農耕と園藝 online カルチべ

生産から流通まで、
農家によりそうWEBサイト

お役立ちリンク集~カルチペディア~
園藝探偵の本棚

第128回 1950年代、農村で活躍したオート三輪車~庭先販売から市場出荷へ

公開日:2021.7.23

「近郊園芸の新方向 伸びるオート三輪車」『農耕と園芸』1954年7月号

[著者]山田貞次(東京都立農芸高校)※東京都立農芸高等学校
[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1954年7月1日
[入手の難易度]やや難

若い頃、足の骨を折ったために2年ほど三輪のバイクに乗っていた時期がある。奥多摩地域に自分のフィールドを決めてアルバイトしながら都内からバイク(ホンダXL250S)で通って自然観察をしていたときに、大型トラックを抜こうとして事故に遭い3ヵ月ほど入院した。右脚大腿骨骨折だった。事故はたいへんだったが、きれいに折れたため、手術してほどなく退院となった。当時はあまり深刻に思うこともなく、退院してから三輪バイクを購入して松葉杖を足に挟んでリハビリ通院した。大腿骨のなかに太い金属の棒を入れてあり、一年後に再手術して抜いてもらった。二輪のオートバイは車体を傾けて曲がるものだが、三輪バイクというのは車体を傾けられない。それで現代の三輪バイクはシート部分が倒れると同時に少しだけタイヤが斜めになるような構造になっていてスムーズに曲がれるようだ。三輪バイクは、自動車ではなく二輪車の扱いでヘルメットが要る。荷台が安定しているので荷物の配達にもたくさん使われている。

今日は、昭和40年代くらいまで使われていた小型の三輪自動車、いわゆる「オート三輪車」についての記事を見つけたので紹介したい。この記事で知ったのは、オート三輪車が農村で早い時期に競うように導入され大活躍していた、ということである。50年代の地方都市ではまだまだ一般には乗用自動車が普及しておらず、農家だけがオート三輪を走らせていたという話もある(地域にもよるが、北海道のように広大な地域では、より一層自動車が必要とされており、実際に大きな効果があった)。三輪のトラックは60年代にはかなりの数が四輪自動車と混ざって活用されるようになる。映画『三丁目の夕日』や『稲村ジェーン』(ダイハツ「ミゼット」)、『コクリコ坂から』の世界。松本清張の恐怖短編小説「鉢植えを買う女」は1961年に発表されているが、風呂場にシュロ、芭蕉、フェニックスなどの大鉢が植木屋のオート三輪で運び込まれるシーンが印象的に描かれている。観葉植物が植えられた浴槽には(女に殺されたと思われる)男が埋められていた。

近郊園芸の新方向 伸びるオート三輪車 運搬の能率化は進む

1945年、日本は国土を焦土にして敗戦、連合国軍により占領された。国外に在留していた人々や復員兵の帰還により極度の食糧難、物資の不足は深刻な問題になっていた。配給は完全に途絶え、都市部に住む人たちは闇市や農村に出かけてなけなしのお金や様々な物品と交換で食糧を入手して生き延びていた。転機となったのは朝鮮戦争の勃発だった。1950年6月から53年の7月まで、3年余にわたって戦われ、米軍の支援のために日本の経済は急速に回復へと向かった。

今日のテキストは、『農耕と園芸』の1954年7月号に載っていた、「オート三輪車」に関する記事だ。昭和40年代に子ども時代をすごした僕らの世代でも、三輪自動車はしょっちゅう見かけた、というほどではなかったが、それでもときどき走っていたのを覚えている。『農耕と園芸』は、戦前の昭和16年に休刊となった『実際園芸』の後継として昭和21年に創刊されたもので、まさに戦後の農業史における証言、記録となっている。終戦直後から50年代にかけては、「生活の復興と食糧増産」の時代で、記事にも様々な挑戦が記されている。経済を成長させるために、農業分野でも種苗や資材、生産技術、物流や海外への輸出というように、あらゆる方面でそれぞれが努力していた。これが60年代の初めは、「量から質へ」という見出しが見られるように、好調な経済に合わせて課題の方向が変わっていく。米作りも増産から減反へと舵を切り、転換作物として園芸分野(果実、野菜、花、鉢植え)が注目されるようになっていくのだ。

きょうのテキストを読むと、1950年代の状況は、戦後に農作物が貴重品となり高値になったことや土地の高騰などによって農村には資金が蓄積されていた、ということがわかる。そのため、農家のオート三輪車の導入は「早いところでは昭和23(1948)年頃からぽつぽつと使われるようになり、昭和26(1951)年から29(1954)年春までに購入したものが全体の67%」と記されている。三輪自動車は、1930年代に製造が始まり、戦後、一気に普及、50年代末には衰退した。自転車やリヤカー(人や自転車で引く)を利用していた時代と四輪トラックに切り替わる移行期間(約30年)に活躍した自動車だといえる。しかし、当時の人々からすれば、偉大なる力を発揮した心強い味方だったにちがいない。

時代はさらに四半世紀さかのぼって、農産物の輸送の状況を見てみよう。図1と2は、『実際園芸』昭和3年8月号の口絵にあった写真だ。東京の公設市場の様子。図1の江東市場は改装され新しい設備になっているが、荷物はカゴなどに収められ、荷車で運ばれている。図2は、改装される前の神田市場。雨が降ったらどうしていたのだろうか。それにしても、これらの荷車からオート三輪まではずいぶん時間があるわけで、戦前でも荷物を運ぶ4輪のトラック、オート三輪車などがあったわけが、戦争が始まると軍事用途以外の自動車の生産は制限されオート三輪は製造中止し、設備は他の機械類の製造に転用された。戦後は、朝鮮戦争以後に安価な輸送手段としてのオート三輪の需要が高まり、たくさん出回るようになった。農業も同様で、食糧難のなかで農産物の価値が上がるとともに農家に資本が蓄積され、その手元資金を使ってオート三輪車が導入されていったということなのだ。以下、記事を紹介する。調査の件数については、総数がそれほど多いとは思えないが、当時の傾向は十分に見て取れる。

・オート三輪は戦後早い時期に農家に導入されたが、その多くは自己資金で購入された(それだけの余力があった。オート三輪以後、農家は、軽や2tトラック、多目的に使えるトラクターなどを購入、作業や物資の輸送に活用された)。

・オート三輪が活用された時期は、卸、仲買人が集荷にくる庭先取引から市場出荷へ移行しつつあった(昭和22年頃からの統制経済の終了と共選共販への移行期)。

・様々な業務に頻繁に利用されるだけでなく、プライベートでも活用され生活改善に効果があった。

図1 昭和3年頃の東京市江東市場(東京市本所区横網町1丁目=現在の江戸東京博物館のあたり)。
図2 同じく昭和3年頃の神田青物市場 これからまもなく整備されコンクリートの建物となった。
現在のJR秋葉原駅の周辺。ヨドバシカメラなどがあるあたり。

オート三輪車が急速に入る

最近、自動車による輸送が急速にふえたが、農業経営の中にも半tから1t積みの小型のダットサンやオート三輪車が導入され、広く利用されるようになってきた。

とくに東京都下の近郊農業地帯はオート三輪車の取り入れ方が非常に多く、生産物の市場出荷、収穫物、肥料、飼料、苗の運搬その他いろいろな面に巧みに活用されている。その実態はどうか。どんな役目を果たし、如何なる結果をもたらしているか、以下都立農芸高校に学ぶ園芸科の生徒の家庭を対象としての調査であって、その居住地は練馬区、杉並区、北多摩郡等にわたっている。

表A オート三輪車を所有している農家の戸数とその割合。

どのくらい持っているか

右(※表A)のようにオート三輪車は37.7%も入っている。しかし郡部のある部落は90%を超えているところがあり、区内には20%に及ばないところもある。これは市場出荷にオート三輪車の利用度が高い地域と、否かによってちがうようであるが、都下の農業地帯全般を通してみたときには、37%内外にみてよかろう。

いつごろから入った

昭和23(1948)年頃からぽつぽつと使われるようになり、26(1951)年から29(1954)年春までに購入したものが全体の67%を占めている。昭和20(1945)年以前のものが21%あるが、これはトラックを利用していたが、現在は農業経営の規模から手頃であるオート三輪車に切りかえたものである。

以前はどんな輸送法によっていたか

それは90%がリヤカーである。他に牛、馬車5%、トラックが5%の割合になっている。

22、3年の頃は、リヤカーによる市場出荷は少なく、相当量が庭先で取引がなされたから、リヤカーの使用範囲は農場との運搬が大部分を占めたものと思われる。それが24、5年になり、経済的にも余裕ができ、市場出荷の必要が起るにともない、オート三輪車が入って来たのである。

購入は自己資金で

さてオート三輪車は半tから1t程度で、30万円前後であるが、中古車ならその半額くらいで求められるが、その購入資金の95%が農家の自己資本である。借入金で購入したものは皆無で、共同購入したのが5%である。戦後近郊地帯の農家経済は相当に裕福であると思われるし、とくに食糧不足に伴う買出しの頃も、経済が落ちついてきた昨今も、農産物の販売は有利な立場にあったことは事実であり、その結果が自己資金として蓄積されたことも事実であろう。

表B 経営面積からみたオート三輪車を所有する割合。

経営面積からみたオート三輪車の所有数

この調査は区域が郡部と区内に亘っているので、ただ単に経営面積からのみ見ることは妥当でないが、(区内の経営面積は比較的に少なく、郡部は面積が広くなっているので、はっきりした結論は出てこないが)次のようなことは結論づけられると思う。

この表(B)より2欄を加えて50%以上になるところをみると、所有している項では10反‐20反で63%であり、所有していない項では5‐15反で54%である。

やはりオート三輪車の所有も、経営面積が近郊農業として適当の規模でないと、十分の活用ができないし、また所有することも困難のように思われる。

表C オート三輪車の購入前後における市場出荷の距離の変化。 ※下段、購入後の表について、割合(%)の合計が136となるが、原本のママ記載する。

伸びる市場出荷の距離

購入以前すなわちリヤカーの時は5km以下が大部分で73%を占めている。最も遠い市場に出荷する場合でも8kmである。このことは近郊地帯であるから、この距離の範囲内に幾つかの青果市場が存在する。ただこれは近いというだけで合理的に有利な販売方法がとられていることではない。ちょうど地方の農村で商人が畑にまで出かけて買い上げるのと同じで、自主的な販売策はうまく立てられないのである。

これに反し、オート三輪車を購入してから後の市場への出荷距離はぐんとのび、もっとも近いところで5kmであり、49%の農家は20kmに及ぶ市場に出荷している。だいたい都下の農村地帯である郡部からの距離を考えても20kmといえば都心の市場まで通ずることになる。このことは距離に関係なく最も有利な市場にどこまでも出荷し得るということである。

表D 農業経営の種類とオート三輪車を所有する割合。

農業経営の種類とオート三輪車所有数

所有している農家はその主なる経営が野菜経営である場合が15%に及び、これに普通作物(麦、陸稲、サツマイモ)栽培が次いでいる。野菜経営はそれだけスピードのある処理を必要とするからである。”所有していない”については普通作物を主として栽培している経営が62%になり、このことは普通作物にはスピードを必要としない結果からである。要するに近郊農業地帯で合理的に有利なった立場で野菜を栽培するにはオート三輪車の利用なくしては十分な経営が不可能といえる。

表E オート三輪車の使用の度合。月に20日以上使う農家が半数以上。

使用の度合

1ヵ月30日にわたり毎日使用する農家が6戸で最も多く、26%である。15日以上使用する農家が大部分で、農家の作業の実態からみれば、かなり使用の度合も高いとみてよい。なお1ヵ月に使用する延べ時間を調べてみたのであるが、その結果によると60時間使用するのが大部分である。これによると1日の使用時間は2‐3時間ということになる。

また使用度は時期により相当に差があると思われるが、右の調べは4月から5月の1ヵ月間であるから、1ヵ年の傾向をみるには妥当でない。野菜の収穫出荷、麦の取り入れ等農繁期になれば、日数も時間もぐんと増加すると思う。

なお使用日数が15日以下のものもあるが、この程度の使用ではオート三輪車を十分に活用しているとは思えない。人のまねをして購入しても農業経営の実態がそれに伴わないと無意味になる。

どんなものを運んでいるか

頻度数の順にあげると、市場出荷、収穫物運搬、肥料運搬、飼料運搬、苗運び、落葉集め、依頼ものの運搬、牛乳運搬、草刈り、買物娯楽、耕耘機運搬などであり、市場出荷と収穫物運搬、肥料運搬は全部のものがあげているところから見ると、使用の重点はこの辺のところになるようだ。

まだその他の項目もたくさんあると思うが買物、娯楽などは特異な使用法であり、農村の特定の商店ばかりを利用しないで、広範囲の商店が利用できることも効果的である。少しは遠いところでも労をいとわずに出かけることができる。また桜の時期の花見にも、夏の夜の打上げ花火にも、秋祭りにと一家がそろって老いも若きもオート三輪車で出かけることも、農家の生活を豊かにするよい点であると思う。

労働力の軽減

農業経営で最も関心の的は肉体労働の荷重になりやすいことであるが、この点についてオート三輪車はどんな影響があったかを調べてみた。「労働がらくになった」というのが80%で、「らくにならない」「購入する前と同じである」がともに10%という割合があらわれた。この調査項目についてはオート三輪車を運転する者と、家にあって農業労働に従う者とで異なった状態にあると考え、両者の意見を総合して記載するように指示した結果である。

リヤカーでの市場出荷は半日がかりであったものが、夕食後でも数十分、あるいは数時間で出荷できることになれば、それだけ農業労働の時間は増えることになる。これは総合してみて農家の労働の軽減に役立っている。また運転する者は比較的若い者であるが、労働時間は増えても、運搬そのものが楽にできるので、肉体労働が荷重にならない。ことに夏の野菜の出荷の最盛期におけるオート三輪車の働きは格別で、要するに労働生産性には多大の効果が認められる。

ソロバンにあうか

最後に高価な車を入れ、月1,000km走るとして、維持費(油代、修理費、税金その他)が月5,000円前後かかるが、これが農家経営において経済的にどんな関係が生じたかをみると、収入が増加したというのが75%であり、前と同じであって収入が特に増加しないというのが25%である。

収入が増えたというのは市場の選択が自由に行われ、最も有利な場所に出荷できるようになったからで、このことは必然的に収入の増加という結果をもたらしてくるからである。これは販売法の改善とも言えると思うし、同時に市場価格に家中のものが心を持つようになったことは、いままでの農家の経営に活気を生じ、ややもすればあきらめやすい農家の人達に積極的に道をひらくようになり、商業的農業の合理性が理解されるようになったと思う。

近郊農業の新しい方向

要するにオート三輪車のような比較的小型の経営規模の大きさに適合する運搬用具によって、スピードを求めることが近郊農業の効果的経営に必要である

図3 記事にある写真のオート三輪車。ヘッドライトが1個である。
図4 今回の記事と同じ、昭和29(1954)年に新装開店した青山の花茂本店とオート三輪車。

オート三輪小史

オート三輪車は日本で独自な発展を遂げた貨物用の自動車。第一次大戦後の1930年代から戦争で製造途絶時代をはさんで1950年代まで活躍していた。オートバイにリヤカーを合体させたようなものから発展し、小型のエンジンながら大量の荷物を運ぶ使い勝手のよい自動車として普及した。「ダイハツ」「マツダ」「くろがね」が戦前の三大メーカーだった。

オート三輪は長い間、軽便車両として考えられ、免許も不要だったため急速に普及した。荷台はさまざまに変更され材木など大きく重量があるものを運ぶのにも利用された。前輪が1輪のオート三輪は圧倒的に小回りが効いたので狭い市街地や林道などでの使用に向いていた。

戦後、1951年7月施行の「道路運送車両法」でオート三輪の車体幅、車体長、排気量について制約が撤廃されたため、一気に巨大化していった。つねに「過積載」が想定されたために、メーカーでもエンジンの大きさに対してシャーシの強度はそうとうの重量にも耐えるような設計をしていたという。(あまりにも巨大化したため1955年に改めて制限された)。

こうして、一時期、隆盛をみたオート三輪だったが、自動車交通の高速化に伴い、三輪ゆえの不安定な構造や、室内の居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらに荷物を大量に運ぶために大型化したがゆえに、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。1965年の運転免許制度の改正(三輪車運転免許の廃止)での免許取得の利点がなくなったこともオート三輪離れに拍車をかけた。東京オリンピックを境に日本は長期の経済成長期を迎えており、四輪自動車への乗り換えが進み、マイカー購入も夢ではなく手を伸ばせば届く現実に近づいていた。農村では、乗用トラクター、手押しの耕うん機、道具や機械を運ぶための軽トラック、収穫物や資材を運ぶ2tトラック、といったように、用途に合わせて新しい道具を導入するようになっていった。

オート三輪車の種類

オート三輪車は車両の顔にあたるところが四輪車と大きく違っている。まずボンネットらしきものがない。オートバイのような姿をしている。なのでヘッドライトやフロントガラス、前タイヤのフェンダーあたりに目を向けると、例えば図3の写真に写っているオート三輪車は、ヘッドライトが1個しかない。『日本のオート三輪車史』によるとオート三輪車のヘッドライトは戦前からずっと「中央にひとつ」というのが普通だったという。2つつくようになったのは、戦後の1950年代半ば以降からだそうである。それ以降、ひとつ目型は急速に姿を消していった。このことから、図3の車種は記事の当時には普通に走っていたものだと思われる。

『オート三輪車史』のページを端から見ていくと、フロントガラスや座席横のパイプの形などから、この車種はどうもダイハツ発動機製造社製の「SSR」のように思える。1950年代の初めに発売されたモデルで、ようやく3面の風防(フロントガラス)と幌屋根がつけられた最初期のものだという。ドアもないので、写真のように何かカバーをつけていたのではないかと思われる。当時のオート三輪はエンジンの始動にセルモーターなどなく、キック式がほとんどだったという。

第97回の青山の花店「花茂」で使われていたオート三輪車(図4)はメーカーは不明。小型だが、風防つきで外装などがカスタマイズされているように見える。仕入れや配達に大活躍しただろう。昭和30年代になっても多くの花店は電車や業務用の自転車で配達していた時代だった。戦後、オート三輪も免許が必要となり、やがて軽自動車、普通自動車の時代になる。花店では、免許を持っていない先輩と免許を取った若手が入り交じるようになる。普段いばりちらしている先輩も、免許を持っている後輩がいなければ仕事にならないため、社内の力関係が微妙に変わっていったと先輩から聞いたことがある。やがて、ほとんどの人が免許を取る時代になっていった。

参考
『実際園芸』第5巻3号 昭和3年8月号 誠文堂新光社 1928
『改訂版 日本のオート三輪車史』 GP企画センター編 グランプリ出版 2021

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

この記事をシェア