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第122回 米国で「ツバキ・キング」と呼ばれた日本人~清野主の足跡

公開日:2021.6.11

『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』

[著者]加藤新一
[発行]新日本新聞社
[発行年]1961年12月25日
[入手の難易度]やや難

参考
『農耕と園芸』1960年5月号 第15巻第5号

あるとき、インターネットの検索で「清野主(きよのつかさ)」氏について調べている時に、偶然にものすごい記録があるのに気づいた。ジャーナリストの川井龍介氏によるアメリカの日本人移民に関する記事である(※下記サイトを参照)。清野氏に関しては『農耕と園芸』誌、1960(昭和35)年5月号(図2)にその略歴が紹介されているのだが、この記事ではそこには書かれていない内容が記されていた。

http://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/10/30/beikoku-31/

『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』

僕が最初に日本の花き装飾の歴史を調べていこうとした時、戦前にアメリカで花の仕事を身につけて帰国し、花店で活躍した人がたくさんいることがわかった。さらには、観賞植物の営利栽培に関しても、アメリカで実地で栽培を経験した人たちが先頭に立って拡大していった道のりがわかってきた。こうした先進的な生産者らが中心となって、関東大震災直後に東京の銀座に花のセリを行う市場が作られたことも大きな出来事であった。調査を進めるなかで、第二次世界大戦が始まるまで、カリフォルニア州(加州)における花きや野菜といった園芸分野で日系人が大活躍していたことも見えてきた。ただ、カリフォルニア以外の資料についてまとまったものを知らなかったので、今回、『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』を手にして、このボリュームと取材内容にとても驚き、感動した。著者の加藤新一は、あの広大なアメリカを車に乗って、ひとりでこの膨大な量の取材をしていた。加藤新一の足跡を調べた川井龍介氏の記事によると、カリフォルニアから全米を回って日本人に一人ひとり取材し、クルマ一台乗りつぶすような旅だったという。

図1 加藤新一の労作、『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』 このボリューム!
図2 「シリーズ会長の横顔」で日本パンジークラブ会長として紹介された(『農耕と園芸』1960年5月号)
『米国日本人百年史』にも同じ写真が使われている。

図2は『農耕と園芸』に掲載された写真で、同じものが『百年史』にも掲載されている。図2右下のもう一枚の写真は、清野のお嬢さんで栄子さん、とある。『百年史』の記述にあるメリーさんなのだろうか。『農耕と園芸』にある略歴と『百年史』の記事はほぼ同じ内容になっている。発行年は『農耕と園芸』のほうが1年早いが、取材の時期はどちらも同じか、『百年史』のほうが早かったのではないかと思われる。さまざまな受賞歴のある清野の園芸人生、略歴はある程度整理されていたのではないかと想像する。

図3 清野主はテキサス州で温州ミカンを手掛け、のちにアラバマ州モービルに移りツバキやツツジで成功した。

「ツバキ・キング」と温州ミカン

清野主については、アメリカに渡ってツバキで成功し巨額の富を築いた人でアメリカの「ツバキ・キング」と称されたこと。1941年に帰国していたときに真珠湾攻撃、日米戦争の開始に当たってしまい、すべての財産を失った。戦後は帰国して東京・原宿駅のすぐ近くに住んでいて、ビルの屋上に温室を備えて園芸生活を楽しんだ。園芸文化協会副会長を始めいくつかの園芸組織に属し、日本の園芸文化の振興に尽力された、というようなことを聞いていた。

今回の記事で驚いたのは、いちばん最初が「サツマ・オレンジ」の苗木生産だったことだ。ヒューストン(テキサス州)で基礎を作り、アラバマ州モービルの街がその舞台になった(図3)。しかも、この街がツツジやツバキの街として全米に知られるようになったのも清野ともう一人の偉人、沢田幸作の努力の成果であったこともわかった。二人ともアメリカのツバキの歴史に名を残すレジェンドとなっている。戦後、日本の園芸界の振興に貢献した清野が恵泉女学園短期大学園芸科に温室と、鉄筋ブロックの作業ハウスを寄贈したという話も知らなかった(※実は『農耕と園芸』の記事にも記されていました)。

「サツマ・オレンジ」というのは、いわゆる「温州ミカン」で、戦前、日本から大量に輸出されており、北米ではちょうどクリスマス前に店頭に並ぶため、「クリスマス・オレンジ」として季節の風物詩的なフルーツになっていた。百合根輸出で知られる横浜の新井清太郎商店はミカン輸出でも大きな量を扱っており、それほど人気の日本ミカンをアメリカ国内でも生産したいというニーズがあるのは当然のことだっただろう。以下、『百年史』の記述を抄録する。

 

清野主(TSUKASA KIYONO)氏について

日本パンジークラブ会長、日本園芸文化協会副会長  清野 主(東京都)

そのアメリカ生活中はツバキ、ツツジの改良、大量生産で百万長者、また「ツバキ王」と謳われ、日本に在っては日本園芸文化協会副会長、日本パンジークラブ会長として「花の国日本」の実現に老後をささげ、さきに大日本農会から緑白綬有功章の表彰を受けた清野主氏は、一八八八年(明治二一年)岡山県立病院長清野勇氏(東京帝大医科第一回卒業生)の次男として岡山市に生れた。

清野氏が一歳の時、大阪府立病院長に栄転した厳父一家に伴われて移り、大阪で幼少時代を育った。先祖代々からお医者であったが少年のころから植物いじりが好きで厳父から「何んでも好きなものになるがいいが必ず世界一の者になれ」といわれた。

長じて一九〇六年(明治三九年)に府立岸和田中学校を卒業、同年秋、青雲の志をいだき、厳父から当時の金五万弗をもらい単身渡米した。折がらブーム時代のテキサス州で一旗あげようと遥々乗込み、五年間をヒューストン周辺で語学及び農業の研究に専念、苺畑に一日一弗で労働もし、特に「サツマ・オレンジ」と呼ばれ、同州にはやっていた日本蜜柑など柑橘類栽培の研究に力を注ぎ、ヒューストン市南方のリーグシテーに四〇エーカーの蜜柑畑を経営して活躍した。かかるうち、同苗木園をアラバマ州モビル(※モービル)市に移し、四〇エーカーの土地にて種苗木の生産をはじめ、かつての植物好き少年は、いよいよ終生の仕事とし各斯業に全生命を打込んだ。

同朋も全くいない、母国をはなれること八千余哩の異国辺境で、相談相手とてはなく、この若き苗木園主は想像に絶する辛苦を重ね、そのうえ汗の結晶である蜜柑園が一夜の大霜で全滅の災厄に遭うという文字通りにパイオニアの労苦を再三体験した。

さらに第一次世界大戦が起ると、苗木類の需要がピッタリ止り、そのうえ一九一四年の大暴風雨に家は吹飛ばされ、作物は全滅という悲運にも遭い、それと前後して数万本に増殖した温州ミカンの苗にキャンカー(※canker 果実や葉、枝に病斑が出る)が発生し、全園焼却という泣くに泣かれぬ法的処置をとられ、一時は絶望のあまり、自殺しようかとしたこともあった。

こうした重ね重ねの災禍に遭い、渡米以米の奮斗努力も水泡に帰そうとしたが、よくこれに堪え、増殖困難なツバキ、ツツジなど花木苗の栽培と新種育成に主力を転換、生来の植物好きから苦心研究をつづけ、他の追従をゆるさぬ栽培方法を編み出し、遂に後ちの大成功を遂げるに至った。

それには第一次大戦後のアメリカ好況の波も氏の事業に幸いし、ツバキ、ツツジをはじめ花木苗の需要が激増、年々拡張に拡張をつづけ、一九三〇年代には圃場は二〇〇エーカー(八〇町歩)に達し、苗木の生産は数百種に及び、年間三〇〇万本を広く北米各州に販路を持つまでになった。

氏がここに至るまでには年々家族とともに世界旅行に出て、世人にはゼイタクな漫遊の如く見えたが、さに非ず、世界各国の珍らしい植物を探して持ち帰り、次々に改良して新種をしかも短期育成の新方法で大量に生産して市場に送り出す、人知れぬ努力の結果、年々十万弗余の純益をあげ、巨万の富を得、パッカードやクライスラー・インペリアルなどの高級車を走らせ、米人社交界にも重きをなし、身を以って日米親善につくし、アラバマの天地に「日本人ここに在り」と日本民族のため気を吐いた。

一九三七年のこと、隣州ニューオリンズ市が市街地美化のため十数哩の公園路にツツジなどを植込んだ際、市からの直接取引き申込みを断わり、その他の業者に卸業として全必要量を供給したことが、業者間のみならず地方人に深い感銘を与え、氏に対する信頼感をますます高めた。

一九三九年三月九日号のアメリカ最大週刊誌「ライフ」が、アメリカに於けるツバキの流行を紹介し、その殊勲者として清野氏を「カメリヤ・キング」と呼び、数頁を割いて讃えたのも決して偶然ではなく、彼は幼時から厳父に言われた「何んでも好きなことで世界一の者になれ」との教訓を実現したわけであった。モビル市が「ツツジの都」といわれ、毎春ツツジ祭りが催されるほどになったのも、その現われの一つである。かくて清野氏は早くからモビル市のロータリー倶楽部員として、またニューオリンズの日米協会にも重きをなし、一九四〇年の秋、海外同胞代表として東京の皇紀二六〇〇年祝典に参列、日本拓殖協会出版の同記念誌にも、北米の代表的人物として収録されている。

しかし、その後、一九四一年末、思いもかけぬ日米戦争の突発は、斯くも順風満帆の如くであった清野氏及びその一家にも逆境ともいうべき一時期をもたらした。即ち、戦争の始まる少し前に日本を訪れていた清野氏は、戦時中ついに帰米の道がなく、また米人支配人に経営を委せていたモビルの大苗木園や邸宅その他全財産を、敵性外国人財産として米政府に没収され、その上、清野氏が戦前 から北京の土地や家屋に数十万弗を投資していたのまで烏有に帰する憂目に遭った。 全くの無一物にされた清野氏は、没収財産問題の解決かたがた、戦後一九四六年に帰米し、モビル市郊外の昔からの知人宅に寄寓、その植木園を手伝い、昔の百万長者が安い月給生活。それもいとわず働き、昔自分がやったツバキ、ツツジ苗の育成に携わるうち、没収財産の件はラチがあかぬが、戦時不在中の超過徴税になっていた二五万弗が払戻されたのを機に、一九五二年に日本に戻り、東京へ居を構え今日に及んでいる。 しかし日本に落着いてもじっとしている清野氏ではなかった。幼少時からの植物とくに花卉に対する愛着から、原宿表参道沿い高台の邸宅はさながら植物園の如く園芸文化協会(会長島津忠重元公爵=全国各種園芸団体の中央機関)の副会長に推されて事実上の同会推進力となり、年々「花の文化展」を開くほか日本の花卉園芸振興に東奔西走している。

図4 『百年史』の写真説明=前頁は自宅コンサベートリーに立つ、花とともに生きる清野主氏。本頁は上記「花の文化展」をご覧になる皇太子ご夫妻(当時)と、向かって左端が清野副会長、中央背後が島津会長、右端が加藤同会理事。

さらに一九六〇年春には日本パンジークラブ会長となり、交通事業や観光事業と園芸の結びつけ主力を注ぎ「花の国日本」をつくるため、一意物心両面から貢献、これを国際的につなぐため年々欧米を旅行、一九六一年秋にも世界の花を訪ね欧米十一カ国を歴訪したが、最近は恵泉女学院短大園芸科に鉄筋ブロックの作業ハウスと暖房完備の温室を寄贈した。

日米両国五十年に亘る園芸界功労に対し、一九五八年十月二五日、大日本農会高松宮総裁から緑白綬有功章を贈られ表彰の光栄を受けた。家庭には二女があり、長女メリーさんはペンシルベニア州シダークレスト大学卒、数年来、MRA(道徳再建運動)に全生命を打ちこみ、富士見のMRA日本センター建設に活躍するほか、日本内地はもちろん世界各国を飛び廻り、全く無報酬(むしろ数百万円を自ら寄付)で飛び迴り奉仕生活を送っている。次女マリオンさんはミシシッピイ大を経て聖ルイス市ワシントン大学社会事業科で学士号を得、羅府河内J氏(理学博士、クリブランド大助教授)と結婚、クリブランド市に住み一男一女がある。なお清野氏は現在本籍を東京都に移し、都内渋谷区原宿二ノ一七〇番ノ二九に居住している。(※原宿2丁目は原宿駅から竹下通りを経て明治通りを渡った先の地区となる。本文には表参道沿いと書いてあるのでほんとうの一等地だった。本連載第64回の吉野信次と同番地。)

アラバマ州

その昔、日本種の「サツマ・オレンジ」(ミカン)で知られ、後年は清野(※清野主)、沢田両日本人園芸家多年の研究と努力で「日本ツバキ」で有名になったアラバマ州は、モビル市周辺の海辺数十マイルがメキシコ湾に面するだけで、東はミシシッピー、北はテネシー、東をジョージヤ、南部の大部分をフロリダと、四州に囲まれ、奴れい時代から黒人問題がやかましい南部の一州である。

気候は四季温暖で、前記日本ミカンやツバキのほか、モビル市などはツツジが早く咲くので名高いが、この州に定住した日本人の草分けは、いまもモビル市に大植木園を経営する沢田幸作(大阪府人)であった。

図5 沢田幸作

パイオニア・沢田幸作

一九一〇年、その数年前からテキサス州南部へ盛んに移植していた日本ミカンが、同州を数年ごとに襲う大寒冷のため絶望視され、当時テキサス州アルビンでジャパニーズ植木園を新居、井村らと共同経営していた沢田幸作が、アラバマ州モビル市郊外グランドベイ(ミシシッピー州境近く) のオチャード会社へ日本ミカン苗を数千本転売した。その植え方など指導のため沢田みずから現地へ出かけたのが、アラバマ州へ日本人がはいった最初とされている。

沢田は一応テキサスへ帰ったが、アラバマ州が有望とみて二ヵ月後にテキサスの植木園から分離してみずから苗木を持参、右グランドベイに小規模な植木園を設け、各種苗木の仕立てをはじめた。これがアラバマ州における日本人営業の元祖でもあった。しかし、それら苗木が成長して本格的に植木園となったのは一九一四年で、そのころにはテキサス時代の共同経営者井村左兵衛(石川県人)も移住し共同で経営していたが、そのころは苗木耕作とともにその苗木を植えた畑の請負耕作にもたずさわっていた。

それまでの間に、一九一二年ごろやはりテキサス州で米作のかたわら日本ミカン苗木園を営んでいた西原清東らもまた、アラバマ州モビル市西南シダ・ポイントロードに二〇エーカーの土地を購入して苗木園を開き、その主任として清野主(大阪府人)をおいたが、西原は数年後にその植木園から手を引き、清野が譲り受け、清野はのちシームスに三〇エーカーの土地を購入して移り植木園をつづけた。

一方、沢田らの組は右のグランドベイに将来性がないので、一九一四年モビル市郊外のオバールック丘に土地三〇エーカーを購入して移り、一九一七年から各種植木小売り店を開き「オバールック植木園」と呼び今日まで続け、のち清野主とともに大きな存在となり、戦後は全アメリカ・ツバキ展開催のさい、きまって審査員として選ばれ、先年カリフォルニア州サクラメントで全アメリカ大会が催されたときも審査員として重きをなした。

沢田幸作が広く日本にも紹介されて一躍有名になったツバキの新種「ミセス・サワダ」をつくり出すにいたったには以下のような秘話がある。

一九一六年、事業ようやく緒についた沢田は郷里から吉岡信子を迎えて結婚したとき新婦は日本各地の珍しいツバキの種子二百余種類を持参した。大喜びの沢田が試作したが失敗に終わり、ただそのうちの数種が芽ばえたのを丹念に育てあげ、二十年後の一九三六年にみごとな花が咲き一躍有名になった。

しかし当の種子を持参した妻女は一九二九年すでに他界。亡き妻を永久に記念するため、新しく咲いたこの花に「ミセス・サワダ」と命名し政府に登録したのであった。

沢田はその後さらに八〇エーカーを市郊外に購入し拡張したが、近年は事業を子息たちにまかせ、みずからはあいかわらず花木の新種改良に余生を送っている。彼が改良に成功した新種にはツバキ二十七種、サザンカ十三種、無刺ビラキャンサー(※ピラカンサ)、桜樹などがあるが、桜は従来アラバマ州には育たぬとされていたものを、台木をえらび、それに日本優良種の穂をつぎ、りっぱに成長するものに改良され、いまでは年々南部諸州に数千本を売り広め、日本のサクラが随所に咲きつつあり、花による日米親善気風を盛り上がらせている。

ツバキ・キング清野主

戦前「アメリカ・ツバキ・キング」としてライフ誌にも四ページ大にわたり紹介された清野主は、現在は日本園芸文化協会副会長、日本パンジークラブ会長として、アラバマ州で多年苦心研究した草花園芸で世界を飛びまわり、名実ともに「花の国際人」として活躍しているが、彼が今日の大をなすまでにアラバマ州で体験した困難はなみたいていのものではなかった。

前記のように彼がアラバマ州に移住し、柑橘と苗木の栽培をはじめたのは弱冠二十三歳であった。日本人の相談相手もない辺境に非常な苦心でせっかく育てた苗木が一夜の大霜で全滅、あるいは大暴風雨で家は吹き飛ばされ、苗木は押し流され、一時は途方にくれる悲運にも遭遇、また数万本に増殖したサツマ・オレンジ(温州ミカン)にキャンカーが発生、全園焼却命令を受けるというハメにもあった。

このようなかさねがさねの災厄もよくたえて繁殖困難なツツジ、ツバキなどの苗木養成と新種改良に成功するうち、第一次世界大戦後のアメリカ好況の波に乗って、果然多年の奮闘努力が結実、ツツジ、ツバキをはじめ苗木需要が激増、その植木栽培園は二百エーカーに達し、苗木の生産は二百余種に及び、年間三百万本を北アメリカ各州に販売するまでに大成した。

以来、清野一家は同地方アメリカ人社会にならんで財的にも社会的にも堂々とした大きな存在になったが、彼はいつまでも開拓時代の困難と進取性を失わず、毎年欧米旅行して新種を物色しまわり、つぎつぎに業界を驚かす事業熱心で大成するうち、たまたま子女教育のため帰国中に日米戦争となり、在米財産は敵国外人所有物として競売に付される致命的打撃をこうむった。

捲土重来を期して戦後帰米、モビルで労働あるいは小植木園経営で再起をはかったが志成らず、ふたたび帰国して引退生活するうち、余生を社会、人心の美化に、花を愛する運動に献身、日本園芸文化協会副会長、日本パンジークラブ会長として尽くしている。モビル市は世界のツツジの町として有名であるが、清野、沢田らはその発展に貢献した。

オバールック・ナーセリー 沢田幸作氏について

住所 306 Park Ave. Mobile, Alabama

一九一〇年からアラバマ州に居住、椿や桜樹の改良、日米親善の功労で日本政府から黄綬褒章を贈与された光栄の沢田幸作氏は一八八二年十月二十一日大阪府豊能郡箕面町に父与治兵衛氏三男として生れた。一九〇六年に渡米、遠くテキサス州に入込み、米作から苗木業に移り、一九一〇年アラバマ州へ日本蜜柑苗を最初に販売したのが動機で、同州モビル郊外へ故井村氏共同でオバールック植木園を経営し今日に至る、同州居住五十年の草分け、パイオニヤである。

日本蜜柑はサツマ・オレンジと呼ばれ今も同州柑橘産業の一つとなっているが、第一次世界大戦後の好景気で多くの住宅庭園にツツジ、ツバキその他庭園花木が流行し、従来の農業苗木作りから花木、植木に転じ、ツバキのみならず桜樹の改良に苦心十年。従来アラバマには育たぬとされた「サクラ」を立派に育つよう新種を作り出し、年々数千本が南部諸州に植えられている。また、異花交配、枝変りの選択など研究を続け、椿二七種、山茶花十三種、無刺ビラキャンサーなど新種を作り出し、先年米国キャメリヤ協会から名誉賞状、また日本政府から黄綬褒章を贈与された。

沢田氏は近年事業を長男タム・富氏に譲って引退しているが、市内に三〇エーカー市外に一三〇エーカーの土地と、市内に大住宅を所有、米人間にも信用厚く、軍人花嫁などの世話もよくし老後を送っている。家庭にはノブ夫人(一九二九年他界)との間に長男タム、次男ジョージ、三男ベン、長女ルリ子の三男一女があり。何れも大学教育を授け一家をなし、次男は別に造園業、三男は牧師。お孫さん七人があり、ノブ夫人没後、子女を我子の如く育てたキャリベル夫人と一九五二年に再婚、幸福な老後を送っている。

 

最後に、園芸とは関係ないが、ミシシッピ州の日本人についての記事を抄録したい。この記述のなかに、養鶏業に欠かせないヒヨコの雌雄鑑別技術が日本独自のもので、海外までも出張していたことが書かれていて非常に興味深い。ヒヨコの雌雄鑑別の難しさは、井上ひさしの小説「モッキンポット師の後始末」でもユーモラスに描かれている。(農林水産・食品産業技術振興協会のサイトから)

https://www.jataff.or.jp/senjin/hina.htm

 

ミシシッピー州

東方をアラバマ州、北はテネシー州、西がミシシッピー川の州境を隔ててアーカンソー、ルイジアナ両州に接し、南部のごく一部分がメキシコ湾に面しているミシシッピー州には、前掲一九〇〇年度以来の国勢調査が示すように日米戦争直前の一九四〇年まではわずかに一、二人が居住しただけで、全米各州のうちでも最も日本人が少ない州であった。したがって戦前の歴史はほとんどなく、一九五〇年が六十二人、さらに十年後の一九六〇年が百七十八人に増加したのは、軍人花嫁とともにいま一つの要素は同州には四季を通じて養鶏業が盛んなところから、日系人二世雌雄鑑別師が全州内に二十家族前後散在居住しているものとみられる。この鑑別所は、戦後しばらくは季節的にカリフォルニア方面から出かけたが、南部はほとんど一年中仕事があるため、各地に定住するにいたったもので、それらはハイジュバーグ市に矢野ジョーほか三家族、ジャクソンに四家族、グリーンウッドに三家族があり、そのほかの地にも少数ずつ散在、いずれも年中仕事があり定住しているが、横の連絡機関がないため実態はつかめない。

※文中に「軍人花嫁」というワードが出てくるが、「戦争花嫁(War Bride)」のことだろうか。戦後に帰還した兵士の結婚相手となる女性を米国に移民として受け入れる政策があったようだ。

 

参考
『アメリカ移民百年史』上・中・下 加藤新一 時事通信社出版局 1962
著者 加藤新一という人物を追いかけた記録 ジャーナリストの川井龍介氏による連載

http://www.discoverniににei.org/ja/journal/2020/11/13/shinichi-にato-1/

本連載 第64回 戦時中にツバキを守った政府の高官の話~吉野作造の弟にして政治家、吉野信次

https://にaruchibe.jp/read/10064/

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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