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第129回 1954年の追悼文~偉大なる園芸編集者、石井勇義の一周忌を終えて

公開日:2021.7.30

「一周忌を終えて 園芸界に新時代をきずいた石井勇義を偲ぶ」『農耕と園芸』1954年8月号

[発行]誠文堂新光社
[発行年月日]1954年8月1日
[入手の難易度]やや難

「石井勇義氏をしのぶ」 志佐誠(名古屋大学農学部教授)『園芸通信』 1962年1月号

[発行]坂田種苗株式会社出版部
[入手難易度]かなり難

『実際園藝』創刊のころ

誠文堂新光社の雑誌『実際園藝』の創始者、主幹を務めた石井勇義(1892~1953、図4)が、創刊号を準備したのは千葉市内の旅館だったという。『子供の科学』の原田三夫にアドバイスを受けながら長期滞在して原稿を書いたり編集作業を進めたようだ。図1は、その「三上館」があった場所の現在の様子。橋のたもとにあった「萬菊」という割烹料亭が経営する旅館で、料亭と並んで建っていたという。大正15(1926)年、すっかり様変わりしているが、川と橋は今も残る(図2)。

ここは現在の千葉県庁にほど近い亥鼻公園という小高い丘の下部にあたる場所で、付近には千葉氏の猪鼻城に由来する天守閣のある城(千葉市郷土博物館)や県立図書館、文化センターなどが集まっている。図3は、先程の三上館(萬菊)から少し歩いたところにある「病院坂下」で撮影した。坂の上にはその名の通り千葉大学医学部の付属病院がある。石井勇義は大正8年頃に体をこわして入院し、長期の療養生活を送った。

この時期の石井は恩地剛に請われて小田原の辻村農園を辞し、恩地らが設立した東洋園芸会社の園芸主任(三軒茶屋)になるのだが、間もなく結核を患い、前途を閉ざされた。友人や農商務省の吉野信次らの支援で園芸研修のためのアメリカ行きもパスポートまで取っていたのに、実現できなかった。病院坂の下部にあった旅館、九十九館での療養生活は3年におよんだ。当時の看護、療養生活がどうだったかはさだかではないが、現在のように病院に長期入院し看護師がつくようなものではなく、病院の近くに宿泊し、療養していたようである。千葉市のこのあたりは繁華街からも近いが、病気療養のための患者や家族が宿泊するための旅館も少なくなかったと思われる。

このように先が見えない不安のまま療養生活を送った場所と、数年後、まだ何も成し遂げていないにもかかわらず、著述園芸に手応えを感じ始め、希望にあふれる新しい雑誌を創刊するためにベースキャンプとした旅館(三上館)は驚くほど近くにあった。僕は、付近を歩きながら、しばし若き石井の心境を想像した。

石井は挫折と雌伏の時をよく耐えた。療養後の大正11(1922)年、原田三夫の札幌農学校時代からの親友で千葉県大原(現いすみ市)の大地主、藍野佑之を頼り、彼の地で「イシヰ・ナーセリー」を立ち上げ、西洋草花の栽培研究と種苗の販売を行った。石井のまわりにはさまざまな才能の若者が集まり、絵袋の絵は地元の著名な洋画家、内藤隶(たい)に描いてもらったりしている。石井は34歳、この地で結婚し子どもにも恵まれた。原田三夫に勧められ園芸に関する記事を書き、ライターとしての生活も始まった。石井の文章は平易でわかりやすく、たちまち多くの読者をつかんだという。最初の著書『西洋草花の知識』(誠文堂、1925)はよく売れた。東京愛宕のJOAKラジオで園芸に関する放送にも出演した。妻の安枝は地元でまだ珍しかったラジオ受信機を近所の人たちと囲み、誇らしげに聞いたという。

僕は、千葉県長生郡下の上総一之宮(一宮町)に住んでいるのだが、石井の過ごした大原・若山の藍野家まではクルマで30分ほどの位置にあり、付近を巡ってみたりした。藍野家は、大きな敷地の中に使用人も数多く住まい、代々地域のリーダーとして存在する篤農家だった。このあたりは明治期に外房線が敷かれ、交通の便がよく、別荘地や海水浴で知られる。森鴎外や日活の創始者、孫文の支援者だった梅屋庄吉、原田三夫と藍野佑之の恩師、有島武郎などの別荘があった。「日在(ひあり)」という地名があるように、日照時間も長く栽培適地だった。

図1 三上館(萬菊)の跡地 大和橋のたもと、都川の川辺にあった。現在は駐車場になっている。
図2 大和橋からわずかに上流にある病院坂下の旭橋から見た都川(川下方面)。
図3 病院坂下から坂を見上げる。九十九館は矢印の入った所にあった。
図4 晩年の石井勇義の肖像 昭和28年6月、亡くなる一ヵ月前に恵泉女学園の校庭で撮られたという。
図5 戦前、熱海の渡辺別邸の巨大なウチワサボテンの前での記念写真。石井は牧野と父子のように親しくつきあっていたという。(『農耕と園芸』1954年8月号)

石井勇義の墓所を訪ねて

園芸史について調べはじめて7年ほどになるが、石井勇義に関しては土気の生家(※付近をめぐったが不明)、辻村農園跡地、東洋園芸の三軒茶屋農園跡地(現・世田谷警察署付近)、九十九館、三上館、大原・若山の藍野邸、杉並区大宮の住居跡、墓所(多磨霊園)というふうに訪ねてきた。人物の歴史を研究するなら、まず、お墓参りに行きなさい、ということはよく聞くことで、実際にそれは重要だと思う。別に行ったから何かがわかるということではなく、調べる側の気持ちの問題に関わることだろう。その人の生きていた実感というものが心の内から体を通じて感じられるような気持ちになり、覚悟のようなものができてくる。

石井勇義の墓所は多磨霊園の大きな通路に面した場所にある。造園界の大家、井下清が世話をし青山のしにせ石勝によって据えられたもので、「自然は神の賜物 花は自然の姿」という牧野富太郎の揮毫による文字が刻まれている。僕が墓参したのは彼岸の頃だった。ちょうどその頃、戦時中、大きな事件の首謀者として逮捕、処刑されたスパイ、ゾルゲについて調べており、その墓所も同じ霊園にあるので、お参りしたのだが、石井の墓所から目と鼻の先であった。赤いカーネーションがたくさんいけられていた。ゾルゲは大きなオートバイにまたがってあちこちに出かけていたが、その身分はドイツの新聞社の記者であり、会社は銀座7丁目の「電通ビル」に入っていた。その1階の角に「婦人公論花の店」があり、アメリカ帰りの永島四郎が切り盛りしていた。僕は当時、ゾルゲが永島四郎と短く会話をかわしながら花束を買っていたのではないかと妄想した。電通ビルのすぐそばには「高級園芸市場」があった。花好きには知られた場所だったと思う。

一周忌と1954年の追悼特集

石井は1953(昭和28)年7月29日、執筆の最中、夜半に苦しみ出し、そのまま心臓麻痺で亡くなった。享年60歳、予期せぬ死だった。当時の『農耕と園芸』にはなくなったことを伝える記事が出ているが、その追悼特集は、翌年の一周忌を終えてから発行された1954年の8月号に企画された。生前の友人、関係者は膨大な数になろうが、あえて数名の園芸家に絞り込んで追悼文を掲載している。石井勇義の人間像が見える貴重な記録として、ここに抄録する。また、これに加えて最近、1962年に名古屋大学教授の志佐誠による回想を入手できたので、この記事も合わせて紹介したい。

 

石井勇義君 牧野富太郎(植物学者、理学博士)

先日、石井君が病気にかかり、仕事盛りの身をもって、突然、死去したのは、まことに惜しみても余りあることであった。君は他に優れた手腕家で、まだ此世をすてるには、ちと早過ぎた。君は、わが国の園芸界では、労力を惜まずに努力をつづけておった。君がかつて編集し、誠文堂が発行した、『実際園芸』と題する月刊雑誌は斯界における燈明台であって、他では見ることのできない出来事であった。そして、惜しい哉、君は働き盛りの身をもって、遠逝したのは、惜しみても、なお余りがあるが、しかし、君についで、その業をうけつぐほどの人は、今のところ、ちよっと見つからないが、世間には、有為有能の士も少くないから、そのうちには、その業をつぐ人も、必ずあるであろう。

石井君の、畢生の仕事として編集していた『園芸大辞典』も、なお、完結の域には達しなかったが誰かしかるべき後継者が出て、その書をして完成せしめ、石井君をして喜んで地下に瞑せしめん事を私は切に庶幾する次第である。

 

わが愛弟子 辻村常助(辻農園々主)

石井勇義君。病躯死の迫るを知らず夜半擱筆時余にして逝去す。交友四十余年の回顧淡々たる涙と共につきない。

明治の未であった。自分は田舎の学究であるが園芸を習いたいからと申込まれ、履歴書には埴科農学校教諭と書いてあって、植物学を教えている(※千葉県下に埴科という学校があったか不明)。僕は其の様な先生を迎えるほどに仕事が大きく成っていないからとことわっても、再三再四の懇願で四十余年の交友が結ばれたのである。

園芸植物も多数の先輩からゆずりうけ、また海外の輸入もして手当りしだい作って見た。すべては珍く眼新しい。園芸の発達に「好奇」の心理が多分にふくまれることを発見した。有用品とともに目に見えぬ病源体がさて初は事もなげにできた物でも慣熟とは反比例に意外の不作をつづける。これに着眼したのが石井君であった。とうとう土の蒸気消毒まで行って徹底することができ、雑草の種子まで死んで大きに楽になった、園芸は医者と大差なき仕事になりましたと石井君が笑ったことがある。

温室も産業として多くの民生をやしなうことができると深い考は理解されずに、ガラスの家で花を作る贅沢だな、此ん畜生だけですめばよいのだが、すぐに石のつぶてが飛んできて、一、二枚やられる、そのような昔もあった。しかし東京では早咲物が歓迎される。それが極端になると露地でできる頃には見向きもしない。こんな風だとわれわれは季節感を忘れて頭の中が南洋の土人みたいになってしまうと心配した。その時石井君がいった。「自然の方則を理解して無限に人智を伸す・・・それが科学でしょう」と。科学は屡々人の意表にでる。善い悪いは扱う人の心掛けによるのだな。

石井君はコリ性であった。それだからこそ園芸大辞典なんて世界的大作にまで深入して身魂をささげたのであるが、園内でも各種の植物を細密に調査した。僕はこの植物学者をからかって見る。植物学と園芸学の分界点は異うよ、僕は粗雑で単的で直感で良否甲乙を弁別する。ウメの真価は光琳の画が遺憾なく教えてくれるじやないか、魚の干物を見てこれがアジだと判るのは、前以て実物を知っていればこそだぜ、植物学的記載は面倒で容易に実物を想像できないよ、植物学の知識がなければ相互の異同を分別するに不便であるが園芸家があまり植物を解剖的に知りすぎると、みめ麗しき人の骨まで透視するようになって美人鑑賞の資格がなくなるぜ、その時石井君は渋い顔して引下る。心中多分堅子教え難しと思ったであろう。

切花が今のように売れる時節は遠く、もっぱら鉢植のまだ満開にいたらぬツボミの多いのでないと売れなかった。無理な矮化栽培をし、ことさら花の天性をため、本来の美を逸する憐むべき園芸方式、であった。すべてある目的に合致せざるは惜気なくすてたのである。各種の外来植物を予想外に数多く手がけた割合に残ったのは九牛の一毛であった。この点石井君には、たまらなく残念であったらしい。あるがままに一切を是認する大らかな心の持主でないと品種の保存はのぞまれない。功をあせりことを急ぐ者は止むをえず淘汰に傾く。コレクションとセレクション言葉は似ているが、内容は大いに異う。僕のごとき淘汰癖ばかりで蒐集性にとぼしい、授かるだけ授かればよろしいとする呑気な人間と道連れになったのは石井君もさだめし迷惑したであろう。品種愛護の熱意が実現されず、せめて後世への贈物とする潜在意識が石井君の著書にあらわれ、また園芸文化協会の成立に際して品種保存の第一声を放たしめたのも故あるかなである。

あらゆる園芸品への愛着と惜別は年をへて熾烈をきわめた最近、新をもとめる需要家と育種業者の商魂が、たがいに表裏をなして新種の続出に園芸の進歩を謳歌するかたわら、価値ある旧種の失われてゆく世相がとてもにがにがしかったらしい。なおまた、世間の嗜好と栽培の安易を考慮し、市場性に重点をおく狭義の園芸観も一大痛心事であったらしい。

石井君が僕の農園を去ったのは農園が小田原駅の停車場敷地に買収されて一里の山奥へ移転を始めた時である。そこは鬱蒼たる大森林と一部に果樹園がある。ここに温室その他一切の設備をうつして五十余万坪の大園芸場を造ろうと僕は果敢なき夢にあこがれた。その理想も、関東大震災でほとんど壊滅状態におちいったのであったが、石井君は、候補地が土壌の理学性や高台である風雨の関係などすべての立地条件に多大の不安をいだいた。園主は飛躍を夢みる。石井は実地の不安を感じる。集約栽培の極致を目標とする者と規模の壮大と多角的経営によって園芸の機動性を求めようとする者と二人の方針がすこぶる食い違ってきた。第一次大戦以来種苗の交流はひさしく途絶、国産自給の途を講じなければならない。これはうっかりすると山に入った仙人になるぞとずいぶん思い悩んだであろう。この時偶然の機会が到来して一大転機を発見した。アメリカから恩地剛君が帰って、園芸の新生面を開拓しようと三顧の礼を以て石井君を迎えたのである石井君の理想にしたがい僕も賛成した。つづいてアメリカに行く便宜をえて大いに期するところがあったけれども、病魔のため中止、もっぱら郷里に静養、しばらく鋭峰をおさめて高級花の採種に専念された雌伏数年ついに東京に出動して中原鹿をおうの壮挙を敢えてした。これが実際園芸の創刊となって世間の視聴をあつめ、一方には最新園芸講座、園芸大辞典と躍進また躍進、その間各種の著書を発表して三面六臂、まことに園芸界の推進力たるに恥ぬ目覚しさであった。

実際園芸の使命は、かくれた園芸家を引張り出そうという事にもあったある時牧野博士が、石井君はよく他人の美点に着眼する感ずべき性格の人であると評された。氏の真随をうがった知己の言である。

生をこの世にうけて適材適所である人は幸せである。石井君が、うまずあせらず、好む処信ずる処に安住して終生かわらざる園芸への愛着は、氏の死に際して、無心の花すら露の一滴を宿した。うらやむべき生涯である。石井君もって冥すべきである。

名利に超然たる学的良心は、理解深き夫人の無私の奉養内助の功が、石井君をして天職に没頭して一心不乱の精根を傾注せしめ、死して亡びざる者こそ命長しとの古人の箴言に、あきらかにベターハーフによって立証された。宜なるかな。石井君生前に企画の椿会が、没後半年にして国際的地歩をもって発展し、石井夫人は理事として名実ともに遺志を継承された。今や園芸の分化ますます無限である。わが聖園の巨星は、洋々たる園芸の前途を、天の一角からながめているのであろう。ああ石井勇義君。

 

石井は幼少期、実家からほど近い千葉県東金市の親戚の家から、成東中学校に通った。付近には天然記念物に指定された成東食虫植物群落などがあり石井も訪ねたことがあったと思われる。津山尚によると、石井は一風変ったところがあり、自分の好きな科目しか学ぼうとしなかったため、卒業できなかったという。明治44年頃だった。そのため、専検(旧制の専門学校入学者資格検定試験)を受けて上級学校を目指したが結局、地元の農学校の授業を手伝うようなことをしていた。当時、東金に染織学校があり、明治41年には移転して大網工芸学校となっている。当時の染織学校は実業学校として農業一般の授業も行っていたので、おそらくそこで手伝っていたのではないかと想像する。辻村農園に志願するのはその後になる。

 

石井君とツバキ 井下 清(日本造園学会長)

石井君がツバキの研究にこり初めたのは、昭和の初頃からであろうか、あの有名な百椿図などを見、数多くの品鑑と今日保存されている名花を見くらべて、その豪華な偉観にうたれたことと海外の文献から日本の椿、茶、梅が古く欧州に紹介されて世界の園芸界の寵児となり、新しく育成した新品種も続出し、欧州からアメリカヘツバキが移動するに至って急速に発達して一九三〇年ごろには七〇〇以上の品種を数え、一四〇のツバキ協会が出現、フロリダのツバキ協会などは会員一万というようなことを知るに及んで、ツバキ研究を、一生の仕事と決意されたようであった。

昭和三年ごろから牧野先生のお指示もあってツバキの品種の正確な鑑識基礎となる綿密な調査と記載を自らはじめられた。研究方法としては古来の図譜式のものでなく、学究的な緻密をきわめたもので、花型、色彩を写生し撮影した上に、木立、枝葉、芽、蕾、花、色、瓣、雄蘂、雌蘂、蕚、花托などについて形状、寸法、色彩、斑などを精細に写生し記録したのであった。これは未完成ではあるが、草稿として、一応調べておるものがツバキ一〇二種、サザンカハ六種あわせて一八八種に達し、牧野先生の高弟である山田寿雄氏を嘱して、花姿を精確に写生画としたものはツバキ四十一枚、六十六種、サザンカニ十二敖、四十四種に上っている。少くとも日本在来の品種だけは、基本の図譜を完成し、余力があれば海外の新品種におよぶことを企図されたものであったが、今は石井君の意志を継承する熱心家の出現をまつ他はないので、なんとしてもおしいことである。

この業蹟は先般来朝された南カリホルニヤ、ツバキ協会副会頭のピアー氏が激賞され、なんとかこの画譜を刊行して世界のツバキ研究者に紹介することを熱望、石井安枝夫人の快諾をえて日本ツバキ協会常務理事里見盈吉氏の幹旋仲介でアメリカへ預り帰られ、目下それについて考究されているということである。石井勇義君のツバキ研究は君の最後の努力であり、また最も関心を残されたことでもあるのを想うとき、なんとかして石井君の偉業を継承し、完成することで、ツバキ同人の一人として石井君の遺志が達成されんことを念願してやまぬものがある。

 

花卉園芸の黄金時代 湯浅四郎(元日本農産社長)

石井君と私の知り合いは、君が千葉県大原町に住まわれて花栽培に熱心な時代からはじまったのである。よくいろいろな種苗を集められてその栽培に余念がなかった。私の店からも変った種苗をもって行かれた。氏の研究栽培を基礎として、原田式(※氏の)の経営する「科学画報」にのせられて、実際の園芸記として世諭の歓迎をうけた。私も採集された種子を分譲してもらったこともあった。

 何時も有楽町の店にこられると、いろいろ研究したお話しをお伺して有益な資料をえた。此の栽培研究の資料をもととして「花卉園芸の知識」の出版となって趣味者の栽培を向上させた。その後は誠文堂新光社小川社長と提携して各種の園芸図書の出版に努力せられた功績は偉大なものがあった。氏の成功に刺激されて、花園業界の黄金時代があらわれる糸口になり、園芸図書も各方面から続々として出版されるようになったのである。今日の園芸は、石井君によって火口が切られ、同君の著書は実際の研究と熱心によってでき上ったためか断然頭角を抜いていた。

園芸図鑑の編集などでは、私の蒲田農場に御自身こられて実物に当つて材料を熱心に集められ、何回となくおいでになったことなど、ただ感心のほかはない。

地方講演のお伴などしましたが、雄弁ではなかったが聞く人の心に何か刻み込まねばやまぬ信念をもっておられたようでした。旅行中は地方の花卉園芸のありかたについては熱心に視察された。平常は、寡言実行黙々として編集などに専念されたことは敬服にたえない。

時勢の波にもよるが石井君の刺激によって、花卉園芸に対する研究家が続々として現われたことなどは、何人も認めねばならない。

 

二人の交友 大場守一(日本洋蘭農協・副組合長)

石井さんが急逝されて一年をすぎる。世の流れは早いものである。

千葉県下の農学校の先生を辞職し、花卉園芸研究のため小田原の辻村農園に入園されたのはたしか、大正二年ごろの新緑の時と記憶している。私が農園本部の事務所にいった時、イガ栗頭、セルの袴、鼻下に口ヒゲという色黒の頑丈な青年が現れて来意をつげた。石井さんであった。それから私と二人の交友関係が始まった次第で、急逝されるまでかれこれ四十年にわたるものと思う。まったく長い親しい交りであった。

当時の辻村農園の位置は、現在の国鉄小田原駅を中心とした所にあって、総面積三万坪に近く、温室三〇〇余坪、フレーム一五〇坪ほどあり、主として花ことに鉢植花の栽培であったため園内に製鉢工場までも設備してあったものである。小田原に農園本部と市内に売店を有し、東京市内に分園と売店数ヵ所を布し生産販売を一貫し、本園の生産花は、初めは馬車により後には貸切貨車により東京分園に運ぶという仕組で、当時としてまったく他に見ぬ大規模のものであった。また花類もつねに世界各地より新品種の輸入をつづけていたので、他に見ぬ珍奇品種も多く、植物園のような感じであり、研究熱心の石井さんには、絶好の働き場所であったことと思われる。後年石井さんがプリムラ、シネラリア類の採種園芸を営んで信用をえたり、文筆園芸に転じてから雑誌実際園芸や本邦園芸界を代表する園芸大辞典、園芸植物図譜を始め数多くの名著を出し、園芸界のために功績を残された礎石は、また辻村農園からということになると考える。

辻村時代から東京に出て東洋園芸会社に勤務、千葉県大原町で自営されてその後は主として著述園芸におられたが、つねに真底から植物ことに花という亊が中心の一生であったとおもう。現在、大阪天王寺植物園の吉沢氏(※おそらく吉津良恭氏)と三人で、小田原に恩師辻村先生をたずねて昔語りを楽しみにし考えて企画しておったが。

 

花作り人生読本 吉村幸三郎(園芸文化協会理事)

子供の頃から愛読していた「世界少年」が関東大震災で廃刊になったのを機会に、同じ新光社発行の科学画報をみることにしたのは中学二年生の時だった。もともと花好きだったので科学画報に毎月園芸記事をのせられた石井先生に少年らしくひたむきにあこがれた。そして二、三年後「イシヰ・ナーセリー」を開園された事を知り、二、三の種子を御願した。

少年の小遣では、注文額もごく僅少だったのに、直輸入のダリア咲百日草が意外に劣等だったとの事で(私は気付なかったが)翌年は代りの種子を下さったり、あるいは腐葉土の作り方を問合せたら、御親切にも乾燥して送ってくださったり、まったく感激したものである。先生の教えて下さった花作り第一章は「親切」であった。

しかし、この親切無類の種苗商も「実際園芸」の誕生を前にして閉鎖されてしまった。大正も末の年と記憶する。次来「西洋草花の知識」「総合園芸大系」などの名著がやつぎ早やに刊行されたが、昭和六年発行の「原色園芸植物図譜」第三巻で再び先生の御人徳に接する機会をえた。

当時生意気盛りの学生だった私は、スノードロップの図と記載に手違いのあることを知って直接先生に一筆したためた。図がエルウェシーで記載がニバリスだ。ニバリス。葉巾細く相対する内花被緑斑は先端部だけ。エルウェシー 広く一方が他を抱く。基部と先端部にある。 などの相違点や写真と図を附して送った。この若僧の手紙を実際園芸に載せ、丁重な感謝の書面さえ下さり、さらに二、三疑問の植物にも協力を依頼された。まことに冷水三斗。先生の花作り第二章は「謙譲」であった。

少年時代からの不思議な運命のきづなは、今や先生の遺業「園芸大辞典」に「原色園芸植物図譜」の完成のために私を手伝わせることになった。駄馬に鞭うち、「次代の為に」頑張ろう。

 

百椿集随想 宮沢文吾(大分県温泉熱研究所長・農博)

昭和二十二年であったと思うが、故石井勇義君が拙宅を訪ねたことがある。それはキクに関する有名な古本の「当世後の花」を借り受けたいためであた。その際話はツバキにおよび私が所持している百椿集を見て、自分が所持しているものと違うということであった。しかし、石井君も私もそれが如何に違うものであり、如何なる関係にあるものであるかについて検討する機会がなくて今日に至っている。そこで、今回石井君をしのび石井君が調査研究を進めていたツバキに縁故のある百椿集について気のついたことをのべて見よう。

私が所持しているのは、末尾の記事によると筆者は安楽庵と号し七十七歳であり、最初の書き出しによると和泉の境正法寺の住職であったことは明かであるが、脱稿した年次は示してない。しかし記事によると文禄三年に正法寺に住むことになり、慶長十九年から花の培養に心をそめた。そして同二〇年すなわち元和元年の暮からツバキが流行したと書いてあり、文中に「日本之三代将軍本より源家にて渡らせ給ふお上椿花も官爵を免し給はゞ云々」とあることから見ると、三代将軍はツバキを愛して諸国から集められたことを眼前に見てからの文と想像され、したがって家光が将軍となったのは元治九年であるから、その後の書き上げられたものと考えられる。

 

品種名にも江戸の香

百椿集であるから百品種を記していることはいうまでもない、その品種名はいわゆる源氏名である。この品種名のつけ方は、支那の命名法に教えられたものと思われるが、ほとんどすべて日本流にできている。たとえば蝉の羽衣、滝の白絲、白妙の袖、高野山、遅紅葉、入日の影というような工合で、すべて日本式の名で支那式の名はごく僅かに見られるだけである。しかも花の形色をあらわしたり縁由を求めて命じてある。決していたずらに良い意味の文字の組合せの意義のないような名はない。この点は、まことに感心すべきで、現在での品種名のあたえ方の全部とは言わぬが、考えてもらうべきことが多いのを実に残念におもう。

洛中洛外という名があるからどんな意味かと見ると、花の形と色とが千変万化である。そこで京都の郊外は、東に醍醐西に愛宕山南に八幡北に鞍馬の諸山があり四季の風光に富んでいるので、洛中の貴賤は洛外の名所旧跡をしたい、春は花、秋は紅葉を訪ね、往来がにぎやかなことに因んだというのである。少し行き過ぎの感がないでもないが、しかしよく考案したものと思う。まだ石山寺という名のあるというので、昔紫式部が石山寺の源氏の問に居住したことを縁りとしてこう命じたという。あるいは八雲立の説明には、花は八重の大輪であるから素盞烏尊(すさのおのみこと)が八雲立つ出雲八重籬云々と詠まれたことにちなんだという。このように過去に使われた名詞や字句と花とを関連せしめており、意味のない組合せをしていないのである。(以下略)

 

山草と共に生きる 鈴木吉五郎(山草会々員)

まだ私の学生頃だった。石井勇義氏が始めて訪れて来られたのは、あまり判然としないが、多分当時時植物園の松崎直枝氏が不肖のティオネアを「大分ふえたのに出さぬのは怪しからん」と説得に来られた時と考える。多分大正十一年か十二年の頃ではなかったかしら。当時また不肖なども学生だったが、広瀬巨海氏や名古屋の村野氏などという不世出の名家の指導をえて不相応の相当数のものを集めていた。今考えてもよく学生の身であんなにできたとこれを許してくれた環境を感謝している。数千に近いディオネア、数千の各地のサギ草、さてはウチョウラン、ヒナチドリ、スミレ類、イカモノの洋ラン、古典園芸としての風ランの銘品など既に万に近いものがあったかもしれない。

これを見て「せっかくの蒐集品、なにとぞ有終の美を切に祈る」といわわたのをよく記憶している。「もっと集めよ」との事かもしれぬ。あるいはただ集めるのではなく「資料を学界に供せよ」というのかもしれないし、あるいは「これ等の中から大いに外貨でもつかむよう努力せよ」とのことだったのかもしれぬが、大いにけしかけられた気がして、それでいて決して悪い気持ではなかった。

一体蒐集癖というものが何でも同じであろうが、生物である植物では水やりは一日も欠かす事はできない。庭植ならいらぬといわれるかもしれぬがやはり毎日の手入れはまぬがれない。なまけようものならじきに傷み、そしてそれに限ってよいものからだ。大切にしているものに限るといってもよいほどだ。弱いから大切にもするし貴稀品ともなるわけで、美人薄命は植物でもあるらしい。

所で時代の変遷の大波には坑しきれず、どんなに骨折っても枯れてしまうのもあるし、それも古くなると、ああそんなものがあったっけな、と情ない記憶だけの事ともなりかねない。しかし集める時の苦心は、実に並大抵のものではない。これを後世に伝えねば何等の意義もなくなってしまう。そこで図説であり、書物がある。もちろん押葉ということもあろうが、こうなると趣味ではなく専門の仕事となる。石井氏の図説、辞典の意義もおそらくこんな処から発しているのではあるまいか。椿であり、モミジであり大成したかどうかは寡聞にして存じよらぬ事だが大した記録であり偉大な業績だ。

 

納得のゆく作り方を

不肖等もささやかなこのコレクトマニアであろうし、そして「一人悦に入っておればよい」と笑われる。当人から見ればこれでも大いに理由もあり、多数作っていると好き嫌いが自然と出来る。好きだからといって、おうしてどうしてなかなかいう事を聞いて思う様にはできぬものだ。ほんとうにできるもの等というものぱ一つもないといった方がほんとうである。それで近頃は、とくに意識して何とかわがものにして見たいと感じさせられる。腑に落ちるようにして作って見たい。納得の行く作り方をやって見たい。これが唯一の趣味である。だから、山にあれ野にあれ、何とか工面して現場に行きたい。そして何度でも行きたいが、○(ママ)も続かねばまた暇もめったやたらに許してくれない。だだ幸なことには、まったくの自由な休で、これを何時までに仕上げるとか、幾つをまとめねばならぬなどという制限などあるはずもないし、急ぎもせぬ、ただせめて一つも余計にできたら嬉しいなと思う。

そして不肖のも仕事としては多少は学界の縁の下の仕事として資料の提供も幾分はしているが、やはり残るほんとうの仕事といえば、うまく何か野のもの、山のものの一つでもが、自由に作れる暁の時といえよう。そして最初にお目にかかった石井氏の「有終の美云々」の言葉は、一生肝に銘じて行ける事かと、追憶新たなものを感じて深く謝し深く敬意を表する。

 

以上が、『農耕と園芸』1954年の石井勇義追悼特集の記事である。今日は、ここから1962年に発表された名古屋大学農学部教授、志佐誠の追想を抄録する。これは、坂田種苗株式会社が発行する『園芸通信』1962年1月号に掲載されたものだ。石井の蔵書が名古屋大学に収められ、「石井文庫」として保存されているように、石井勇義が生涯に渡って集めた蔵書は膨大な数に及び、貴重な洋書、江戸時代の図譜等数千冊があったという。これらは、志佐らによって整理されきちんとした目録がある。目録には石井安枝夫人も関わった石井の略歴が整理されており、貴重な記録となっている(図7はこれがもとになった)。

志佐誠は品種育成者の権利保護ため、昭和46(1971)年、「植物特許法(品種保護法)」制定のための運動を始めた5人の発起人の一人で、平尾秀一、江尻光一、柳宗民、鈴木省三とともに「植物特許法期成決起大会」を企画しシンポジウムなどを開催、制定促進協議会の理事長を引き受けるなど日本の園芸界に大きな貢献をされた。この活動は10年ほどにおよび、種苗法の改正という成果を得て解散した(『薔薇と生きて』鈴木省三2000)。

図6 昭和8年夏、京都にて胡昌熾教授との座談会 (『園芸通信』1962年1月号から)
左から、木原均、遠藤政太郎、岡本勘治郎、胡昌熾、並河功、志佐誠、牧野富太郎、石井勇義の各氏。

 

石井勇義氏をしのぶ 志佐 誠(名古屋大学農学部教授)

親しくしていただいた石井さんと筆者との思い出の写真は上に掲げるもの(※図3)で、昭和八年の夏だったと思う。中国からの胡昌熾教授を案内されての京都訪問で、牧野富太郎先生と実際園芸の編集に加わっていた遠藤政太郎氏が同行された。京都側の受け手は今枚方ばら園の主宰者岡本勘次郎(※正しくは勘治郎)氏で、それに京都大学から並河功先生、木原均先生と走り廻り役の筆者である。何でもひどく暑い日で、さすがの八瀬の平八茶屋でも凌ぎ難かったことを憶えている。文字通り夕刻まで和漢、東西の園芸の話がさかえたことは申すまでもない。

石井さんは筆者が京大生の頃、誠文堂(小川菊松社長、現会長)から実際園芸を出して居られた(創刊大正十五年)。今の農耕と園芸の前身に当るわけであるが、現在のものより趣味の園芸の方に傾いていた。見て美しい、読んで惹きつけられるものを持っていたように思う。もっとも今より美しいと思うのは年よりの昔語りに類し、今の農耕と園芸の方が写真その他は優れているのだと思うが、今から三十六年まえの雑誌としては驚異的であったのでそう印象されたのかも知れない。

筆者も並河先生の勧めで駄文を寄稿し小遣銭かせぎをしていた。その頃、羊歯類に興味をもっていたので、アジアンタムの話や羊歯の越冬性などのものを載せてもらったし、その後石井さんの勧めで「蔬菜の研究」という栽培の基礎知識をレビュウを一年間連載したこともある。それやこれやで親しくなり、上京の度毎に小石川の白山付近にあった石井さんの住宅兼実際園芸の編集所を訪ねてはいろいろ新らしい園芸の知識を得たものであった。その後我京大の後輩であり畏友でもあった遠藤政太郎氏が石井さんの編集陣に加わって活動し始めたので並河教室と石井さんとの交流はいよいよ深さをましていった。

実際園芸が創刊された一年前の大正十四年に「西洋草花の知識」「花壇庭園の知識」「温室園芸の知識」という三部作ともいうべき三巻を新光社(赤摩照久社長)から刊行して高評を博し、実際園芸刊行の自信をつけ信用を得たものと思う。それまでは前田曙山先生の園芸全書があった位で、その頃の園芸家は専ら洋書をひもといて、いわゆる洋行がえりが幅をきかしていた。しかしそれだけその頃の園芸家はハイカラでスマートであったといえるかもしれない。その後さらに発展された石井氏は、バラ、カーネーションなどといった西洋草花の単行本をぞくぞく刊行した。内容はともかく、印刷、装釘は現在から見るとむしろみすぼらしい位のものであるが、その頃としては画期的の新らしい本で大いに洛陽の紙価を高めたものである。

石井氏は千葉県産で山武郡土気本郷町下大和田で明治二十五年九月二十日に生れている。明治四十四年に千葉成東中学を卒業し、大正二年から七年まで、神奈川県小田原市の辻村農園に園芸研究生として入園し、ここで園芸の実務を研鑽し園芸家としての基礎を作った。博学、浩邁な辻村常助氏の園芸に対する識見は長く石井園長のバックボーンになっていたようである。

翌八年に丁度アメリカから新帰朝の恩地剛氏に見出されて、東洋園芸に入社し園芸の実際に従事した。後年文筆で園芸の発展に寄与したのであるが、その基礎にはこれらの草花の栽培技術の実際面が強くにじみだしていたのは、石井氏の著書の他に比類のない強みとして香っていたのである。たまたま、恩地剛、吉野信次氏らの支援で園芸の勉強のためアメリカ渡航が実現しようとした矢先、病い倒れ挫折し、三ヶ年に入院して静養の止むなきに至った。三年の闘病生活ののち病癒えてから、千葉県大原町在若山の農学士藍野佑之氏の一角をかりて、シネラリヤ、プリムラなどの高級花卉の採種の研究をつづけ、さらにヒアシンスの繁殖技術の研究にも手をつけていた。

大正十四年に前述したように三巻の園芸知識を刊行し、翌十五年に実際園芸の主幹になった。昭和十五年末(※十六年)に戦時色いよいよ濃くなってきて、誠文堂は飛行少年創刊のため、実際園芸を一時廃刊するのやむなきに至った。筆者も昭和十二年から台湾の方に赴任したので、ときどき洋蘭の記事を送って誌面を賑わしたにとどまり、石井さんとの交遊の一番うすい時代であった。したがって戦前、戦中の石井さんについては他の人に語ってもらわねばならないので、筆者としては空白にしておくより他はない。

ただ、ここに特筆しなければならないことは園芸大辞典の編集であって、昭和十八年末にその第一巻を刊行している。これはその自序にもあるように昭和五年四月に起稿されたが、十数年実を結ばなかった。しかしその考想はすてられるどころかますます雄大になっていた。外国にはニコルソンの「園芸辞典」べイレーの「園芸百科辞典」、グレイブネル・ランゲの「園芸辞典」など古くからあり、園芸辞典の存在がその国の園芸の進歩、ひいて文化の発達にいかに貢献するかはいうまでもないことで、園芸の古さと深さを誇る日本にもこれの必要なことは誰しも異存のないところである。しかしだれがこの大事業の火中の栗をひろうかということは話は別である。

筆名らもその計画を非常な熱情で話しこまれる石井さんの主張には賛しながらも、ある一種の悲壮感をもって青二才の分際で議論をくり返していた。しかし石井さんの決意はかたく、昭和十年に浅沼君をその陣営に加え、いさましく園芸百科辞典としての行進をつづけた。この大事業が僅か十数年で完成したのは筆者は石井さんの主動性とそれに四つのよい協力者を得たことだと思う。このようなものの編集には石井さんは天才であって、他人のとうてい及ばぬ早さで進行、成功させる特秣な能力をもっており、またそれを完成するのに時間と労力と費用とをあえて吝(おし)まぬ性質をもっていた。しかし昭和十年頃から第一巻刊行までまた戦後第五巻刊行までは、文字通り寝食を忘れ、身をけずって拮据(※きっきょ、忙しく仕事に励む)原稿の推敲に、材料入手のためにと参考書の購入と多くの資金を費し、東西に奔走し、全く家事を省みないといった血のにじむ努力を投入したのである。そのために第六巻の完成をみずに逐こ倒れ、いうなれぱ園芸大辞典のために寿命を縮めたというべきであろう。また私財もあらかた尽すということも省みなかったので未亡人の苦労も一方でなかったことであった。この購人された参考書も大部になり、貴重なものもあるので、その没後文部省の購入する所となり、筆者の居る名古屋大学農学部の図書室におさまり.石井文庫として残ることになりたので園芸研究家に利用され、永くその功績が語り継がれることであろう。

四つの優れた協力者とは牧野富太郎博士と小石川植物園におられた松崎直枝氏と石井さんの安枝夫人の内助と、出版元の誠文堂の小川菊松社長、同誠一郎社長との理解である。とくに牧野博士。松崎直枝氏が同時代にあり、石井さんと親交があり.その被護者ともなったことは世紀の喜びであり、これなくしては大辞典がこのようにやすやすと生れでなかったといっては過言であろうか。もちろんこの大事業が完遂したにっいては学界、業界の、あるいは石井さんの身じかな方々の協力が一つ欠けてもまずかったというべきではあるが、筆者などは一応執筆者のなかに入ってはいたが.台湾に転出したためその企画中にはガヤガヤいっていたのに、その実績は小さくたった「甕菜」(※ようさい、クウシンサイ)の一項を執筆協力したのに止まり誠に申訳けないと思っている。

戦後は昭和二十年から恵泉女学園、女子農芸専門学校の教授となり死去まで、女性への園芸の浸透にも力をいたされた。もっともこの方面は昭和四年から青山学院女子専門部に講師としても勤められていた。昭和二十三年からは農林省種苗審査会委員となってこの方面にも園芸のうん蓄を傾けられていた功績も忘れてはならないだろう。しかし戦後は何といっても園芸大辞典の刊行には文字通り没頭して居られた時代で、心身と経済の窮乏時代ともいうべきで苦難な道を歩んで居られたといってもよい。筆者が上京の度に杉並の大宮前のお宅を訪れると大がいは、病床に座しての応待であり、それでも座右には参考書と原稿とが足の踏み場もないといった有様であった。しかし小康のときもあり、一度は玉川用賀の吉村幸三郎氏の畑を一緒に歩いたこと、渋谷で食事を一緒にしたことなどの記憶がある。

戦後は大辞典のため雌伏時代だったとはいえ、石井さんの好著の一つである原色園芸植物図譜全六巻(昭和十五年刊行)の改訂版の刊行に努力されていた。これは遂に石井さんの手では改訂版は出なかったが、誠文堂の手で先年完成されている。

特筆すべきことは戦後椿の研究に力を入れられ、その飲酒蒐集と品種識別にはとくに力をさき、昭和二十五年には文部省科学研究費を「葉の形態によるツバキ品種の識別に関する研究」について助成された。また昭和二十八年には日本椿協会を創立し、いよいよ椿の研究愛好に熱を加え、椿図譜の原画ともいうべき百数十枚の椿の品種の図を画家に私費をなげうって作成されている。石井さんの没後も、石井未亡人によって護られ、その献身的の努力により益々隆盛になり、米国の椿愛好家の増加とともに日米修好のきずなになっていることは喜ばしい。願わくばこの残された多数の優れた椿の品種の原画を抱いて、椿図譜の刊行の夢を追っている未亡人の望をかなえて下さる人士の現われることを望んでここに付記するものです。

その他研究としては、昭和二十四年園芸学会で発表された「伊藤伊兵衛及地錦抄の研究」がある。バタくさい西洋草花の紹介者として顕れていた石井さんはまた徳川時代の園芸書の研究にも興味をもたれ、これら古書の蒐集にも努められ、前記の石井文庫の中にも多数含まれでいる。三之薫「花壇地錦抄」伊藤伊兵衛「広益地錦抄」及び「地錦抄附録」江戸染井伊兵衛「増補地錦抄」などがあり、そのうちの完本は戦前、京都園芸倶楽部で復刻版を作った場合の原本になったものもある。

石井さんの病気は「ぜんそく」と「おおだん」であって致命的な病でなかったが、昭和二十八年七月二十九日に心臓麻痺で亡くなった。.全く園芸大辞典のための心身疲労のためというより他はないであろう。病没一ヶ月前に恵泉女学園の校庭で撮られた遺影を左に掲げておく(図4)。

家族は安枝未亡人と放送局勤務の息子さんと嫁がれたお嬢さんとである.おとなしかった石井さんは今の言葉では恐妻家の部類であったろうと思われるが詳しいことは筆者は知らない。しかしこの気の強い未亡人は前述のように椿協会のために文事通り心身をなげうって活動されている。亡き石井さんの心がけた椿がもっともっと愛されてよい椿が生まれ広がるようにと。ここにもまた園芸家として恵れた石井さんを見出すのである。

図7 石井勇義の生い立ち(『復刻ダイジェスト 実際園芸1926-1936』から)。

 

参考
「園芸家 石井勇義の生涯」津山尚(たかし) (『石井勇義 ツバキ・サザンカ図譜』津山尚編)誠文堂新光社 1979
『復刻ダイジェスト 実際園芸1926-1936』 誠文堂新光社 1987
「石井勇義と牧野富太郎の友情:練馬区立牧野記念庭園記念館の企画展を開催して」田中純子2016(恵泉女学園大学リポジトリのサイトから論文閲覧、DL可能)

https://keisen.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=988&item_no=1&page_id=28&block_id=68

『薔薇と生きて』 鈴木省三 成星出版 2000

著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと)
1962年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

 

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