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124回 プラントハンター案内人「イトー」について~明治のインバウンド需要への対応

公開日:2021.6.25

『イザベラ・バードと日本の旅』

[著者]金坂清則
[発行]平凡社(新書)
[発行年月日]2014年10月15日
[入手の難易度]易

『不思議の国のバード』第1巻~7巻

[著者]佐々大河
[発行]エンターブレイン/ KADOKAWA 2015~(刊行継続中)
[入手の難易度]易

※参考論文【重要】
「函館とイザベラバード(3)」『大正大学研究紀要』第105輯 大野純子 2020年3月

※大正大学機関リポジトリのサイトからダウンロード可

https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1637&item_no=1&page_id=13&block_id=69

「イトー、すなわち伊藤鶴吉に関する資料と知見-イザベラ・バード論の一部として-」 金坂清則 『地域と環境』No.3  2000年3月

※『地域と環境』は京都大学大学院人間・環境学研究科「地域と環境」研究会が発行する機関誌

 

明治初年、日本各地を旅して植物を集めた外国人「プラントハンター」たち。その冒険に満ちた旅には優れた「案内人」がいた。20世紀初頭、欧米各国にとっての新しい市場として現れた「日本」という国に関心を持つ外国人は次々と来日し、このインバウンド需要に対応して通訳や案内人、商売の仲介をする職能が求められるようになった。こうした、いままで歴史に埋もれていた名もなき人々の働きについて垣間見ることができる絶好の資料を見つけたので、今日はその話をしようと思う。

※プラントハンターについては本連載第79回も参照のこと。

 

長い間、正体不明だった案内人「イトー」

「プラントハンターの通訳・ガイドが出てくるマンガがある!?」

『農耕と園藝』誌の記事でも知られる花の生産者、菅家博昭さんから教えてもらったのが『不思議の国のバード』(佐々大河2015~)という作品だった。現在、4月に第8巻が出版されたばかりで、まだ刊行継続中である(図A)。このマンガ作品は明治の10年代、まだ外国人で内地を旅する人がほとんどいなかったときに東北から北海道を歩いた女性旅行家、イザベラ・バード(図1 Isabella Lucy Bird、1831~1904)の紀行文『日本奥地紀行』を題材にしている。

マンガ作品『不思議の国のバード』における主役はもちろんイザベラ・バードだが、彼女の旅を支える通訳・案内人として「イトー(Ito)」という若者(20歳前後の男性)が重要な役割を負って登場している。バードは1878(明治11)年6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った「イトー」という男を供とし、東京を起点に日光から新潟県へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した。途中道案内を雇ったり現地に滞在する外国人と過ごすこともあったが、行程の多くはイトーと2人での旅だった。

マンガのなかで、イトーは、バードが見た当時の人々の生活や慣習への受け止め方に対して日本文化を解説、あるいは反論しつつ物語が進行していく。読者である現代の私たちは、バードの視線とイトーの解説によって、私たち自身の過去の姿を見つめ、理解できるような構成になっている。イトーは日本の後進性を自覚しながらも、ときにバードの振舞い方に意見し、日本人の生活習慣に合わせるよう教え諭すこともあった。イトーは脇役だがマンガでは、日本人としての矜持を持ち合わせたかっこいい若者として活躍する。実際のバードはすでに46歳だったが、もっとずっと若く魅力的な女性として描かれている。世界各地を見てきた旅行家、バードにしても不思議なことばかりの日本の風土やそこに暮らす人々の様子を好奇心いっぱいにしっかりと見つめ理解を深めていく。

図A 『ふしぎの国のバード』佐々大河・著(KADOKAWA)

このイザベラ・バードの紀行文に通訳・ガイドの「イトー」として登場する人物が、「伊藤鶴吉(1858~1913)」とわかったのは、ずっとあとになってからである(図2)。バードの旅の第一級のキーパーソンであるこの人物についての詳細は、不思議なことに、長く知られていなかったという。2000年になって、バードの研究者である京都大学名誉教授、金坂清則は「イトー、すなわち伊藤鶴吉に関する資料と知見-イザベラ・バード論の一部として-」を発表し、その人物像を初めて詳細に描き出した。この論文によって歴史の闇に沈んでいた人物に光が当てられ、同時に、実はその道で大きな功績を残したひとかどの人物であったことも示された。

そもそも、これまで日本で紹介されてきた『日本奥地紀行』の翻訳も原著作の完訳本がなく、金坂による40年ぶりの新訳(『完訳 日本奥地紀行』2012)によってさまざまな新事実がわかってきたのである。『不思議の国のバード』も金坂の研究がベースにあって制作された作品だといえる。新訳の文庫版は4巻構成になっているが、とにかく著者による注釈の分量が一冊の半分ほども割かれており、バードの旅から明治の日本の様子を窺い知ることができる。

(※完訳本を発行した金坂清則によると原著名は『Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior, Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkô and Isé』、日本の未踏の地―蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告、というものだった)

金坂は、バード研究において、バードの周辺に現れる人々を2つに分けた。ひとつは、旅する地域に存在する、バードと同じ世界の人間(ヴィクトリアン・ワールド=世界に覇権を広げた英国ヴィクトリア女王時代の思想、文化に属する人々)や組織、そのネットワーク。もう一つは、通訳や従者に代表される、旅する地域の側の人間とのつながりである。イトーは後者であって、バードの旅の成否に関して非常に重要な役割を果たした人物として注目すべきだと考えた。

バードは世界各地をめぐる女性旅行家としてすでに名を知られていたが、これまでの旅はキリスト教圏がほとんどで、日本やその後の朝鮮半島への旅はいままでとはまったく異なる文化圏(非キリスト教圏)であったこと、また、日本国内での外国人の移動の自由化は始まったばかりで、いわゆる「内地」の情報がまったくと言っていいほどなかった。こうしたことからバードは旅にあたって、まず通訳・ガイドの選定はそうとうに重視していたようだ。ヘボン博士を通じて通訳を募集し、しっかりと面接を行った様子がマンガでも描かれている。イトーを描くことでバードのまなざしや人格が理解され、旅全体が見えてくる。イトーがいたから北海道の旅を成功させたとも言えるほどで、バードにとってこの旅の成功は、さらなる名声を得ることにつながり後の朝鮮行にも大きな自信となったと思われる。

図1 イザベラ・バードの肖像画(1831~1904) wikipediaより
図2 伊藤鶴吉(1858~1913)「近代日本人の肖像」より
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/11.html
図3 チャールズ・マリーズ(Charles Maries、1851~1902) wikipediaより

チャールズ・マリーズ(図3 1851~1902)は、イギリスの巨大な種苗会社、ヴィーチ商会が契約し極東へ派遣するほどの能力があり、園芸史にその不滅の名を残す偉大なプラントハンターだ。伊藤鶴吉はマリーズの日本における採集旅行に同行した。1877(明治10)年のことだった。伊藤はそれまでプラントハンティングの知識は全くなかったが、この東北から北海道への旅を通じてマリーズから植物採集の知識を学んでいる。ただの案内、通訳というだけでなく、植物の観察や採集、標本作成、荷造り発送など作業の手伝いまでしていたと想像できる。

鶴吉とすれば慣れないことでたいへんだっただろうが、植物学を学ぼうとする若者であれば、無給でも手伝いたい実地の勉強は得難い経験となる。マリーズは当時の多くの欧米人がそうであったように、東洋人を下に見るようなところがあったという。当時、通訳の仕事をしていた人たちですら、ネイティブな外国人に対してきちんと通用するような英語を話したり書いたりできる人は意外と少なかったらしい。鶴吉はマリーズから英語による細かな表現や発音までも厳しく教えられたようだ。こうした経験が鶴吉の人生において後々まで役立つことになる。

日本の東北から北海道を調査する目的を持つマリーズにとって、採集可能な時期は限られていた。そのため日本での調査・採集を切り上げると、次の調査行ができるまで一時中国に渡ったが、体調を崩すなど問題が起きたために予定より戻るのが遅れた(連絡を取っていない)。そのため伊藤はマリーズとの契約期間を残したまま、翌1878年6月からのイザベラ・バードの東北・北海道旅行(『日本奥地紀行』)に雇われて同行している。バードとの間を取り持ったのは横浜在住の医師であり「ヘボン式ローマ字つづり(表記法)」で有名なヘボン博士だった。鶴吉からすれば、約束を破ったのはマリーズのほうであると主張してもいいような状況だが、書面では鶴吉の方から一方的に破棄できない契約になっていた。

伊藤のいわば「ダブルブッキング問題」は、マリーズが再来日した際に重大な違反として追求されることになる。裁判になって負けると賠償金などで、たいへんなことになる事件だった。伊藤がバードと契約した理由は、マリーズの再来日が不確定であったことと、バードの提示した賃金がはるかに高額だった上に、仕事の条件、待遇もだいぶよかったからだった。

バードからすれば、鶴吉は彼女の旅の目的地、北海道に行ったことがあるうえに英語が堪能な人物は簡単には見つからない。一方のマリーズは、有能な通訳・ガイドであるとともに、せっかく仕事に慣れたスタッフとしての伊藤を簡単にあきらめることができない。マリーズは人生で3回の来日と調査を行ったが、最初の旅では大きな収穫があったにもかかわらず、それらを積み込んだ船が途中で沈没し、予備を集めても思うような成果物を揃えきれなかった。いくら初めての旅とはいえ、プロのプラントハンターにはあるまじき大失敗を経験しており、2回めの今度の旅ではなんとしてもそれを挽回しなければならなかったのである。

マリーズはバードのスケジュールを調べると、急ぎ函館へ船で直行し先回りして待っていた。マリーズとバードは函館で間に領事を入れたうえで話し合いの場を持った。バードとしても、イトーを手放すわけには行かないので、2人の間に「ひと悶着」あったかどうかはわからないが、函館で話し合い持った結果、バードの北海道旅行の行程が終わるまでイトーの同行が許されることになった。こうしてバードは無事に渡島半島の内湾部の難路を歩いて平取にたどりつき、彼の地の自然やアイヌ民族の調査をするという目的を達成できたのであった。

金坂による『完訳日本奥地紀行』、『イザベラ・バードと日本の旅』では、バードの旅の背景には仕掛け人として駐日英国公使ハリー・パークスがおり、周到な準備のもとに実施された調査旅行だったと指摘されている。世界的な女流作家を日本の内地に派遣し、その旅から得られるさまざまな情報は英国の対日外交や政治的な戦略に大きく役立つはずだった。ことに北海道のアイヌ民族の現状とキリスト教化の可能性ということについて大きな関心があったという。バードの旅はパークスの手配のもとに新潟、函館など幕末の開港場=外国人の拠点を活用しながらさまざまな支援の手が差し伸べられていた。

特筆すべきは、最終目的地となった平取のアイヌ民族調査では、あのフランツ・フォン・シーボルトの次男でありオーストリア・ハンガリー帝国お抱えの通訳であったハインリッヒ・フォン・シーボルトが「たまたま」現地に先乗りしていたことだ。ハインリッヒは酋長ヘンリウクをバードに紹介するという役割を果たしているが、これもハリー・パークスの手配で現地で落ち合うようにセッティングがされていたようすがあるのだという。ハインリッヒは大蔵省に雇われていた時期もあり、妻は日本人だった。兄のアレクサンダー・フォン・シーボルトは外交官で、井上馨外務卿の秘書となり、兄弟で日本と世界の架け橋となった。兄が外交に手腕を発揮したのに対して、弟は考古学や人類学などの学術分野で功績を残した。大森貝塚の発掘などにも関わっている。

※本連載第121回「シーボルトとお滝さん」

プラントハンター、マリーズの目的

大正大学の大野純子専任講師は金坂『完訳』をふまえて、論文「函館とイザベラバード」で、マリーズの中国と日本へのプラントハンティングの旅についてとてもわかりやすく説明している。とくに第3回の「バードが会った人―チャールズ・マリーズ」では、英国の貧しい植生を補うために世界各地から多様な植物を導入した理由やその実務をになったプラントハンターについて簡潔にまとめてある。世界各地にプラントハンターを派遣した種苗商ヴィーチ商会では、長期に渡って、植物採集のプロを育成しながら計画的に派遣を実施していた。若きハンター、マリーズには日本と中国をめぐって、とくに「針葉樹」を探索させようとしていたようだ。当時、針葉樹は英国が最も需要のある樹木だったという。耐寒性のある美しい針葉樹は貴族の所有地に森林をつくり、またそこを通る馬車道の両側に壁を作るために大量に必要とされていた。19世紀半ばまでに北米からダグラスモミをはじめ、さまざまな針葉樹がすでに持ち込まれていたが、さらに多様な種類を探していたのである。ヴィーチ商会の一族であるJ・G・ヴィーチは1860(万延元)年にニホンカラマツを持ち帰っており、日本の北部地域の可能性を確認していた。実際、マリーズは3度、日本を歩いたが、最初の旅で(1877年、イトーと共に)青森でオオシラビソ(アオモリトドマツ)を発見し、後日マリーズの名を冠したAbies mariesiiの学名がつけられるなど、成果を残した。

マンガ『ふしぎの国のバード』では第3巻第13話にマリーズがはじめて登場する。ヴィーチ商会のエージェント、プラントハンターのマリーズは日本が植物の世界の「空白地帯」であり、この地で新品種を見つけ英国の巨大な園芸ビジネスに送り込むことは大きな国益である、と主張するシーンが描かれている。さらに第4巻15話では、イトーに対して次のようなセリフを用意しているのだが、すごく印象的で名場面となっている。

「いいか鶴吉、“園芸”という芸術文化は文明の質をはかるひとつの指標だ」

「園芸文化の発展には条件が3点ある。ひとつ目、植物の構造や習性を知る学問的条件、ふたつ目、農業を応用して効率よく栽培する技術的条件。そしてみっつ目が花や木を愛でる心のゆとりをもつ経済的条件だ。学問、技術、経済―あらゆる面で随一の国こそが世界最高の園芸大国となる。」

「そして園芸大国は地球上のあまねく植物をかき集めなければならない。そこに我々プラントハンターの使命があり、その使命のために通訳が必要なのだ。」

鶴吉は、マリーズにこの日本についても「園芸文化が文明の指標になる」ということが当てはまるのかと尋ね、「そうだ」という返事を受けて、この雇い主を駒込・染井の植木屋に案内し、「変化朝顔」の数々を見せ驚かせようとした。日本には「奇品」を作り出し愛する「立派な園芸文化がある」というわけだった。するとマリーズは「こんなものは突然変異でビジネスにはならぬ」と叱責した。鶴吉は、「これらは偶然に出てきたものではなく、日本人が系統立ててつくりだしたもので再現できるし、それをちゃんと説明できる」と反論するのだが、この高慢な英国人によって、いきなりステッキで殴打される。鶴吉は頭から血を流して地面にひざをつき崩れ落ちた。「いいか、二度と私にこの国の文化を教えようなどと思うな。お前に許された返事はただひとつ、“はい、マリーズさん”だけだ」。

「小さな巨人」伊藤鶴吉

イトーは背が低く小さかった。バードは身長が150cmほどの女性だったというが紀行文には、自分よりもわずかに低い「147センチ(4フィート10インチ)」で体重が41キロ(90ポンド)にすぎず、顔は「日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに思えた」と記されている。

これを裏付ける写真がある。バードとの旅から4年後、フランス人、ウーグ・クラフト(シャンパーニュ地方ランスのまさにシャンパン財閥の長男)の日本旅行でも通訳を務め、旅を成功させたという記録のなかの集合写真だ。この真ん中あたりに山高帽に洋服姿、洋傘を持った伊藤鶴吉の姿があって、その身体的特徴からひと目でわかる。(図4 『ボンジュールジャポン フランス青年が活写した1882年』クラフト、朝日新聞社1998)

※参考 画像あり 金坂清則による「イトー」の解説 「イザベラ・バードの北海道の旅―その行程・ルートと目的・関心」

http://kai-hokkaido.com/feature_vol46_bird3/

図4 フランスの青年による1882年の日本旅行記『ボンジュールジャポン フランス青年が活写した1882年』。
図5 日本紳士録にも掲載されている(右から3人め)。肩書は「外国人内地旅行案内業」。 『日本紳士録』第4版 明治30(1897)年 (国立国会図書館デジタルコレクション コマ31) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780093
図6 『横浜姓名録』加藤大三郎編 明治31(1898)年 (国立国会図書館デジタルコレクション コマ190)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780357/25

日本を代表する第一級の通訳として活躍

イギリス、ヨーロッパの風景を変えた日本の植物をもたらした世界的な「プラントハンター」チャールズ・マリーズや女性旅行家イザベラ・バードとの旅を終えて、なお伊藤鶴吉は通訳、案内人の道を歩み続け、日本を代表する名士となっていた。

『近代名士之面影』第1集における「伊藤鶴吉氏」の記載は次のようになっている。

〈氏は神奈川県三浦郡菊名村の人 安政4年12月17日をもって生る。つとに横浜に出でて外国人につきて英語を修めすこぶる熟達するところあり。明治10年より横浜において通弁業を始め、彼の米国鉄道王ハリマン(※エドワード・ヘンリー・ハリマン)氏来朝の節はその通弁として機敏なる事務家と評せられ帰国に際してその自家経営にかかる鉄道および汽船の1等自由券を与えられ、またインドマイソール朝イワヤール殿下、インドバロダ王殿下等来朝のときもまたその通弁を務め英国女流作家バアド嬢の日本内地旅行記にも氏の功績を推賞しあるくらいなりしが、大正2年1月6日胃がんを患い、ついに横浜市松影町1丁目15番地の自邸に逝く享年50有7歳同市中村町蓮光寺に式を行い後根岸の墓地に葬り謚(※し、おくりな)して「凌雲院譯鶴集居士」という〉。

金坂の論文には大正2年1月9日付の報知新聞の訃報記事が掲載されており、「ガイドの元祖逝ける伊藤鶴吉氏」という見出しが肖像写真とともに詳しく紹介されている。ここでは以下のような記述があった。故人への敬意と多少の美化はあるにせよ、たいへんな褒めようである。

・ガイドの元祖、横浜通訳協志会の会長、6日午後1時30分横浜松影町の自邸で胃がんのために逝去。57歳。

・約40年間にわたって本業に従事した。英語に熟達しているのはもちろん、美術、歴史に興味が深かった。

・本邦の美術、歴史を外国に紹介した功績は没却すべきではない。

・米国鉄道王ハリマン氏、太平洋汽船会社社長シュウエリン(※東西両洋汽船会社支配人ジューエン?桂・ハリマン協定時)氏らの案内をし、たいへんに喜ばれ、両氏から無賃乗行(1等自由乗券)を許された。

・インド王族やその他の貴顕紳士に高い評価を得る通訳だった。

・伊藤氏は横浜開港時にイギリス守備兵なる赤隊(あかたい)の将校のボーイをしていた。そこで実地に英語を研究した人物である。

・学校教育は受けていないが博学多識は驚くほどであった。およそわが国の地理、歴史、風俗、人情の微細より政治、音楽、美術、演芸、その他いかなることも知らざることなく、絶えずよく研究し記憶もたいへんに確かだった。

・頭脳明晰で言葉も丁寧、いかなる客に出会って、いかなることを聞かれても立派に答える人であった。

・初めての客に会っても直ちに相手の気質をのみこみ、かゆいところに手が届くようによく親切に世話するので、どんな客でも満足しないことがなかった。今は学校出の優秀な通弁も多いが、それでもなお伊藤のようになんでも答えられるという人はいない。

「通訳の元勲」「通訳の名人」「ガイドの元祖」と呼ばれた伊藤鶴吉の逝去について、横浜を中心にいくつもの新聞社が記事にしているが、外国人向けの英字新聞でも大きな扱いがあり、いずれも伊藤の業績を称賛する内容である。金坂は「横浜という最高の場所に拠点を置く、日本を代表するガイド」だったと述べている。先にあげた『日本紳士録』(図5)は明治30年頃の記録だが、ここに載っているというのは一定の高額納税者であることを示しており、「外国人内地旅行案内業」を営む人物が15名の記載があって、そのうち神戸の人が1名で残りの14名がすべて横浜に住所がある。当時の外国人旅行者にとって横浜は最重要玄関口にあたる場所であったわけで、ガイドが集まるのは当然だった。

明治24年頃の記録では、すでに横浜には伊藤を含むガイドの組織(「開誘社」等、その後明治26年には渋沢栄一や益田孝らの発意で作られた外客誘致専門機関「喜賓会」が後ろ盾となる)もできており、日当や経費の負担などが規定されていた。明治31(1898)年『横浜姓名録』(図6)にも外国人内地旅行案内業6名の1人として掲載されている。伊藤はこのようなガイドの組織(横浜通訳協志会)で長く会長を務めていた。

金坂は、伊藤が亡くなる大正2年には、巨大な客船(この時はクリーブランド号)が日本にも来航する「マスツーリズム」の時代が到来しており、こうした観光団、ツアー客に対して横浜市内から集められたガイドは200名に達したと述べている。斡旋は明治45年3月に創立されたジャパン・ツーリスト・ビュローで、最初の画期的な仕事だったという(この組織がのちのJTB、第102回の西川一草亭によるいけばなパンフレット参照)。旅行ガイドが活躍するためには、職業としての地位の確立が欠かせない。何もなかった時代から活動した伊藤らの貢献は大きなものがあったと思われる。

プラント・ハンター、マリーズの横浜訪問

面白いのはイザベラ・バードの北日本への旅の目的のひとつに植物の調査というものがあったことである(政府への届け出には「病気療養、植物調査および学術研究」となっていた)。金坂は『日本奥地紀行』には植物採集をしたという直接の記述はないが、植物名を学名で表記したり、実物にあたって詳しく観察しなければ書けないような描写があると指摘している。植物調査に手慣れたイトーとともに旅の途中で植物を採集し標本を作っていた可能性は十分にあるという。バードの視線は野山にある植物と同じように、街でみかける園芸植物に対しても興味の目が向けられていただろう。日本の著名な植物学者、中尾佐助は『栽培植物の世界』で、「日本の浮世絵が西洋文化にあたえた影響より、園芸植物のあたえた影響のほうがはるかに大きいと評価してもよい。日本というセコンダリー・センターは、このようにたいへん立派なものである。」と述べている。(※世界の園芸植物における遺伝的影響のうちプライマリー・センターである中国とオリエント地域に次ぐ第2の中心=日本と西ヨーロッパ)

チャールズ・マリーズが明治10(1877)年に来日した際の話が、春山行夫の『花の文化史』(1980)にある。「彼は横浜でアカサブローという栽培園を訪問した。そこでは、鉢植えのラン類や素焼きの植木鉢に植えたシュロ、カエデ、ソテツ、シダ、ゼラニウム、バラ、サボテン、マツなどが、棚に並んでおり、別の棚には無限の変化を見せたツツジやツバキが並んでいたが、それらはすべて鉢植えであった。ただしこの土地の主要な商売は、ユリを栽培してその球根をイギリスに輸出することであると、彼は伝えている。」と記している。この「アカサブロー」がどこか、をつきとめた経過が小原敬の論文に「マリーズが訪ねた横浜山の手植木屋アカサブロー」(1994)として記述されていた。小原氏によると、アカサブローは、「飯島秋三郎」であり、「聚芳園」という花やしきを構えていた。飯島秋三郎は、横浜で最もふるい植木屋の一人で、業者の取りまとめ役である「植木行事」を務める重鎮で、のちに横浜植木商会創設者に名を連ね、創業後はサンフランシスコ支店(バークレー)の支店長も引受けている。マリーズの記事にはないが、飯島秋三郎の「聚芳園」を訪れたときに、マリーズのそばには確かに伊藤鶴吉がいたのだと想像する。小さいながらしっかりと背を伸ばして立つ明治日本の若者の姿を思い浮べている。

※参考
『近代名士の面影』から 伊藤鶴吉 (国立国会図書館デジタルコレクション コマ9)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/1

『ボンジュールジャポン フランス青年が活写した1882年』 ウーグ・クラフト・著/武者小路真理恵・訳、後藤和雄・編 朝日新聞社 1998
『完訳 日本奥地紀行』イザベラ・バード・著/金坂清則・訳 平凡社 2012~13
『花の文化史 花の歴史をつくった人々』 春山行夫 講談社 1980
『栽培植物の世界』中尾佐助 中央公論社 1976
「マリーズが訪ねた横浜山の手植木屋アカサブロー」 小原敬 『神奈川自然誌資料』(16)1994

http://nh.kanagawa-museum.jp/www/pdf/nhr16_041_043obara.pdf

『園芸探偵』3 誠文堂新光社 いけばな草月流、戦後復活のキーパーソン、通訳者、花人の小川青虹について

 

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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