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カルチべ取材班 現場参上

中国野菜の原点で、三代目が大活躍!

公開日:2021.7.9 更新日: 2021.7.19
真ん中からチンゲンサイ、ミニチンゲンサイ、ミニカントンパクチョイ。

日本初、チンゲンサイを栽培

写真の美しい野菜たちをご覧下さい。真ん中がチンゲンサイ。その両隣がミニチンゲンサイ。そしてそのまた両隣がミニカントンパクチョイ(広東白菜)。これらは日本でも中国料理に欠かせない野菜として料理店を中心に広まっています。チンゲンサイを起点として日本でも広く知られるようになったこれら中国野菜は、千葉県柏市のとある一軒の農家から始まりました。

それは千葉県柏市の西川ファーム。現在も中国野菜を軸に30種類もの野菜を栽培しています。柏市は都心から北へ約100km。人口43万人を擁する都市ですが、昔からカブ等の野菜の栽培も盛んな地域です。

「栽培面積は約7ha。東葛地域で一番大きい野菜農家です」

と、西川圭二さん(60歳)。千葉県の北東部。松戸、野田、柏、流山、我孫子、鎌ヶ谷市に広がる東葛地域は、北に利根川、南に江戸川を挟んで埼玉県、東京都と隣接したエリア。西川さんの圃場は、柏市内はもちろん、市外にも点在しています。

最初にチンゲンサイを作り始めたのは、圭二さんの父・述夫さん(88歳)でした。それはまだ1970年代のこと。

「柏の知味斎(ちみさい)という中国料理店が、台湾から腕のいい料理人を呼んで日本の野菜を見せると、チンゲンサイもクウシンサイも包心菜もない。それまで日本にある他の野菜で代用していたのですが、『これでは本場の料理が作れない』と。その店は畑を借りて自力で栽培しようとしていたのですが、うまくいきません。たまたまその近くにうちの畑があったので、うちの親父に話したら『それならうちが作ればいい』。それが始まりです」

種苗メーカーと協力してチンゲンサイを世に広める

左が中国野菜二代目の圭二さん、右は三代目の裕幸さん。初代の述夫さんもご健在。

こうして述夫さんは、畑の一角に料理人に託された中国野菜の種子を播き、栽培を試みますが、なかなかうまく育ちません。形状が揃わず、時には「種袋の絵とぜんぜん違うものができてしまう」ことも。日本の気候風土に適合して、きちんと揃ったチンゲンサイを安定的に作るには、種苗メーカーの協力が必要だと、述夫さんは株式会社サカタのタネに品種改良を相談しました。

こうして栽培した中国野菜を、西川さんは中国料理の専門店を中心に販売。また述夫さんの叔父が築地市場の仲買人だったこともあり、「西川の中国野菜」は、野菜のプロの目を通して市場でも流通しました。

1983年、農林水産省の呼びかけで、市場に出回り始めた中国野菜の名前を統一しようとの動きがあり、それまで「青軸パクチョイ」とも呼ばれていた野菜は、正式に「チンゲンサイ(青梗菜)」と名づけられました。こうして38種の中国野菜に名前がつき、市場流通の現場でも統一呼称で呼ばれるようになったのです

1985年、サカタのタネは、世界初となるチンゲンサイのF1品種「青帝」を開発。これを機に、チンゲンサイの栽培は各地で本格化し、日本全域に広まります。

それから35年。農林水産省の「作物統計調査」によると、チンゲンサイは今や全国的に栽培されていて、茨城県、愛知県、静岡県などでは、産地も形成されるほど。2019年の収穫量は全国合わせて41,100t。その量は日本のメジャーな葉物野菜であるコマツナの35.8%に達し、今では日本でもすっかりおなじみの野菜となってきました。

チンゲンサイの産地は全国に広まっている。(出展:農林水産省「作物統計調査」2019年より)

ミニサイズのチンゲンサイがほしい

地元の知味斎を皮切りに、横浜中華街で130年の歴史を持つ「聘珍楼」など、日本の中国料理の老舗へ出荷し続けていた圭二さんは、ある時料理人から「小さなチンゲンサイを作ってほしい」と依頼を受けました。

フカヒレやアワビなど、高級食材を彩る鮮やかなグリーンの食材として、チンゲンサイは欠かせない食材ですが、長さ20cmのままでは、カットして使わなければなりませんでした。できれば切らずに丸ごと料理に添えられる「小さなチンゲンサイ」があれば、メインの食材が一段と引き立つというのです。

ミニサイズのチンゲンサイ(上)と、白とグリーンのコントラストが美しいカントンパクチョイ。

そこで西川さんは、ふたたびサカタのタネに品種改良を依頼しました。こうして誕生したミニチンゲンサイは、栽培期間が短く、素人にも作りやすいため、家庭菜園でも人気です。

二代目は、ミカン由来の肥料で食味を上げる

日本の気候風土に適した中国野菜の育種と栽培に取り組み、それを求める料理人たちの声に応え続けるなかで、圭二さんはひたすら「味」を追究してきました。

「種屋さんが品種改良しているから、チンゲンサイはどんどん作りやすくなっていて、ある程度形は作れます。でもおいしさを求めるのは難しい」

様々な肥料を試し、中華の名店の総料理長にも「野菜は西川でなければ」と言わしめるまでになっていましたが、その時使っていたのは一般的な肥料で、差別化を図るにはインパクトに欠けていました。そんな時、足を運んだ農業資材の展示会で目に止まったのは、愛媛県宇和島市のメーカー・カイゼン・ラボ株式会社が、ミカンの搾りかすを利活用して開発した有機肥料「みかひ」でした。

「みかひ」は、愛媛県産ミカンの搾りかすが主成分。

「みかひ」は、ミカン産地の愛媛県で大量に発生する、ミカンジュースの搾りかすが主原料。水分が多く、酸度も高いため発酵させるのが難しいといわれていましたが、同社はミカンの搾りかすバークやおが屑とふすま等を混ぜ、独自の技術で搾りかすを80℃以上で高温発酵させて、堆肥化に成功しました。

愛媛県では昔から「ミカンの皮を畑にまくと、おいしい野菜が育つ」といわれていて、そのメカニズムはまだ解明されていない部分も多いのですが、カンキツ由来の「ヘスペリジン」、「リモネン」、「ナリンゲニン」等の成分が、食味の向上に関係しているのではないかといわれています。

西川さんがこれを圃場に施用したところ、「野菜の食味が良くなる」と感じました。畜産の廃棄物や食品残さを原料とした堆肥は数多く販売されていますが、ミカン由来の堆肥は珍しい。そこで圭二さんは、自ら育てた野菜を「みかん野菜®」と命名して販売するようになりました。

震災、父の病…波乱の10年

祖父は日本に中国野菜を根付かせ、父は品種改良と食味の向上に尽力。そんな西川家の三代目裕幸さん(31歳)はというと……

「これからブロッコリーの収穫に行きます」
「えっ、ブロッコリー? しかもこんな雨のなか?」

5月末。取材に訪れた日は、あいにくの雨。しかも晴れ間もなくひっきりなしに降っているので、じっくりお話を聞けると思ったのですが、そんな日でも裕幸さんは圃場に向かいました。

「うちはスーパーや飲食店、契約先が多いので、大雨でも休むわけにはいかないんです」
それならばと、一緒に圃場へ出かけることにしました。柏の自宅から車で北へ20分。我孫子市の利根川沿いの河川敷にある畑へと向かいました。

雨の日も寸暇を惜しんで収穫へ出る裕幸さん。

裕幸さんは、日本大学生物資源科学部を卒業後、サカタのタネで1年間研修を受けた後に就農しましたが、これまでの10年は波乱の連続でした。2011年3月、東日本大震災直後に起きた原発事故の影響で、各地に放射性物質が拡散。千葉県内でもなぜか柏市は線量が高く、作っても売れない状況が続きました。

特に西川ファームは、料理店との直接取り引きが多く、鮮度や大きさにこだわるシェフたちの要求に細やかに対応していましたが、検査をしても、長年付き合っている店でも「悪いね」といって購入してもらえません。最近になって学校給食への出荷を試みたのですが、未だに「放射性物質検査が必要」という状況が続いているそうです。

そして5年前、圭二さんが突然病に倒れてしまいました。脳梗塞でした。
「本当に突然でした。当時56歳。最初は言葉も出ませんでした」

その後、圭二さんはリハビリを繰り返し、会話能力は不自由ないまでに取り戻すことができました。現在も1日1時間の散歩を欠かさず、リハビリを兼ねて野菜の袋詰めができるまで回復しましたが、農作業は「やりたくてもできない」状況にあります。

必然的に畑の作業は、就農して家業を手伝っていたものの「まだ遊びたい盛りで、夜の3時、4時まで飲んでいた」裕幸さんが一手に引き受けることに。当時まだ20代でした。この時圭二さんは、農作業のすべてを裕幸さんに任せようと決めました。

「畑に行けば、お前が社長だ!」

栽培面積7ha、17ヵ所に分散

以来、孤軍奮闘で野菜を作り続ける裕幸さん。収穫や苗の定植等、人手を要する作業は、妻、弟夫妻など家族を総動員。さらにパート、アルバイトを使って行いますが、

「どこで・いつ・何を作って、どんな作業をするのか。全部頭のなかに入っています」

ただでさえ多忙をきわめるなか、周囲の農家から「うちのじいちゃんが倒れて、やれる人がいない。うちの畑を使ってほしい」との依頼が次々に舞い込んで、栽培面積は増え続け、現在7ha、17ヵ所に。真冬に野菜を育てるために50aのハウス以外はすべて露地栽培です。

栽培管理に出荷にフル稼働。ずっと大忙しの裕幸さんでしたが、2年前、千葉県に2度の大型台風が襲来した時は、利根川が溢れて河川敷の圃場が水没。そこに植えていた作物は全滅してしまいました。

「あんなに忙しかったのに、いきなり作業がなくなって、呆然としました」

そんな被害を乗り越え、現在は再び河川敷の畑でチンゲンサイを栽培しています。

畑に着くなり裕幸さんは、雨のなか、ゴム長を履き、カッパを着用して、ネットを被せた圃場へ包丁片手に入っていきます。トンネル状のネットをめくり上げると、地面が見えないほどぎっしり生え揃ったチンゲンサイが現れました。夏場は30日、冬場は90〜100日と栽培期間が異なるので、時期によって品種リレーを行っています。

「一番たくさん作っているのは、サカタの『艶帝』。まだ試作段階で、名前がなくて番号だけの品種も多いですね」

チンゲンサイは、栽培時期に合わせ多品種を周年栽培。

その一方で裕幸さんは、栽培面積が広がるなか、スーパーとの契約栽培を増やし、いつでも・誰でも必要とする「一般野菜」の栽培にも力を入れるようになりました。

「スーパーに出荷しても、チンゲンサイは1日20個が限度ですが、ブロッコリーなら100個は売れます」

この春、ブロッコリーの苗を1万本定植しました。1日800個のペースで出荷していますが、雨のこの日はまだ100個。

「あと400個はとらなくちゃ。契約栽培は、雨の日も作業しないといけないから大変です」

コマツナ、ホウレンソウ、ミズナやカブの「あやめ雪」等も栽培。当初は中国野菜の一員の「香草(シャンツァイ)」として早くから売り出していた「パクチー」は、「味と香りが濃い」と評判です。

一般野菜ブロッコリーも栽培。1日800個出荷。

祖父と父から受け継いだ中国野菜と契約先。新たに始めた一般野菜も加わった今、西川家の若き司令塔として、奮闘する日々が続いています。「これから品目を絞っていかなくちゃ」と話す裕幸さん。

差別化や新ジャンルの開拓を目指した祖父や父と異なり、三代目はいたって現実的。

「確実に高値で売れる野菜を、効率的に作りたい」

震災、家族の病気、地域の若手不足、異常気象……と、めまぐるしく変わる時代のなか、次々と難題が現れ奮闘中。その様子を見守る圭二さんは、

「あと何年かすれば、周りの農家はみんな作れなくなる。今頑張れば、俺よりも裕幸のほうが絶対に儲かる」と確信しています。

中国野菜の源流として、その野菜の味と美しさで、作れば確実に売れる関係を築いてきた西川ファーム。時代の波に揉まれながら、「次の一手」を模索しています。

取材・文/三好かやの
撮影/編集部

参考文献
『農業経営者』2015年4月号「日本における中国野菜の源流」
神山典士『新・世界三大料理』PHP新書

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