三・著、『シーボルト先生其生涯及功業』。昭和54年発行の復刻版。

天金(本の上が金色)、立派な布貼りの帙(ちつ、函)に収められ、パラフィン紙によるカバーがつけられていた。

「お滝さん」が描かれた2つの肖像画

この分厚い『シーボルト先生其生涯及功業』の索引を頼りにページを開いていくと、著書「Nippon(日本)」には「SONOGI(其扇)」「OTAKSA(お滝さん)」という2つの肖像画が確かにあった(図3、4)。これはシーボルトの助手で画家のデ・フィレニューフェ(デ・フィレニューフ、デ・フィレネーベ)という人物に描かせたものだという。ノンフィクション作家、吉村昭は、お滝さんと娘のイネを主人公にして『ふぉん・しいほるとの娘』(初出1977)を書いているが、デ・フィレニューフェはシーボルトの日本調査の助手としてもう一人の薬剤師、ビュルゲル(ビュルガー)とともに派遣された画家だったという。

『シーボルト先生其生涯及功業』には「楠本」という姓については、もともとタキさんの実家である俵屋にまつわる名字であるが、シーボルトの一人娘、イネの代で改名されたものだという話が載っている。もともとはシーボルトの名前からシーモト→「失本(シイモト)」という姓だったらしい。

その後、娘のイネが長じて女医となり、身分に見合った姓が必要だということで「失本稲」(あるいは志本)と称したが、宇和島藩に藩医の1人として仕えることになった時、藩侯・伊達宗城がその名を「面白くない」(失という文字に難あり)というので、俵屋の祖先が楠木正成公の臣下であるということから「楠本」と改めさせたのだという。吉村昭の小説では姓だけではなく名前も変えたことを描いている。宇和島・伊達家から「伊」の1文字を授かり、シーボルトの「ト」から「篤」を引いて「伊篤(いとく)」とし、姓は例の俵屋由来の「楠本」で、「楠本伊篤」と名乗るようになった。同じくイネの娘の「タダ」も藩主の命により「タカ」と改められた(改名はイネより先に行われた)。「日本近代医学の父」とも称されるシーボルトは幕末の日本に大きな足跡を残し、医師や蘭学者など数多くの弟子を育てた。この偉大なる師の娘であり孫のイネやタカの人生は、幕末から明治という激動の時代に、これらの高弟やその周辺の人物といやおうもなく濃厚に関わり翻弄されていくことになった。

図3 「SONOGI 其扇(お滝さん)」の肖像。かんざしやこうがいの数で上位の遊女だったことがわかる。このページには其扇の最も親しかったという「イトセ」という遊女の姿も描かれている。イトセ(糸瀬)は、禿(かむろ:遊女見習いの幼女)として其扇についていた。
図4 「OTAKSA」の表記のある「お滝さん」の肖像。目鼻立ちの整った容貌で茶色味がかった瞳が印象的な女性であったという。この絵はデ・フィレニューフェによって描かれたもので、図3より後年の、娘イネ出産後らしい落ち着きと強さが感じられる(吉村)。

長崎・丸山遊郭と出島の外国人

シーボルトの妻、お滝さんは、「其扇」という名前の遊女だった。本来は「そのおおぎ」と発音するところだが、シーボルトは「ソノギsonogi」と表記した。また同棲するようになってからは「オタクサ(おたきさん)」あるいは「モキシャレ(意味不明)」と呼んでいたという(呉)。タキがどのようにしてシーボルトの妻となったかについてはいくつかの説があるが、長崎・丸山遊郭、寄合町の引田屋(ひけたや)お抱えの遊女だったというのはどの説にも共通する。引田屋は丸山の遊女屋のなかでも最も格式の高い店だったという(幕末には数多くの有名な志士、文人らが長崎留学中に逗留した「花月」楼は引田屋の庭園内にあった)。その引田屋で其扇は「山の花」というほど美貌を誇っていた。

1823年(今から約200年前)に来日したシーボルト(図5)は27歳、其扇は16歳だった。石山禎一、宮崎克則は、論文「1830年3月 帰国途中のシーボルトが其扇に送った手紙」(2020)で、孫娘のタカ子の聞き取りメモをもとに、其扇は「名付遊女(なづけゆうじょ)」だったという説を紹介している。「名付遊女」というのは遊女屋に手数料を支払って名義だけの籍を置くことで、これは、出島に出入りできる日本人女性は遊女だけだったために行われていた奥の手だった。孫のタカ子によると、祖母(タキ)は楠本の家で見初められたが当時、別な中国人(唐人)からも求められており、結局「くじ引き」でシーボルトが引当てて一緒になったという逸話もあるそうだ。シーボルトは母親への手紙に「今やひとりのアジア美人を所有しているのです。彼女をヨーロッパ美人と取り替える気などとても起きそうにありません。そもそも私の待遇もすばらしいもので、わが食卓は毎日第一級です」と書き送っていた(石山・宮崎)。


図5 シーボルトが来日した当時の肖像。年齢27歳、野心に満ちた若き英才だった。母国では優れた医術と博識が認められており、来日後、その名はすぐに江戸まで知られるようになったという。川原慶賀筆「シーボルト肖像画」(長崎歴史文化博物館蔵、Wikimedia commonsから)

長崎の丸山遊郭は、京都の島原、江戸の吉原、大阪の新地に並び称される当時の日本有数の規模をもつ遊郭のひとつで美しい遊女の多いことでも知られていたという(吉村)。長崎では「舶来品」や国内の特産物が取り引きされ、ビッグマネーが動いていた。江戸や大阪では厳しく制限されていた華美な着物もここではお構いなしで、オランダ渡りの更紗やラシャといった高級な布地や豪華な刺繍の施された着物を身に着けた遊女は唐人屋敷や出島での饗宴に花を添えた。さらに丸山の遊女には、鎖国政策下の日本において唯一の外国人がいる地域という特異な条件があったため、他に見られない「日本行き」「唐人行き」「オランダ行き」の3つのクラスがあった。「日本行き」は日本人のみを相手とする最上位で、以下、唐人、オランダ人と厳然とした棲み分けが行われていた。

中国人もオランダ人も塀や堀に囲まれた狭い地域(唐人屋敷、出島)に閉じ込められており、まったくの不自由であった。現在のコロナ禍で多くの人が感じているように、外出移動の自由がないというのはたいへんなストレスになる。母国に帰りたくてもオランダの交易船の場合、一年に一度、夏の間の2隻だけしか往来が許されていなかった。その間は出島にほぼ閉じ込められる。それゆえ彼らはこの島を「国立の刑務所・牢獄」と呼んでいたという(吉村)。出島には多い時で15名ほどのオランダ人が居住しており、人間関係的にもせまい世界だった。出島にはこれらのオランダ人の他に身の回りの生活を世話する東南アジア系の使用人がおり、また役人や通詞(通訳)、雑用を承る日本人100名ほどが働いていたそうだ。しかし、女性に関しては「女人禁制」、遊女以外はいっさいの訪問、滞在が許されておらず、たとえ商館員の家族であっても許されなかった。実際に妻子を連れてきた商館長、ヤン・コック・ブロムホフの家族が強制送還させられている。こうした理由もあって、商館員たちにとって遊女とふれ合うことは最大の歓楽になっていた。

江戸から明治の歴史を概観すると「遊女」や「公娼制度」が問題になるのは欧米の倫理観や人権が無視できなくなる明治になってからで、この時期に集中して遊郭とそこで働く人達の職業を「賤業」として貶める意図的なプロパガンダが行われたというが、それ以前の社会には現在とは異なる価値観があったことを押さえておく必要がある。長崎の遊女は、通詞以上の密度で出島のオランダ人と直接コンタクトが取れる貴重な存在であったため、遊女を通じて貿易に関する情報や品物が日本側に流入する、ひとつの窓口、装置として機能した。出島でオランダ人が遊女に与えたものは届け出をすれば本人に与えられることになっていたため、これらのものが長崎市中で換金され流通していた。その内容は、白砂糖、絵鏡、切子蓋物、切子瓶、ガラス板、オランダ靴、オランダ水張傘、オランダタンスなど貴重なものが多かった。なかには「ラクダ2頭」というものがあり、このラクダは見世物として江戸まで旅をしてたいへんな評判を呼んだ。あるいは、遊女という存在があったためにオランダの商館員と日本との関係が長期間に渡って穏便に維持されていた、こんな見方をする研究者もあるという。このように歴史の影で思わぬ影響力を持っていたということも否定できないことのようだ。

オランダ人や唐人と遊女とのなじみができ、同じ相手との関係が繰り返されると、自然、遊女が妊娠することも成り行きで、そうなると、必ずお役所に届け出をすることが義務付けられていた。妊娠に気づいた遊女は抱主に知らせ、順に上に報告され、出島の役人を通じて相手のオランダ人に子の認知を尋ねる。オランダ人が認知すれば奉行所へ懐妊届が提出され、父親は出産と養育に責任を負う義務が生ずる。外国人はやがて帰国することになるが、日本人は海外に出ることはできないため、母子のその後の生活を保障することも求められた。シーボルト以前にも後にも遊女の妊娠と出産、届け出は数多くあったわけだが、現実には「死産」がとても多かったという。この地の遊女は実家での出産が認められており、妊娠中あるいは出産後になんらかの「処置」があったのではないかと想像されている。「オランダ行き」は、数年間の「奉公」で多くの収入を得ることができたが、混血児の母子家庭となったときに、いくら養育費があっても生きづらいというのが現実だった。高名な医師シーボルト帰国後のタキや娘イネの人生もまた同様であった。

其扇の懐妊についても当然、シーボルトによる認知、届け出が行われた。シーボルトは自分に子どもができたことをとても喜んだという。シーボルトの場合は産科の医師でもあったため、其扇は特別に出島の中で女児を出産した、という説が多いが、役所への届出記録によると、実家で無事に出産し、そののちに3人で出島で暮らすようになったというのがほんとうのようだ(石山・宮崎)。イネを産んだ其扇は産後、乳の出が悪く、シーボルトは乳母を雇った。乳母もまた出島には入れないので、例の「名付遊女」として出入りさせた。石山・宮崎論文には、シーボルトの専属絵師とも言われる川原慶賀による「蘭館之図」(図6)の解説があり、これが非常に興味深い。建物の屋上に望遠鏡を覗く黒い上着の人とシーボルト(白衣に帽子)の家族3人と使用人がおり、そこに左手の階段を急ぎ登ってくる地味な着物姿の女性が乳母である。この作品は出島の様子を10の場面で描いた連作の第一場面で、遠くに見えるオランダ船を待ちわびる人々の様子を描いたものである。

図6 川原慶賀による「蘭館之図」(長崎歴史文化博物館蔵 Wikimedia commonsから)

望遠鏡を覗いているのは商館長、となりで声をかけている白い服を着た人物がシーボルト。緑の帽子をいつもかぶっていたという。其扇はイネを抱えて海を見ており、使用人の黒人オルソンが子どもをあやそうとしているようだ。母、其扇の腕の中でむずかるイネにお乳をあげようと急いで階段を登ってきた乳母の姿が見える。

今生の別れとなる形見として

シーボルトは、歴史上の大事件となったいわゆる「シーボルト事件」により1829年に国外追放となった。

呉の本の記述で驚いたのは、シーボルトが「毛髪」を大切にしていたというエピソードだ。日本を去る時に、妻タキと幼いわが子イネの毛髪をもらい受け、とても大切にしていた。おタキさんの黒髪は紙に包まれていた。娘イネの茶褐色の髪は小さいガラスの容器のなかに収められていたという(石山・宮崎論文に毛髪の写真あり)。これらの毛髪は、30年後の奇跡の再会の際にシーボルトからおタキさんに返され、現在まで伝えられている。

シーボルトは其扇と出会って結ばれ、子供まで授かり、6年以上も過ぎていた。当時の別れは文字通り、今生の別れであった。その後の話だが、シーボルトは離れ離れになった妻子の毛髪だけでなく、恩師であるデーリンゲルの銀白色の毛髪も大切にしていたという。これは当時、一般的なことだったのか、それとも、医師であり博物学者でもあったシーボルト特有の感傷、追憶の流儀だったのだろうか。

シーボルトが母娘の毛髪を思い出として持ち帰ろうとした一方で、おタキさんは煙草入れ(嗅ぎ煙草)をプレゼントした。これは直径が10cm、厚さ3cmほどで香合形をしており、箱の表におタキさん、蓋の裏に小さなイネが描かれた漆器製の上質なもので絵は川原慶賀が手掛けた。さらに細工師に頼んで透明な薄い青貝をはめこんでもらっている(石山・宮崎論文に写真あり。これとは別に、蓋の表にイネを描いたのみの同様な煙草入れがあり、これはシーボルトの母親の分として製作して贈ったという、吉村)。

こうして思い出の品を交換し別れたおタキさんとイネ、シーボルトだったが、30年後、再び会うことができた。幕末の黒船来航以来の外交政策の転換により、シーボルトの追放は許されることになり、来日が実現したのだった。シーボルト63歳、タキ53歳。タキはもはや別な人の妻であり母となっており、イネは女医となり娘タカも連れていた。この再会の時に、お互いが贈りあった毛髪や煙草入れ、手紙などが交換されたという。それらの品が日本とドイツ両国で保存され今日に伝えられている。

シーボルト帰国後の母娘の生活費

石山・宮崎論文によると、シーボルトは、自分がいなくなったあとも母娘の生活が成り立つように、のちのちまでも気配りして準備をしていたことがわかる。出島のオランダ商館員たちは、オランダの東アジア貿易の拠点であったバタヴィア(インドネシア・ジャワ島・ジャカルタ)にそれぞれ代理人を置いて給与などの管理をさせていた。シーボルトも帰国の途中でバタヴィアに立ち寄り、そこであらためて自分の給与や個人で取り引きした配当などの総額がどれほどになっているかを知る必要があった。その上で日本に残した妻子への送金を行ったという。石山・宮崎論文によるとその額は「1000テール(金1両換算では約167両)」で、現在の金額にすると約1670万円を二人の生活費として送ったことになるそうだ。シーボルトは手紙のなかで「これを運用して、利息で暮らせ」とか「無駄遣いしないように」などと書き送っている。

おタキさんからの返信の手紙には、これらのお金を受け取ったことが記されていた(銀10貫目=1000テール)。おタキさんは、これらの大金を商館のコンフラドール(「買物使」「諸色売込人」)に預けて利息150目(匁、約25万円)を毎月受け取っている。おタキさんはシーボルトのいいつけを忠実に実行していた(石山・宮崎論文)。

出島のオランダ商館では、商館員は少なくとも1年から数年をこの「監獄」で過ごす。そのなかで、特定の遊女となじみになるものも少なくなかった。シーボルト以前の話だが、商館長ヘンデレキ・ドウフという人物は帰国、再来日の期間を含めて17年間を長崎に滞在して妻子を持ち出島内で特別に一緒に暮らした。帰国の際には、愛する息子「丈吉」を連れて帰れないのを悲しみ、八方手を尽くして子供の未来のために「白砂糖300籠」を役人に託し、将来までの生活費と成人後には地役人への採用を約束させた。当時、砂糖は嗜好品としてだけでなく滋養に富む薬品としても重宝されており、300籠は1180両に換算される驚くべき量だったという。ドウフの願いは江戸に伝えられ、叶えられた。混血児の社会的な立場はとても困難な時代にあってたいへんに異例な措置だったという(吉村)。

シーボルトがおタキさんに送った手紙

石山・宮崎論文の特筆すべき発見は、シーボルトが日本を追放となって以後、中継地のバタヴィアからおタキさんに送った3通の未発表の手紙である。論文の最後にそれが現代語訳されて掲載されている。いずれも、情愛に満ちた内容で、シーボルトがおタキさんとイネをほんとうに大切にしていたことがわかり「人間シーボルト」が深く感じられる。本項の最後に、3通のうちひとつだけ、ここに抄録させていただきたい。

 

[翻訳 オランダ語手紙](石山禎一 翻訳) ※石山・宮崎論文2020から

1830年3月4日 バタヴィアにて

愛する優しい其扇と「おいね」へ

 

私は船中で非常に重い病気になりましたが、幸いにもバタヴィアに到着しました。今はとても元気で、明日(5日)早く4時にオランダへ船長ファン・デル・ツェープと一緒に出発します。私は愛する其扇と優しい「おいね」が平穏で幸せに暮らすことを望んでいます。私のことを忘れないでください。毎日、(2人のことを思うと)父親らしい心を持って今でも涙がこぼれるのです。本当に可愛い「おいね」のようなこどもはジャワ全体で見つかりませんが、([おいね]のことを思い出し)ひどく心が痛むのです。お前と「おいね」のことは、万事良きよう世話をいたします。私がもし死んだ時は、お前と「おいね」に私が持っているすべてのものの4分の1を送ります。今年、私はお前と「おいね」に(次の贈物を)送ります。

白の綿布1枚
青と赤の綿布1枚
卓布(不完全な)3枚
上等な更紗(不完全な)3枚
鼈甲櫛1つと簪1つ
赤い簪1つ
指ぬき10個
指輪7個
針箱3個
サフランの束2つ
クリスタルガラスの皿1枚

私が船で送ったそれぞれの品には、最初と最後にお前と「おいね」宛に私の印が捺してあります。この贈物はほんのわずかですが、フィレネーフェから手に入ります。私は手紙でこの品がお前と「おいね」宛に送ること、彼(フィレネーフェ)からお前へ1000テール(銀10貫目)を渡すことを書きました。このお金を運用して、利息でお前と「おいね」は暮らしてください。私が無事でいるうちは、毎年、私はお前と「おいね」にたくさんの贈物を送ります。私はバタビアではとても元気で、オルソンはここではわが家の主(※シーボルト)によく仕えたので、オランダへ連れて行きます。また中国人1人を一緒に連れて行きます。これはオランダからお前宛てに日本語の手紙を書かせるためです。ウイッテヒウは今も元気で、お前のことを忘れずにいます。私が非常によく世話した沢山の生きた植物は、すべて開けた(そのままの)状態でオランダへ持って行きます。私の母は今もとても元気で、あまり心配もして(衰えても)いません。この手紙がお前に届くころには、私はオランダに到着しています。私が(お前と)約束したように、△○(※シーボルト事件)のことが忘れられず、(思い出すと)涙の乾く暇がありません。どうして私は愛するお前や「おいね」のことを、片時も忘れることができようか。私が一膳の食事をするときは、お前に半膳を供えます。

日々、お前の誠実な人柄を思いながら、毎日、お前と「おいね」の名を呼んでいます。お前とこどもが元気に暮らし、(弟子たちや)友人たちの皆さんへよろしくお伝えください。さようなら。

 

お前のドクトル・フォン・シーボルト

ワタクシ 子(ね)ン

ナンテモ イケテヲル ソノギヲシトル

 

以上で今日はおしまいであるが、上に抄録した手紙に対する「おタキさんからの返信(1830年の其扇からシーボルトへの最初の手紙)」については2019年の『鳴滝紀要』第29号などですでに発表されており、下記論文や、サイトで知ることができる。いずれも二人の関係がよく感じられる内容になっている。

論文「1830 年 12 月、帰国したシーボルトへ其扇が送った最初の手紙」 アーフケ・ファン=エーヴァイク

論文「1830年12月 其扇がシーボルトに送った蘭文手紙」宮崎克則 『西南学院大学 国際文化論集』第35巻第1号 2020年

http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/1930

朝日新聞の記事 2018年10月27日

https://www.asahi.com/articles/ASLBJ470JLBJTLZU001.html

日経新聞の記事 2018年10月27日

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37016000X21C18A0ACX000/

 

参考

『ふぉん・しいほるとの娘』(新潮文庫版) 上・下 吉村昭 1993
「江戸時代長崎の中国人遊客」 根橋正一 流通経済大学社会学部論叢 24(2) 2014
『NIPPON』の画像1
ULB ドイツ、ザクセン・アンハルト州立大学・州立図書館のデジタルコレクション(Universitäts und Landesbibliothek Sachsen-Anhalt)が公開する Siebold, Philipp Franz von[シーボルト]の『Nippon』Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzlandern. 2 vols (text and plate). [日本:日本とその隣国・保護国記録集] 1852  75コマと79コマ

オタクサ(楠本滝)の肖像

http://digital.bibliothek.uni-halle.de/hd/content/pageview/1021874

イトセとソノギ(楠本滝)

http://digital.bibliothek.uni-halle.de/hd/content/pageview/980085

『NIPPON』の画像 2  国際日本文化研究センターのサイトから

https://shinku.nichibun.ac.jp/kichosho/new/books/17/suema000000005ha.html

『長崎出島の遊女 近代への窓を開いた女たち』 白石広子 勉誠出版 2005

「江戸時代における丸山遊女の実態とそのイメージ」 唐沢むつみ 京都先端科学大学人文学部『人文学部学生論文集』2019年

https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/human_association_2019.html

講演要旨「おタキの手紙から見た娘イネ-未公開の二つの史料から-」石山禎一

https://www.city.seiyo.ehime.jp/material/files/group/7/youshi1.pdf

『新装版 間宮林蔵 』(講談社文庫) Kindle版 吉村昭 2011

出島の暮らしぶり (長崎市公式観光サイトから)

https://www.at-nagasaki.jp/dejima/dejima/living/

本連載 第20回 西洋アジサイはすべて「日本のアジサイ」からつくられた~山本武臣『アジサイの話』

https://karuchibe.jp/read/5146/

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

#アジサイ#オタクサ#シーボルト#長崎#出島#オランダ#日蘭貿易

この記事をシェア