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第127回 幸田文に植物を教えた人~山中寅文の仕事

公開日:2021.7.16 更新日: 2021.7.20

『樹木の実生と育て方』

[著者]山中寅文
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1975年7月21日
[入手の難易度]やや難

『幸田文全集』第19巻 木、季節のうつろい

「月報19」岩波書店 1996年6月

[著者]幸田文
[発行]岩波書店
[発行年月日]1996年6月27日
[入手の難易度]易

参考
『グリーンセミナー』 山中寅文 誠文堂新光社 1987年

 

幸田文に「木」を教えた人

達人は、最初から達人に生まれたわけではない。達人もかつては誰かに学び、手技を磨くために努力した時間があったはずだ。そのなかで、平凡に終わる人もいれば、抜きん出て名を残す人もいる。名手は概して、師を選ぶことに優れている。幸田文もそうだったのではないかと思う。父、幸田露伴はいけばなを京都で第一級の花人、西川一草亭に習っているが、娘の文も第一級の人物を見極める目を持っていた。本連載第105回(https://karuchibe.jp/read/12953/)で幸田文の『木』を取り上げたのだが、この本に収められたエッセイのなかで、著者はいつもまわりの人々に助けられた、とたびたび記している。年齢と体力はわかってはいるが、それ以上に樹木への興味、関心が勝っていた。心の底から震えるような感動を覚えたいという「欲」が勝った、といってもいいような強い衝動を丁寧に書いている。今日は、そんな強烈な意思を持った女性が「植物の先生」と頼った人について話をしていきたいと思う。作品のなかで「Y」というイニシャルで記される、その人の名前は山中寅文(やまなか・とらふみ)という。親しい人たちからは「寅さん」「寅先生」と呼ばれていた。森の木々から生まれたような樹木の生き字引であり、知恵袋のような人だった(『山中寅文先生への手紙』)。

図1 幸田文全集第19巻と付録の「月報」。

「数えたことがあるからです」

何で知ったのか忘れてしまったが、「幸田文全集」の全集《月報》に山中寅文に関する記事が掲載されている、という記事を見て、その場ですぐに古書サイトを調べて「月報付き」を確認して注文した。第19巻だった(図1)。

「月報」というのは、全集、叢書、講座など一定期間、継続して出版される書籍に、付録として挿入されている小冊子(リーフレット)のことだ。紙2枚、二つ折りにされた手のひらサイズの8ページのリーフレットのなかに、山中のインタビュー記事「幸田文さんとの樹をめぐるお話」があった。インタビューがいつ行われたかは書かれていないが、この全集が刊行される直近のことだと思われる。冒頭の幸田文と山中の出会いのところからして非常に面白い。以下引用させていただく。

最初に幸田文先生にお目にかかったのは、昭和四十一年の九月だったと思います。小石川植物園のベンチにご婦人が腰掛けておられた。その前を、当時、研究室の人が羽織る白い上っ張りを着た私が通りかかったのです。ちょうどもみじの実がたくさん付いていたころで、近くにあったカエデの木を指して、「あの木に、幾つぐらい実がなっていますか」と尋ねられたので、「五千ですね」と答えました。するとすぐさま、「なぜわかるんです」。とっさにこちらも「数えたことがあるからです」と言い、簡単な算出方法をお話ししました。すると、「私はこの近所に住む幸田文という者ですが、植物の話をきかせてほしい」と名乗られて、それからよく訪ねて来られるようになりました。

名人は名人を知るという。昭和41年、幸田文62歳、山中は40歳だった。当時、山中は東京大学の「緑の相談員」をしており、小石川植物園の実験圃場で「実生」を研究するための小屋を構えていた。そこへ東京大学以外の植物好きの学生も交えて「緑の会」を月イチで開催していたので、幸田もそこに参加するようになったそうだ。学生たちに混ざって山中から発せられる「杉という漢字は、なぜ木偏に〈彡〉なのか」というような質問に答えられずに「子供のように手足をばたばたさせて悔しがられ」た。その答えだが、「杉は種子が三角、子葉は三枚、球果は種子が螺旋状に、まさに〈彡〉のようにつきます」というものだった。「昔の人はいたずらに字を当ててはいません」。

幸田文は質問魔で、納得のいかないこと、何か非常に心揺さぶられることについては「果てしない質問責め」が始まった。また、心の琴線に触れるような話になると、心の動きが身体にまで表れることがあった。「倒木更新」がそうだった。人手の入らない自然林の奥地には、一本の倒木が朽ち果てた上に着床して発芽し生長するため、一列一直線に育っていく木々があるという話を聞くと、その場で幸田の身体が見る間に小刻みに震えて来た、というのだ。そしてどうしても行きたい、といい北海道富良野の東大演習林を紹介した。さらにすごいのは、その後一週間経たないうちに「山中さん、もう行ってきました」と報告を受け驚いたという話だ。山中はいつも「思い立ったらすぐ見に行くこと」と学生に話をしていたが、その意味では幸田文はまったくの優等生だったと笑う。

文学者としての幸田には、研究者にはない「言葉」があった。倒木更新の現場は山中も知っていたが、五感をフルに使ってとらえた新鮮な言葉で感動を伝えてくれた。「倒れた木の上にある苔をにぎってみたら、滴がぽたぽた落ちてね。木の表面は押せば崩れるほど、ぼろぼろにもろけているのに、中の方はまだしっかりと健在なのよ」と一生懸命、身振り手振りを交えて状況を再現してくれたそうだ。

山中は植物園で何かをやるという時には幸田に連絡をし、一緒に活動をした。幸田の取材に同行することも幾度となくあった。『崩れ』を書くきっかけとなった安倍峠のモミジの純林や桜島、また屋久島へ縄文杉を見にも行った。この時幸田は途中で歩けなくなり同行者に背負われて上り下りしているが、縄文杉までおんぶして連れて行ったことは山中の自慢話の定番だったという(『山中寅文先生への手紙』)。

宮城県、秋田県、岩手県の三県にまたがる奥羽山脈、栗駒山では、「ぶなあらし」に出くわした。「ぶなあらし」とは、春の一時期、新芽がぐんと生長する時、冬の間、芽を守っていた鱗片が一斉に落ちる、それが全山でおきるとどうなるか。風もないのに「どこからともなくザーッという音がしてくる」そうだが、それに出会った。山中も興奮していたが、文はじっと耳を澄まして、やがて、へなへなとその場へ座り込んでしまったという。山中は、幸田との旅で、幸田の目にはどんなふうに映ったか、測り知れないその表現をとても楽しみにしていた。幸田は「感動したいから」木々に会いに行くのだといっている。山中が覚えている幸田の姿は、いつも生き生きとしていた。かと思うと、「ときにハッとするような妖艶な美しい姿にも出会いました」と述べ、文章を終えている。

『植木の実生と育て方』にも幸田について、次のようなエピソードを書き残している。

「作家の幸田文さんはかねてから照葉樹林を見たいと希望しておられた。たまたま先年の夏、日本シダの会の採集会が私の田舎で行われてそれに同行することになったので、鹿児島県下の照葉樹林ならとお誘いしたところ、採集会の終わる日に飛行機で飛んでこられた」(「フジ」の項)。この翌日、御池・小池自然林に行ったとき、一本のヤマザクラの大木に太いフジづるが巻きついているのを見た幸田は、しばらく足を止めた。そしてしばらくの間、何か、物思いにふけっているようだった。山中は近づいて、何かありましたか、と声をかけた。するとふいに、「フジは女の姿に似ている」と答えたという。「このフジをごらんなさい。自分ひとりでは立ち上がることのできないつるは大木にまきついて地上高くのぼり、毎年春に美しい紫色の花を枝いっぱいに咲かせる。そして、そのうちによりかかっていた大切な木を枯らしてしまい、最後にはともに倒れるでしょう。外見は弱々しそうで芯が強く、毎年みごとな花を咲かせてくれる姿は女性とまったく同じではありませんか」

山中は幸田とは一度だけ雑誌で対談をしている。テーマは「樹木と語る楽しさ」。『婦人之友』1987年の6月1日号と記されている。機会を見つけて読んでみたい。

月報には、もうひとりの「植物の先生」であった梶幹男の書いた記事も載っている。

山中と並んで植物の教えを乞う相手だった。梶は東京大学農学部教授。幸田とは「トドワラ」で有名な北海道野付半島や蓼科の縞枯山に同行しており、当時はまだ30代で、東京大学農学部附属演習林の助教授をしていた。記事によると、森林の生態、特に天然更新(若返り)や遷移(樹種の交代)を専門とする。幸田は「木に対するさまざまな思い―ことに「生と死」に対する深く激しい心の動きというものがあって、そこから根本的な問いが執拗に繰り出されるのです」と回想している。『崩れ』のモチーフである崩壊地にしても幸田はふさぐことのない大地の傷口がむき出しになっているように感じ、痛みを覚えていた。縞枯山の枯死した木の根元に次の世代が育っているのを見て喜び、終わることのない生と死の連環に心ひかれることもあった。傷や痛み、死から目を背けるのではなく現場に足を運び、凝視し、そこにあるものの真実を知ろうとしていた。幸田文の樹木に感動したい、という気持ちは、レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」という言葉と重なってみえる。子供のように無垢で、身を震わせるような強い衝動なのだ。

梶は海外への調査旅行にも出かけ大変な目にもあったが、幸田から受ける一対一の質問責めのほうがよほどきつかったと笑う。ある時、「木はいったいいつまで生きるのか」について詰問され、苦し紛れに「木なんて条件さえ良ければいくらでも生きて大きくなります。木は死骸が太るようなものだからです」という言葉が口をついて出た。すると、幸田は間髪を入れずに「その言葉、買った!」と高い声を発したという。青物市場の仲買人のような気合だったと梶は思い出している。「人はだれでも一生に一度、いい言葉をいうものです。それが今、あなたの口から出た言葉です」とおっしゃり、実際に5万円をくださったのでたいへんに驚いたそうである。

膨大な量の種子を蒔き観察する

あらためて、山中寅文のプロフィールを見てみたい。著書に記された紹介文と『植物文化人物事典』(大場秀章・編2007)によると、以下のような紹介になっている。

やまなか・とらふみ 1926(※昭和元年12月)~2003。樹木博物学者、東京大学農学部林学科森林植物学教室文部技官。鹿児島県大口市出身、伊佐農林学校林学科を昭和19年卒。東京大学農学部林学科に勤務して、昭和62年春に退官。その後、森林文化協会に属し、グリーンセミナー講師、森林文化協会評議員などを務めた。新潟県津南町のメグスリノキ育成運動にも携わった。著作『植木の実生と育て方』、編著に『グリーンセミナー』などがある(ともに誠文堂新光社)。

冒頭に示した幸田文との最初の出会いでもわかるように、山中寅文は地味であるが、時間をかけて誠実な取り組みを繰り返さない限り得られない強烈なエビデンスをもとに植物を知ろうとしている。その代表的な著作が『植木の実生と育て方』である。これを個人でやったのかと思うと、恐ろしくなるような本だと思う。山中の研究は『農耕と園芸』に「有望造園樹木の実生と育苗技術」というタイトルで1971年6月号から1974年1月号まで、足掛け3年間連載し、取り上げた樹種は90余種を数えた。1973年には別冊で『図解植木のふやし方』に樹木の実生繁殖および発芽パターン一覧を発表している。この研究は山中のライフワークでもあり東大植物学教室の技官を退官するまでの約40年、約1,000種の実生を調べ上げている。好きな実生はなにかを問われると「そりゃあ、あなた、ブナです」と答えている。「ブナもやし」とも呼ばれるブナの実生は高さ3cmで腰にはひだ付きのスカートを広げ、頭上に伸ばした手はまだ開ききらない新緑の双葉、「かすかに揺れる姿は白鳥の湖を踊る少女にそっくりですもん」と語ったそうである(『山中寅文先生への手紙』)。

この「実生(みしょう)」というのはいったいどんなものなのか。

『農業用語の基礎知識』(藤重宣昭、誠文堂新光社、2020)の検索ページを見ると、さすがにいくつものページに登場していた。かいつまんで紹介する。

【実生(芽生え)】

種子から発芽した幼植物を「実生」または「芽生え」という。

芽生えは根(幼根)と胚軸をもち胚軸には子葉と幼芽がある。幼芽からはシュートが展開し、初めは幼形の葉を作り節間が伸長する。幼根は伸びて直根となり、やがて側根を発生し、胚軸や茎下部から不定根が発生する。単子葉植物では直根(種子根ともいう)は初期の段階でしおれ、その後に出てくる根はすべてシュートから出る不定根である。

芽生えの後の比較的若い時期までを幼植物体と呼ぶ。樹木では種子から発芽した1年目を実生と呼び、両方の意味を合わせて呼んでいる。そのまま生長させると実生樹という。

子葉の展開にあっては、子葉を地中に残す地下発芽と地上に持ち出す地上発芽がある。前者は子葉が種皮に包まれたままで地中に残すものであり、ソラマメ、エンドウマメ、イネ科以外の多くの単子葉類がある。後者は一般的にみられる発芽で、子葉が地上に現れ、種皮の外に子葉が展開して緑色となる。子葉は光合成を行う。

品種改良を進める際にも実生は大切に扱われるが、ときにはねらったものではないところで発見された実生からのちに時代を画するようなものすごいスターが出てくることがあるという。ゴミ捨て場から発見されたナシ「二十世紀」の話は有名だ。これは「偶発実生」という用語がある。

【偶発実生】

捨てられた種子からの実生や、整理をまぬがれた実生がたまたま生長して優良形質を発言することが見いだされると、品種として認められることになる。このように偶発に残された実生から得られた優良個体を「偶発実生(ぐうはつみしょう)」という。

果樹においては明治後半より多くの偶発実生による品種が発見されている。これらの作物では遺伝的形質がヘテロであるため、自家受精であってもその実生において形質が変異するので、その変異中より優良個体を見出しうるためであり、また栄養繁殖性のため1つの優良個体が発見されれば、接ぎ木や挿し木により増殖されて品種と鳴ることが関係している。

偶発実生により成立した果樹の主要な品種には次のようなものがある。リンゴ=「王林」、ナシ=「二十世紀」「長十郎」、モモ=「白桃」「離核」「大久保」「砂子早生」、カキ=「平核無(ひらたねなし)」「富有」「西村早生」、クリ=「銀寄」「森早生」、ウメ=「白加賀」「豊後」「玉英」「梅郷」「南高」「竜峡小梅」、アンズ=「平和」「新潟大実」、カンキツ類=イヨカン・サンポウカン・ヒュウガナツなどがある。

外国品種にもその品種成立が偶発実生によるものも多い。例えばリンゴの「デリシャス」「紅玉」、ブドウの「デラウェア」「キャンベル・アーリー」、スモモの「ソルダム」「ビューティー」などがある。

なお偶発ではなく積極的に自殖実生から選抜して品種となったものも多い。例えばブドウの「高尾」、ビワの「田中」(※博物学の父、田中芳男が播種、選抜)、モモの「布目早生」、イチゴの「福羽」(※新宿御苑の福羽逸人の選抜、現在の様々な優良品種の祖先)などがある。

※「胚軸」については、本連載第94回を参照
※「富有」と福嶌才治については、本連載第42回を参照

図2 『農耕と園芸』別冊『図解 植木のふやし方』(1972) 植木の需要が急拡大し苗木が量産された時代だった。
図3 『図解 植木のふやし方』(1972)に発表された山中による発芽年度表。

日本経済の急成長とともに出現した単調な緑化

山中が実生を調べていたのは、いわゆる「雑木」である。林業上の重要樹種でもなければ、有名な花木でも草花でもない。それらはすでにたくさんの研究がなされ、産業になっている。その一方で、それ以外の多くの樹木は詳しい研究がなされてこなかった、という。山中は他の人がやらなかったこの研究を始めることになったきっかけについて、『植木の実生と育て方』の「序にかえて」に次のように述べている。

・昭和40年代(東京オリンピック前後の1960年代~)における日本経済の急成長は大規模な工業立地およびそれに付随する都市住宅地の開発を促した。そしてそこでは当然、その余地空間を埋めるための膨大な数量の植木あるいはその苗を必要とするようになった。しかも優れて日本的に集約的な土地の開発方法はその傾向に一層の拍車をかけた(※これは、巨大な住宅団地等の開発を指しているのだろうか)。

・この時期、苗木の供給は需給バランスが大きく崩れてしまったために、既存の種苗業者、造園業者、兼業の生産者だけでなく、一部の大企業や商社が参入する事態となった。これにより企業による苗木の生産は、一般に「単品多産」の企業的生産方式である場合が多く、結果としてこれがそのまま緑化環境、景観の単調さとして表れることになった。

・このような状況は好ましいことではないので、多少の経費をつぎ込んでも、公共用地区の緑化はその樹種構成をできるだけ元々のその土地に合った形の、単純均一でないものにもってゆかねばならない。また、一般家庭からは今以上にそれぞれ好みの異なった多種類の庭木が求められるようになるだろう。

・以上のような点から、これら多種多様な樹木苗木の生産を支える組織や制度の整備は必要だが、さらにそれらの苗木育成のための知識の提供ないし充足がよりいっそう望まれるところである。そこで、いろいろな苗木育成の方法があるなかで必要経費が少なく、しかも一事に多量の苗を生産することができる、ということで、最も普通に行われる実生繁殖に着目した。

・実生繁殖は、誰でもまず試みる方法であるにもかかわらず、それが常に成功するとは限らない。その理由は、実生のできる方法が樹種によって千変万化し、しかもたいていはその方法が知られていないからである。

・このような実生作りの技術は、一部の有用樹種についてはよく研究されてきており、一通りの知識さえあれば、まず失敗することはない。そこで、我が国自生の多様な樹種や外来の樹種も緑化に供しようとするためには、その発芽生理や育苗技術に関する知識を確立し蓄積していく必要があると思った。

こうして当時、東京大学農学部森林植物学研究室に勤務していた山中は、付属の小石川植物園にある実験圃場の管理に当たることになって以来、機会あるごとにわが国各地に産する森林樹木の果実や種子を入手し、調整・播種し、その発芽の様子を観察することを繰り返した。

ある樹種では採りまきした(※採り播き=種子を採取したら保存せず、すぐに播くこと)その日のうちに発芽して双葉がみられた。また、ある樹種では二年目ないし五年めの春にやっと発芽してきた。しかも発芽した時の双葉や最初に出る葉がおのおのの樹種に特有の形や性質を示していた。この双葉、すなわち子葉は植物分類学的にも重要な特徴を示すものであるといわれるが、できるだけ丹念に、その性質を調べ写真やスケッチによって記録にも残すように努めた

ひとつの試験だけでなく複数を比較しながら行い、変異を調べることもあった。これにより、例えば同じ樹種でも産地が違うと異なる結果が出ることがあり、特に緯度の違いは発芽に若干の差異を生じることがわかった。

ひとつの試験が長期に及ぶこれらの研究を根気強く続けているうちに手がけた樹種の数はいつしか90種を超え、1970年代の前半にかけて誠文堂新光社の発行する雑誌への連載や書籍を通じて発表した。『植木の実生と育て方』(1975)では、ちょうど100種類を紹介するように連載時のデータに補足して一冊にまとめあげた。

※1960年代の植木需要がいかに莫大な量を必要としたか、埼玉県の植木産地、安行の事例については、本連載第66回を参照 https://karuchibe.jp/read/10184/

※1970年代に現われた「にわか造園業者」については、本連載第102回を参照

図4 日本産主要樹種の発芽型と育苗図

発芽型と育苗の解説

本書の大きな特徴は100種類の個々の樹木の実生と育苗に関する解説にあるわけだが、それと同じくらい貴重なのが「日本産主要樹種の発芽型と育苗図」というリスト(図4)だ。実生の様子(子葉が地上か地下か、発芽型)、採種と播種の適期、発芽期が一覧できる。リストと解説を読み、実際にどのように採種し、保存し、播種・育苗すればいいか、具体的な手法も項目をもうけて解説されている。すべて実際に作業を手がけた上で観察し、気づいたこと、分析が記されていて、どのような問題があるのか、どのような点に注意して観察し作業をすすめればいいのか理解できる(図5)。

リストをざっと見ても、発芽までの期間が1年、2年、長いものでは3年以上、5年というものもある。種類によっては発芽が揃わず、少しずつ分かれて発芽してくる樹種もあるという。自然はあらゆる事態に備えている。草花でも同じようなことがいえるが、晩霜や干ばつになるとその時までに発芽した幼植物は枯れるが、発芽時期が分かれることで重大なリスクを分散できている。

樹種ごとの解説についてはそれぞれ必要なデータはきっちりと記されているが、冒頭は随筆のような体裁で書かれており、読み物としても楽しめる。「数年前、ある電気関係の部品製造業者からホオノキのたくさん自生している所はないかと聞かれた。何にするのかたずねると、電気ごたつのやぐらを作るのだと言う」(ホオノキ)、「シキミは仏事に供される樹木であるが、ヒサカキとともに生花店では年間を通じて安定して売れると聞く。多くは野外の自生品から採取して店頭に出しているというが、これでは開発による広葉樹林の減少にともなって減る一方であろう」(シキミ)、「マッチの軸木に供される木の種類といえばほとんどポプラ類とサワグルミに限られている。わが国での昭和45年度のマッチ軸木用材消費量は45万石であったが、このうちポプラ類がほぼ6割、サワグルミが4割を占めていたという」(サワグルミ)。「K教授の樹木学実習は話題が豊富でまことに楽しい。ある時ヒイラギの若木と老木の枝を持ってきて、葉のきょ歯の先がするどいトゲになる若木を示しながら「これはゲバ棒をふるう君たちの姿に似てさわるとまことにいたい。しかし老木になるとこのように円満な、きょ歯もない葉になって多くの人々から好まれる。このような性質を示す樹木は少なくないが、他にヤマモモやリンボクなども顕著である」と話されたことがある」(ヒイラギ)。このように、書き出しから読みたくなる名文が並んでいる。サクラの実生についての考察も面白い。サクラの自生種は数多くあるもののそれらの樹種の下に幼樹は少ないのはなぜか。果実が成熟して落下する時期に高温と多湿になるためではないか。試しに低温で1ヵ月冷蔵処理を行って9月に播種すると条件によって高い発芽率を得られることがわかった。このように様々な興味から樹木の実際のありようを見る道筋を示してくれている。

図5 各樹種の解説 果実の姿、種子、実生、双葉のようすがそれぞれ記録されている。

「グリーンセミナー」での観察の要点

山中寅文は、研究者であり、かつ植物世界へのよき案内人でもあった。質問魔だった幸田文とも長年に渡ってつきあえるほどの達人であった。この達人の植物観察はどのようになされていたのだろうか。誠文堂新光社から出された『グリーンセミナー たのしい自然観察の手帖』にそのヒントが記されている。この本は「森や野との交流の手引書」として企画された。山中は、先にも登場した梶幹男ら5名の専門家とともに編著者として関わった。

「植物の観察が子供の教育には一番だ……」と口癖のように言っていたという山中は、草木の名前を覚えるのは楽しいことだと教える。草木の名前を覚えるにはコツがあって、誰でも100種類くらいは簡単に覚えられる。それはからだの部分や五感を使って観察し、それぞれの場所で3~5種類ずつ覚えるといい。まず、目で見る。見るべきポイントもちゃんとあるからよく見ること。次は耳で聞いて知ること。手で触れて動かして音を聞く。時には静かに回りに気をつけて耳を澄まさないと聞こえない音もある。三番目は花、葉、枝、果実などの特徴ある臭いをかいで区別すること、といったことだ。

山中が論考を寄稿した『アメニティを考える』(AMR編、未来社、1989)にはもっと詳しく書かれている。目で覚える時には美しい木5種、数え上げてみる。また春夏秋冬それぞれに咲く花に分けてみる、花の色で分けてみるといい。鼻を利かして香りのよい花5種、いやな臭いがする花5種、口ならば、食べておいしい木の葉で5種、野草で5種、毒があるもの5種、両手を出して、まずよく使う右手ではトゲのある木を覚える、左手では針葉樹のうち触っても痛くないもの3種、触ったらかぶれたりするあぶないもの3種といったふうに少しずつ体の場所と一緒に覚えるようにするとあっという間に100種類くらいはいえるようになる、と教えている。木の葉を雑誌に挟んで100種類くらい集めてスケッチしたり、果実酒をつくったり、草花あそびをしたりしながら植物を身近にする、名前を覚ええていくことが、のちのち自然や、身の回りの環境について気づいたり、暮らしをよりよくするための力になると考えていたようだ。

同じ本に収められた梶幹男の「自然の見方」にも面白いエピソードが書かれていた。

それは西アフリカのカメルーンに熱帯多雨林の生態調査に出かけた時に現地で出会った案内人の話だ。植物の名前がわからない土地で調査する場合、ヒモを張って区画を決め、そのなかに見られる一定以上のサイズの植物にすべて番号をつけ調査を進め標本をつくる。あとで、番号と標本から名前を同定して全体を把握する、といった手順で調査を進める。この時は1haの大きな区画で1万5000本の樹木を調べるために、少しでも効率を上げようと、現地で雇った男と2人で3ヵ月、森に通い続けることになった。驚くことに、この男は全体の80%の樹木の名前を現地名で識別できたという。

熱帯の高木は、樹高が40~50mもあり葉っぱの形など見えない。男はまず樹皮の色や形で識別した。それでも分からない場合は、蛮刀で樹皮を削りとり、内部の材の色や木目を見た。そのとき、切り口からにじみ出る樹液の色、粘性、臭いも重要な識別点にしていたようだった。そういう時にしてもまだ分わからない時は、樹液を舌でなめて味を見た。また時には、蛮刀の背で幹をたたき、その音で材の堅さを聞き分けることもしていた。彼はこの森で生まれ、森のなかで遊び育ち、植物を見分け利用することで現在まで生きてきた人々の子孫であり、より多くの動植物を知っていることは誇りなのだった。

参考
『アメニティを考える』AMR編 未来社 1989
『山中寅文先生への手紙』(追悼文集) 緑窓会 2003

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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