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第123回 日本文化の園芸遺伝子~北米に花開いた庭園業

公開日:2021.6.18 更新日: 2021.6.29

『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』

[著者]加藤新一
[発行]新日本新聞社
[発行年]1961年12月25日
[入手の難易度]やや難

日本列島に生きてきた人々は歴史的に「園芸的」な、あるいは「工芸的」性質を持っているのではないかと思う。前回の清野主をはじめ、戦前に海外に渡った日本人は、まったく新しい環境に置かれながら、園芸や造園の世界で大成功を収めた人々が少なくない。これは、日本人が移動した先で、どこでも起きたことなので、園芸や造園の仕事が日本人の体質に合っているのではないかと思われるのだ。移民した日本人の多くは農家の子弟であったといわれており、日本人移民には全員、農家の遺伝子が備わっているというようなことが言われてきた。しかし、農業といってもいろいろあって、なかでも、野菜や果樹、花き、植木生産に日本人は抜群の成果を上げている。古来から日本に居住した人々の遺伝子には、まさに「園芸遺伝子」が含まれているのではないか。園芸的というのは「工芸的」といい換えてもいい。誰に命じられなくとも美的な基準に向かって自ら精進し、精力を注ぎ込んでいくことに喜びを感じる、そういう性質がどこかにある。こうした指摘は僕だけの見方ではないと思う。

日本人のアメリカへの移民は明治元年のハワイに始まり、度重なる失敗を乗り越え時間をかけながら本土への移民が増えていった。ことに1882年に制定された「支那人排斥法(※現在は中国人排斥法と呼ぶ)」により、中国からの移民が途絶したため、それに代わる労働力として日本人への需要は急増した。『米国日系人百年史 在米日系人発展人士録』(以下、「百年史」と呼ぶ)で加藤新一はこんなふうに記している。「1882年に実施された支那人排斥法が功を奏し、新渡航する支那人なく、既に米国に在留するものは帰国し又は死亡して漸次其数は減じていた。一方従来支那人が耕作していた果物、野菜は、右の事情で労働者の激減を来たし、これを白人労働者に需めるには彼等は概ね農業労働を好まず、都市に走る傾向を帯び、然も彼等は果物野菜の如き細心緻密を要する耕作には適さず、加州の農業は支那人に代る労働者の急需を告げていた。この時に日本人は其不足を補うことに最も適当であり、一面加州農産界に取っても頗る好都合であった。」

細やかな性格や祖国でのハードワークに慣れた日本人は園芸に向いていた。日本人移民は最初、賃労働から始まり、やがて歩合制の耕作請負(生産物の収穫量に応じて支払われる)に転じ、その本領を発揮するようになる。「加州の主要農産である果物は、その栽培から摘採まで、手工的な技術と熟練を要し、且つ生産品其ものが腐敗し易いため、敏捷な取扱いを要し、此点でも日本人は支那人に勝り到る所で歓迎され、支那人労働者に取って代ることが出来た。斯うして果物園労働を手中に収め、更に野菜園に手を染めることとなったがこれも同一理由により容易に手腕を発揮するに至った。一旦日本人労働者を使用した米人地主は、邦人の勤勉で義理堅く、耕作に当って進歩を図って止まぬところから競って日本人を使用し、小作人にすることに努めた。斯如くして日本人の農業第一期時代は過ぎたのであった。」第一期で信頼を得た日本人は歩合制に進み成功を見る。「帰するところは農を尚ぶわが国民性乃至その優秀な才能技量が米国の良土を得て伸展したものと言う他なく、米国渡航者の過半はその農業出身者であった。計算を外にして農作物を愛育するという国民性も指摘せねばならぬ。斯くして農業は在米日本人の最大最高の産業となり、同時に米国には至大の貢献をなし、更に後をつぐ二、三世によって現になしつつあるが、この米国日本人農業こそ日本人史中の一篇に掲ぐべく余りに大であり広範であり、本編の如きは実にその沿革の大綱を叙すに過ぎないであろう。」

図1 石原三郎氏(2015年当時)、園芸文化賞表彰式の席上での様子。

園芸文化賞受賞の石原三郎氏

今から6年前の2015年になるが、僕は誠文堂新光社の『フローリスト』に記事を書くために、園芸文化協会の「園芸文化賞」の表彰式を取材した。この年の園芸文化賞は4名。北海道帯広の紫竹ガーデン、紫竹昭葉(しちく・あきよ)氏、球根や宿根草など多品目の新品種を作出された千葉の小森谷慧(こもりや・さとし)氏、同じく千葉の園芸専門学校(現千葉大学)を卒業後、暖地園芸試験場に長く勤められ、研究者、教育者として大きな業績を残された林角郎(はやし・かくろう)氏、そしてアメリカ合衆国カリフォルニア州に在住の石原三郎氏(図1、石原氏も昭和33年、千葉大学園芸学部卒)である。林さんは、ご都合で会場にはいらっしゃらなかったが、ともに長く園芸の世界で重要な働きをされた小森谷さん、石原さんおふたりが、誠文堂新光社の雑誌や園芸書を大切に読まれていたことをお話しされていたのを覚えている。当日、特に印象深かったのは大きな帽子と明るいドレスに身を包ん紫竹昭葉さんだった。たいへんにお元気で多くの方と歓談されていた。残念ながら、先日訃報をお聞きし、あの表彰式の様子を思い出したところだった。林角郎さんも2019年に鬼籍に入られた。お二人のご冥福をお祈りします。

在米60年、日米交流の架け橋となった石原氏

受賞記念講演で石原氏がお話しされた内容をメモしたものを以下に抄録する。

・アメリカ、カリフォルニア州、サンゲーブル(サンガブリエル)に在住

・「サンゲーブル・ナーセリー&フローリスト」を60年経営。先代から数えると90年の歴史あるガーデンセンター(図3)、ロサンゼルスから車で20分~30分という立地。近くの街にディズニーランドがある

・敷地は7エーカー(3町歩)、バラ苗、菊、果樹、盆栽などを扱ってきた。従業員50名

・生まれは京都南部。九条ねぎの産地。子どもの頃からの園芸好きで、種子から育てた苗を周りの人に売って小遣い稼ぎすることを覚えた。

・小遣いで買った本が吉村幸三郎先生の『ダリアとグラジオラスの栽培』(タキイ種苗出版部)。その後、誠文堂新光社の『園芸大辞典』(石井勇義・編著)を買う。戦後初めて出た本だったと記憶する。『実際園芸』もむさぼるように読んだ。

・どうしても園芸をやりたくて、京都から「東京都立園芸高等学校」に夜行列車で9時間かけて上京し入学、寄宿しながら学んだ。ここで憧れの吉村幸三郎先生に教えてもらった。

・お金がなくてアルバイトもした。日本橋高島屋の屋上にあった園芸店で働いたり、渋谷のハチ公前にデージーや芝桜、パンジーの苗を並べて売ったりもした。(今では信じられない)。当時の東京はまだまだ高い建物がなくまっ平らに見えた。

・卒業後、茅ヶ崎の「東山園芸」に勤めた。横田長吉さんにいろいろ教わった。横田さんは鈴木省三さんたちと同期だった。当時、600坪の大きなガラスハウスを建てたばかりで、バラの接木苗を入れるが間に合わない。どんどん接ぎ木をして苗をつくった。

・茅ヶ崎時代にサカタのタネを通じて「アメリカバラ」の苗を輸入して入れた。これを2年間、たくさん扱っていた。

・茅ヶ崎の農場には南米に移民で行く人達が研修にたくさんやってきた。これらの人々の受け入れをしていた関係で国際農業者交流協会と知り合うことになった。ここで、カリフォルニアに行く研修生を募集していることを知り、応募して渡米することになった。

・1957年に東京からカリフォルニアへと向かう。その研修先がサンゲーブルの農場だった。日系人の吉村夫妻(図2)が経営する農場は、つばき、アゼリア、ポインセチア、コスモスなどを広大な土地で栽培していた。敷地は当時すでに露地で7エーカー、温室が500坪だった。掘立て小屋のような売店があり、そこで苗を売った。主にバラ苗がよく売れた。

・扱っていたのは大きな2年生の立派なバラ苗で日本では見かけないものだった。茅ヶ崎でアメリカのバラを扱い慣れていたので、トゲもなんの、どんどんつかんで挿し木でもなんでもこなした。農場ではこの仕事ぶりを驚かれ、また認めてくれてうれしかった。こうして3年の研修期間が過ぎた。とても楽しい3年間だった。後ろ髪を引かれる思いでの帰国となった。

・当時、日本でデパートの屋上に園芸店を持ってやってやろうというような夢を抱いていたが、アメリカから帰ってみると、どうも面白くない。アメリカでは朝起きて蛇口をひねるとお湯が出る。外に出ると車でどこへでも行ける。そんな生活をしてきた自分は日本の暮らしに不満が出てきた。

・結局、サンゲーブルの吉村夫妻に連絡し「アメリカにおいで」と誘ってもらえた。こうして日本で2年も経たないうちに再び渡米し、農場で働くようになり、その後、吉村夫妻の長女(すでに故人。今の奥さまとはのちに再婚)と結婚し経営に関わるようになった。

・サンゲーブルはディズニーランドも近くて人がたくさんやってきて経営は順調になった。ほかにも日系人が経営する園芸店ができていった。オリエンタルスタイルが流行っていたからだ。カメリア(ツバキ)、アザレアがブームになりよく売れた。

・サンゲーブルは地下水が豊富で園芸品を育てるには好都合だった。生産は100エーカーまで拡大し、一時社員が100名もいた。

・サカタを通じて日本の品種をアメリカに導入したり、アメリカのものを日本に送ったりするようになった。アザレアの育種も手がけるようになった。ミッションベル、フィカス・ベンジャミン、イタリアン・サイプレスなどを日本に送り込みヒットさせた。サイプレスは研修生つながりで赤塚植物園を通して日本に広まった。ほかに、サザンカの品種や、ハイビスカス、フクシアなども日本に送った。

・日本からはサツキの原種をたくさん入れた。栃木の農場から送ってもらった。アメリカでは「サツキクラブ」をつくり、多くの愛好家を育てた。

・ハンティントン植物園(カリフォルニア州、サン・マリノ)というサボテン、多肉、ランなどのコレクションを誇る世界的に著名な植物園は、「日本びいき」で有名だ。立派な日本庭園があり本格的なお茶室もある。ここには、京都から茶室や茶庭の専門家を招いて作業をしてもらっている。高松の栗林公園とも姉妹提携をしている。このハンティントン植物園で日本の植物の学名を調べ品種名を同定するといったボランティアをしていてとても深い関係を築き上げてきた。

 

ここまでは、自分の話だったが、カリフォルニアの日系人ガーデナー(庭園業者)の話をしたい。戦争で収容され、その後激減してしまったという話だ。

 

・戦前のロサンゼルス周辺にはたくさんの日本人ガーデナーがいた。庭師といえば日本人が最高の腕とサービスをしていた。これが戦争が始まると絶滅することになる。

・物語の始まりは1906年4月のサンフランシスコ大地震にさかのぼる。この地震と火災で大都市サンフランシスコはほぼ全滅した。しかし、そこから奇跡の復興が始まった。

・まず住宅が建つ。アメリカでは、3つの住宅に分けられる。高級住宅、中級住宅、一般といったクラス分けだ。サンフランシスコから逃れた人々によりロサンゼルス周辺に人口が急増していく。

・アメリカ人は家を一生の財産、というふうに考えない。一生のものではない。そのときの仕事であり、収入であり、家族の人数、子どもの教育などなどさまざまな要素によって住む町や家を変えていく。ある意味投資の対象として考える。だから、入ったときより出て行く時により高く売れるようにしたい。家具などもそのまま置いていくことがよくある。

・庭もこのような考え方のなかにある。芝生の見える緑の量が多い方がいい。敷地面積はそれに比例する。それゆえ隣近所をとても気にする。他人の目を意識して家の内外を整えることにお金を使う。家を売るときに高価格を期待する。また、街区全体の価値を高めようとする。それに反する行動を取る家は非難される。

・そのため、「家が一枚の絵とすると、庭は額縁にあたる」といわれるほどで、どの家でも庭の手入れをしっかりとやる。自分でやらない人はガーデナーを雇う。ガーデナーは日本の植木職人とは仕事が違う。個人宅では、週に一度の芝刈りのほか、花木の手入れ、垣根の剪定、鉢物の植え替え、草木の消毒といったことをやる。秋冬になると、「ライムギまき」がある。枯れた色になる冬に緑色を維持するために芝生の上にタネがまかれる。

・このような、庭の管理をするガーデナーは戦前、ロス付近で約5,000人(事業者)もいた。

・このガーデナーたちのなかで一番上のクラスにいたのが日本人ガーデナーだった。彼らの仕事は完璧だった。勤勉で広い知識を持ち、経験が豊富だった。

・こんなふうに住宅地が形成され、ガーデナーが増えると、そのガーデナーに素材を提供する小売店流通業者が集まった。さらには、その業者に苗を供給する植木や苗を生産する仕事ができた。このようにして、ロサンゼルス周辺では庭園関連産業がものすごく発達していた。

・1941年12月に日本が対米戦争を始めてすべてが終わった。敵性外国人である日系人は手に持てる荷物だけの着の身着のままで収容所に送り込まれた。

・これをきっかけとして、サンゲーブル周辺で日本人が担っていた庭仕事を一手にひきうけたのが、モンロビア・ナーセリーという会社でほぼ独占状態で利益をあげたという。

・戦後に収容が終わって日本人が帰ってくるころにはモンロビアは巨大な会社になっていた。他の生産者は競争に破れてやめていった。日本人ガーデナーは結局戦前のようには増えなかった。戦後、彼らがやっていた仕事をメキシコ系等の人々が担うようになった。

※石原氏の話では外国人との入れ替えが進んだという感覚が強く感じられるが、『百年史』では南加州で戦前1930年代に3,000人という記録。戦後1946年に3,000人が復帰、1950年では6,000人まで復活したという記述あり。

・1968年(昭和43年)に日本人も自由渡航ができるようになり(※実際は1964年)、日本の園芸業界最初の海外視察が実施され、自分がカリフォルニアを案内した。そのとき、日本の名だたる研究者がたくさんいて100名もの団体ツアーだった。穂坂八郎、清水基夫、横井政人先生、小杉清先生、、、、『農耕と園芸』の植村さんもいた。(※全員が千葉大学園芸学部と関連がある。千葉大の「花葉会」の会誌では石原三郎さんも「昭和33年卒」と記されている)

・自分も高齢になったけれど、まだ車の運転もしている。力ある限り日本からの研修生を受け入れたいと思う。

 

サンゲーブルの吉村和一氏

石原氏の講演メモをもとに、『百年史』のサンゲーブルの項目を見てみると、「サンゲーブル植木園(サンゲーブル・ナーセリー&フローリスト)」に関する記事がすぐに見つかった。そこには、創業者の吉村和一氏(図2、よしむら・かずいち)の経歴が詳しく書かれている。

※「サンゲーブル」という表記は『百年史』でも普通に用いられているが、現在、地名等では「サンガブリエル」という表記になっているようだ。

吉村和一氏は1895年山口県豊浦郡宇賀村に生まれた。1917年渡米しサンフランシスコに上陸。当初サンマテオで庭園業に一年ほど従事、コルサに移って約3年間米作りをした。1921年、ロサンゼルスに移り、再び庭園業に従事した。そこで資金を貯め、1924年、サンゲーブルに10エーカーの土地を購入し、植木園、切花、造園等を始めた。早くも1932年には花市場に店舗を構え活発に事業を発展させた。

戦時中はシカゴおよびアリゾナ州ヒラに転住し、1945年2月末、石津、田島、アズサの遠山氏に次ぐ早期の帰還者として復帰した。戦後も引き続き市場内に店舗を持ち、ツツジ、ツバキ専門として繁盛した。盆栽も日本から専門家を招き、大量に市場に出荷、日本の鉢、石灯籠、クロマツ盆栽等を全米に販売した。サンゲーブル周辺はもともと親日で激しい排日運動も起きず、日本人に対してとても友好的な土地柄であったようだ。南加州全体からみても庭園業者が多い地域となっている。『百年史』では、このころ(1960年頃)、長女フロレンスさんは独身、となっているが、石原氏はその後、長女と結婚された、ということなのだろう。

ホームページの記述には、吉村氏の経歴とともに、ミトコ夫人との出会いも記されている。それは、吉村氏がサウス・パサデナの家で庭仕事をしていた時のことで、その家のメイドとして働いていたのがナイトウ・ミトコさんだった。ミトコ夫人は1899年に広島で生まれ、わずか15歳で船に乗ってアメリカに渡った。サウス・パサデナのとある家庭で働き、料理などの家事を教えてもらった。そこで働きながら学校にも通い、英語の読み書きも学んだ。フレッド(吉村)とミトコは1924年にサウス・パサデナで結婚し4人の子供をもうけた。

同HPには、吉村氏が苗木の圃場にスプリンクラーを導入した先駆けであったことや、仕事にでかけるのに馬に乗っていくのを好んでおり、自ら馬の世話をしていたこと(馬は作業にも使われていた)、妻のミトコ夫人が始めた花店は、サンゲーブルで最初の花屋をであったこと、当時は、数少ない花屋だったこともあり、顧客はサンゲーブル・バレーの各地から集まりたちまち繁盛店になったこと、パサデナのローズパレードに馬で参加した顧客のために(馬用の)花輪を作ったこともある、というような面白い話が載っている。

吉村氏の店がツツジやツバキで有名になったのは、パサデナのクーリッジ・ナーセリーで働いていた従業員から教わったという。アザレアとツバキはこの地域でよく育つことが証明され、サンゲーブル・ナーセリーの名物となった。戦前、1930年代に販売していた日本の庭園装飾品は、日本から輸入したものか、吉村氏が雇っていた英国人が作ったものだったという。このイギリス人は横浜で修行した人で、ナーセリーで販売していた石灯籠やベンチの多くは彼が作ったものだったという話はとても興味深い。

1953年、最初の日本人農業研修生がサンゲーブル・ナーセリーで働くために派遣された。こうした日本からの短期研修プログラムの開始以来、80人以上の研修生がナーセリーで働いてきた。この最初に来た研修生が、石原三郎氏である。HPによると、石原氏は日本で最も古い園芸学校の一つ(千葉大学園芸学部)で学び、1957年に交換留学生としてやってきた、とある。その後の再渡米以後、常に新しい植物や珍しい植物を探し求め、休日や休暇を利用してさまざまな庭園やナーセリーを訪れるなど、精力的に働いた。パキラを導入したのも石原氏であった。

※サンガブリエル・ナーセリー・アンド・フローリストは現在も続いており、HPがある。

http://sgnurserynews.com/site/

※サンガブリエル・ナーセリー・アンド・フローリストの歴史 (吉村氏はフレッド・W・ヨシムラと名乗っていた)

http://sgnurserynews.com/site/history.php

図2 サンゲーブルの庭園業の先駆け、日系人社会のリーダーとして貢献した名士でもあった吉村和一氏の肖像。
図3 1950年代のサンゲーブル・ナーセリー&フローリスト、「Bonsai /Dworf trees」の看板あり。

収容所の園芸

1941年12月7日(ハワイ時間)、日本軍による真珠湾攻撃によって日米開戦、これによりアメリカに在住する日本人および日系アメリカ人は敵性外国人として排除、強制移住させられた。開戦のニュースは日本人コミュニティにとって晴天の霹靂だった。数日間のうちに多数の日本人が逮捕・抑留され、翌42年8月までに集団立ち退きが実行された。その総数は12万人におよび米国西部の乾燥地域につくられた10か所のリロケーションセンター(収容所/戦時転住所War Relocation Camps)に分散、収容された。日本人は大慌てで財産を処分し、手に持てるだけの荷物を抱えて収容された。象徴的なことに、人間(特に子供たちや老人)にも荷物と同じタグをつけさせられた。家族が離れ離れにならないように肩を寄せ合って住み慣れた土地を去ることになった。(図4)

『百年史』によると、サンタフェの抑留所では1945年8月10日に日本の降伏が伝えられたという。当初はデマだといわれ混乱があったが、柵の外から終戦を祝う歓声が聞こえるようになり、抑留の終了と帰還の準備が始まった。足掛け4年の収容というが、なかにいる人たちは終わりの見えない不自由な時間にじっと堪えるしかない場所だった。しかし日本人は、この閉ざされた場所で、少しでも暮らしをよくするために闘っていた。同じ敵性外国人でありながら、ドイツ人やイタリア人が抑留されず、日本人だけが立ち退きをさせられたことはアメリカ国内で大きな議論にもなっており、収容所での生活改善については管理する側「戦時転住局(War Relocation Authority:WRA)」も許容するところが大きかった。どの施設にも日本人の将来についても関心を持ち居住者の希望を理解しようとする所員がいたという。

特筆すべきは、各施設内でバラックとバラックの間や火除け地をつかって数多くの庭園や公園、自給用の野菜を育てる「戦時菜園Victorty Garden」が作られたことだった。収容された日本人には数多くの庭師がいて、それぞれが競うようにすばらしい庭を作った。潅漑水路から水を引き込んだ池のある立派な日本庭園などもあった。これらの庭は荒涼とした地域に閉ざされた場所で生きる人々の心をおおいに慰めた。日を追うごとに緑が増えることが希望になったという。収容された日本人は庭師の他にも野菜や果樹の生産を専門にやってきた人たちも多く、収容所の畑では大規模な生産が行われ(図5、6)、所内で利用された余剰は施設側に買い上げられるといった仕組みになっていた。ここでも日本の園芸的な性格が十分に発揮されたということなのだろう。

図4 ドロシア・ラングDorothea Lange (1895–1965) が撮影した、カリフォルニア州ヘイワードで強制移住のためにバスを待つ日本人家族、モチダ家の人々。子供たちの衣服や荷物には識別タグがつけられ迷子にならないように気をつけている。モチダはエデン・タウンシップの2エーカーの土地で、苗床と5つの温室を経営しキンギョソウやスイートピーなどを生産していた。(Wikipediaから)
図5アンセル・アダムス (1902–1984) 撮影。 農場、農場労働者、背景にはウィリアムソン山、カリフォルニア州マンザナー・リロケーション・センター(強制収容所)の農場(Wikipediaから)。
図6 Francis Stewart撮影、カリフォルニア州ニューウェル、ツールレイク・リロケーション・センター(強制収容所)の畑でのホウレンソウの収穫(Wikipediaから)。

サンゲーブルの吉村氏の場合

サンゲーブル・ナーセリーのHPでは、戦争中のことにも触れている。

真珠湾攻撃の直後、日本人コミュニティのリーダーたちは、米国当局から敵性外国人とみなされ、吉村氏は、地域社会での信頼ある地位にもかかわらず、むしろ、そうであったがために真珠湾攻撃の翌日、連邦捜査局の捜査官に逮捕され、何ヵ月もの間、尋問を受けた。妻は、夫がいつ帰ってくるかもわからない。そうこうしているうちに、連邦政府から「遠隔地のリロケーションセンターへ無期限の収容に備えるように」との通知が届き、事業や財産の準備を急かされた。しかも一人でその準備をしなければならない。このような困難に直面した家庭は少なくなかったのだ。ミトコ夫人の最大の関心事は、ナーセリーの貴重な在庫商品や財産の没収を避けるために、まず銀行からの借入金を返済することだった。

吉村夫人によると、この通知が出されてすぐに、何人かの人から「いずれ売らなければならなくなるだろうから、わずかな金額でよければ自分が買いたい」という申し出があったという。他の多くの日本人が「すぐにでも売らなければならない」という圧力に屈して財産を手放すのを目の当たりにしながら、夫人は安易に話を進めることをしなかった。幸いにも、吉村夫妻はLos Angeles Daily Newsの発行人であるE.マンチェスター・ボッディ氏と知り合いだった。ボッディ氏は、ミトコ夫人から苗木を含めた事業を適正な価格で購入し、借金の返済と従業員への小額のボーナスを実現した。また、ボッディ氏は吉村夫妻が強制収容所に抑留されている間、苗床の賃貸契約を引き継ぎ、事業を継続した。

1942年4月、吉村夫人と子供たちは、アリゾナ州ヒラリバーの移転収容所に送られた。吉村氏は、1942年の夏に晴れて家族と合流できた。吉村氏は、米国への支持を示すために以前から努力していたことや、地元コミュニティでの地位が高かったことから、かなり早い段階で釈放された。吉村氏の要請を受けて、サンガブリエルのコミュニティのリーダーたちが、吉村氏の人柄を証明する書類に署名してくれたのだった。

キャンプでの収容生活のなかで、夫人は政府から給料をもらって花屋の経営を手伝った。ある時、冠婚葬祭のためのフラワーアレンジメントの準備をしていた吉村夫人は、エレノア・ルーズベルトがキャンプを訪れた際に贈られる贈呈用の花束を用意したこともあった。一方、吉村氏のほうは、フラワーショップやキャンプで使用する切り花や植物の栽培を担当していた。夫婦ともにそれぞれの能力を生かした仕事ができたのはとても幸運だったのではないだろうか。

サンゲーブルの仕事を託したボッディ氏は事業費を分割で支払うことになっており、吉村夫妻は収容所にいる間、ボッディ氏からの小切手を定期的に受け取っていた。すべてを失って収容所に入った多くの日本人とは異なり、この支払いによって、吉村家は終戦後に再出発するための資金を得ることができたのである。

1945年の終戦後、吉村夫妻はサンガブリエルに戻ってきた。事業はボッディ氏に売却されていたので、彼らは新たな生活の糧を見つけなければならなかった。幸運なことに、吉村たちは旧住所の向かいにある現在の場所で、サンゲーブル・ナーセリー&フローリストという新しい会社を立ち上げることができた。幸いにも、吉村家には事業や生活の再建に協力してくれる親切な人たちがたくさんいた。吉村夫妻がすばらしいのは、自分のことだけでなく、収容所で出会った多くの日本人家族に、自力で生計を立てられるようになるまでの間、食料や滞在先を提供していたことだ。苗床にテントを張って家族を泊めたこともあったという。吉村夫妻と息子たちは、苗を増やすために再び挿し木を始めるのだが、販売に適した大きさになるまで数年かかるため、手っ取り早く利益を得るためにパンジーの生産も手がけるようになった。パンジー畑は、現在の小売店の敷地内にあった。今のようにプラスチックのトレイに入ったパンジーではなく露地栽培、いわゆる「地堀り」なので、お客さんが買いたいパンジーを指差し選んだパンジーを従業員が一本一本掘り出すようなやり方だった。今でも家族は、目の肥えたお客さんが良いパンジーを探すために何度も往復したことをよく覚えている。

参考
『MANZANAR』John Hersey・著、Ansel Adams・写真 Martin Secker & Warburg Ltd 1989
『南加花商組合史』池上順一・編 1933
(※【初期在北米日本人の記録】第2期:《北米編》第98冊、文生書院2007)
『Defiant Gardens: Making Gardens in Wartime』 Kenneth I. Helphand Trinity University Press 2006
『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』柳田由紀子 新潮社
『ノーノー・ボーイ』ジョン・オカダ・著、川井龍介・訳 旬報社 2016(※小説、原著は1957年)

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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